気配。

ひとつ。

そう、一つだけ。

先ほどからこちらを伺ってる気配に、Σは意識を集中させる。

やはり、一人。

遠くで、鉄のぶつかり合う音。

それより近くで、鞭の撓る音。

どちらも、まだ戦闘中。

(私だけ、ですか)

大した動揺も無く、Σは戦闘準備に入る。

といっても、何をするわけでもない。

コートを脱ぎ、長袖を肘まで捲くる。

「Θ、これを持って、そこの岩陰に隠れていてください」

脱いだコートをΘに持たせ、気配とは反対側に非難させる。

これまでの時間で、大体の岩の場所は把握した。

気流や熱、土の流れ。

「クレト!!!」

男の声が聞こえた。

永禮と戦っている男だろうと予測していると、岩陰から、さきほどの気配が出てくる。

「こんにちは」

挨拶など、してみたり。

ここからでは、まだ男か女かも、判らない。

失礼があってはいけない。

「……」

敵は、答えない。

(たぶん…男の方、ですね)

なんとなく、そう感じた。

気配や、イメージが、どことなく無骨な感じだ。

「Θを、攫いに来たんですか?」

「……えぇ」

やはり、男だ。

発せられた言葉は、無理に低くしたような青年の声。

Σの前に立つ人影は、Σの予想通り、二十歳前半の青年であった。

赤茶色の髪は見た目にも硬く、目を覆い隠すかと思われる程に伸びていたが、不潔感は感じさせない。むしろ、潔癖な感がするくらいである。

先の二人と同じクレイズ社支給の灰色のコートは、どこか東の民族衣装を感じさせるアレンジになっている。詰め襟は二人より大きめに作られているのか、顎が隠れそうになっていた。

