『 虜(とりこ) 』

21
メンフィスはキャロルの手に口づけた。手慣れたメンフィスの仕草にキャロルは全身の肌を桜色に染めて羞じた。初々しく幼さと気品を感じさせるキャロルの様子がこの上なくメンフィスの好き心を煽った。
「・・・まことそなたは美しい。何故、今まで気づかなかったのだろう」
キャロルはメンフィスの視線に絡め取られ身動きできない。
メンフィスは都合の良い耳に心地よい口説を続けながら、急速にキャロルに惹かれていった。確かにこの少女はエジプト人が賞賛するような美―血色よく浅黒い滑らかな肌、黒曜石のくっきりとした瞳、意志的な唇、しなやかさと豊満さを併せ持った肢体―はない。
だが白すぎる肌はきめ細かに滑らかだし、小柄な身体はほっそりとたおやかだ。
小さな顔は見慣れぬ異様な色の瞳を気にしなければなかなか整っているとも言える。通った鼻梁、愛らしい唇。いや弓形の眉の下、濃い睫に縁取られた青い瞳もなかなか・・・。
「まこと、そなたは美しいな。それに何とも世慣れず愛らしいことよ」
男慣れしていないキャロルの様子がメンフィスの征服欲を煽ったのだろう。
「あの・・・メンフィス王。私は行けません。私・・・王子を待っていなくては」
「王子は私がそなたを借りることを許してくれよう。何と言っても友邦の国主たる私が望むのだ、王子に買われた娘よ」
メンフィスは薄く笑いながらキャロルの唇に自らの唇を軽く触れさせた。恐怖と屈辱感で硬直した少女にさらに深く口づけようとしたとき。
「キャロル、何をしている?早く部屋に入らぬか」
冷たい怒りの炎をその瞳に宿した王子だった。

22
「これは王子、宰相との話は済まれたか。そのような顔をされるな。この娘を少しお借りしようと思っただけのこと」
メンフィスのふてぶてしい口振りに王子は眉をひそめた。この上ない怒りと軽蔑感を漂わせて。
「戯れを!アイシス女王のご不興を買いましょうぞ。女の貸し借りなど下々の真似事をなさるでない。
キャロル、そなたも軽々しい真似は慎め。それこそ奴隷のようだ!」
王子はそう言うときつくキャロルの肩を掴み、歩き出した。
「これはまた何ときつい執心か!金貨百枚もの価値のある娘ゆえ独占なさりたいのだろう!」
メンフィスの揶揄の声が王子とキャロルの背後に響いたが、答える声もないままに傲慢な若者の声は空中に消えていった。

「そなた、何をしていた?」
キャロルを荒々しく長椅子に放り出して王子は冷たい声で問うた。メンフィスのキャロルの心を全く無視した強引で傲慢な振る舞いに心底恐れを抱き、竦み上がっていたキャロルは王子に急場を救われ、感謝の言葉を述べようとしていたのだが・・・。
「何故、答えぬ?そなたは何をしていたのかと聞いている。私のおらぬ間に私の目を盗んで他の男と・・・。
答えられぬか、せっかくの場面を邪魔した男になどは。そなたはメンフィスを引き入れ、あろうことか・・・」
「やめて、やめてっ!そんな言い方は。メンフィスが勝手にやって来て、勝手に・・・わ、私に・・・」
恐怖が蘇ったのかキャロルは蒼白になって震える声で言った。黒曜石の瞳が彼女の動きを封じ、形の良い唇が押しつけられ・・・もし、王子が来なかったなら・・・?
「あの人、私を物のように・・・。きゃあっ!」
王子の鋼のような手がキャロルの細首を締め上げた。
「口答えなど許さぬ!そなたはいともやすやすとメンフィスに自分を許した!
この私をよくも愚弄したな。私に買われた分際でありながら!」

