『 虜(とりこ) 』 11 「娘・・・?キャロル・・・?」 宴の翌日の夕方、自室に帰ったイズミルは泣き咽ぶ小さな身体に驚かされた。金色の髪は黒の染料でまだらになっている。 「一体、これは・・・?そなたが自分で・・・?いや、違うな。頭の左側に多くかかっている。そなたは右利きだ。このようなかぶり方はできまい!一体、誰が・・・」 キャロルは泣きながら、いやいやをするばかりだ。 「とにかく洗わねば!」 王子は泣き叫ぶ幼児にするように、キャロルを湯殿に連れ込み洗ってやったのだった・・・。 「落ち着いたか・・・」 口には出さないがエジプト人にしかけられた悪質な手ひどい悪戯、王子の手による入浴ですっかり取り乱し消耗したキャロルはようやく頭を縦に振った。 「ひどい目にあったものだ。私のものであるそなたにこのような真似をするとはな!私もなめられたものだ」 「・・・私が醜いから・・・気味悪いからこんな目に会う・・・。消えてしまいたい、もう」 キャロルは焦点の合わない目で空を見つめながら呟くように言った。 「帰りたいわ。皆の所に。そこにいれば私は醜くも特別な変わり者でもなんでもないのよ。金髪青目なんて普通だわ。私ね、そこでは自分の髪の色や目の色が自慢だったのよ。醜いなんて思ったこともなかった。 ・・・・信じられる?きれいだって言われて喜んでいたこともあったのよ? でも、もう・・・。死んでしまいたい、誰にも見られないところに行って・・・消えてしまいたい。 そうすれば王子も気楽でしょ?私みたいなのを構わずに・・・きゃっ!」 王子はキャロルの頬をぶって際限のないうわ言を止めた。 12 「いいかげんにいたせ、娘よ」 王子の顔は痛ましげに歪んで見えた。 「自分は異形などではないと言い切ったそなたは何処にいった?泣き喚くだけの女などいらぬ。 ・・・よいか、そなたの髪の色は我らがこの上なく尊ぶ黄金の色、太陽の色だ。 目の色は母なる大地を潤す水の色、肌は穢れなき処女雪の白。 自信をもつのだな。・・・私には・・・少なくとも私にはそなたはなかなか美しく見えるぞ」 「同情などっ・・・!」 「ひがむな、見苦しいっ!そなたは根性まで奴隷になったか?もともと卑しい生まれ育ちにも見えぬから私はそなたを引き取ったのだ。よいか、そなたは美しい。エジプト人には分からぬ独特の美しさがある。私は嘘は申さぬ」 キャロルは気おされたように目の前の若者の秀麗な顔を見つめた。聡い彼女は彼の言葉の中の誠実さを素早く感じ取った。この世界で唯一、彼女の敵ではないらしい人間の心を。 だがどうして素直になどなれる? 彼は金髪でもないし、美しいオリーブ色の肌とはしばみいろの髪と瞳を持っているのに。下手に目立たない容貌。 キャロルは、ぷいと顔を背けると荒々しく言い放った。 「・・・あなたには分からないわ。分かってたまるもんですか」 その頑なで険しい表情は、大事に育てられたらしい世間知らずの娘の癇性がほの見えた。生まれながらの奴隷であれば決して浮かべはしないと王子に思わせる貌(かお)。 キャロルは垂れ幕の後ろの自分の寝台で声を押し殺して泣いた。王子は黙って傷つき、自失している少女の苦しみの気配を伺っていた・・・。 13 やがて少女は泣き疲れて眠ったらしかった。 (眠ったか・・・) 王子は重い吐息をつくと自分の寝台の上に座った。 キャロルの拒絶の言葉が思いの外、こたえた。あなたになど分からない、と。 (異形の・・・哀しみか・・・) 王子は髪を束ねていた革ひもを解いた。ずっしりと重いほどに豊かな髪がばさりと流れ落ち・・・はしばみ色の、日が当たれば金茶色に透けるはしばみ色の髪の中から一束、冷たい冷たい銀の色をした髪が現れた。 (我もまた・・・異なる色を帯びて生まれたる者ぞ・・・) ヒッタイト王妃が産んだ世継ぎの王子は、生まれたときから髪の中に銀色の毛束が混ざっていた。とても目立つその色は、運悪くこの上なく不吉な印と周囲の人々に受け取られた。 国を統べる者は傷無き体躯の持ち主であらねばならぬ、と当時の人々は信じていた。常と異なる姿は不吉。神々は異形の子を愛するだろうか? 地上における神々の代理人、すなわち王としてその治世を守護するだろうか? そのような王に統べられる民は国土はどうなる? 黄泉の世界と現世を結ぶという伝説の狩人の髪の色。 死をももたらす嵐の神の怒りの稲光と同じ色。 冷たい冷たい銀の色・・・・。 偏見をはねのけ、ヒッタイトの優れた王子よと賞賛の声を得たのはイズミル自身の必死の努力の甲斐あってのことだった。だが、銀の髪は隠されたまま。ごく身近な者以外にも知らせることなく。 (・・・・異形の哀しみ・・・・) 王子がキャロルに惹かれていたのはその異なる姿故・・・。 14 (異形の娘よ、そなたに惹かれたるは・・・) 王子は内心の想いを初めて口にした。銀の髪故に傷つき、幼い心に多くの傷を負った少年の万感の思いを乗せて。 「我と同じ者と思った故ぞ。侮られ、傷つけられたそなたを守らねばならぬと思ったのだ。 傷つき敗北し、壊れていくそなたなど見たくない」 自分自身、必死に周囲の偏見を、冷たい視線をはねのけてきた王子。初めて逢った同類の少女にも同じ資質を求める。強くあれと。そして・・・もはやお互い一人ではないと・・・。 同類への同情、憐憫の情以上の何かが彼の心に萌していた。王子はそれ以上、自分の心が様々な思考を紡ぐのを禁じるように目を閉じ、眠りを求めた。 王子の体は熱かった。瞼の裏にキャロルの姿が踊る。 初めて会った時のみすぼらしい姿。でもその瞳は何と強い光を宿していたか。 慰み者の奴隷か珍しい小動物でも買うように、金貨100枚で購った娘の予想外の美しさ。 交わした会話の数々。育ちの良さが伺われる態度、物腰。才気と知性。優しく穏和な心根、ほの見える強い矜持。誇りを傷つけられた時に見せる強い怒り、癇ばしった表情。 そして。 先ほど、風呂に入れてやった時の白い肢体。幼い身体はしかし、確実に王子の心に新しい感情をもたらした。強く、強く。 15 (男の生理か・・・) 王子はうつぶせになった。 (あのような子供が私を欲情させるとはな) 自嘲し、あれは奴隷市場で買った娘ではないかと自らに心にもないことを言い聞かせても無駄だった。ヒッタイトのイズミル王子は強い欲望をかの娘に感じていた。 きまぐれと義侠心から助けてやった娘、今となってはイズミル以外の人間に頼れる者は居ない娘、彼を信頼し、心寄せている娘はイズミルの同情の対象であり・・・そして恋情とも呼べぬような原始的な情動の対象であった。 「愚かしいことよ・・・。だが・・・押さえがいつまで効くかな・・・?」 翌朝。 まだどこかに酒が残っているような不快な気分で重い瞼を開けた王子の枕元にキャロルが居た。 「! 娘・・・?どうしたのだ、早起きだな」 「・・・もうとっくに朝です。あの、これ・・・水・・・」 王子はキャロルが差し出した杯を干した。冷たい水がひどく心地よくこの上ない甘露に感じられた。 「召使いはどうした?エジプト人の?」 「・・・お下がりなさいって言って追い返しました。だって私を見て・・・」 「また何か言ったのか?」 「・・・腹が立って。悲しかったし嫌だった。でもそれ以上に腹が立って・・・」 「ほう・・・?」 王子は感じていた。昨夜、癇癪を起こして荒々しい怒りを見せたキャロルは、どこか変わっていた。どこがというのではないが。 「腹が立って・・・何て失礼なのって。気が付いたら追い返していたの。