シーソー

□□マリ

 

「…気になるの?」
マッチにそう言われて、やっぱりわかるんだ、と思った。
ここに来てから、彼―道蓮を見ると、はっとした。
前まで敵だったしハオ様もいたから別になんとも、だった。
でも、その隔たりが消えて変わった。気付いた。
なんとも思わなかったんじゃなくて、思っちゃいけないと心のどこかで引っかかってた。
マッチがのぞき込むようにして立っている。
答を待ってる。そしてもう答は私の中で出ている。
「うん…」
思い切ってそう言うとマッチは目を丸くして、意外そうな、嬉しそうな顔をした。
「ほんと? いつから?」
廊下に小さく声が響いてマッチは、あ…、と口を手で押さえて襖を見た。
平気だよ、と私はマッチに言った。平気だよ、聞こえてない。
そしてマッチの問いに今までの自分の思いを辿った。
…彼から目が離せなかった。ずっと見てるって自覚がなかった。
ある時、彼が視線を感じたのか、ちらっとこっちを見たことがあった。
それで自覚した。
目が合ったのは、三回。
そのあともただ振り向かないだけで、私のことをわかってたのかもしれない。
だから多分、彼も気付いてると思う。けど、多分、だから思い切れない。
知ってるからってそれがいい方に向かうのかもわからない。
私は今の思いを、自覚した、というところまでで止めて、マッチに話した。
不思議にあんまり恥ずかしくなかった。
目の端に映る襖を見て、それもそっか、と納得した。答が返ってくる訳じゃないんだ。
「で、そのこと、言ったの?」
私はさっき止めていた思いの続きを話して返した。
「でも、それじゃ進展しないよ?」
マッチは軽くとがめるふうに上目で見た。
思い切れない理由に、もっと大きなことがある。
「だって、あの人には…」
「…ピリカってコでしょ?」
言うことがわかってたみたいで、終わらないうちにマッチが口を挟んだ。
彼のことを見ていたとき、必ずと言っていいほどその人の姿が視界にあった。
まるで見せつけているかのように思えた。
彼が何か言って彼女が笑うたび、私の胸がちくりと痛んだ。
「知ってるなら…」
無理だってわかるでしょ。
そこまで言えなかった。
私が声を沈めると、マッチは対象的な口調で言った。
「平気だって。マリちゃんかわいいし、迫られたらあっちから行動起こしてくるよ」
「行動って…」
でも、そうされたらどんなにいいだろう…、と、いやらしく考えてしまうのを諫めた。
「男なんてそんなもんだよ」
まるでそれを体験したみたいな口ぶり。
マッチは、ハオ様以外の男の人と接したことがあるんだろうか。けどそれは聞かないことにした。
マッチと二人でハオ様のところに呼ばれてから、そういうことを避けるクセがついた。
「どうせ彼、もうすぐ帰っちゃうんだし、言っちゃいなよ」
そう言われて、焦った。言わなきゃ、って気が強くなる。
そういえば、ここに来てから詩を書かなくなった。
忙しくなったからだった。そのせいか、少し疲れが溜まってる。
考えてみれば、何もすることがないから詩を書いたりするんだ。
それは、物心ついたときから同じくらいの歳の男の人はハオ様しかいなくて、
だから好きになったと勘違いしてるのと一緒。
退屈で欲を持て余してそれを向ける人がハオ様しかいなかっただけ。
それも、どちらかと言えばハオ様から誘われた。
心を読んだ上だったとしても、私からの行動にはならない。
けど、今のこの場合は違う気がする。
今、自分から動かないと、また退屈な時がやってきて私はそこに溶け込んでしまう。
「…わかった、言ってみる」
決心した。マッチは頷いて、頑張って、と笑った。
その笑顔を見て、私はほっとした。この民宿に来てから、久しぶりに見た自然な笑顔。
それに悩みを打ち明けた反動もあって、聞きたくてもできなかった、そうさせていたタガが外れた。
マッチが後ろを向いて行こうとするのを、名前を呼んで止めた。
「なに?」
首をひねってこっちに横顔を向ける。
「マッチは、好きな人、いるの?」
少しクセが出て、私は小声になっていた。
マッチは一瞬だけ無表情になって、それから隠すように苦笑いをしてからまた背を向けた。
「いないよ、そんな人」
「…そう……あの、いろいろ聞いてくれて、ありがと」
寂しそうな後ろ姿を見て、聞かなきゃよかったな、と私も沈んだ声になった。
あの無表情のとき、いったい誰が頭に浮かんだんだろう。
…でも、今は自分のこと。
マッチの背中に、じゃあ、と告げて私は気持ちを引き締めて襖に向かい合った。
…やっぱり、言えない。

