『 遠い約束 』

51
「ああ、そうか!お前はアラビア語もできるのだな!もっと他に書けるか?」
『少し。難しい』
キャロルはぎこちなく書いた。そしてしばらく迷った末に慣れた母国語で書いた。
「事故からどれくらい経ったかしら?家族に連絡をしていただけたでしょうか?私は家族に会いたい。きっと心配している」
「ああ・・・そのことか」
珍しく歯切れの悪いイズミル。
(そうか・・・。いつまでも囲っておけるはずもない。この家族思いの娘を。
身体を治してやって私のことを愛させるようにしようと考えていたが、今時そんな愚行が許されるはずもない、か)
「どうしたの?」
キャロルはもう一度書いた。頭の良さと神経質さが同居した右上がりの文字。
兄と似たような字を書くのだな、とイズミルは寂しく思った。
「そうだな、話してやらねばな・・・」
イズミルはキャロルに説明してやった。
事件の後、アラブ諸国の領空内で越権的な行動を取った戦闘機の所属する国―それはキャロルの祖国だ―との緊張が高まっていること。
事件で間接直接に被害を被ったアル・シャハルや近隣友邦の国民感情に考慮して、現在キャロルの祖国とは事故の処理関係のことを除いては事実上断絶状態であること。
他の生存者は治療の必要上などの理由から国外に出ており、キャロルだけが事故の関係者としてはアル・シャハル国内にいること・・・。
「・・・だが心配はしなくていい。お前の家族にはもうお前の無事を知らせてあるから。いつになるかは分からないがきっと再会できるようにしてやろう。
今の状況を考えてみればお前の存在をおおっぴらにするのは好ましくないのだ。可哀想だと思うが、私はお前を守るために全力を尽くそう」
・・・イズミルはキャロルに嘘をついた。キャロルが婚約発表のために帰国する途中だったと信じている彼は、彼女をライアンの許に帰したくなかった。

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「ああ、額の包帯が取れたのだな」
キャロルがシーク・イズミルの隠された賓客になってからどれくらいの日が経ったのか。キャロルは最高の治療を受けて少しずつ元気になっていく。

彼女付きと決められた召使い達はシークの乳母であるムーラを筆頭に皆、礼儀正しく至れり尽くせりで仕えてくれた。
親切ではあるけれど決してうち解けない召使い達は、イズミルから何事かを命じられているのだろう、キャロルの質問には一切答えてくれなかった。
「あなた様の処遇は全てシーク・イズミルがお決めになることです。あなた様はまずお身体を治されませ。それがシークのご希望です。
シークは国事でご多忙な方。あなた様の個人的な心配事でお心を患わせてはなりませぬよ」
しつこく家族との連絡は取れたのか、いつ帰れるだろうかと聞くキャロルにムーラはぴしりと言ったものだ。キャロルは賢明にもそれ以後は口を噤んだ。

「傷は綺麗に治っておいでですのに、キャロル様はご覧になろうとしないのです」
近寄ってきたイズミルにムーラは困ったように言った。
「だって何だか怖くて」
毎日のようにシーク・イズミルと顔を合わせ、互いに気心も知れてきたこととてキャロルにも、もうかつての堅苦しさや他人行儀さはない。イズミルが望んだ通り、親しみ慕ってきてくれる。
「何、そのようなことを申しては手当をした医師が残念がるぞ。それは綺麗に縫わせたというのに」
「でも何だか見るのが怖い」
キャロルは傷を受けた時のことを思い出して身震いした。とてもたくさんの血が出た・・。
「では私が一緒に見てやろう。ならば良いだろう?私が差し回した医師だ、腕は確かだ」
イズミルはムーラに手鏡を持ってこさせるとキャロルの包帯を有無を言わせず、取ってしまった。白い額にかすかに薔薇色をした線が浮かんでいる。
ぎざぎざに裂けていた皮膚はまっすぐに細かく縫われ、醜い凸凹もない。
「ふふ、良い出来だ。この傷はお前が私のところで間違いなく元気になっていって居るという嬉しい証拠だな」

