『 流転の姫君 』

41
アイシスは頑なに自分の出入りを禁ずる王宮の北に疑問を抱えていた。
厳重な警備を敷き、妃の自分すらもラガシュ王はのらりくらりと交わして決して明かそうとはしない。
丁度留守にするという機会に調べてみるつもりでもあったが、そこへ腹心の部下のアリが驚愕する事実を耳打ちした。
キャロルがそこに幽閉されている、と。
バビロニアに嫁す途中にキャロルには会ったが、もう何の力もない小娘、どこぞで野垂れ死にしているであろう。
キャロルが甘やかされた生活でないと生きていけない事くらいは承知している。
だからもう夜盗にでも浚われたか殺されたかと思い、アイシスは晴れやかな顔をしていたのである。
通路の途中でアイシスは憎いキャロルを見つけた。
「おのれ・・まだ生きておったか!この手で引導渡してくれよう!」
「やめて!アイシス!」
キャロルに向かって短剣を振りかざしたその時、大柄な影がアイシスの腕を捕らえた。
「どのような者であれ我が妃に傷つけるものは許さぬ。」
イズミル王子がキャロルを救出しに来たのである。
「そなたに内密に我が妃を幽閉するとはな、ラガシュ王に問いただしてみるがよい。
 我らは帰国するゆえ、ラガシュ王に伝えよ。」
キャロルを抱き抱えるとアイシスに冷たく侮蔑に満ちた眼差しを投げかけ、イズミル王子はルカや兵を従え姿を消した。
騒然とするバビロニア王宮を後にイズミル王子は帰国する為に馬を駆けさせた。
その胸に愛しいキャロルをしっかりと抱きしめて。
「私絶対王子が助けにきてくれるって分かってたわ。そうは手紙に書かなかったけど」
キャロルが王子を見上げながら自らも王子にしがみ付いた。
「そなたはただラガシュ王を誘き出し、南と東で小さな火を起こせとしか書いていなかった。
 黒い水を扱う時の注意と。
 だが私にはわかっていた、そなたが騒ぎの隙に救出してくれと呼びかけていたからな。」
「・・信じてたわ、王子。」
王子の胸にそっと顔を埋めたキャロルの温かな身体を、もう二度と放すまい、と決意をしたようにもう一度力強く抱き寄せたのであった。

42
バビロニアを抜けヒッタイトに向かうイズミル王子の一行は今宵の宿を設え食事をとった。
キャロルの身体を気遣い何くれとなく世話を焼く王子にキャロルの表情も和らいでいる。
夜が更け二人になった時、キャロルはおずおずと王子に口を開いた。
「私・・・まだあなたにお礼すら言ってないわ。ありがとう・・・。」
恥ずかしげに王子の頬に柔らかな唇が触れる。
色事になれた王子にはその仕草が如何にも物慣れず初々しいものであるか、かえって新鮮に目に映った。
頬を薔薇色に染めて自分と目を合わせるのも恥ずかしげにしている小柄な娘・・・。
「こちらへおいで、姫。そのような話は離れてするものではないゆえ」
「え?いいわ・・ここで。きゃっ!」
自分を慕っていることを隠せないキャロルに王子は傲慢ともいえる仕草で抱き寄せ、自分の膝に座らせた。
「あのような状況で私に指示をするなぞそなたしかおらぬわ。私が指示に従わなければどうするつもりだったのだ?」
灯りの光を受け輝く黄金の髪は美しい、と王子は満足げに目を細め口元には笑みが浮かんでいた。
「信じていたわ、きっと王子ならしてくれるって。必ず私を助けにくるって、私にはわかっていたの。」
澄んだ青い瞳には王子に対する無垢で純粋な信頼が見て取れ、王子はまずまず満足感を感じ入る。
「私にもそなたが通路にこいと囁いているように感じていた。やはりそなたは特別な女人なのだな・・・。
 この先もずっと私の側に居らねばな。さあ、参ると申せ、愛しい姫よ。そなただけが私の妃だ。」
「・・ええ・・。連れていって・・・。あなたと共に行くわ・・・。あなたが好きです・・。」
囁きが漏れた時の歓喜はいかほどのものだろう。
決して慣れてはいない、不器用にすら思える口付けも王子には喜びにしか感じられなかった。