一重の瞳は細くはなく飴色に澄んでいて、誠実さを如実に物語っている。

顔の詳細は隠れて分からないが、清潔さ、誠実さを備えた男であるのは間違いないだろう。

「申し訳ありませんが、Θを渡すわけにはいきません。…お引取り、願えませんか」

「出来ない、と言ったら?」

真剣な色が隠る声に、Σが落胆の息を落とす。

「……出来ないのですね」

「……えぇ」

沈黙が流れる。

様子を、見ているのか。

「闘うつもりですか」

「θを渡すわけにはいきませんから」

自信と実力を伴った、力強い声。

「貴方は、盲目だと聞きましたが」

「そうですね」

冷たい風が、吹き荒ぶ。

薄い紫色の髪が、宙を舞う。

光に透ける髪はやはり美しく、敵は一瞬、目を奪われた。

だがそれも一瞬。

「…やめるなら、今のうちですよ…。戦闘では、手加減はできない」

空気で、彼が構えたのがわかった。

何の武器の音もしない。

帯刀もしていない姿が、体術の使い手を表している。

「…私もです」

言うと、Σは右足を正面に一歩進め、自然に腰を落とした。

「自己流ですか?」

「えぇ。見て学ぶことはできませんから」

堅くもなく緩くもなく拳を握ると、Σの意識はすでに周囲の気配全てに注がれている。

「…では」

「えぇ」

仕掛けたのは、敵。

Σの距離感覚を表すのは難しい。

何メートルという概念はないので、いつも空気の移動や皮膚に触れる風の感触、熱や冷気などで距離を測る。

右方向から、正面。

Σは的確に判断すると、冷静に向かってくる手刀を右手首で上げ崩し、そのまま敵の手首を取ろうとする。

「!」

初めて、敵が驚きの表情を表す。

Σには見えていないため、空気でしか分からないが。

敵はとっさに右手を翻した。

「…なるほど」

「…とは?」

距離を置いて、敵が息を吐く。

「先輩が、俺に割り当てたワケです。…申し遅れまして。クレイズ社のクレトです。以後、お見知りおきを」

「Σです。…彼らの…保護者をしています」

傍目には、穏やかな会話である。

しかし、彼らの間に緊張感がなくなることはない。

気を抜いた瞬間、どちらかが攻め込む。

「お強い。驚きましたよ」

「まだ一撃ですが?」

Σの言に、クレトが笑う。

「分かりますよ。一度手を合わせれば、ね」

相手の力量を推し量るには、充分の手合いだった。

「それはどちらの体術…いえ、自己流でしたか」

まるで、Σの右手に連れて行かれるようだった。

不思議な引力なようなもので引っ張られたような、そんな感触。

手を引かなければ、あのまま右手を取られていただろう。

未知の反撃に、次の手が予想出来なかったのだ。

「えぇ。見えない目を有意義に使おうとしたら、こうなりました」

ほう、と感心する空気が伝わる。

「有意義に、ですか」

なるほど、と微かにクレトが呟いた。

「貴方も、随分と鋭い流れで。驚いたのはこちらですよ」

にこやかにΣ。

「いえ。僕の体術は師に教えられ、学んだものです。まだまだ修行が足りません」

お互い感心し合い、再び構えたその時。

「クレト!!! いつまで時間をかけているの! さっさと終わらせなさい!!!」

鋭い怒声が飛んだ。

αと交戦中の女である。

すでに何戦か交えたのか、二人とも細かい傷が各所に出来ている。

「は、はい!」

慌てたように返事を返すと、Σに向き直る。

「すみません。もう少しお話をしたかったのですが…」

「そうですね。お互い、その余裕はなくなってしまったようです」

Σの意識は、永禮の所までも感知していた。

「…そのようですね」

そちらに目を向け、味方の姿を見つけるとクレトもそう呟く。

男と交戦中の永禮は、まさに満身創痍で走っている。

距離を離されれば銃で攻撃されるため、距離を開けずに闘うのに必死である。

対する男も、すでにコートはぼろぼろになり、所々に血が浮かんでいる。

双方にとっても、はやく戦闘を終わらせなければならない。

「…先程は虚を突かれましたが、二度はありませんよ」

言うが速いか、またも攻撃を仕掛けたのはクレトである。

「我々の目的は、そこの少女をお引き取りすることです。申し訳ありませんが、通らせていただきます」

「…っ」








マズイ。

時間をかけすぎた。

αは焦っていた。

鞭の攻撃が予想外に速くて、集中できない。

術を発動させるのに詠唱は必要ない。集中し、大気に語りかければいいのだ。

動け、と。

その大気を媒介にして、水、土、火などに働きかける。

もちろん、凡人が術を発動させる為には、それなりの手順が必要となる。

集中するだけでも様々なサポートを必要とする者もあれば、二人一組で発動させる者もいた。

αはそれを必要としない、特殊な人物である。

普段のαならば半径50メートルの大気に語りかけることなど、造作もないことだった。

しかし、そんな簡単なことが今できなくなっている。

間髪おかずに繰り出される攻撃の所為で集中できない。

今までも敵に遭遇することはあった。

それでもここまで集中力を削がれる相手は、はっきり言って初めてに近い。

さんざんバカにしておいて何だが、

(女のクセにこいつ…なかなか強い…)

現在は精々、半径3メートル…自分たちの周囲くらいだ。しかも、集中できないのでプライドの低い土や風しか従わない。

「坊や、大人の仕事を邪魔すると痛いメに会うって…分かったかしら!?」

ピシィっと鞭の威力を受けて真横の岩に亀裂が走る。

大した大きさではなかったそれは、しかし勢いよく飛び散り、αの頬に何本目かの紅い筋を残した。

「……っ」

「今回は私たちの勝ちね、坊や。…あの子は、あたし達が貰い受けるわ」

勝ち誇り、彼女は笑う。

「坊やと、剣の彼…あなたたちがいなくなれば、もう私たちの邪魔をする者はいないわね」

「ふん。Σを甘く見るなよ。…疲れ切ったお前達が勝てる相手では…っ」

「どうかしら」

しれっと彼女は答える。

もとより、そんなことは分かり切っている、と言わんばかりに。

「彼が相当の体術使いだっていうのは、前回で分かっていたコトよ。…対策する時間は充分あったわ」

「…!?」

「クレト!!! いつまで時間をかけているの!さっさと終わらせなさい!!!」

どこかへ向けて、女が叫ぶ。

(クレト?)

聞いたことのない名だ。

αはいぶかしげにその方向…後ろを振り向く。

「!!!」

Σと、θと、もう一人。

(仲間!?)

気付かなかった。

あの制服はクレイズ社。敵だ。

(何故気付かなかった!)

αは己を叱咤した。

しかし、叱咤したところで原因など分かり切っている。こいつらが、そうし向けたのだ。

女の声にこちらを振り向いた男が、Σと向き合う。

(θは…)

離れた岩陰に立っている。

しかし、離れているといっても、大人の男が全速力で走ればほんの数秒で辿り着いてしまう距離である。

(まずった!!)

