『 遠い約束 』 111 「まぁ、シェイハ!お帰りあそばしませ!」 シーク・イズミルに伴われて帰国してきたキャロルをムーラをはじめ王宮の召使達は暖かく出迎えてくれた。 事前にシークから何らかの説明があったのかもしれない。アル・シャハルの人々はシークの「婚約者」として帰国し、当分その身分のままで過ごすキャロルをそれは大切に気遣ってくれた。 本当ならシークの婚約者は帰国後、すぐに盛大な結婚式を挙げてもおかしくはないのだから。 キャロルがムーラに案内されたのはいかにも女性好みの繊細な細工を随所に施した美しい建物だった。 「今日よりはこちらでお過ごしになられますように、シェイハ」 「わぁ・・・なんて綺麗。こんな見事な宮殿を私一人が使うの・・・?」 シェイハとなる娘の子供っぽい言葉に微笑む侍女たちを制して、ムーラは説明してやった。 「こちらはもともとハーレムの建物でございました。シーク・イズミルはお独りでございましたから長くこちらの建物も使われておりませんでしたが。 シェイハはシーク・イズミルという高貴の方にお仕えするただ一人の御方となられるのですから当然、こちらでお過ごしいただかなくては」 心細そうなキャロルにムーラは続けていった。 「そのようなお顔をなさいますな。ご結婚前の方がいくら未来の婿君とはいえ 、殿方と同じ建物でお過ごしになることなど出来ませんものを。 さぁさぁ、これからはお寂しくお思いになる暇などありませぬよ。私達のシェイハとなられる方はたくさんお勉強をなさらなくてはね」 とはいえ、シークは毎日のようにキャロルの許を訪ねてきたし、ごくたまに本当にごくたまにムーラが‘うっかりと’席をはずした折りはキャロルを味わうことにも積極的だった。 112 ライアン・リードがアル・シャハルを訪ねてきたのは、リード・コンツェルンの巨大なビルがその威容を見せようかという時だった。 ライアン・リードから謙った謁見の願いを受けたときは、シーク・イズミルの執務室はちょっとした騒ぎになった。 執務室のスタッフや政府の大臣達は何故、妹がシーク・イズミルの妃になるというのにライアン・リードが顔を見せないのか訝しく思っていたからだ。 理由はライアンの多忙、リード夫人の体調不良のせいであり、顔を合わせなくてもシェイハは電話で家族と毎日のように話をしていると説明されてはいた。 それでも家族の結びつきの強いアル・シャハルの人々はお妃教育に余念のないシェイハの淡白さを不思議に思い、またいささか長いシークとシェイハの婚約時代を怪訝に思った。 「とうとうライアン・リードが来たか・・・」 シークは人払いした応接間の窓から外を眺めながら呟いた。 (キャロルをさらうように連れてきてからもう8ヶ月近くになる。 キャロルを愛するがあまり力尽くで我が物にしようとした許しがたい男。 キャロルを愛するがあまり罪を犯してまで手元に留めようとした男。 強すぎる愛ゆえに全てを失った男。 ・・・・・かつての私と同じように・・・。憎く許しがたい男。だが・・・憎みきれない男) その時、ドアがノックされシークの物思いは遮られた。 「シーク・イズミル。ミスター・ライアン・リードをお連れいたしました」 そして一人の長身の男がシークの前に現れた。ライアン・リードである。 黒い髪、黒い瞳の若者は眉目秀麗で相変わらず堂々とした自信溢れる人物であった。 だがシークが覚えているよりもその顔は少しやつれ、隠し切れない憔悴と苦しみで険しさを増しているように思えた。 無言のまま、恭しく礼をしたライアンにシークは声をかけた。 「お待ちしていた、ミスター・リード。お会いしたいものだとずっと思っていた」 「恐れ入ります、殿下。私に謁見のお許しを賜ったことを感謝いたします」 そして二人の若者は─同じ少女を愛した因縁浅からぬ二人は─見詰め合った。 113 「リード・コンツェルンの社屋ビルの完成も間もなくだな・・・」 シーク・イズミルはわざと試すように言った。執務室の窓からは巨大なガラス張りのビルの一部が見える。まるで燦然と輝く光の塔のようだった。 光の塔はアメリカという異教異国の祖国から嫁いでくる少女の身の上を弥が上にも豪華に彩るだろう。 「様々な便宜を図っていただいたことにはお礼の言葉もありません。