43
メンフィスは夜の闇を縫って馬を駆けさせていた。
キャロルのことが、あの河での別離がどうしても脳裏から離れないのである。
妃となったカーフラは姉アイシスをバビロニア王妃にさせる手はずを整え送り出し、宮殿で女王として君臨し高笑いの日々である。
自分に向ける媚びた表情が、仕草が全てがわざとらしく癇に障る。
キャロルが居た頃の王宮は和やかで女官達も笑みの絶えないものであったのに、今や女官長のナフテラさえもどこかしら余所余所しい。
傲慢なカーフラを見るにつけ、キャロルの優しい心根を比較してしまう。
自らがキャロルを捨て、捜索命令も打ち切ったのに、いつまでも胸に突き刺さるこの思いは何なのだろう。
キャロルは嘘が嫌いだったし、あの時も「違う」と必死に言っていたのに、それを退けたのは早計ではなかったか?
キャロルに対する恋慕が途切れない今、バビロニアから帰国したウナスからの報告はメンフィスに嫉妬の炎を呼び起こした。
キャロルはバビロニア王宮に幽閉されていたが、王妃アイシスに殺されるところをヒッタイトのイズミル王子が救出していった、と・・・。
キャロルを疎ましく思っているのは知っていたが、まさかアイシスが殺そうとしたなどとは信じたくはなかった。
しかもイズミル王子がキャロルを救出していったなどと許せないことばかり。
ウナスにイズミルが嫌がるキャロルを連れて行ったのだろうと問いただしてもウナスは答えを濁すだけ。
きつく問いただせば「いいえ、姫はイズミル王子に手を差し伸べていらっしゃいました、待っていらっしゃったのです。」との答え。
「ナイルの姫はイズミル王子の妃となられるようです、証拠の品をお持ちでした。」
そして王子は姫を連れて帰国している最中なのだ、とウナスは締めくくったのである。
メンフィスには信じられなかった。キャロルは自分を愛しているのだ。
カーフラでなく、やはり正妃にはキャロルを据えなければならない。
これはファラオの意思、そして我がエジプトの民の願いなのだから。
ならば急げばよい、ヒッタイトに入る前に我が腕にキャロルを連れ戻す。
嫉妬に狂った少年王に疲れなどは感じなかった。

44
ヒッタイトへの道程はキャロルにとっては喜びでもあったが、不安が付き纏う。
いくらイズミル王子と相思相愛の仲となっているとはいえ、以前自分がヒッタイトの王宮に居た時点での自分の態度は王子に対しては決して好意的なものではなかった。
あまつさえ自分はルカの手を借りて脱出を果たしたのだ。
以前とは状況が違うとはいえ、王子の乳母のムーラなど一体どんな心持でいることだろう。
果たしてちゃんと王宮で暮らしていけるのか。
キャロルの心許無さそうな表情を見て、イズミル王子は微笑みながら力づけた。
「私が決めた私の妃だ、そなたを粗末に扱う輩は成敗してくれる。
 ムーラには分かっていることだ。私がそうさせぬ。
 ではこうしよう、そなたは私をアッシリアで救った命の恩人だと話そう、それなら無下にもできぬゆえな」
「もう!王子ったら!私は本当に困っているのよ、そんな風にからかうなんて!」
腕の中で拗ねるキャロルに優しい口付けを繰り返す。
「そう拗ねるでない、姫。そなたが私を救ったは事実ぞ、堂々として居るがよい。
 そなたこそが我が正妃、誰にも文句は言わせぬ。」
王子のきっぱりした口調にキャロルも腹をくくるしかないのだ。
「・・・分かったわ・・王子。」
「いい子だ、姫。何があろうと私がそなたを守る。」
今では一番安心できるイズミル王子の胸の中でキャロルは様々な不安を飲み込んだ。
もう随分とヒッタイトに近づいたせいか、気温が低い。
あと山を一つ超えればヒッタイトに入る。
「明日の朝は霧が出るやもしれぬ。出歩けば危険だからおとなしくいたせ。」
「失礼ね、ちゃんと言う事をきくわよ、王子。」
「私の子猫はすぐふくれるな、こまったものよ。」
睦言を交わす恋人には他に心配事はないように思えた。

45
イズミル王子の言ったとおり霧深い朝となった。
ほんの少しの先も霧に拒まれているかのようだ。
霧が晴れるまでは出発も延期である。
キャロルはほんの少しだけと思い、寝所の外に出てみた。
ひんやりした冷気の中、キャロルは身震いした。
「姫君、お体が冷えます、早くお戻りください。」
ルカの声がするが、少し離れてしまっただけでもう設えた寝所がわからない。
「わかったわ。すぐ戻ります。」
「姫、おとなしくいたせ」
王子の声にキャロルも「すぐ戻るわ!」と返事をした。
「・・キャロルか?そこにいるのか?」
王子ではない男の声。その声には聞き覚えがあり、キャロルは驚愕し、霧の中を見えるわけではないのに凝視した。
私をキャロルと呼ぶのはただ一人しかいない・・・まさか・・・?
「王子、王子どこなの?」
「キャロル・・私だ」
潜めた声の調子が余計にキャロルの恐怖を募らせる。
「やっとみつけたぞ、さあエジプトへ帰るのだ。」
キャロルの右手首を掴んだ満足げなメンフィスの顔がそこにあった。