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つられて微笑んだキャロルのうなじを、シーク・イズミルはそっと撫でた。
「赤い跡も消えたか・・・」
不吉な赤い首の線。それは彼を苦しめる悪夢を思い出させる。
「ガーネットの首飾りもなくなってしまったな」
義兄でキャロルの婚約者でもあるライアンが、彼女に贈った見事なガーネットの首飾り。白いうなじを彩る血のような紅。
(怪我をして運び込まれてきたあの日、首の赤い線が不吉で恐ろしかった。
夢の中でのようにまた私はキャロルを失うのではないかと。また取り返しのつかない失敗をしでかすのではないかと)
「助かったのですもの、首飾りは仕方ないわ。・・・後は歩けるようになれば!毎日、リハビリをしているのよ」
キャロルは砂を詰めた袋を見せた。これを臑にのせて負荷として、足を上下に動かして筋肉が衰えないようにするのだ。
キャロルは心配そうに眉根を寄せて自分を見るイズミルを安心させるように微笑んで見せた。
自分でも不思議だった。
外国人であるキャロルを半ば閉じ込めるように鎖国状態の王国の中に置いている男であり、優しいながらも決して肝心のこと―キャロルはいつ帰国できるのか、家族はどうしているのか―は教えてくれないどこか得体の知れない男であるシーク。
だがその危険な男の腕をキャロルは拒否できない。恐れながら戸惑いながらキャロルはシーク・イズミルに微笑みかける。彼の好意を得たいと。彼を喜ばせたいと。
キャロルは初めて自分から人を好きになった。それは彼女が初めて知った恋だった。

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その時、キャロルの主治医が部屋に入ってきた。謹厳実直を絵に描いたような老人はシークの在室に驚いたようだった。何しろシークは政務中の時間なので。
「私に構わずにいたせ。額の傷は綺麗に縫えているな」
「恐れ入ります、シーク・イズミル。ではおみ足を拝診いたします。そろそろ歩く練習を始められた方がよろしいでしょう」
医師はこの国の事実上の支配者が大切に傅き隠す患者に恭しく近づいた。ムーラが心得顔にキャロルの足許に控える。
「あのっ・・・!」
いつものようにムーラがキャロルの着せられている裾長の衣装を捲って脚を露わにしようとしたとき、キャロルは我慢しきれずに叫んだ。
「あの・・・っ、シークがまだおいでです。恥ずかしいの。お願い、シーク。もう向こうに行って下さい。お見舞いに来て下さってありがとう・・・!」
ムーラも医師も心底驚いた顔をして、この無礼な異国の客人の顔を眺めた。
ルネサンス頃の宗教画に出てくる天使のような中性っぽい美しさを持つ顔は真っ赤に染まり、無礼な言葉を紡ぐ唇はふるふると震えている。
治療の時、キャロルの両足は膝頭まで露わになる。普通なら気にもならないが、アラブ風の慎ましい長い衣装を着ていれば、それはかなり恥ずかしい。
ましてや自分の露わな足をシーク・イズミルに見られるとあっては!
ムーラは腹を立てながらも、すばやくキャロルの気持ちを見抜いた。ムーラも典型的なアラブ婦人として欧米人には偏見を持っていたのだけれど、キャロルの初な恥じらいは非常に好ましかった。
「シーク、殿方は席をお外しあそばして。治療の時は肌を露出いたしますから若い方は恥ずかしく思われるのでしょう。キャロルお嬢様も落ち着いてそのようにおっしゃいませ。先ほどのようにシークを追い出すようなご無礼はなりませぬ」

