『 遠い約束 』

11
「全くキャロル!僕から離れてはダメだとあれほど言っておいたのに!」
後部座席で小さくなっている義妹にライアンはイライラと言った。
「もうお小言はいいじゃないか、兄さん。ほら運転に集中して!」
助手席からロディが声をかけた。
「いや、だめだ。キャロルが話していたのなら女性なら別にいいさ。
だが相手はイズミル王子だぞ。独身の若い王族、大富豪、リード・コンツェルンが進出したがっているアル・シャハルの世継ぎとリード家の末娘!
どんなスキャンダルになるか考えても見ろ」
ここでライアンは言葉を切った。バックミラー越しに見る少女は小さく固まって義兄の激しい言葉に涙ぐんですらいるようだ。
「いや、キャロル。お前に疚しいことがないことくらい僕にはよく分かっている。だがね、世間はお前が思っているより遙かに意地悪なものなのさ。
口さがない輩がお前と、シーク・イズミルのことを面白おかしく取りざたするかも知れない。
それでお前が傷つくようなことがあったらどうすればいい?僕はお前を守ってやりたいんだよ」
キャロルが今よりもっと幼い子供だった頃と同じように語りかける優しい口調。誰よりも頼りになる保護者ライアン。
(やれやれ、兄さんはキャロルのことになると本当に冷静じゃいられなくなるらしい)
ロディはそっと苦笑を漏らした。
「キャロルは分かっているさ。そんなに言い募ったら可哀想じゃないか。小さな子供じゃないんだから。ねえ、キャロル?」
「ええ。ライアン兄さん、分かったわ。今度からは気を付けます」
キャロルは素直にライアンに言った。昔からこの兄の言葉には逆らったことがないのだ。

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「さっきは少し言い過ぎたな。ごめんよ。ちょっと僕も疲れていたんだろう」
日付が変わりだいぶたった時間帯だったが、ライアンはまだ起きているらしいキャロルの部屋を訪れた。
ふんわりしたネグリジェだけでくつろいでいたキャロルは嬉しそうにライアンを迎え入れた。
「私も軽率だったのよ、兄さんの言うとおり。あんなに長い間、同じ人とばかりお喋りしているのはマナー違反よね」
いかにも育ちの良い女性然として話すキャロルの愛らしい様子にライアンは目を細めた。
(全くこの子は・・・。あんなハンサムな王子様にのぼせ上がったらどうしようと僕は心配だったわけだが・・・杞憂だったな)
「シーク・イズミルとどんなことを話したんだい?」
ライアンはキャロルが腰掛けているベッドにごろりと体を伸ばした。まるで大きな肉食獣がくつろいでいるようにも見える。
「色々・・・。学校のことだとか、友達のことだとか、家族のこと。それに趣味だとか将来の夢だとか。シークが私に質問して私が答えていたの」
「身上調査かい?どうしてまた・・・」
ライアンの眉が不機嫌そうに寄せられていく。義妹のキャロルを誰よりも愛していると自負している男は、他の男が大切なキャロルに近づくのが我慢できない。
キャロルはライアンの眉間に寄った皺を指先で撫でながら微笑んだ。
「私ったら聞かれるままにずいぶん色々お喋りしちゃったわ。きっとシークは私が珍しかったのよ。あの方、普通に学校に通ったりしたことないんですって。・・・・私、面白がられてしまったのよ」
「・・・ならいいがね」
ライアンは半身を起こすとキャロルの唇に口づけた。
「忘れてはいけないよ。お前を一番大切に愛しているのは僕だ。僕以外の男など・・・」
「変な兄さん。シークはただ私が珍しかっただけなのよ・・・?」

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(シーク・イズミルか・・・。気になるな。若いのにスキャンダルにも無縁な身辺の綺麗な頭のいい男・・・ということだが。
あんな席でキャロルにだけ話しかけて側を離さなかったというのは・・・)
まだキャロルの感触の残る唇を撫でながらライアンは書斎で書類に目を通していた。コンツェルンのアル・シャハル進出の案件書類だ。
砂漠の中の富裕な国アル・シャハル。
石油、天然ガスなど地下資源は豊富で各種インフラも整備されている。治安や民心も安定し、もしコンビナート建設に成功すれば莫大な利益を恒常的に得られるだろう。
若く野心的なライアンは是非、アル・シャハルに進出したいと思っていた。
言葉は悪いが近代化途中の国であれば、ちょっと鼻薬を効かせるだけで簡単に入り込めるだろうと踏んでいた。
しかし事実上の国首シーク・イズミルは手強く、細やかな外交技術を駆使した正攻法でしか攻められそうになかった。
(シークの興味を引き、信頼関係を築くことができたなら会社はあの国に進出できる。後ろ暗い裏取引や、腹芸は嫌だし通じる相手じゃないな。
それよりも・・・物堅いシークが僕のキャロルに興味を示したとは。あの男、実はキャロルが欲しくなった・・・とか?
馬鹿馬鹿しい、誰がそんなことを許すか!それにたかが一回だけ会った娘だ、何でもないかもしれないじゃないか。ただキャロルが珍しかっただけだ)
キャロルのことになると猛烈な独占欲と嫉妬心の虜になる自分を敢えて自嘲しながらライアンは書類に集中した。
(僕が会社のためにキャロルを利用するような噂でも立てば、大事なあの子を傷つけてしまう)
それにしても、どうしたらあの魅力的な砂漠の国に進出できるだろう?

