君の胸で僕は安らぐ
不用意に触られるのは苦手だ。背後から声かけと同じタイミングで肩に手を置かれたりすると、うっかり睨みつけてしまうことすらある。それは大抵先輩議員だったりするのだが、そんなときは慌てて愛想笑いを浮かべる。
自分より力のあるものから構われるのは、嫌でも仕方ないと諦めることはできた。けれど明らかに自分と同等以下のものから構われれば、はっきりノーと言う。
小学校に入学したころには自分より強い立場にいると思える同級生などいなかった。いや、一学年か二学年くらい上級生であったとしても、その家が神道家より力を持っていないとわかれば、気を遣う相手ではないと判断していた。
別に見下していたわけでも、自分が偉いと思っていたわけでもない。
ただ、嫌なことを「嫌だ」と言って拒否していいのか、我慢しなければいけないかの違いだった。
「愛抱夢は構われるのが嫌いなの?」
愛之介の部屋でランガは唐突に訊いてきた。
今、この部屋に彼がいる理由だが、建前はいつものバイト。本音は精神安定剤? その言葉が一番ピッタリくる。ランガには内緒だ。
愛之介は顔をあげ、ソファーの前に立つランガを見た。
「どうして?」
「暦から聞いた。構うのは好きだけど、構われるのは死ぬほど嫌いだって、愛抱夢がビーフのときに言っていたって」
あの悪夢のビーフか。
表情に出てしまったのだろう。ランガは「ごめんなさい。嫌なこと言っちゃったかな」と謝ってきた。
そんなふうに謝られれば、かえって傷つく。自分の未熟さを自覚させられるから。
「別にいいよ。構われるというか触られるのが、どうも苦手なんだ。子供の頃からね」
「嫌だって言わなかったの?」
「もちろん言える相手には言うよ。だけど言えない相手もいる」
伯母たちの顔が浮かび、その途端、動悸と吐き気がした。
欧州かぶれの伯母どもは、これが上流階級のスキンシップだとばかり幼いころからベタベタと触ってきた。頭を撫でたり抱きしめたり、挙句、キスしてきたり。こっちの快、不快なんて微塵も考えやしない。
「愛之介さんはなんて愛らしいのかしら。ほんと天使のよう」
「神道家の跡取りに相応しく育てることが私たちの役目なの」
「だからね。こうやって可愛がってあげるわ。でも、厳しくしなくてはいけないこともあるのよ。それも愛之介さんを愛しているからなの。わかるわね」
「ありがとうございます。僕はこんなにも愛されて幸せです」
「嫌だって言えない相手って、脅されたの?」
「え? いや、そういうことではなくて」
「だって、そんなことプライマリースクール入る前に習ったよ。自分の体は自分のものだから、触られて嫌なときはちゃんと嫌だって言いなさいって。日本は違うの?」
ああ、それは性教育の基本だ。ところが日本ではそんな当たり前のことも教えない。
もちろん愛之介も教えてもらっていない。もっとも、それを知っていて実践したところで、もっと嫌な目にあうことは目に見えていた。耐えてやり過ごすことが一番被害が少ないのだと幼いころに学習してしまったのだ。
「日本は色々遅れているんだ。もちろんいいところもあるけどね。僕も政治家として責任を感じるよ」
ランガは難しい顔をして、少し考え込んでいるようだった。
「愛抱夢は、誰かからハグされたりキスされたりして嬉しかったこと、ないの?」
ランガは父親や母親からのハグやキスを思い描いているのだろう。それは彼にとって当たり前の幸せの記憶だ。しかしランガは愛之介の親子関係や家族のことをあまり知らない。
「そういえば、ないね」
抱きしめられたこともキスされたことも、無理にその記憶を掘り起こそうとするれば気分が悪くなる。抵抗したくてもできなかったのだから。
「いつも愛抱夢から、俺にハグしたりキスしたりしてくるのは、あなたが俺より大人だからだと思っていた。でも違うんだね」
「違いはしないよ。君が愛しくて抱きしめたいと思うのは間違いない。けれど君の言うとおりそれだけじゃないのかもしれないな」
ランガは隣に座り、愛之介の頬に指でそっと触れた。間近から見つめてくる青い瞳が、戸惑うように揺れていた。
「これは、大丈夫? 嫌じゃない?」
首を傾げ訊いてくる。
愛之介はランガの指に自分の手を重ねた。
「もちろん、嫌じゃないさ」
そう、嫌じゃない。彼の触れてくる指はとても優しく気持ちいい。
「ねえ、嫌だったら嫌だって言って」
ランガは愛之介の頭を胸に抱き寄せた。
「あなたにキスしていい?」
愛之介の前髪を掻き上げながら訊いてくる。
「してくれるの?」
柔らかい唇が額にそっと触れてきた。
ランガの胸に頬を押し付け心臓の鼓動に耳を澄ます。体からゆっくりと力が抜けていった。
「よかった。俺に構われるのも駄目だったらどうしようかと」
安堵したような声だった。
こんな無防備な状態で誰かに体を預けるなんて、そんな自分に驚いている。
そうか、僕にもできるんだ。
また一つ君に教えてもらった。
「あと、もう少しこうしていたいんだけど。いいかな?」
愛之介の頭を抱くランガの腕にぎゅっと力がこもった。
「いいよ」囁くようなランガの声が耳元で心地よく響き、愛之介は目を閉じた。
了