23
「王・・・子・・・?」
キャロルはすっかり混乱して、冷酷な本性を剥き出しにして自分にのしかかっている青年の瞳を見つめ返した。
(何?この人は何を言っているの?どうして私が王子を愚弄するの?
私を買ったって言った?まるでモノのように・・・?あの優しい人が・・・?)
キャロルの心に浮かぶのは優しく彼女に語りかけ、励ましてくれた青年の姿。様々なことを語り合った優しく深い声音。深い知識と思慮を思わせる言葉。
その同じ人間が今は・・・。
「よくも私を裏切り愚弄したな・・・。所詮はそなたは金貨で買われた慰みの人形にしかすぎぬかっ!」
「王子っ!何てひどいことを!あっ!」
王子は逃れようとしたキャロルの腕を捕まえるとぎりぎりと締め上げた。
「罰を与えてやる。私の心を裏切った不埒者に!」
怒りのあまり視界が赤く染まるような心地の王子の脳裏にキャロルと過ごした数日間のことがよぎった。
優しく賢い娘。犯しがたい気品と幼い無邪気さが同居する物腰。
自分のことを頼り切っていた無力な存在。銀髪を持つ自分と同じ、いやもっと目立ち忌まれる姿形の娘。異形の同族。
汚れなく頼りない存在を王子は異常な執着心でもって独占したいと欲した。一目見たときから欲望を覚えていたのだと今は自覚できる。その弱々しく汚れない、でもどこかに頸(つよ)い意志的なものを秘めた娘に。
指一本触れなかった娘、自分と同じように汚したいと思いつつ、その清らかさが目映くて触れられなかった。その娘が・・・ファラオに汚された。自ら進んで。
「許さぬ・・・!」
王子は白い柔らかな生き物にのしかかっていった。

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明るい午後の光の中に絶望的な哀しみの声が混ざって答える人とてないままに溶けていく。
「そなたは私が買った娘。私に逆らうことは許さぬ。私以外の者と・・あのようなこと・・・・・!思い知らせてやる・・・・っ!」
王子は口の中に血の味が広がるような冥い嗜虐的な歓びを、そして深い後悔と絶望を感じながら、柔らかい存在を蹂躙し、思う存分汚した。
純粋な者を汚し、自分の居る場所まで引き下ろし、仲間とする歓び、愛しいと思っていた者を最悪の形で自分に繋ぎ止めようとしていることへの嫌悪、キャロルへの悔恨の情・・・。でもそれはキャロルには通じない。
部屋の中に拡がる血と汗と・・男の欲望の匂い・・・・むせ返るような匂い・・・・・。

(何が・・・・あったの・・・・・?私・・・はどうなったの・・・?)
一糸纏わぬ姿のキャロルは寝台の上に起きあがり、呆然とシーツに付いた朱赤の染みを見つめた。全身が痺れるように痛み、まるで自分の身体ではないように違和感を覚えた。
(王子・・・!)

(気づいたか・・・。
後味が悪い・・・・・。だが、あの娘を私だけのものに・・確実に私だけに繋いでおけるようにああするしかなかったのだ。でなければ娘は早晩、私以外の者に心開き、笑顔を向けるようになってしまう)
先に水を浴びた王子は垂れ幕の後ろから声をかけた。
「気づいたか?キャロルよ。そのような顔をするな。そなたは私のもの。さぁ、いつものように笑ってくれ・・・」
「嫌いっ!」
キャロルの絶叫が部屋に響いた。それは王子の心臓を貫くような力を持っていた。
「大嫌いよ、あなたなんて!ひどいことして・・・・信じさせるようなことして結局裏切った・・。大嫌いよ、汚らわしい、軽蔑にも値しないわ!
嫌い、嫌い!あなたのことなんて大嫌いよ!憎んでやる!」

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軽蔑にも値しない、憎んでやる、許さない・・・・・・。
言葉の刃は青年の心を深く深く切り裂き、その傷は癒えることなく膿の混じった血を流す。
だがイズミルはその傷に敢えて気づかぬふうにキャロルの前では振る舞った。

キャロルは彼を許さない。自殺を許さず、服従を強い、昼間はこの上なく優しく、夜はまたとないほどに酷く強引に自分を弄ぶ男を。
自分を女の身体にしてしまった男を。

「あなたなんて大嫌い。大嫌いだわ。あなたは私を汚くする。そしてその忌まわしい唇から許しを請う偽善的な言葉すら紡ぎ出す。
あなたのことなんか大嫌いよ。好きになんてならない」
王子の体に組み敷かれながらなおも呪詛の言葉を吐き出す少女。
(どうして?どうして?私を守ってくれると言ったのに。私に優しくしてくれたのに。銀の髪を見せて、私の辛さを理解してくれる人だったのに)
・・・今でもキャロルは心のどこかで王子を慕っていたのかも知れない。
優しいばかりであった影のある青年を。だから夜毎の行為のさなかに切ない涙を流すのだ。
(いっそ狂ってしまいたい。いっそ人形になってしまいたい。昔を忘れてしまいたい。昔の優しかったイズミルを・・・。そうすれば悲しくない。泣かずにすむのに!)