私は窓を拭きながら小さく溜息をついた。
今、私のそばにいる彼に未練がましさを持っていることがつらくなった。
いっそ、捨ててしまいたい。
汚れたガラスを水で濡らした雑巾で拭く。
雑巾が通ったところに水玉が引かれて、それが乾くと水アカが浮かんで曇る。
掃除なんて慣れないから、いつまで経っても綺麗にならない。
…言わないほうがいいんだ。
女の人だっているんだし、入る余地なんて始めからないし、
私のことなんかどうだっていいはず、そう思うと体が軽くなる。
でもしばらくするとまた焦る。まだ間に合う、今言えばもしかしたら。
その繰り返し。もうすぐ彼が帰ってしまえば吹っ切れて心が楽になる。
けど実際はまだここにいるから気が重くなる。
気付くと、本当に体が重くなっていた。流れる血がどろどろに変わってしまった感じ。
ふっ、と頭の上を黒い影がよぎったような気がした。
そして今度は白と緑が混じった光が点滅して視界を包んでいく。
それが目の裏側から広がってきてる、とわかったとき、私はすでに暗闇の中へと落ちていた。

目を開く。
私は横になっていて、体の回りを柔らかい布団に抱かれている。
…何で?
記憶を辿る。記憶は私の上体を跳ね起こした。
視界が天井から壁に移って、そこには彼がよりかかって座っていた。本を読んでる。
「気が付いたか」
本へと落としていた視線を私に向ける。
目が合って、恥ずかしくなって布団から出ようとした、
けど、力が入らなくてそのまま倒れてしまう。
「無理をするな。まだ寝ていろ」
起きようとはするけど、だめだった。頭に血が回らない。景色がぼやける。
体が、熱い。
熱さで、私を覆っている肌が水蒸気みたいに空気へ溶け込んでいく感じ。
切り傷とは違って、私とその周りとが、とても曖昧。
だるい…………。
そのだるい頭で、今の状況を整理した。情けなかった。
「ごめん、なさい……」
初めて彼に対して発した胸の内。余計に情けなくなった。
「なに、今下に行ってもこき使われるだけだ。落ち着くまでここにいればいい」
いたたまれなくて、少し嬉しくて、涙が滲んできた。
けど、それは、突然冷めた。
「では、俺は行く」
彼は立ち上がった。彼なりの配慮をしようとしてるんだろうけど、
この部屋が廃墟になってしまう予感が、頭の中に貼り付いた。
「あ、あのっ……!」
そのイメージが私の口を動かした。彼が足を止めてこっちを見下げる。
繋ぎ止めておきたくて、必死で言葉を紡いだ。
「その、こ…ここに、いてくれません、か……」
それだけですべてを告白したみたいに、胸の鼓動が苦しいほど打つ。
何故だ、って聞かれたら言ってしまおうか。
私が覚悟を決めようとしていると、彼が畳に腰を下ろす音が耳に入ってきた。
見ると、また本を読んでいた。
チャンスを逃してしまったようで、体の熱が一瞬引いた。
何も言わずに座ったのは、私の気持ちを悟ってるんじゃないか、と思いながら小さく息をついた。
時計を見る。意外に、ここに来てから三十分も経っていなかった。
だるさは少し取れても熱は一向に下がらない。
…この布団、彼が使ってるのかな。
そういうことを考えると余計に体が火照って、熱くなって、掛け布団を少しどけた。
浴衣の胸元をパタパタめくるように空気を送る。背中に掻いた汗が冷える。
ふと何か感じて辺りを見回す。彼が私を見ていた。
私は慌てて胸元を手で押さえ頭まで布団をかぶった。
「暑いのか?」
「へ、平気です…」
すぐ答えた。布団越しで、彼に届いたかはわからない。
パタン、と音が聞こえた。多分、本を閉じた音。
続けて畳を摺る音がして、それが近付いてくる。