我が国にも、わが社にも・・・・・・・そして私の家族にも・・・」 イズミルは相手の深い声音にはっとした。ライアンに再会した今日までの間にその胸中に去来した様々な物思いが一時に蘇る。 ─私の最愛の妻を辱めんとした憎い男。我が物と思い定めた娘を横取りしようとした男。 ─あれほど溌剌とした自由で強い心を持った娘を、わざとのように無知無邪気なままに己の腕の中に囲い込んで、妹から妻にしようとした男。 ─私はライアン・リードが憎い。キャロルを泣かせ、私にこのような思いをさせた男が憎い。 ─だが・・・・あの男は間違いなくキャロルを愛している。キャロルもまた・・・ライアンを愛している。私に対するのとは違う愛しかたで。二人は家族なのだから。 ─私はかつて人の妻を騙して娶り、死なせた。ライアンもまたかつての私と同じように苦しみ、血の涙を流したに違いない。己の罪に戦いて。愛するほどに相手を不幸にするもどかしさに。 ─私は・・・・私にライアンを憎み、裁く権利があるか?私はライアンを打ち倒してキャロルを得た。キャロルはライアンに会いたがっている。 ・・・・・・私のとるべき道は・・・・・・? 「ずいぶん長く連絡がなかった。私から君に連絡するのはどうかと思ったし・・・」 ここでイズミルはずいとライアンに近づき、その黒曜石の瞳を直視した。ライアンもまた琥珀の瞳を見つめ返す。それはきっと罪を贖う覚悟を決めた人間に宿る強さであったのだろう。 「・・・・私の婚約者・・・シェイハ・キャロルも私に遠慮してか、母君にすら連絡をするのを極力控えていたほどだ」 「・・・・・私がキャロルに・・・‘血のつながりのある’妹に疎まれるのは当然だ」 114 シークは驚いた。 「‘血のつながりのある’妹、と言われたか?」 ライアンはシークの前に頭を垂れた。 「キャロルは大切な家族です。その大切な妹があなたの妻になる。私を憎く思われるだろうが、キャロルのことは大切にしてやって欲しいのです。 私が今日、殿下の許に伺ったのは・・・謝罪と・・・そして私以外の家族を憎まないでやっていただきたいとお願いするためでした」 「謝罪・・・・・」 「私がキャロルに為したことを。許してもらえるとは思ってはいません。 しかし私の大切な妹が、今、あなたの所に嫁ぎ新たな幸せを得ようとしている。謝罪の言葉をせめて・・・私のキャロルへ伝えていただきたいのです」 ライアンは驚いたように自分を見るイズミルにわずかに勝利感を覚えた。きっとこの傲慢なシークは自分が未練がましい男だと思っていたに違いない。 「どうか・・・せめて謝罪の言葉を口にすることを許していただきたい。 キャロルにもあなたにも心からお詫びを申し上げます。お二方の幸せを心より祈っています」 そう言ってライアンはシーク・イズミルの前にひざまづいた。 「どうか・・・・罪は私一人のものです。どうか私以外の者を憎まないでやっください、シーク・イズミル」 そして。 シークが驚きと不思議な感動に胸打たれ無言で立ち尽くすままなのに、ライアンは立ちあがり一礼し言った。 「ご拝謁の栄を賜り厚く御礼申し上げます。ではこれで・・・」 (この男はキャロルに・・・・自分があれほど愛したキャロルに会わずに行くというのか?キャロルがあれほど会いたがっているのも知ってか知らずか) 今更のようにライアンの覚悟と潔さがイズミルの心に染みた。 (そうだ・・・!この男は・・・。この八ヶ月間、何の社交生活の噂を聞かなかった。身を慎んでいたというわけか? 我が国へのアメリカの態度が寛大で気前が良いのも・・・アル・シャハル現地法人の首脳陣にはライアンはいなくて代わりにロディ・リードが就くというのも・・・現地採用のスタッフ人数が桁違いなのも、全てはこの男の・・・!) 115 シーク・イズミルは今更のようにライアンの心のうちを悟った。 (ライアンもまた贖罪の日々を送っていたのだ!私がキャロルを独り占めにして勝利の美酒に酔っていたときも!) 「待たれよ、ミスター・リード!」 シークは呼び止めた。 (前世で私はメンフィスからキャロルを奪った。今生でもまた私は同じことをした。ライアンは喪失の痛みに血の涙を流しながらもキャロルと・・・キャロルが嫁ぐ我が国のために様々に腐心してくれた。 