「ここからでは、もう間に合わないわね。…あの綺麗なお兄さんが勝たない限りは」

勝てるだろうか。

…いや、Σは強い。

αはΣの実力に一目置いていた。

αの集中力を削ぐ数少ない相手の中に、彼が入っているからだ。

「彼が盲目だっていうのは知っているわ。…だから、今回は少し汚い手を使わせて頂くわ」

先程まで笑んでいた顔は、何故か苦虫を噛んだような表情になっている。

「恨まないでちょうだい。命令なのよ」

αは目を凝らす。

(一体…何を………あれは!!!)

戦闘中に男が取り出したものを見、αは唐突に走り出そうとした。

女のことなど、知ったことではない。

しかし、鞭は執拗に自分を追ってくる。

進めない。

間に合わない!

男が取り出したものを口元に近付けるのを、見た。

もしアレが発動したら、Σは…。

(θは…っ)

「Σ! 耳ふさげぇ!!!!」

声は届いただろうか。

『ナゼア・メイロン!!!!!!』

夢中で、『呼んだ』。

右手の甲が、燃えるように熱くなる。

体の中を、何かが走り回る感触。

全身を反響したその熱は、やがて右手から弾き出された。

「何!?」

「!!」

光が、一直線に男へ…クレトへ向かっていく。

「!!!!!」




後に残ったのは、満身創痍の永禮、α、Σに…θ。

「…はぁ、…はぁ…」

何が起きたのか、永禮には分からなかった。

敵と戦っていると、背後からものすごい声と、衝撃が襲ってきた。

何を叫んでいたのかわからない。

しかし、あれはαの声だったように思える。

一体、何がどうなったのか…。

思わず二人が戦闘をやめてしまうほど、それは強烈な光だった。

目の眩む光に、思わず目を閉じた。

気付いた時には、Σと闘っていたはずの男は大岩に叩き付けられ、意識を失っていた。

誰もが呆然とするこの状況のなかで、最初に冷静になったのは、永禮と闘っていた男である。

『…この勝負、預けた』

そう言って、女と気絶した男を連れ、彼は立ち去った。

(一体、何が、どうなって…)

先程から同じ問題しかぐるぐる頭を回っていない。

とりあえず去った危機に、ほっと安堵する。

「Σ…耳、大丈夫か」

「大丈夫?」

「えぇ…大丈夫のよう…です」

地べたに座り込んでいると、αとθ、Σの会話が聞こえた。

「Σさん、どうかしたんですか!?」

ずっと近付けなかった距離を走り寄ると、Σの隣に膝を折る。

「いえ、寸前で助かりました。…ありがとうございました、α」

「心臓が、止まるかと思ったぞ。あいつがアレを取り出した時は」

右手で持った杖に体重を預け、こちらもやはり披露した様子である。

長い溜息を着いた。

θがΣにコートを手渡し、Σはそれに袖を通している。

「なぁ、何がどうなったんだ? いきなりぱぁぁって明るくなったと思ったら、気付いた時にゃ新顔の男は倒れてて…」

「Σは普通以上に耳が良い。それは知ってるな」

唐突に、説明を始める。

「あ、あぁ」

「すると、普通の人間には聞こえない音も、聞こえてしまうわけだ。」

「ん」

「だから、奴らはソレを利用したんだよ」

…う?

「…バカが…。まぁ、あの場を知らんお前に理解しろという方が無茶か。…つまり、脳の許容量以上の音を発生させて、Σの耳を潰そうとしたわけだ。奴が持っていたのは増幅用の笛型だったが…まともに食らったら、いまごろΣの耳は無事じゃ済まない。…そして、θは連れ去られてた」

一気に話すと、べしゃ、とへたり込む。

「成る程…」

ソレを防いだから、今Σの耳も、θの身柄も無事なわけだ。

「とりあえず休んだら、街に向かうぞ。…服も替えなきゃならん」

とりあえず、難は去った。

よく分からないが、とりあえず自分たちが勝ち、あの様子だと暫く奴らはやってこない。

今のうちに、次の街へ入ってしまうのが得策だろう。

そう遠くはない街だ。

一行はその晩を岩陰のキャンプで過ごし、翌朝次の街、『ベハイド』へ立った。

(そういえば…結局なんでΣさんは助かったんだ…? ?? …まぁ、いいか。…無事だったんだし)

その疑問の答えが、後々永禮に大きな衝撃を与えることになる。




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