光さす道

 神道家の邸宅。

 塀で囲まれたプールは、こっそり滑るには格好の場所だった。掃除は行き届いていたが水が張られることもなく放置され誰も近づかない。夜は人気もなく塀で囲まれているために周囲から見つからない秘密の遊び場だ。広大な庭で屋敷から離れていたこともあって、ウィールの音は防音対策が行き届いている屋内には響かない。

 ふと塀の陰でうずくまる子供の姿が見えた。

 愛之介様?

 彼は忠の父親が仕える主人の子息だということもあって、気軽に話しかけられる相手ではない。なかったのだが、自分より年下の小さな子供がたったひとりで、膝をかかえ肩を震わせている。その姿に忠は一歩一歩、子供の元へと歩み寄っていった。

 近づく足音に愛之介は顔を上げ振り向いた。

 泣き腫らした目。頬を伝う涙が月灯りを受けキラリと光る。

 おそらく彼の教育と躾を請け負っているという三人の伯母や父親に涙を見せることはできなかったのだろう。だから、どれほど辛いことでも耐えて耐えて、だけど、もう泣くことを我慢することができず、誰にも見られないようにたったひとりで泣いていたのだ。

 気づかなかったふりをして、そっと立ち去れば良かったのかもしれない。ある程度大人になればそうしただろう。しかし当時の忠は十分子供だった。

「一緒に、滑りませんか?」

 気がつけばボードを差し出していた。

 スケートは楽しい。それは自明のことだった。だから、泣いている愛之介様を、その楽しさで慰めることができると疑いもしなかった。ただ純粋で愚かだったのだ。


「愛抱夢は愛を取り戻せたの?」

 忠をじっと見つめてくるのは、湖面に張った氷を想起させる澄んだ青。

 ランガに今日の仕事の流れをざっくりと説明し終えたときだった。彼には、たまにアルバイトと称して英訳和訳の手伝いを頼んでいる。それなりに役に立ってくれてはいるが、どうしても彼の手が必要というわけではない。ただ主人である愛之介が彼をそばに置いておきたいというのがその本来の目的で、アルバイトはその口実だった。

 この子は、そんな主人の思いなど知る由もない。

「少しずつ取り戻しているように見える。君から見て愛抱夢は変わったと思うか?」

「スケートは前より楽しそうかな。危険な滑りをしなくなったし、ジョーやチェリーとも笑って話をしている。でも、スケート以外のことは……前の愛抱夢がどうだったか知らないから、わからない」

 無理もない。ランガにとって愛抱夢との接点はS限定だった。彼にとって愛抱夢は「すごいスケーター」の一言だったのだろう。当然、愛抱夢の人となりに意識が向くことなどあるはずもない。多分あの日まで。

 だが愛抱夢は違う。

 Sはイヴを探す目的のためだけに愛抱夢が創設した大掛かりな舞台装置だ。

 当時、いつか出会えるだろうイヴを求めてSの中継を逐一チェックするというのが、多忙を極める愛抱夢の欠かせない日課だった。

 そして、ランガを見つけた。

 それからというもの愛抱夢はランガを己の思考、行動の中心に据えていた。愛抱夢の世界はランガを中心に回っていたと言っていいかもしれない。ランガを見出してから、あのトーナメント決勝戦までの一連の愛抱夢の行動は、全てイヴであるランガを手に入れるためのものだった。

 それを知らない多くのスケーターたちが危険なビーフに巻き込まれていくことになる。


 政治家として売り出し中の神道愛之介はまさに順風満帆だった。清廉潔白で爽やかな若手人気政治家。女性人気が特に高かった。

 一方、裏の顔、むしろ本来の彼である愛抱夢は疲弊していた。壊れていたと言ってもいい。イヴを探して繰り返される期待と落胆。愛抱夢は追い詰められていた。彼の精神はとうに限界だった。もうあとはない。

 おそらくそのせいだろう。最後のイヴ候補であろうランガに対する執着は常軌を逸していた。

 そこまで愛抱夢にイヴを、ランガを求めさせてしまったのは自分のせいだ。あのとき彼の父親がボードを燃やしたとしても、自分が裏切りさえしなければこんなことにはならなかった。そう忠は自分を責めた。

 その後、忠は何年も愛抱夢のすぐ近くにいながら彼の心の扉を開かせることはできなかった。そのための鍵を持ち合わせていないのだ。

 大人社会の中、若くして父親の地盤を引き継いだ愛之介を守ることに忠は徹してきた。有能な秘書として。

 今更、心を閉ざした愛抱夢に言葉を届けることは不可能だった。できることは、トーナメントに勝ち、大きな問題を引き起こす前に愛之介からスケートを取り上げることだけ、という極論に忠は行き着いてしまう。