足音が止んだ。心臓の鼓動が布団の中に響く。
暑くて息苦しいのは布団のせいだけじゃない。
「……ゃ!」
さっきとは全然量の違う空気が流れ込んできて私の体を冷やす。
どけられた布団を目で追うと、手にタオルを持って彼がのぞき込んでいた。
「起きれるか?」
「え? あの……」
まごついていると彼に上体を起こされた。彼の手から背中越しに体温が伝わる。
「汗を掻いているだろう、拭いてやる」
「い、いいです…」
「そのままにしておくと風邪をこじらせるぞ」
「ぅ………」
部屋を使っている以上、断れなかった。でも、体を拭くってことは…。
「では、上を脱げ」
…やっぱり。
私はまた、まごついた。彼は私を見て、言葉を用意していたみたいに言った。
「…別に見やしない。それに、背中だけだ」
それなら、と言われるがまま、浴衣の上だけをはだけた。
ブラをつけてないから、手で隠して恥ずかしいのを必死で耐える。
自分でやるって言えば済んだかもしれない。
けど、そうしなかったのは何かを期待してるのかも、と思うとさらに恥ずかしくなった。
タオルが背中に触れる。ピクッと体が小さく跳ねた。
そして背中を往復する。
「…っ…ぁ……」
だるい体に乾いたタオルは刺激が強く感じて、小さく声が漏れてしまう。
初めはひんやりとしていた感触が、だんだん熱くぬめりとしてくる。

………………?

違和感があった。それは、肩に置かれた手が二つあったからだった。
私は背中に舌を這わされていることに気付いた。
「いやっ……!」
逃れようとして身を捩っても、力が入らないうえに彼を振りほどけるわけがなかった。
それは力の差だけじゃない。今は体裁で拒んでいるけど、後から欲が湧いてくる。
「…はぁっ、ん……」
肩の後ろあたりにあった舌が次第に登ってきて、首筋に辿り着くと、跡を残すように吸いつく。
「ひぁ…っ!」
彼の手が頬に添えられる。顔を横に向かされて、唇を奪われた。
…違う。キスして、くれた。
彼の舌に残った私の汗が体に還ってくる。

「…んっ…ちゅ……ふぁ、ぁ、んんっ……」

時を忘れるほど舌を絡められて、体調とは別に、頭がぼやけてくる。
「あっ……」
唇が離れる。時間が再び流れ出した。
肩と頬に置かれていた手が、脇の下から胸を押さえていた私の手に伸びる。
「あ…………」
のぞき込んできた彼と目が合う。
私の気持ちすべてを見通しているかのような彼の表情は、それだけで私の手をどける力があった。
実際にそう思っていたときすでに腕は動いてた。
この両手は、ただの体裁の名残だと、彼は知ってる。
下からすくうように、今度は彼の手が、私の胸に触れる。
「…あっ、ん……ぃ…」
彼の手つきはハオ様とは違う。
与えてくれる。求めるだけじゃなくて、受け止めて、返してくれる。
さっきのキスの味を思い出す。
彼が与えてくれる刺激で体が奮って、外の空気との境界がはっきりする。
そうして溜まった快感が体の中を一回りして、全身の毛穴から抜けていく。
それを彼が受け止める。
曖昧さへの経過が、とても心地いい。
彼は胸の愛撫を止めて、私を向き合わせた。
浴衣が剥がされる。私は、残った下着を自分で脱いだ。
汗なのか愛液のせいなのかわからないほど重く濡れた下着を布団に放った。
そしてそれ以上に濡れそぼっているあそこを、彼が見つめる。
舐められてるみたいで、次々と溢れてくる。
もう愛撫は必要ないと思ったのか、私を押し倒して、
彼は浴衣の隙間から上を向いたモノをあそこにあてがった。
かと思うと愛液のせいか、ぬるりと奥に吸い込まれるように入ってきた。
「あぁぁっ……!」
つながった。
頭の中があそこみたいにとろけた。
彼の腰がゆっくりと持ち上がって、一気に突き落とされる。
「ぁあ、あっ、ん、ふぁっ、あぁあ!」
頭がどろどろになって体中に溶けて流れ込んだみたいだった。
けど、深い恍惚に浸りきろうとしていた、そのとき―――
「蓮さん、います…?」
あの女の声が襖の向こうから聞こえて、空っぽになった頭に、石を放られた感覚が襲った。
彼の動きが止まる。
「…何だ?」
「あの、ちょっと今、いいですか?」
彼とつながっているのに、距離が生まれてしまった気がした。
背徳感、だと思った。
でもそれは、

「すまない、今、忙しい、後にしてくれ」

優越感に、裏返った。
彼の顔。悪気もなく、焦ってもいなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
「あ……はい」
しばらくして寂しそうな足音が遠ざかる。
少なくとも、私にはそう聞こえた。
その音が止むと、彼は再び私の中にすりつけてきた。
茹だった血に冷たいものが混じって、血管に鳥肌が立ったみたいだった。
「ひぁぁぁっ…あっ、んん、は…あっ…!」
高くなろうとする声を抑えながら、私は恍惚と優越感に浸かっていった。

『後にしてくれ』

私が優先された。
今、彼は私だけのもの。
今だけだっていい、あの女より愛されるなら。
背徳感も、今はどうだっていい。

そう、今、だけは―――。


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