キャロルが肩身の狭い思いをせぬように・・・と。それなのに私はライアンに復讐することだけを考えていた!) 「待たれよ。帰られるのならばしばし待たれるように。 ・・・・・・・私のシェイハが・・・・君の妹のキャロルが・・・・会いたがっている。私としても会ってやって欲しい。・・・・ご案内しよう」 ライアンは─かつてはメンフィスと呼ばれ、でも今はそんなことは少しも覚えていない若者は─驚いたようにシーク・イズミルを見つめるばかりだった。 「今更・・・情けなど。私を・・・愚弄されるか・・・?」 抑えきれない激しい気性。だが溢れ出すキャロルへの想い。 「キャロルはずっとあなたに会いたがっていた。私と結ばれる前にあなたに詫びたいのだそうだ。会ってやって欲しい」 「兄さん・・・・っ!」 思いもかけない客人を自室に迎えたキャロルは驚きと嬉しさで言葉が出なかった。シーク・イズミルはさりげなく侍女たちに退室を促すとソファにゆったりともたれかかって兄妹の再会を見守った。 最初の驚きが過ぎるとキャロルは固まったように立ち尽くしていた兄に抱きついた。 「兄さん、兄さん!会いたかったの。ずっとずっと。言いたかったの、許してくださいって。シーク・イズミルを愛してしまったことを許してくださいって。兄さん、私、兄さんに許して欲しいの。結婚を祝って欲しいの・・・」 自分がひどい目に遭わせた相手からこんなことを言われては氷のライアンも形無しだった。 ライアンは妹をそっと胸の中から離すと、心から詫びた。その黒曜石の瞳には光るものがあった。 「キャロル。お前の心を無視してお前を傷つけた僕を許して欲しい。いや、許すなどとは言ってもらえないことはよく分かっている。ただ・・・許しを請わせてほしいんだ」 罪人に与えられたのは暖かい涙と優しい頬への接吻だった。キャロルがライアンから受けた傷などとうにシークが癒してしまっている・・・。 感動の再会劇が一段落するとシークは立ちあがってキャロルを腕の中に抱いた。 「さぁ、キャロル。これでライアン殿との確執も消えたと考えていいのかな? ライアン殿、改めて言おう。私はあなたの妹君を妻に迎える。結婚式には・・・是非、あなたも出席していただきたい。 あなたは私の兄弟であり、私の国に大きな富をもたらす人間だ」 116 「今日はライアン・リードがやって来たそうだな?」 「はい、父上。キャロルにも・・・会わせてやる事が出来ました」 夜。父シーク・ラバルナの部屋を訪れたイズミルは穏やかな雰囲気に包まれていて父親をおおいに驚かせ、また安心させた。 「そうか・・・。お前がシェイハを連れ帰ってきてからもうどれくらいになるかな?皆が何があったのかとずいぶん心配していた。 異国の娘を婚儀も挙げないままハーレムの建物に囲い込んで、一体どうしたのだと大臣達や召使達が入れ替わり立ち代り私に事情を聞きに来るのだよ。・・・忠実な息子は父親に秘密を持たないものと思われているらしいな」 皮肉な言葉とは裏腹にシーク・ラバルナの目には何か面白がっているような不謹慎な、あるいはいたずらっぽい光が宿っていた。 「恐れ入ります、父上・・・」 シーク・イズミルは畏まって答えた。 「・・・話してくれないか?お前が話して良いと思う範囲の事柄で良い。お前と・・・お前が私に与えてくれた金髪の新しい娘の間にあったことを」 この人にしてはたいそう珍しいことに言葉を選びあぐねて黙っているイズミルに、シーク・ラバルナは穏やかに問うた。 「たとえばそれは・・・私達のキャロルが義兄のライアン・リードと婚約するものと一部の人間の間では考えられていたことと関係があるのかな?」 「・・・・・・・ご明察です、父上・・・・」 シーク・イズミルはごくごく簡単にキャロルを予定よりはるかに早く手元に置くことになった事情を説明した。無論、ライアンの邪恋のことなど口に出来ない。 イズミルの口から出たのは、恋に溺れた自分が一時も恋した相手を離しておきたくなくて連れかえってきたという陳腐すぎるほどの話であった。誇り高い若者は生まれて初めて他者のために自分が道化になって見せたのである。 「・・・・・お前がそう言うのならばその通りなのだろうよ」 息子の不器用な作り話に、父は優しく感想を述べた。