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軽蔑にも値しない、憎んでやる、許さない・・・・・・。
言葉の刃は青年の心を深く深く切り裂き、その傷は癒えることなく膿の混じった血を流す。

そなたは私に買われた娘だ。私のものだ。私だけのものだ・・・・・・。
自分の発した言葉の痛みはそのまま後悔と哀しみの剣となって返ってきて青年の胸を貫いた。

(ではどうすればよかったのだ? 私と同じ異形の色を持つ少女よ。そなたを失いたくなかった。やっと私は一人で白眼視されずにすむのだ。そなたがいれば私は一人ではなくなる。そなたを失うわけにはいかないのだ、もはや!)
王子はキャロルを側から離さなかった。その白い肌に紅く愛撫の跡を刻印し、それはそのままキャロルの外出を禁じる枷となった。
(最悪の形で・・・そなたを繋ぎ止めるのか、私は・・・)

「王子・・・。お申し付けの商人が参りましたが」
「おお・・・。ルカか。通せ。かの娘の旅支度を調える」
「は・・・・?!」
「ふん、あの娘をハットウシャに伴う。何という顔をしている?あの娘は私のものぞ」
「は・・・・。しかしながらかの娘には未だファラオが執心とか。それにかの娘の出自は」
「そのようなものいくらでも整えてやれる。あれは私の後宮に入れる」
王子はキャロルのための様々な品を整え、半裸の身体を力無く寝台に横たえている娘に告げた。
「明後日には出立する。そなたも連れ帰るぞ」

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言いたいことだけを穏やかな優しい声音で淡々と告げてしまうと王子は背後に響くキャロルの悲痛な悲鳴を無視して、出ていった。

(ひどい!ひどいわ、王子!私はモノなの?金貨100枚で買われた人形なの?どうして?どうして?私はあなたを・・・。あなたの優しかった頃が忘れられないのに。あれは私を騙すためだけのお芝居とは思えないのに・・・!)
キャロルは目の前に置かれた美しい旅装束を見やって涙を流した。あれだけ酷いことをしておきながら、男は細々とした心遣いを忘れない。
そのたびにキャロルの心は混乱し、引き裂かれそうになった。彼女は忘れられないのだ。
天涯孤独、気味悪がられ、蔑視されていた自分を優しく庇い、勇気づけてくれた銀髪の青年の心を。その心を真と思ったからこそ、彼女はいつしか彼を頼り慕うようになっていったのではなかったのか?
(いいえ、いいえ。何を馬鹿なことを! 冷たく酷いあの人の本性は思い知ったわ。あんな人、大嫌い!誰がついていくものですか。
あの男が金貨100枚を惜しむなら・・・・そっくり突き返して私の尊厳と自由を買い戻してやるわ!)

キャロルは目立たない質素なベールで全身を隠すと、そっと部屋を抜け出した。逃げるのだ、自由のために。王子が金貨を惜しいと思うなら働いて投げ返してやればいい、とキャロルは思った。
その考えは本来、負けず嫌いの彼女を奮い立たせるものであるはずなのに・・・ただただ悲しく涙が止まらなかった。
(こんな目にあっても私は・・・あの人の見せた偽りの優しさと・・・孤独が忘れられない・・・。いっそ心など無くなればこんな情けない矛盾に悩むこともないのに)