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ところがシークは乳母の言葉をあっさりと蹴った。
「何を恥ずかしがることがある?私が大切に治して元気にしてやりたいと思っているお前の治療に立ち会うだけなのに。医師、私もこの娘の怪我の様子を改めたい。早く進めよ」
医師は困ったようにムーラを見た。この国では女性の肌の露出については厳しいタブーがある。未婚の女性の肌―たとえそれが脚であろうとも―を独身のシークが見るというのは・・・。
「何も恥ずかしがることはない。別にお前を取って食おうというわけではない。私はただお前が心配なのだ。さぁ、小さな子のように我が儘を言うな」
キャロルは真っ赤になってシークに自分の脚を見せることに同意した。シークには誰も逆らえないのだ。
骨折した足首はすっかり細く蒼白なまでに白くなっていた。痛ましさに顔をゆがめるイズミル。
骨は順調に付きつつあるが歩けるまでにはまだ間があるだろうと医師は言った。
「そろそろ松葉杖か何かで歩く練習をお始めになられてはいかがかと。寝たままでは心にも体にも障りがありましょう」
キャロルは熱心に医師の言葉に従うことを約束した。真綿に包まれるように傅かれる鳥かごの毎日にうんざりしていたところだったのだ。
だがキャロルの嬉しそうな顔を見て自然、イズミルの頬も緩んだ。
「そうだな、歩く稽古をするときは私も一緒にいてやろう。くれぐれも勝手に動き回ったりはしないように。
さぁ、夕方にまた来るからそれまで良い子で待っておいで」

「シーク、あの・・・。あのお連れになったキャロルお嬢様はこれからどのようになさるおつもりですか?」
いつもより少し遅れて執務室に向かうイズミルに、言いにくそうにムーラが問うた。
「おいでになってからずいぶんと経ちました。お怪我も治ってきておいでです。お心映えのよい方でお世話の甲斐もあります。ですがいつまでもこのままというのは・・・」
ムーラの心は大きく波立っていた。当然のようにキャロルの治療に立ち会い、この国ではタブー視される真似までして、縁もゆかりもない未婚の女性の肌も改めた。

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「やれやれ、ムーラには敵わないことだ」
イズミルは苦笑した。
「ルカにも同じことを言われた。父上に隠すにしても限度があると。そうだな・・・。言っておこうか。
事故という思いもかけない形で手許に来させてしまったが、私はキャロル・リードを娶るつもりでいる。だがこのことはまだ誰にも漏らしてはならんぞ」
驚きのあまり声も出ない忠義者の乳母にイズミルは言った。
「キャロル・リードは我が国の経済界はもとより世界経済にも大きな影響力を持つリード・コンツェルンの一人娘だ。まぁ、出自身分に私はこだわりはないが名家の出というやつだ。
エジプトで彼女に出会い、妻にと考えた。滅多に人を褒めないムーラが心映えを褒めた通りなかなかの器量の娘だよ。
異教徒であり、異人種であり、この国の保守派は大反対だろうな。だが彼女はその大反対を押し切ってでも手に入れる価値のある宝石だ。きっと彼女は我が国の宝石となるだろう」
「まぁ・・・!」
ムーラは育て子の饒舌に呆れた。要するに目の前にいる大柄な青年は異国の小さな子供のような娘に一目惚れしたと言うことか!
ムーラは少し目眩すら覚えて廊下のくぼみに設えられたベンチにへなへなと腰を下ろした。イズミルは長身を屈めて乳母の顔を窺った。小さい子供の頃のように。
「あのお嬢様は・・・シークのお気持ちをご存じなのですか?」
「知っていると思うか?」
イズミルは面白そうに苦笑した。ムーラはぶるぶると首を横に振った。
先ほど、子供っぽく強い調子でシークに向こうに行けと言った少女の口調。あれは相愛の相手やまして婚約者に対するものの言い方ではなかった。
「あれは大切に育てられた温室の薔薇だ。まだ自分の心というものさえ掴みきっていない幼さだな。だが私がきちんと丹精して妻に相応しい女性にしてやろう。
・・・ムーラ、笑わないで聞いて欲しい。あれは私がずっと捜していた相手なのだよ」
「え・・・?」
「・・・私を悪夢から解き放ってくれる相手だ」