 その間違いに気がついたのは、暦という赤毛の少年の負けてもなお楽しげな笑顔に、かつて見せた幼い愛之介の笑顔の記憶が重なったときだった。

 そして、それは同時に万策尽きたことを忠に突きつけた。それだけ自分の罪は重かったのだ。

 あとは愛抱夢の心の大半を占め、愛抱夢すら超えるかもしれない稀有な才能を持ったランガに委ねるしか術はなかった。

 思い起こせばひどい話だ。こんな子供を危険に晒してしまったのだから。

 この子は、愛抱夢の生い立ちや背負っているもの、忠との関係をまったく知らない。

 こうしてS以外の交流が深まった今でも「すごいスケーター」以外は、「偉い政治家」「地元の名士」「お金持ち」というような子供っぽい漠然としたイメージしかないのだろう。

 それでいいと思う。大人のしがらみから自由でいられる彼だからこそ、あのとき託せた。

 結果、かたく閉ざされた愛抱夢の心の扉をこじ開け、その中に飛び込むことができたのだ。


「君のおかげだよ。改めて感謝する」

 ランガは不思議そうな顔をした。どうやらピンときていないらしい。

「あの、スネークはイヴがなんだったか知っている?」

「なぜ、私に訊く?」

 なかなか厄介な質問だ。

「あなたが、愛抱夢が愛を取り戻すには俺がふさわしいって言ったから、イブと関係しているのかと思って。話したくなければ別にいいけど」

 イヴについて、忠も具体的に何を意味しているのか完全に理解しているわけではない。単純に考えると、愛抱夢と名乗りイヴを求めるということは、恋人や結婚相手のことと考えてしまうのが普通だろう。

 しかし、それは、おそらく違う。結果的にそうなる可能性もゼロではないが。

「愛抱夢が求めた唯一の他者。そのくらいしかわからない」

「愛抱夢は仲間などというあやふやなものは信じていないと言っていた。それなのに俺を連れて行こうとした」

 妙なことを言う。連れて行くとは、どこへ?

「あのビーフ中にそんな話を?」

「うん。でも、そこ楽しくないところだった。スネークも、あそこへ行ったことあるの?」

「すまない。あそこって何の話だかよくわからないのだが」

「ごめんなさい、説明下手で。スネークは行ったことないんだね。そこへ入ったとき愛抱夢は『ようこそ、ふたりたけの世界へ』って、こう振り返った。俺が崖から落ちる少し前かな」

 ランガは両腕を下にして広げたポーズをとった。

「落ちる前? ふたりが向かい合って滑っていたことはなかったはずだ。それに、あの状況でそんな会話ができたというのか?」

 ランガは難しい顔をして、何かを考えているようだった。

「あれ? ずっと向かい合って話していたような記憶がある。声は、聞こえているはずない? けど何を言っていたかははっきり伝わってきた。今まであまり気にしていなかったけど、あれは何だったんだろう」

 ランガは何度も右や左に首を捻っては困惑している様子だった。

「そこ、愛抱夢は素晴らしい世界って言っていたけど、真っ白で、何も見えない何も聞こえない何も感じなくなっていくんだ。父さんが死んだときみたいに。だからあそこに愛抱夢を置いていっちゃいけないと思った。それなのに愛抱夢は嫌だって。くだらない世界には戻りたくないって」ランガは口もとに小さな笑みをふわりと浮かべた。「まるで駄々っ子みたいだったよ」

 この子はいったい何を見たのか。

 もしかするとランガが飛び込んだそこは愛抱夢の世界。誰も侵すことのできない聖域だったのだろうか。そこに辿り着ける資格を持っているのは特別な才能を持つ選ばれたスケーターだけ。その世界に至り、かつ闇に引きずり込まれることなく、愛抱夢に手を携え光の中へと引き戻した。

 そうか、君はそんなことをやってのけたのか。

 現状それができるのはランガしかいなかった。この子がいてくれた奇跡に感謝しよう。


 あのときの自分はもう許されることはない。そう忠は思っている。

 けれど、愛之介が放った言葉を思い出す。

 ——お前は一生僕の犬だ。

 彼の父親である愛一郎に唯々諾々と従うだけの犬だった忠が、少なくても父親の犬でなくなった瞬間だった。

 一度壊れてしまったものを元に戻すことは叶わない。それでも新しい関係を構築しなおすことはできるのかもしれない。


「俺、スネークにお礼を言わなくちゃって思っていた」

「礼?」

「うん、スネークが愛抱夢にスケートを教えてくれたから、俺、愛抱夢に出会えた。だから」

 忠は目を見開いてランガの顔を見た。

「だから、ありがとう」

 見落としてしまいそうな小さな微笑が、柔らかな朝の光の中へゆっくりと溶けていった。

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