『 流転の姫君 』 11 目立たない地味な色の布を目深にかぶり、キャロルはルカと共に夜を駆け抜けた。 星の読めないキャロルはルカに全てを託し、我が身をメンフィスの元へ連れて行ってくれるのを信じて疑わない。 じきヒッタイトとの国境に着いた頃、ルカは河が流れているのを見てキャロルに休養を薦めた。 「お急ぎになるお気持ちはわかりますが、姫君はまだお体の調子もお悪いのでしょう? 冷たい水も流れておりますゆえ、しばしご休憩なさいませ。」 ルカの言葉にキャロルもずっと馬の背に揺られていた体の疲れに気付き、 「そうね、ありがとう、ルカ」と詰めたい水に手を浸した。 やっと王子から逃げられたのだ、早くメンフィスのところへ帰らなければ・・・と物思いに沈むキャロル。 と、その時、「何者か、大勢でこちらで向かってくる気配がします!早くこちらへ!」とルカはキャロルと共に川沿いにある大きな岩陰に身を潜めた。 やがて大群の気配がして、馬のいななきや人の声がそこかしこに響き渡った。 一体誰だろうか? だがここでおいそれと自分の身を明かすような真似はできない。 イズミル王子の追手かもしれないから。 キャロルとルカの前に人の群れはこなかったが、代わりに若い女の声がした。 「・・・ほほほ、メンフィス様ったら、ホンにおやさしゅうございますのね。」 軽やかにだが媚を含んだ楽しげな笑い声。 今、なんと言ったの?メンフィス様? キャロルは相手から見えないようこっそりと前を伺った。 「新婚間もないというに、このような視察に付き合わせてすまなかったな」 聞き覚えのあるメンフィスの声だ! 飛び出そうとするキャロルをルカが背後から引き止め、キャロルの口を手で塞ぐ。 でも・・まさか・・・・キャロルのムネが大きな不安に締め付けられる。 「妻の務めでございますとも、でも、本当は雄々しいメンフィス様を見ていたいってカーフラの我侭ですわ。」 「愛いことを申す。さて、それにはどう報いればよいやら」 「あら、カーフラを可愛がって下ればよろしいのですわ。」 その時はなれた所からファラオを呼ぶ声がして、メンフィスはそちらへ行こうとしてるようだ。 「乳母やに冷たい果物を用意させますから、後ほどこちらへ戻っていらして」というカーフラ王女の声に答えたらしく辺りには静けさが戻ってきた。 12 「まって!メンフィス!」 やっとのことでルカの戒めを振り解くとキャロルは河へと飛び出した。 だがそこにいるのは、エジプトの豪華な衣装を身に着けた褐色の肌の女が一人。 実に肉感的でアイシスとは違う艶を纏わせた女が、何事かと大きな目を見開いてキャロルを見ていた。 「そなた・・・会うたことはないが聴いておるわ・・・・ 透けるような白い肌と黄金の髪、ナイルを映したような青い瞳の小柄な姫・・。 そなたがナイルの姫か、今更何事よ。 わらわはカーフラ、メンフィス王の正妃じゃ。」 先ほどまでメンフィスに向けていた明るく戯れた声とは思えぬほど、冷たく嘲りを含む声音。 月の光のなかも慎ましやかに輝く黄金の髪、夜目にも目立つ白い肌、可憐な様子のキャロルに衣装が濡れるのも意に介さず、つかつかとカーフラは近寄り、キャロルの胸元の衣装をぐいっと引っ張った。 「もうそなたなどメンフィス様には必要がない、何処へなりとも去れ! そなたなど生きておるわけなどないと思うておったに、真に忌々しい!」 そう言いながらキャロルを今にも殺しかねないほどの勢いで揺さぶるカーフラに 「や・・やめて・・・やめて・・・」と弱弱しく抵抗するキャロル。 「とっとと去れ!」との声にキャロルは河の中へ突き飛ばされ、辺りに水音が響いた。 「キャロル!キャロル、生きていたのか!」 びしょ濡れになったキャロルを抱き上げたのは何よりも愛しいメンフィスだった。 13 濡れるのも構わずメンフィスはキャロルを力強く抱きしめた。 あれほどまでに恋焦がれたメンフィスの腕の中である。 「メンフィス!メンフィス!会いたかった!」 泣きながらメンフィスにしがみ付くキャロルを嬉しそうに抱きしめたメンフィスだったが カーフラの眼前であることに気付き、少しバツが悪そうにキャロルの両肩に手をかけ引き離した。 「一体何処にいたのだ、ウナスからは下エジプトにいたと報告があったが」 「私、私ね・・。」とキャロルが話し掛けたその時、胸元の衣装がずれて白い肌が少しあらわになった部分にメンフィスが目を止め、それまでの歓喜に満ちた表情から険しいものへと変化した。 「・・キャロル、そなた、誰といた?申せ!」 メンフィスの突然の変化にキャロルは呆然としたが、口篭もりながら答えた。 「・・ヒッタイトよ、イズミル王子に捕らわれていて、それで・・」 「イズミル王子と戯れて居ったのか!