ムーラは、はっとして真摯な光を宿したイズミルの瞳を見上げた。前世からの定めを負って生まれてきたイズミル。それが何なのかは彼女もはっきりとは知らない。
だがイズミルは一時の気まぐれのために軽々しく前世の定め―あの悪夢―を口に出すような人間ではない。
「・・・お聞かせいただいたからにはこのムーラも、あなた様と心合わせましょう」
ムーラは恭しく言った。

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「シーク。あの外国のお客人はいつまでご滞在なのですか?アメリカ大使館からの問い合わせがひっきりなしです。サウジ大使館など第三国経由での問い合わせまであるのですよ。どうなさるのです?リード・コンツェルンのプロジェクトの起工もじきです。この時期に詰まらないスキャンダルでシークのご令名に傷をつけるのは得策ではありません」
執務室に戻ったシーク・イズミルは、秘書官ルカの刺々しい物言いに迎えられた。シークが言い返すいとまも与えず大胆に秘書官は言い募る。
「お父君も薄々何事かを気付いておられるのはもう申し上げたとおり。いくら箝口令を敷いても奥向きのことをいつまでも表に隠しおおせるものでなし。ご命令下されば今日の夕方にでもチャーター機を仕立てて、あのご令嬢を国外にお出しできます」
「ルカ、お前はずいぶんと饒舌になったな」
シークの穏やかな一言にルカは心底震え上がった。
「あ・・・僭越でした。言葉が過ぎたことはお詫びいたします。しかしお叱り覚悟で申し上げますなら事態は・・・」
「構わないよ、お前が私を煩わせぬように色々と尽力していてくれることは重々承知している。まぁ、あのハイジャック事件から2ヶ月以上経っていることを考えればよく持ったということかな」
「は?」
イズミルは資料の束を繰った。ルカやムーラに言われるまでもない。行方不明のキャロル・リードの安否を確かめるべく膨大な問い合わせが来ている。
(そろそろキャロルの存在を公式のものとしなくてはな・・・)
イズミルはこの国でも進歩派、改革派と目されている重要人物達にそれとない根回しをしてきていた。もっとも根回しを受けた相手もまさかシークが外国人の妃を迎えるつもりだとは思っても居ないだろう。
「シーク。お叱りを受けたついでに申し上げます。ライアン・リードが自国の政府に圧力をかけています。アメリカ政府は今度ばかりは経済界の帝王の言うことを唯々諾々と受け入れる気配はないようですが」
「当たり前だ。石油産出国としても、投資先としても我が国ほど魅力ある国はそうそうあるまい」
(ライアンが捜しているのは許嫁としてのキャロルだ。キャロルはじきに兄への思慕と私への愛の違いに気付くだろう。それまでは・・・)

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「良い子にしていたか?お前を喜ばせる土産があるぞ」
夕方、約束通りキャロルの部屋を訪れたイズミルはキャロルに松葉杖を見せてやった。使う人の小柄な体つきに合わせて作られたそれは軽くて安定性が高い。急いで職人に作らせたものだ。
「わぁ、嬉しい!」
キャロルは、はらはらするムーラを尻目に杖を使って早速部屋中を歩き回った。まだ慣れないこととて危なっかしい足取りをそっとイズミルが支えてやる。
「練習すればもっと上手に歩けるようになるわ。歩けるようになれば・・・」
キャロルは少し言葉を切った。目が潤んで白い喉が神経質に震える。
「どうした?」
「あ・・・早く帰りたいなって思っただけ。まだ・・・私は帰れませんか?」
ムーラがキャロルの無礼な言いぐさを咎めるより早く王子が言った。
「国同士のやりとりは複雑なのだよ。今までお前は何も言わなかったな。ずっとずっと帰りたいというのを我慢していたのか?」
こくんと頷くキャロル。声を出せば泣き出してしまいそうだ。
「・・・ムーラ、しばらく下がっていよ。私とこの子だけにしてくれ」