46
「キャロル・・・そなたこそが我が正妃だ。帰ろう、エジプトへ」
歓喜に満ちたメンフィスの表情。
望んでいたものがやっと我が手に入った子供のような様子。
だがキャロルは黙ったまま、右手首を握られたまま、何の反応も示さない。
「国の為とカーフラを娶ったは間違いだった、我が民の願いぞ、キャロル。」
メンフィスが話せば話すほど、キャロルのメンフィスに対する思いはだんだんと哀れみのようなものい変化していた。
自分が必死にヒッタイトから逃げ出してメンフィスの元へ行ったときの態度を覚えていないのだろうか?
私の気持ちなど考えず、カーフラ妃だけが我が妃と言ったその同じ唇から私のことを捨てたのに、何故今更こんなことを言い出すの?
メンフィスに惹かれていると思ってた自分だったけど、愛してると思ってたけど
今こそはっきりとメンフィスの本当の姿が見えたような気がする。
ないものねだりの我侭な子供・・・。
愛することの反対は憎しみなのかと思ってた。
でもそうじゃない、この人は憎むほどの価値はない、ただただ無関心なだけなのだ。
私には王子がいる、私が愛し、私を愛している王子が。
「・・なにを黙っている?怒っているのか、キャロル。長い間放っておいてすまなかったな。
 だがもう放さぬぞ。」
機嫌をとろうとしてりうのか、妙に労わり深そうな声音。
「放してください、私はヒッタイトの皇太子妃です。私の居るべきところはイズミル王子のところです。
 早く放さないと兵を呼びます。」
キャロルのきっぱりした物言いにメンフィスは眉を吊り上げた。
「何を申すか!そなたが何と申してもエジプトへ連れ帰る!あれほど私を愛していると申していたではないか!」
「その私を河で見捨ててカーフラ妃を選択したのはあなたです。
 どんな理由であれ、あなたはカーフラ妃を選んだのです、あの時で私とあなたの縁は終わりました。
 今の私は身も心もイズミル王子のものです。他の誰でもない、イズミル王子のものですわ。」
いくら怒ろうともうメンフィスには哀れさしか感じなかった。

47
「キャロル!」
怒りに身を任せたメンフィスがキャロルに掴みかかろうとした時、
キャロルは咄嗟に身を低く屈め、メンフィスの帯刀していた剣の柄に手を伸ばして抜き取り刃先をメンフィスに向けて身構えた。
「キャロル、そなたに私を傷つけることなどできぬ。さあ、剣を渡せ」
笑みを浮かべてを伸ばすメンフィスに、キャロルは必死になって剣を振り回した。
「今の私なら何でも出来るわ!生きて王子と幸せになるためになら!」
刃先が何かをかすめた感触はあったようだが、キャロルには分からない。
「そうまでしてこの私を拒むというのか!ならば・・。」
「姫、こちらへおいで。」
イズミル王子の声と共に霧の中から温かい腕が回され、キャロルは剣を投げ捨て王子の胸に飛び込んだ。
「王子!」
「兵が周りを囲んでいるゆえ、逃げ場はないぞ。ここでミタムンの敵を取るもよかろうよ。」
落ち着いたイズミル王子の声にキャロルも振り返ってメンフィスの居た辺りに目を凝らしたがもう姿はなかった。
「・・我はラーの子、我が意思は我が民の意思・・・。諦めぬぞ・・・。」
霧の中の囁きを王子もキャロルもはっきりと聞き取ったが、もうそこにメンフィスの気配などは微塵もなかった。
「一刻でも早く帰国せねばならぬな、そなたの申すとおり、身も心も私のものとせねばな。」
口元に笑みを浮かべキャロルを抱いた手に力がこもった。
「やだ!聞いてたの?」
キャロルは恥ずかしさのあまりに頬が紅潮するのを感じた。
「私がどれほど嬉しいかそなたにわかるまいよ。」
王子の口づけにキャロルの言葉は絡めとられてしまった。
かすかな不安を残しつつ、一行はヒッタイトへと帰国するため出立となった。

