欲望の隠れ場所

 愛之介は地方選候補者への応援演説中、人集りとなった聴衆の中にふわりと動く水色を視界の隅に捉えた。

 ランガくん?

 視線を向ければ、目が合った。

 彼は驚いたように目を丸くすると、くるりと背を向け足速にその場を立ち去ってしまった。

 演説を終えて候補者と固い握手を交わしから人混みを掻き分け、たまに差し出される手を握り返し愛想笑いを浮かべ目で彼を追う。しかし見失ってしまったようだ。そのまま忠の待つ車へと急足で向かった。車内でメッセージを送ってみよう。近くにまだいればいいが。

 車の前に立つ忠が「どうぞ、愛之介様」とドアを開けた。

 後部座席に乗り込もうと屈んだ瞬間フリーズした。先客がいたのだ。

「こんにちは、愛抱夢……でいいんだよね?」

「ランガくん、なぜ君がここに?」

「スネークに呼ばれて」

「車の前を通り過ぎようとする彼が見えましたので、声をかけさせていただきました。愛之介様がもうすぐお戻りになると思い、少しお待ちいただいたのですが、差し出がましかったでしょうか」

 ランガの手前「余計なお世話だ」と虚勢を張るわけにもいかず、かといって素直に「よくやった」と褒めるのは癪に障る。

 とりあえずスルーでいい。

 黙ってランガの隣に腰を下ろした。

「迷惑だった?」と不安げに訊いてくるランガに「もちろん大歓迎だよ」笑顔で応えた。

 忠は車を発進させた。


 事務所に戻る前の二時間ほど昼食と休憩の時間をとってある。ゆっくりできるよう個室を押さえてあるのだが、もうひとりねじ込んでも問題ないだろう。そう思った矢先、忠がこちらの思考を読み取ったかのように言ってきた。

「予約した昼食の件ですが、その場で申し出ればもうひとり分追加可能とのことです」

 だんだん腹が立ってきた。ここまで気を利かせて先回りされると、こいつの手のひらで踊らされているような気分になる。さらに厄介なのは、それを指摘すれば認めたことになるから文句も言えない。

 やはりここも反応しないの一択だ。

「ランガくん、このあとの予定は?」

「お昼ご飯にパンと牛乳を買って帰るくらいかな。母さん仕事だから」

 前々から思っていたのだが彼の食事の偏りは少々問題ある。プロを目指すでなくてもある程度、栄養を考えた方がいい。いくら生まれ持っての才能があるとはいえ食事やトレーニングを間違えれば怪我や故障の原因となる。デタラメが許されるのはまだ若い今のうちだけだ。母子家庭ということで母親も、そこまで気をまわす余裕などないのだろう。機会を見てこちらからアドバイスをするようにしよう。

「それならランチを付き合ってくれないかな」

「あ、はい」

 個人的に話をするようになってはっきりしたのだが、彼は明確に断る理由が思いつかない限り、こちらの提案をあっさりと受け入れてくれる。


 数分で到着したホテル内にある和食レストランは馴染みの店だ。そこの個室へと案内された。

「スネークは?」

 忠がいないことをランガは不思議に思ったようだ。

「忠は、別の席で食事をしているよ。元々僕がひとりになりたかったから予約したんだ。たまには息抜きしたいからね」

「え? じゃあ俺が一緒でいいの?」

「もちろん問題ないよ。ひとりでというより仕事の延長みたいな連中から離れたかったという意味だからね。君は仕事とは関係ないし。忠だって同じだよ。彼だって上司の顔を見ないで食事したいだろう」

「そんなものなのか。俺、暦と一緒に学校行って授業受けてランチ一緒に食べてSで滑って……でも、息抜きのために離れていたいなんて思ったことないけど」

 それは少し妬けるかもしれない。

「大人になればわかるよ。今日はその赤毛くんと一緒じゃなかったの?」

「今日は都合が悪いって。暦は、家族とか親戚のイベントがしょっちゅうあるって言っていた。大家族で親戚付き合いも近所付き合いも多いらしい。俺は暦の誘いを断ることないけど暦はちょくちょく俺の誘い断ってくる。でも暦の家いつも賑やかで少し羨ましい」

 羨ましいね。

 喜屋武という名字からして代々沖縄の一族なのだろう。親戚付き合いは濃いだろうし長男ともなれば大変だ。この子はそんな沖縄特有の事情など知らないだろうけど。

 そんな雑談をしているうちに料理が運ばれてきた。先付けから始まって、お造り、腕ものと上品に盛られている。

 黙々と食べているが、大食漢のこの子にしてみれば和食のコースは量的に問題ありそうだ。もとぶ和牛ステーキを倍量にしてもらっているとはいえ大丈夫だろうか。おかわり自由の炊き込みご飯でお腹を満たしてもらうしかないが。

「こんな柔らかくて甘いステーキは初めて。和牛?」

「そうだよ。気に入ってもらえたようで何よりだ」

 デザートとコーヒーが運ばれてきたタイミングで、気になっていたことを訊いた。

「それはそうと、ランガくん」

「何?」

「君は応援演説をしていた僕を見ていた。でも、目が合った途端にあの場所から離れたよね。逃げるみたいに。どうかしたの?」

 デザートの抹茶アイスをすくいにかかったスプーンが止まる。

「本当に愛抱夢なのか自信なくて。愛抱夢がこっち見たとき、あんなにじろじろ見て、もし違う人だったらと少し恥ずかしくなって逃げた。そうしたらスネークに声をかけられて、やっぱり愛抱夢だったんだなと」