二人きりになるとイズミルはキャロルを抱き上げ、ソファに座った。
「可哀想なことをしたな。私はお前がいつも明るい顔を向けてくれるからそれが嬉しくてついお前の不安を思いやってやるのを忘れていた」
その言葉にキャロルは堰を切ったように泣きだした。
「ご、ごめんなさい。ムーラに我が儘を言ってはいけないって言われていたのに。怖くて不安で・・・ひとりぼっちは嫌。嫌なの。ママ達に会いたいの」
イズミルは大きく波打つ背中をそっと撫でてやった。キャロルもやがて落ち着いてくる。

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「お前は一人ではないぞ」
イズミルは自分の胸に顔を埋めたままでいるキャロルに語りかけた。泣き疲れたのか少女はもう半ば眠り込んでいるようだ。
「お前には私がいる。私のいるところがお前のいるべき場所だ。・・・いつか言ったことを忘れてしまったか?私は一人の男として、イズミル・ハールーン・スレイマンとしてお前を妻にと求める」
低い声は眠りの淵に沈んでいくキャロルの耳にも届いた。心震わせるその言葉。
(シーク?何てことを?私のことをからかっているの?私は・・・)
キャロルは困ったように、嫌々の仕草をした。もう眠くて身体が動かない。薬のせいなのだろう。
「私・・・は・・・ライアン兄さんのお嫁・・・さん・・・」
シーク・イズミルの大きな暖かい手が駄々っ子を慰めるようにキャロルを愛撫する。
「ライアン兄さんのお嫁さん、か。困ったことだ。私の妻になろうかという身がいつまでも子供の繰り言を。言い聞かせたではないか、‘好き’ということと‘愛している’ということは違うのだと。恋に恋する子供よ、早く目覚めて人を、私を愛するようになってほしいものだな」
もう声も出ないキャロルを軽々と抱き上げるとイズミルは、寝台にそっと小柄な身体を横たえた。そして無粋な覚醒が彼女を捕らえることがないように、優しく額を撫でて眠りをさらに深くしてやる。幼い寝顔をしばらく眺めていたシークは少し迷うと・・・キャロルの傍らにその体を横たえたのだった。

60
イズミル王子は燃えさかる火の中から最愛の人を助け上げた。
黄金の髪と片頬を焦がしただけの‘彼女’は驚いたように碧い瞳を見開き、薔薇の唇はまだ何かを言いたげに痙攣していた・・・。
変わり果てたその姿。暖かな血潮がイズミルの手を濡らす。
―私の大事な人たちを殺さないで!取らないで!―
そう叫んで、最後の最後の瞬間に王子が待ち望んだ言葉を口にして、最愛の女性は逝ってしまった。
騙してまで手許に引き寄せた女性が。不幸になると分かっているのに、互いに苦しむだけだと分かり切っていたのにそれでも妻にと望んだ女性が。
(私は愛する者を不幸にする為だけにしか生きられぬ定めなのか・・・!)
王子は絶叫はメンフィスの咆吼と混じり合って空気を震わせた。
だが・・・狂気に堕ちることすら彼らには許されない。戦の熱気が彼らを灼く。
―許してくれ、許してくれ、許してくれ、いや、私を罵って殺してしまってくれ!・・・私には死に神すら慈悲をかけてはくれぬのかっ・・・・
愛していたのに、愛しているのに。神よ、償わせて下さい、私が犯した罪を―


キャロルは長い長い黄泉の道を泣きながら辿っていた。
最後に見たのは炎。覚えているのは自分を愛してくれた二人の男性の恐怖と絶望と悲しみに歪んだ顔。
―私、言えなかった。あの人に。イズミル王子に。愛していますって言えなかった。メンフィスにごめんなさいって言えなかった。
王子、ごめんなさい。ごめんなさい。いつかはあなたに謝れるって思っていたの。そのうちに愛していますって言葉を返せると思っていたの。
でももうダメ。
神様、私は罰として永劫に冥い道を歩いていかなければいけないのでしょうか?神様、私に償いをさせて下さい。傲慢にもあの人の、イズミル王子の心をはかるようにしか振る舞えなかった私に―


夜の闇が一番深くなる時間。イズミルの苦痛のうめき声が、キャロルの哀しい夢を破った。キャロルは何もかも忘れてシークを揺り動かした。

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