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(ライアン兄さんは機嫌が悪かったわ。私、本当に何も疚しいことなんかしていないのに。あんなふうに言われるの嫌だわ。私は兄さんが大好きなのに)
キャロルはベッドの中でほうっとため息をついた。ライアンが触れた唇も肩もまだ熱い。
「私は兄さんが大好きなのに・・・」
キャロルは口に出して小さく呟いた。

リード家に引き取られてきたキャロルをいつも大事に可愛がってくれた兄ライアン。キャロルは年の離れたライアンにまとわりつき、甘えた。
周りの大人達が面白がって、「キャロル、では大きくなったらライアンのお嫁さんになるの?」と言うほどに。
小さいキャロルは満面の笑みで「そうよ!」と答えて皆を笑わせたものだ。
ライアンはそんな妹の頭を優しく撫でて言った。繰り返し繰り返し。
「じゃあ、約束だ。キャロル、お前は大きくなったら僕の花嫁におなり。僕はお前が大きくなるのを待っていてやるからね」
そして。キャロルが14歳になったときにライアンは言った。
「キャロル。僕はお前を妻にしたい。まだお前は子供だから、すぐには結婚はできないのは分かっている。
でも約束して欲しいんだ。子供の頃の約束じゃなくてね。
・・・・キャロル、僕はお前を妻にする。いいね・・・?」
有無を言わせぬその口調。
でも昔から大好きだった兄の言葉は初なキャロルには何よりも嬉しくて誇らしくて、微笑んで彼の求めに応じたのだった・・・。

「ライアン兄さんはどうしてあんなこと言ったのかしら?私はただシークとお話しただけよ・・・?」
これまでは愛されているという甘いときめきしか感じさせなかったライアンの独占欲に、初めてキャロルは違和感を覚えた。
キャロルの脳裏にシーク・イズミルの面影が焼き付いて離れなかった・・・。

15
「え?もう一度おっしゃって下さい、シーク。学校の・・・見学、いや視察ですか?」
「そうだ」
イズミルは、珍しく狼狽えたルカを面白そうに見ながら言った。
「我が国の近代化を一層進めるためには若い世代の教育が不可欠だ。基礎教育と各人の興味や特性に根ざした専門教育を両立して行うような教育。
せっかくエジプトに居るのだからカイロ学園を視察したいんだ」
イズミルは言った。ライアン・リードの妹がカイロ学園に留学中だと知った彼は自分から学園の責任者に視察をしたい旨を告げていた。
「シーク、このようなことは私が申し上げるべきことではないのですが・・」
ルカは遠慮がちな口調で、リード・コンツェルンとの契約締結が微妙な時に、そこの末娘が通う学園に顔を出すのは拙いのではないかと言った。
「スキャンダルになるかもしれません、シークが特定の方に興味を示されるのは。カイロ学園はおやめになっては?他に大学や研究所もあります」
だがルカの提案はあっさりと却下された。

2時間後。
イズミルはカイロ学園の理事長に伴われて学園内を歩いていた。要所要所で足を止め、理事長は若いシークに丁寧な説明をする。
シークは非公式に学園を訪れているのだから、歓迎式典のようなものはない。
だが生徒達は、ヨーロッパ風のスーツを着こなし、編んだ長髪を垂らして歩く大柄な若者の正体を知っていてざわめいていた。
砂漠の国のシークは大層、魅力的だ。
やがて理事長は言った。
「シーク、こちらが考古学専攻クラスの教室です。我が校は考古学に力を入れており、大学とも連携して素晴らしい成果を上げています」
「我が国にも古代からの貴重な遺産が手つかずのまま眠っている。実に興味深い」
理事長は恭しくシークを教室に案内した。若いシークはそのクラスのディスカッションを実に熱心に見ていた・・・。