病の床にあるとはいえ、この英明な老人の炯眼は決してごまかされはしないのだ。 117 「お前の話を聞いて少し安心した」 「は・・・」 シーク・イズミルはさすがに頬を染めながら頷いた。 「それで・・・シェイハ・キャロルはもうこれからは好きに家族と連絡を取ったり会えたりもするのだろう?花嫁の支度にはやはり母親の手助けが欠かせないものだ。それに双方の親族同士の絆も強めなばな。 お前がムーラに言ってあれこれシェイハのための準備を進めているのは知っているが、やはり男の子しか育てたことのないムーラには限界があるだろう。 そうそうシェイハの祖国の大統領も・・・共和制の国の長らしく王家との結婚ということでたいそう舞い上がっているらしいな?」 大統領と議会の喜び方のすさまじさはつとに有名であったので、シーク・イズミルもはじめて笑みを漏らした。 ややあって。 シーク・ラバルナは積み重ねた枕に凭せ掛けていた体を起こし、息子に問うた。 「イズミル。お前は花嫁となる娘を連れてきてハレムに住まわせてもう半年以上になる。私は男がこれと思い定めた娘に何をしたがるものかはよく知っている。 ・・・・シェイハ・キャロルは婚儀のときにまっすぐに顔をあげ、誇らかに神に誓いの立てられる身か?お前はあの良い娘を真実大切に守っているか?」 (来たか・・・) シーク・イズミルは思った。誰もが遠慮してか、それとも下品に想像を巡らせて楽しんでいるのか、ハーレムの奥深くに守られた少女の純潔について聞いてくる無礼者はいなかった。 「父上、私はシェイハとして私に並び立つ娘に敬意をもって接しています。 私は彼女をあらゆるものから守ると誓っております。婚儀を終えるその時まで彼女は私の最愛の妹として扱われるでしょう」 「よく言った!」 ぱん、とシーク・ラバルナが手を打った。 「お前は実(じつ)のある男だな。そして・・・キャロル嬢をお前の手に委ねて去っていったライアン・リードも・・・実のある男だ。 ・・・・大切にしてやるがいい、お前が選んで得た娘を」 118 美しく豪華に装われたキャロルは目の前で繰り広げられる極彩色の宴を、まるで夢のようだと思いながら眺めていた。 ムスリムの結婚式というのはシンプルだ。今朝、キャロルの許に花婿シーク・イズミルの代理人としてカリム大臣─彼は今やすっかりキャロル贔屓だ─がやってきて、シーク・イズミルとの結婚の意志に変わりはないかと聞いた。 花嫁であるキャロルが諾の返事をすると証人は帰っていってしまった。 そしてしばらくしてからまた帰ってくる。花婿は花嫁の承認を嬉しく受け取った、これで二人は夫婦であるとの言葉を携えて。 それから花婿花嫁は聖職者の祝福を受け、二人がめでたく夫婦となったことを公表した。アル・シャハル国内では祝砲と爆竹の音が鳴り響き、遠いアメリカでも馬鹿騒ぎが繰り広げられたのである。 それがすめば男女に分かれての披露宴である。 (シークはどうしているかしら・・・?) キャロルはにこやかに招待客たちが踊る伝統的なダンスを眺めながら考えた。 美しい結婚衣装、豪華な装身具、きらびやかな宮殿。それは皆、昔夢見たものだけれど立て続けの儀式に疲れた今はただシークが恋しかった。 年よりも幼く見える花嫁の疲労にシークの親族である女性達も気づくのだろう。皆、親切に気遣っては綺麗なお菓子や飲み物を持ってきてくれる。 キャロルは自分をそっと支えてくれる母親に甘えて凭れかかりながら、極彩色の覚めない夢を見つづけているような心地だった。 (キャロルはどうしているかな・・・?) ムスリムの宴会は男女別で、男性の宴会というのは正装した男たちが簡単な食事を立食で取るそっけないものだ。 女性達の豪華な乱痴気騒ぎとは無縁の礼儀正しい世界。 シーク・イズミルは各国の要人と洗練された会話を交わしながらもただ花嫁が恋しかった。晴れて自分のものにできる乙女が。 「シーク・イズミル。お疲れなのではありませんか?」 ライアンがあるかないかの皮肉な笑みを浮かべて話しかけた。 「なんの」 イズミルは答えた。 「花嫁を新床に連れていくのが待ち遠しいだけでね・・・」 ライアンのひきつった笑みを見て、シークは意地の悪い満足感を覚えた。 