だから・・・今朝はあなたの世話をする人がいないの。 ・・・ご、ごめんなさい。昨日の晩のことも・・・今朝のことも・・・」 王子はくすっと笑った。驚いたような戸惑ったようなキャロルの顔を見て笑いはやがて豪快なものに変わった。 16 そして王子は起きあがった。その途端、キャロルは驚きの吐息を漏らした。彼女が見たのは・・・。 「・・・ああ? この髪の色か?これは染めているのではない、生まれつきだ。驚いたか?そなたと同じような金属の色の髪・・・」 起きあがった拍子にあの銀の毛束が露わになったのだ。朝日を受けて金茶色に見える髪の中に一束、消え残った月のような色の髪。 「ふふ・・・。私もそなたの同族かな?」 自虐的な王子の口振りと、隠しきれない感情を含んだ声音がキャロルの心を打った。 「そんな言い方しないで。私は・・・私はきれいだと思ったのよ。本当よ。銀髪。日に透けて光っているわ。何故、隠していたの?今まで気づかなかったわ」 「そなたの金髪は何故、忌まれる?」 「あ・・・」 「ふん、私も異形ということになるのだろうな・・・。生まれつきのこの髪の色。人と違うというのは結構つまらぬ煩わしさを伴うものだ。私はだからそなたの気持ちも分かってやれるつもりだ。 だが私はそなたのように萎縮したり己を卑下して僻んだようなことは言わぬよ。皮一枚の姿形を恥じるのは詰まらぬことゆえな。 が、敢えて人前にこの髪を晒す気もない。下らぬことを言う輩は多いゆえな」 最後の方は声に深い憂いと、隠しようもない陰影が添うていた。 不意に王子の頬に白い手が当てられた。 「ごめんなさい・・・」 17 「何故、そなたが謝る?」 「ごめんなさい」 「何故?」 「あなたの気持ちを少しも分からなかった。あなたが私にかけてくれた言葉の意味を少しも考えずに、怒って拗ねてあなたを傷つけたわ。あなたに辛いことを話させてしまったわ。 だから・・・ごめんなさい。そして、あの・・・ありがとう」 言い終えた少女の顔は何とも言えない愛らしさに満ちていて。青年は思わず小柄な身体を抱き寄せた。自分でも何故、そのようなことをするのか分からずに。 「そなたは美しい。醜いなどとんでもないことだ。嘘ではない。そしてそなたは心根の優しい賢い娘だ。卑しい奴隷などでは断じてない。私は誰よりもそれを分かっている。そなたに相応しい扱いをして護ってやる。だから・・・強くなるのだな。自信を持つのだな。よいか?」 キャロルは花のように微笑んで王子の言葉に頷くのだった。 王子はキャロルの介添えで身支度を整え(さすがに入浴と着替えの時はキャロルが律儀に自分から席を外し、王子を苦笑させたのだが)、食事をした。 今日はこれといって行事や会談もないことゆえ、二人は部屋でお互いの身の上や興味のあることなどを飽かず話し合った。 王子はキャロルの話を聞いて驚きを禁じ得なかった。彼女の話は神々の世界か、はたまた魔法の世界の話を聞くようだった。 (アイシスが連れてきたというこの娘、奴隷どころか貴種の娘であるらしい。 ナイルを通ってこの世界に来たとは・・・?) 王子の脳裏にエジプトに来てからしょっちゅう耳にするナイルの女神の娘の伝説の歌が蘇った。 (黄金の髪を持つ白い娘。その瞳はナイルより青く・・・。まさかこの娘が伝説のナイルの女神の娘?) 18 だがイズミルがキャロルに寄せる感情にはどこか冥いものが含まれていた。 自らも異質な存在として、必死に背伸びをして生きてきた青年にはキャロルの屈託のなさや素直さに素直でない感情を抱いた。 それは自分にないものを持ち、しかもそれの持つ貴重さやまばゆさに気づかぬキャロルの無邪気さへの嫉妬でもあったろうか? 彼の人生は絶えざる緊張と欺瞞、策謀や孤独と共にあった。