48
帰国したイズミル王子は皆が喜びに沸いていた。
だが国王は周辺諸国の視察の為留守であった。
王子はキャロルの部屋を自分の王宮の一角に、すぐ目の届くところに据え置くようにムーラに言いつけ帰国の挨拶を母である王妃にキャロルを連れて行った。
鋭い観察眼を持つ王妃はキャロルと王子の関係が、以前とは違う、心の通い合うものになったのを見て取り表には出さなかったが喜んだ。
だが婚儀は国王の居ない今はできないと残念そうに溜め息をついた。
王子も王不在の間は国王代理として政務を司らなければならない。
今しばらくは婚儀の準備をして待つようにと言い渡され、二人は王妃に暇を告げた。
以前のことがあるので、ムーラも女官たちもキャロルの身辺は煩いほどに気を配っている。
キャロルは自分がしてしまった事の代価なのだと諦めた。
それになんと言ってもメンフィスの事もある。
警戒する事は必要なのだ。
あのメンフィスがそう簡単に諦めるとは思えなかった。
そしてメンフィスだけが自分の敵でないこともキャロルの表情を曇らせた。
無事に逃げては来たが、アッシリアのアルゴン王やバビロニアのラガシュ王だって自分の歴史の知識が目当てだったのだ。
他に自分の敵が居ないなどとは考えられない。自分は「神の娘」と言われているのだから。
勿論イズミル王子だって自分を守ってはくれる。
だがそれだけではいけない、とキャロルは決意を固めていた。
人払いをし、二人になった折、キャロルは切り出した。
「どうか私に武術を教えて!自分の身が守れるように!」

49
何を言い出すのかと思えば、武術を覚えるだと?
唇の端に笑みを浮かべながら王子は尋ねた。
「そなたは私が守る、ルカもいつも側にいよう、必要あるまい」
だがキャロルの青い瞳には怒りのようなものが見え、王子は笑うのをやめた。
「私がどれほどくやしいか、あなたにはわからない。
 いつもいつも翻弄されるばかりなんて嫌!自分の身は自分で守れるようになりたいの。」
確かにキャロルの美貌と英知はいつもどの国にとっても、咽喉から手が出るほど得がたいもの。
キャロルが怒りに白い肌をうっすらと紅く染めているのを見ながら、王子もひとりごちた。
「別に相手を殺そうとしているわけじゃないわ、でも相手の言いなりになるなんてもう我慢できないの!」
優美な外見からは見て取れない、キャロルの負けん気に王子の口元も知らず知らず緩んできた。
「あいわかった、では私が手解きいたそう。私が見てやれない時にはルカがな。
 ではそなたの手に合ったものを用意するとしよう。」
「有難う!」キャロルの喜びようは大きかったが、王子はそうは続くまいと内心踏んでいた。
剣はキャロルに大き過ぎ重過ぎた。短剣くらいなら持てるが、それでは負けてしまう。
何が向いているか様子を見ていた王子は、キャロルに意外な才能があるのを見て取った。
弓矢である。
「これとはちょっと違うけど、学校の授業で少しやったことがあるの。」
原始的な弓矢と、キャロルが授業で使った弓とは大違いだが、なんとかものになりそうなものは弓であった。
王子が幼い頃使った弓に、キャロルの腕の長さに合わせ矢を作り、キャロルは必死に稽古を始めた。

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弓を引くのに普段は使う事のない部分の筋肉を使い、結構な力が必要だ。
弓を押す力と弓を引く力のバランスがいる。
非力なキャロルだったが必死の稽古にするため、体中に切り傷や青痣ができた。
湯浴みをする時などはなるべく女官やムーラを遠ざけ、一人でするように注意していた。
王子が選んだ見事の衣装の下に、誰がこんなに傷を負っていると思うだろう?
女官たちがキャロルの衣装荷血がついているのに気がつき、ムーラに報告したため、キャロルが一人で湯浴みをしているところへムーラが確認にきてしまった。
「まあ!姫君!なんということですの?」
白い肌の上に弦が当たった跡だろうか、青痣があちこちにできているし、足には弦が切れた時にでも出来たのだろう、
細長い傷も見えている。
「高貴な女人のお肌とは思えませぬ!皇太子妃ともあろうお方が何故このようなお姿を・・・」
ムーラは王子の選んだ妃なので、非常に慇懃無礼にキャロルに仕えていたが、この時はさすがにムーラも驚いてしまって、おろおろするばかりだった。
「これは私の意思なの、王子に守られているだけなんて嫌なの、王子と一緒に戦えなくとも、せめて自分の敵だけは自分で振り払う為なのだから、余計な口出しは無用です。」
きっぱりと言い切るキャロルには、ムーラが今まで見た事のないような凛とした強い気性が見て取れた。
この方は王子に相応しくなられるために変わられたのだ・・・。
「・・姫君、後ほど傷に良く効くお薬をお持ちいたしましょう、王子も姫君が傷だらけになっていらっしゃるお姿はお困りでしょう。」
キャロルの湯浴みを手伝いながら、ムーラも自分の声音が優しいものになったのを内心苦笑したのだった。
「有難う、ムーラ」
ムーラの目にキャロルの傷や痣はまるで勲章のように映った。

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