16
キャロルは肌がちりちりとするような、のぼせて目眩がするような感覚に落ち着かなげに身じろぎした。
その不思議な感覚は、先ほどシーク・イズミルが教室に入ってきたときからずっと続いている。生徒達はさすがに騒ぎはしなかったが、若く眉目秀麗な訪問客に浮き足立っていた。
ブラウン教授はそれでも淡々と講義を行い、シークに自慢のクラスのレベルを紹介するために次々と生徒達を指名して、発表をさせた。
キャロルは立ち上がってブラウン教授が示した粘土板のヒエログリフを解読してみせた。ヒエログリフ自体はキャロルに簡単に読めるものなのに、声は思ったように出ず、顔が熱かった。
(シーク・イズミルが見ているからだわ)
キャロルはそっと体重を反対側の足に移した。シークの鋭い金茶色の瞳は値踏みするかのように彼女だけを見ている。
「・・・・ということからこの粘土板は建設半ばで放棄された幻の首都ネフェルの実在を裏付けるものと考えられます」
頬を真っ赤に上気させてようやく発表を終えたキャロルは、そそくさと自分の席に戻ろうとした。その時、手が滑って資料の束を落としてしまった。
静まり返った教室に白い紙が舞う。空調の風に煽られて一枚がイズミルの足許に滑り降りた。
「あ・・・」
イズミルは優雅に長身を屈めると、キャロルの几帳面な字が書き込まれた資料を拾い上げた。短い間にイズミルはその資料にざっと目を通し、満足の笑みを浮かべた。
「あ・・・ありがとうございます、殿下。いえ・・・失礼を・・・!」
自分の粗相と周りの生徒達の好奇の視線に真っ赤になったキャロル。イズミルはあるかなきかの微笑を浮かべ、彼女にだけ聞こえるように言った。
「どういたしまして。私だってかがみ込めると分かってもらえたかな?」
シークの指先がキャロルの指先に軽く触れた。

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(・・・え・・・?)
ふわり、と体が浮き上がるような感覚と共に、キャロルの頭の中に凄まじい勢いで映像が流れ込んできた。
大柄な堂々たる体躯の若者が自分の顔をのぞき込んでいる。愛しさと・・・何か深い哀しみのような陰のある感情を湛えた瞳。

ソナタガ イトシイノダ。ソナタガ イカニ ワタシヲ イトウテモ ワタシハ ソナタヲ テバナスコトハデキヌ。ユルセヨ・・・ユルセヨ・・・。

見慣れない奇妙な衣装と冠と着けたその若者は、シーク・イズミルと同じ顔をしていた。同じ?いいや、今よりももう少し荒々しい精悍な感じがする顔。

アイシテイルノダ・・あいしているのだ・・・・・愛しているのだ・・・!

(シーク?いいえ、違う。誰?)
キャロルは焦点の合わない目を必死に見開いた。その時、クラスの誰かが「あ、貧血だ」と叫んで後は分からなくなってしまった・・・・。

「何、君の兄上とは一度、話し合う機会を持ちたいと思っていたのだ。そんなに恐縮されてはこちらが困るほどなのだがね。
・・・それとも君のようなお嬢さんはろくに知りもしない男の車で家に送られるなんてことは耐えられないか?」
シーク・イズミルはシートの反対側の隅っこで、まだ青ざめた顔色をして小さくなっているキャロルにわざとからかうような口調で話しかけた。
貧血を起こして教室で倒れたキャロルは自家用車を待たずにシーク・イズミルの車で送られることになった。
キャロルを送ると申し出た若いシークのやり方は実に洗練されていたので、皆,キャロルを心配したり、羨みこそすれ意地の悪いことを言う者はなかった。
「そんなことはありません、シーク。でもお忙しいのにご面倒をおかけしては申し訳ないですし、兄にも叱られてしまいます」
キャロルは心底、申し訳なさそうに詫びた。まだ青ざめた頬がイズミルの目に艶めかしく見える。

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「貧血で倒れることは割にあるのかな?」
イズミルは話題を変えた。ルカが運転する車は滑るように走っていく。
「急に倒れたので驚いた」
「いえ、いつもは立ちくらみ程度で倒れるなんて初めてでした。
ちょっと緊張していたのかも。何だか目の前に急に色々見えたような気がして焦点が合わなくなって・・・」
「色々見えた?」
イズミルは目を眇めるようにしてキャロルを見た。
彼もまた、キャロルの指先に触れた瞬間、目の前の彼女が夢の中で馴染んだ少女に変化するのを見のだから。