 ランガが愛之介の素顔を初めて見たのはトーナメントの決勝戦だ。激しいぶつかり合いで仮面が落ちた。その仮面で隠していた素顔を図らずも晒してしまったのだ。

 でも、夜の暗いコースでのことだったから、昼間会ったらわからないかもしれないとランガは言った。だから、愛之介は明るい中で素顔を見せることを都合の良い口実に、ランガを屋敷へと招待したのだ。

「先日、僕の家へ来たとき明るい中で顔を見ているよね?」

「うん、そうなんだけど。あのときはこれで覚えたから昼間会ってもすぐに分かるって、そう思っていたんだけど……」

 そこで言い淀んだランガに先を促した。

「だけど?」

「なんか、あのときと全然違う」

「違うって?」

 ランガは軽く首を傾げた。

「雰囲気? 服とヘアスタイルのせいかな。今はもう見慣れてきたから愛抱夢だなと思えるけど。だから、街の中でたまに見かけるポスターがあなたと結びつかなくて、愛抱夢とちょっと似ているかもくらいだった。あれ愛抱夢だったんだね」

 愛之介は苦笑した。

「名刺渡したはずだけど?」

「ごめんなさい。あまりよく見ていなかった」

 ばつが悪そうにしているランガに「気にしなくていいよ」と言った。

 確かに、今は清廉潔白で売り出し中の若手政治家である神道愛之介を演出したコーディネイトだ。髪はスタイリング剤で乱れなくまとめ、真面目で落ち着いた印象になっているはずだ。さらに、上質のスーツで品の良さと知性を全面に出すようにしている。

 異界であるSでのマタドール衣装は論外としても、先日の神道家の邸宅で彼を迎入れたとき着用していたのもスーツではなかった。商工会絡みの付き合いで何着か持っているかりゆしとスラックス。ヘアスタイルはSのときと同じだ。彼がリラックスできるようにと選んだカジュアルな装いだった。

 ランガが、政治家である神道愛之介のお堅いスーツ姿を間近で見るのは今日が初めてなのだ。

「で、君の感想聞かせて欲しいな。スーツ姿の僕。惚れ直したかい?」

「ほれなおし?」

 ランガは不思議そうな顔で愛之介を見た。

 軽く流してもらおうと思ったのだが通じなかったらしい。もっとも可愛いきょとん顔を拝むことができたのだから良しとしよう。

「気にしないで、冗談だから」

「あの、そのスーツとても似合っているし、かっこよくて素敵だと思う」

 ランガはお世辞の言えるような子ではない。ここまで言ってもらえれば十分だ。

「君に褒めてもらえると嬉しいよ」

「シャドウもチェリーもジョーもSとS以外、全然違うんだ。愛抱夢も同じだね。仕事のときみんな顔つきも違う」

「顔つき?」

「Sと違って、みんなちゃんとした大人に見える」

 愛之介は思わず吹き出した。そうか、Sではあいつらも子供に見えるのか。

「僕にとってマタドールの衣装はスケーターとしての、スーツは政治家としての戦闘服なんだよ。それぞれで気持ちが切り替わる。スーツを着てヘアスタイルをピシッと決めた自分を鏡に映せば、これから古狸どもとバトルだぞって気合が入るからね」

「大人って大変だね」

 大真面目な顔でランガは最後のアイスクリームを口に放り込んだ。


 楽しい時間はあっという間に過ぎる。

「残念ながらそろそろお開きの時間だよ」

「今日はありがとうございました。またご馳走になっちゃった」

「こちらこそ君のおかげでリフレッシュできたよ。これで午後の憂鬱な仕事も乗り越えられそうだ。ありがとう」

「俺にできるお礼ってある? 何も思いつかなくて」

「それなら、これからもこんなふうに僕に付き合ってほしい。どう?」

「わかった」

「では、最後にハグをしようか」

「うん」

 両腕を下に向け、彼を迎いれるポーズをとる。

 ランガは歩み寄ると、そうすることが当たり前だというように愛之介の腕の中に入り込み背中に腕をまわしてきた。それは、ぎこちなさのない、ごく自然な動作だった。

 愛之助は彼の肩から背中にかけ確かめるように手のひらを滑らせていった。しなやかな弾力を持った筋肉は女のような柔らかさはない。子供ではない。けれどまだ成熟した男とはいえない繊細な危うさを持った肢体。愛之介の胸の中でしっくりと馴染む体温が愛おしい。

 君は、あまりにも無防備だ。何の警戒もせずにこうして容易く触れさせてくる。僕が君にどんな欲望を抱いているのか気づきもしない。

 実際、ここがレストランの個室でなければ危なかったんだよ。

 愛之介は優しく抱きしめながら「キスしてもいいかな?」と訊いた。

「いいよ」

「唇には?」

「駄目」

「ふふ、冗談だよ」

 愛之介はランガの雪のような髪を撫でながら、目尻にそっと唇で触れた。

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