119 花嫁花婿がようやく宴席をさがることが出来たのはもう夜明けのほうが近いという時間帯だった。 アメリカの年若い花嫁が、長い間独身だった砂漠の国の若い王子と結婚するというのだから世間の興奮振りも尋常ではない。 マスコミを会場から追い払い、両人の親族同士でしみじみと、あるいは親しく話をして、新婚の二人に繰り返し祝辞と忠告、それに昔から延々と引き継がれているきわどい冗談が言いかけられ・・・。 キャロルが新しく父となったシーク・ラバルナに挨拶をして、ムーラに伴われて私室に戻ってきたのは明け方の四時過ぎだった。 「お疲れでございましょうねぇ。おめでたいお席とはいえ、シェイハは少々辛く思し召したのではございませんか?さ、お湯をお召しあそばせ!」 ムーラにやっとの思いで微笑み返すとキャロルは浴槽の中で悠々と身体を伸ばした。 (私・・・とうとうシークのものになるのね・・・) そう思うとひとりでに身体が火照り、頬が熱くなった。本当に結婚するというのはどういうことかくらい知っている。シーク・イズミルにきわどく触れられるたびにキャロルは打ち震えときめいた。 (シークの妻に・・・。今度こそあの人を幸せにするために。もう二度と悪い夢なんて見せないわ、シーク・イズミル・・・) 前世の記憶などという儚いものに引かれて、とうとうキャロルは捜し求めていた相手を得た。迷ったこともあった。恐ろしいとも思った。 (でも、もう迷わない。たとえ前世のいきさつなんてことがなかったとしても私はあの人を愛したわ・・・) 「キャロル様?そろそろお上がりなさいませ。シークがお待ちでございますよ。お支度をなさらなくては」 キャロルは、はっと我に返った。そのまま恥ずかしさのあまり動けなくなった彼女をムーラが手際よく浴槽から引き上げた。 「恥ずかしがりもいい加減にあそばしませ。シークがお待ちかねですわ。さぁさぁ、こちらをお召しになって・・・」 120 用意されていたのは膝丈のガウン、それにゆったりしたパンツだった。どう見てもこれから起こるであろうことに際して着る服ではない。ウエストは絹の帯で結ばれた。 どちらかといえば昼間に着るような動きやすそうな服・・・。 戸惑いながらキャロルは用意されたその薄紅色の衣装を着け、あまつさえ髪の毛が乱れぬようにとベールでしっかりと髪の毛を包み込まれてしまった。 「ああ、やっと用意ができたか。こちらへおいで。お茶を飲んだら出発だ」 居間で待っていたシークはキャロルを見て上機嫌でお茶を勧めた。 その様子は何かを企んでいるいたずらっ子といった風情で、キャロルを惑乱させる、艶めいた強引さを感じさせるものなど微塵もない。 キャロルは勧められるままにお茶を飲み干した。金色がかった緑色のお茶は甘くて、薄荷と花の香りがして疲れた身体を心地よく癒していった。不思議なことに眠気も消えていく。 「シーク・イズミル・・・。どこに行くの?」 「いい所だ」 シークはキャロルの腕を引いて大型のランドローバーに乗り込んだ。車は砂煙を立てて砂漠の中を走り抜けていく。 バックミラー越しに見える砂煙はお付の車だろうかとキャロルが考えているとシークがそっと頬に接吻した。 「結婚したご感想は?少しも私のほうを見てくれないな?私達は本当に結婚したのだろうか?」 「あ・・・いやだ、からかわないでください、シーク。それよりもね・・・あの・・・私達どこに行くの?いい所ってどこ?もうずいぶん走ったわよね? それにあまり遠出しては・・・これからまた色々と儀式や行事があるって教わったわ・・・」 「やれやれ、うるさい子供だ!色々な儀式や行事のことなど心配しなくていい!私が諾と言わねば始まらないのだ、全ては!」 キャロルは夫となったばかりの人の不機嫌を察して素早く腕に身を摺り寄せた。 「あ・・・あのね・・・怒らないで。あの・・・好き・・・」 いかにも子供っぽく自分の機嫌をとろうとするキャロルにイズミルは苦笑した。 (きっとライアンを怒らせたときもこうやって仲直りを申し出ていたのだろうな、この娘は) やがて。 車は砂漠の中に急に現れた小さなオアシスに乗りつけた。小さな池の周りに潅木が生い茂り、真っ白な建物が澄んだ水に映っている。 「ようこそ、キャロル。ここは私のちょっとした別荘だ」 |