彼が素直で愛らしい子供であることを許されていたのはほんの短い間だった。イズミル王子はあまりにも早く大人になることを強要された一種の精神的な奇形であったかも知れない。 イズミル王子はキャロルを大切に思っていた。自分と同じ境遇のもの。自分の感情を理解してくれるかもしれない異質の容姿を持った少女。自分より他に縋るものとてない存在。 だが同時に王子は汚れなく無邪気なキャロルをひどく疎ましく思っていた。自分と同じように、無邪気に柔らかく小さな存在を汚してしまいたい・・・と強く思っていた。 愛しく思う心。冥い欲望。相容れない二つの感情はキャロルを見つめる青年の目に複雑な陰影を与えた。 キャロルは問う。 「王子?どうしたの?難しい顔をしているわ。気分でも悪いの?私、何かあなたを嫌な気持ちにさせたかしら?」 優しい思いやりと全幅の信頼。 王子はただ答える。 「何でもない。そなたは心配するな。そなたは何も心配せずにただ私の側にいればいい。そなたは私のものだ」 冷酷な青年は強く少女の手を握った。金貨で購った少女の手を。少女は困ったようにほほえみを返すだけだ。 19 キャロルは王子の居室の前庭でくつろいでいた。会談に出ていった王子が厳重に人払いを命じたので美しい庭には誰もいない。 キャロルはしかし憂い顔だった。今朝方、王子はエジプトでの滞在がじき終わることを仄めかした。 (あの人がいなくなる。当然だわ、あの人はヒッタイト人で、しかもあの国の世継ぎなんですものね。 あの人が帰国してしまうなら・・・・私はどうなるのかしら?寄る辺もないこの私は?あの人は私を守ってくれると言ったわ。大切にしてくれるわ。私もあの人を頼りにしている。いけないと思いながら頼りにしてしまっている。あの人がしてくれるままに。 あの人にとって私は何なのかしら?恋人ではないし、召使いでもない。ただ私はあの人に甘えて側に居るだけ。私は・・・) 確かに王子は繰り返し、彼女に優しい言葉をかけてくれた。 私はそなたが愛しいと。そなたを守ってやると。 私はそなたの顔立ちと心根が醜いどころか美しいことを知っているし、奴隷などでもないことも承知していると。 でもそれはいつも今現在のことしか語らぬ言葉だった。未来のことは? キャロルは思い悩むばかりだった。 その時。 「娘。久しいな。元気そうではないか」 声をかけてきたのはエジプトのファラオ メンフィスその人であった。 20 「あの・・・」 「怯えるな。宴の時以来だ。あの折りは済まなかったな」 メンフィスはさらりと詫びの言葉を口にした。それは気になって仕方ない変わった色合いの娘を安心させるためだけに口にした方便であったけれど、考え事に没頭していた世間知らずのキャロルにそこまで見抜けるはずもなかった。 「・・・まこと、そなたは変わったな。初めて見かけた折りは奴隷娘よと思ったが・・・今はどこかの令嬢か王女のようだ。 金髪の姫君よ、過日の無礼をお許しいただけるかな?」 メンフィスは馴れ馴れしくキャロルの手を取った。 「あ・・・離して下さい。もう過ぎたことはいいのです」 メンフィスはキャロルの話しぶりに密かに舌を巻いた。なるほどこれは並の育ちの娘ではなさそうだ。金髪青目の変わった色合いの娘については王宮内でも様々に噂されていた。 特に召使い達は姦しかった。彼らは本能的に侮り辛辣に苛められる相手を、そして高貴な相手を見抜く術に長けていた。その彼らがあるときから金髪の少女を侮り馬鹿にすることを止めた。キャロルに睨み付けられ、毅然と退室を命じられた召使いがそもそものきっかけだったのだ。 「鷹揚な姫君だ。そう言ってくれれば私も気が楽になる。ではお詫びの印に私の宮殿へご招待しよう。そなたとは一度話したいと思っていたのだ」 |