贅沢な衣装を着けた金髪の少女が、少し戸惑ったように哀しげな微笑を浮かべていた。彼女の薔薇の唇は残酷な言葉を紡ぐ。
ドウシテ アナタハ ワタシヲ アイシタノ?ワタシニハ アイナド ワカラナイノニ。ワカラナクシタノハ アナタヨ。

(戦の夢の中ではあのような言葉を聞いたことはなかった。私がまだ思い出せておらぬことでもあるのだろうか?
だがキャロル・リードに触れた瞬間、あのようなことが起こるとは不思議だ。
彼女は何を見た?きっと私の力に感応したのだろうよ)
イズミルの思考は時として周囲の人間の感情に影響を及ぼしたり、映像を見せたりするような強い力を持っていた。これもまた古い王家の血のなせることなのだろう。
「ええ・・・あのシークのお顔が・・・ちょっと違う風に見えて・・・それで・・・」
キャロルは、はっとして口を噤んだ。シークによく似た誰かが自分に愛を囁いたなんて言えるわけがない。
「ごめんなさい、大丈夫です」
キャロルはそれきり、イズミルの方を見なかった。だがイズミルはじっとキャロルの横顔を見つめていた。

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「あらまぁ、キャロルさん!どうなさったんです?」
シークの車に乗って早退してきたキャロルを見て、古くからリード家にいるばあやは大げさに叫びたてた。
善良で思いやり深い性格なのだが、現代的な洗練とは無縁で、ソツのない対応は出来ないタイプの人間なのだ。
キャロルはばあやを心配させないようにあっさりと事情を説明した。
「シーク、今日は本当にありがとうございました。あの、もしよろしければお茶など差し上げたいのですが」
キャロルの申し出をイズミルが断るわけがなかった。イズミルはそっとルカにスケジュール変更を命じると、導かれるままリード家の客間に行った。

リード家の客間でイズミルは上機嫌でお茶を飲み、菓子類をつまんだ。甘いものは苦手だったが、今日はどれもこれも天上の美味に思える。
「おいしいな。イギリス風のティータイムというのもいいものだ。留学中は毎日だった」
おいしそうに自分やばあやが作った焼き菓子をつまんでくれるシークの笑顔にキャロルの緊張も解れていく。
「ありがとうございます。嬉しいわ」
「よくこのような菓子類を作るのか?」
「ええ。ライアン兄さん、いえ、兄が好きですから。おいしそうに食べてくれる人に作るんだから甲斐もあります」
それから二人は色々な話をした。イズミルは故国や旅行した外国の話を少女が請うままにしてやり、しみじみとした幸せを感じた。
「色々な所にいらして、たくさん勉強しておいでなのね。すごいわ!
私もいろいろ勉強して、何かを残したいわ。勉強したことを何かの役に立てたいの。でも・・・難しいわ。今は右往左往するばかりで」
その幸せの唯一の瑕疵は、キャロルの話にやたら「ライアン兄さん」が出てくることだった。
(おかしいな、私はこの娘の兄にまで嫉妬するのか)

20
ひとしきり会話が弾み、ふと沈黙が訪れたところでイズミルは言った。
「いつか私の国に来て欲しいものだな。こんなおいしいお茶をむさ苦しい男に振る舞ってくれたお礼をしたい」
むさ苦しさの対極にいるような男性が魅力的な笑みを浮かべて言う言葉にキャロルは真っ赤になった。
(ば、馬鹿ね、キャロル。この方は私が珍しくてからかっているだけだわ。
兄さんと同じくらいすてきな人が、むさ苦しいなんて自分で言ったりして!
落ち着きなさい!)
「光栄です、シーク。兄と一緒に伺えたらどんなに素晴らしいでしょう?」
イズミルはくすりと笑った。
(本当に子供だな、まだ。気取ったふうな口をきいても大好きな‘ライアン兄さん’から離れられないらしい)
「親切な姫君のためなら法律だって変えよう。40歳を過ぎるまで私の国に来てもらえないなど我慢できないからね」
互いの会話は何となく噛み合わない。当然だった。
キャロルはライアンの妻となった「既婚女性」としてアル・シャハルに行くことを考えていたし、イズミルは「若い独身女性」のキャロルを自分の妃として国に迎えることを考えていたのだから。
(おかしいな?会話が噛み合っていないではない?)
イズミルは羞じらって指先まで紅く染まっているキャロルの初々しさに目を奪われて、キャロルの言葉の裏に隠されたものに気付かなかった。珍しいことだ。
その時、ばあやが顔を出してライアンとロディの帰宅を告げた。

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