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「だめだよっ!人手は足りてるんだ。早く行っておくれ、邪魔だよ!」
もう何軒の店を回って雇って欲しいと頼んだだろう?そのたびに全身を隠した姿のキャロルは不審者扱いされ、邪険に追い払われた。
(誰も雇ってくれない。どうしよう?後先考えずに出てきたけれどもう日が落ちるわ。・・・そうよね、奴隷制度がまかり通る世界よ、どうしてわざわざ身元の知れない飛び込みの私を雇ってくれると言うの・・・?)
キャロルはあちこち歩き回り、やがて疲れ果ててナイルの岸辺に座り込んだ。
ベールに包まれていてもそれと分かる小柄で華奢な姿、途方に暮れたような様子、そんなキャロルに急に猫なで声で話しかけてきたのは。
「おいおい、娘さん。どうしたんだね?もう暗くなるよ。一人かい?
ほう、働き口を探しているのか!それならちょうどいいところがある。ほら、来なよ!」
いかにも柄の良くなさそうな男。世間知らずのキャロルにも自分がとんでもないやくざ者に目を付けられたということが分かった。
「いやっ!離して、離してったら!私は行きません!」
「騒ぐなよっ!気取って話してみせたって所詮は娼婦だろうがよ!こんな場所で客引きするくせにもったいぶるんじゃねぇよ!」
男は怒りにまかせてベールを引き裂いた。その拍子に着衣も少し裂け、白い肌と金髪が夕日の中に浮かび上がった。
「いやあっっっ!誰か助けてっ!」
男の獣のような仕草に必死に抗うキャロル。
「もったいぶるなよ!へっへ、変わった娘だ、抱き心地を見てやるよ。どうせ、男は知って居るんだろう?」
キャロルは必死に抵抗したが力の差は圧倒的だった。すでに王子に触れられたキャロルであったが、その折りとは比べものにならないほどの恐怖と嫌悪感に身体が強ばった。
「嫌っ、嫌っ!触らないで、誰か助けて!誰か、誰か・・・・王子っ、助けて!」

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「王子・・・・?何を言ってやがる、このアマ。おとなしく・・・・ぎゃあっ!」
唐突にならず者の体がキャロルの上から離れた。その背中には短剣が深々と突き刺さって・・・・。
一体何が起きたのかとキャロルが痛む身体を起こし、焦点の合わない目で状況を確かめようとしたその時。
「キャロル、無事であったか!」
肌も露わなキャロルを抱きしめたのはイズミル王子その人であった。
「何故にこのような無謀なる真似をいたしたっ!そなたはもう少しで見も知らぬ男に辱められ傷つけられる
ところであったのだぞっ!」
「王子・・・・?どうして・・・?」
呆然と目の前の男性を・・・憎く、そして慕わしい・・・見上げるキャロルにマントを着せかけると、王子はいきなり彼女を抱き上げた。
「王子!降ろしてよ!降ろしてください。私のことは放って置いて。あなたとは行きません。言ったでしょう?あなたなんて大嫌いって」
「黙っておれ。そなたは私に助けを求めた。そなたを探していた私が来合わせなかったらどうなっていたかよく考えるのだな」
今まで聞いたこともないような厳しい声音で王子は言うと、王宮の客室に帰り着くまでいっさい無言であった。

王子はいきなりキャロルを浴室に放り込んだ。暖かく香り高い湯からむせながら頭を出したキャロルは王子に
強い力で押さえ込まれ、肌が紅くなるほど強く擦られた。擦られている間中、キャロルは泣き、抗い、怒って
王子の強引なやり方から逃れようとしたが、無慈悲に力強い腕はゆるめられず、王子は無言であった。
ようやく湯浴みも済んで。湯上がりの布を身体に巻き付けて自分を睨み据えるキャロルに王子は問うた。
「何故、私の許から逃げた?どうすれば私はお前を繋いでおける?」

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キャロルは呆然と身勝手な言葉を紡ぐ目の前の青年を見つめた。その顔は心配と心痛で驚くほどやつれ疲れていた。それは間違いなくキャロルがあの悪夢のような日から幾度となく思い返した銀髪の優しい青年の顔だった。
「金貨100枚って、あなたは言った。あなたは人でなし、酷い汚らわしい人よ。あなたがお金で私を縛り付けようとするから・・・だから私、お金を稼いで自分の自由を・・・買い戻そうと思ったのよ。あ、あなたの顔に金貨を叩きつけてやろうって・・・」
キャロルは王子の顔から視線を外しながら固い声音で言った。
「だから!あのような男に身を売ろうとしたのか?たかが金のために、私に何も言わずに当てつけのように堕ちていく道を選んだのか?
何故だ?何故、私から離れようとする?私が・・・そんなに厭わしいか?」
身勝手な男の言葉。
本当ならその身勝手なおぞましさに総毛立つ思いをするだろうにキャロルは言葉の底にある悲痛な叫びに思わず引き込まれてしまった。
「・・・・・あ、あなたは私を騙して滅茶苦茶にしたわ。忘れたとは言わせない。それなのにまだ私を縛り付けようとするの?お金と・・い、いやらしい欲望以外に何が欲しいというの?白々しいこと・・・・言わない・・・・で。あなたなんて知らない」
王子は顔をゆがめ、やにわにキャロルを抱きしめた。

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