なんだ!その愛撫の跡は!この私がどんなにかそなたを心配して居ったかそれを知ってか 王子とそなたは・・・・!」 激しい怒りの表情もあらわに、両肩を突き飛ばしたメンフィスに、キャロルはやっとメンフィスが何に対して怒っているか思い当たった。 繊細な肌は王子の口付けの跡を白い肌にくっきりと残している。 「私はやっと逃げてきたのよ!王子とは何もなかった!本当なの!信じて!」 キャロルの必死の叫びも、今のメンフィスには届かない。 そこへ静かに割って入ったのはカーフラだった。 14 「神の娘が卑しい遊び女と同じような真似をするなんてはずございませんわ。 所詮、ただの卑しい娘。 そのようなものと関っていたなんてメンフィス様のお名に傷がつきます。 ナイルの姫は死んだ、メンフィス様もわらわもそのような者には逢わなかった。 さあ、参りましょう、メンフィス様」 カーフラは静かに言い切るとメンフィスを促し、皆の所へと誘導する。 「まって!まって、メンフィス!」 後を追おうトとキャロルはするが、水に濡れた衣装が足に絡まり、思うように動けない。 それでもこちらに背を向けるメンフィスにキャロルは呼びかけるが返って来たのは 「私の妃はカーフラただ一人!そなたなど知らぬわ!」という拒絶の言葉であった。 やがて二人の姿は見えなくなり、それと同時に騒がしい物音や声がすると出発したらしい喧騒が次第に小さくなっていった。 「ひどい・・・ひどいわ・・・メンフィス・・・私・・・あなたの元に帰って・・・。 冷たい河の水の中で、頬を伝って涙が途切れることなく零れ落ちていく。 「姫君、お風邪を召します、早くお召し替えをなさらないと・・・。」とルカが連れ出してもキャロルの涙は止まらなかった・・・。 必死に慰めるルカだったが、その脳裏にには、計画以上にうまくいったという達成感があった。 15 メンフィスからはっきりと拒絶され、キャロルには帰る場所さえなくなってしまった・・・・。 あれからどれくらい時間が経ったかしら? あれは夜明け前だったのに、今はもう日も暮れようとしている。何が起ころうとも時間は流れていく・・・・。 たった一つの心の支えだったメンフィス・・・。 なのにカーフラ王女と結婚し、あのように睦まじく過ごしていた。 そして必死にイズミル王子の下から脱出してきたのに、 我が身が王子のものとなる前に逃げ出してきたのに信じてくれなかった・・・・。 キャロルは生ける屍のようだった。 ルカは「どちらへ参りましょう?姫君」と尋ねるが行くところなどあるはずもない。 このエジプトでキャロルのかえる場所はたった一つしかなかったのだから。 馬に跨ってるのさえ辛くなり、目の前も回るよう。 ルカがキャロルの異変に気がついた時には、キャロルは酷い高熱を出していた。 「姫君、しっかりなさってください!どこかでお休みになられないと・・。」 ルカの声は聞こえるがキャロルは体がだるくて指一本動かすのさえ気だるい。 ルカはなんとかキャロルが休めそうな場所を探そうとしていた、その時。 「どうしたんだい?病人か?」 二人連れの商人風な男達がルカに声を掛けてきた。 警戒するルカだったが、背に腹はかえられない。 長身の男が身軽に乗っていた馬から飛び降り、ルカが腕に抱いているキャロルの様子をみた。 「随分弱ってるじゃないか、俺は薬草は詳しいんだ、調合してやるよ。 それにこのままここに居るわけにもいかんし、あんた先は急ぐのかい?」 「いや、とにかくこの方を・・・。」 「じゃ、ひとまず俺と一緒に来な、雨風をしのぐところならなんとかならぁ。 俺はハサン、あっちは相棒のカレブ。おい、いいだろう?カレブ!」 もうひとりの、カレブと呼ばれた男は「全く、儲けにならねえことばっかりしやがって」と不平を言いながらもルカとキャロルを連れて、ハサンと一緒に行くこととなった。 16 キャロルは怪我が癒えて間もないこともあり、また河の中での事から衰弱し高熱を出して寝込んでしまった。 ハサンとカレブが借りている小さな家に思いがけずも留まる事となり、ルカは王子と落ち合う連絡も取れない事態となり、内心穏やかでなかった。 ハサンもカレブも詳しい事をルカから聞き出すような真似もせず、ただキャロルの療養に力を貸した。 キャロルの白い肌、黄金の髪も見ていたが、ハサンは何も尋ねようとはせず、キャロルのことを「お姫さん」と呼び、薬草を煎じたりと何くれなく世話を焼いた。 「随分と消耗しているなぁ、あのお姫さんはあまり丈夫な性質じゃあない、無理は禁物だな。」 薬おを飲む時以外は懇々と眠るキャロルのほうを見ながら、ハサンはルカに言った。 「何故、何も聞かないのだ?もうあのお方の身元を知っているであろうに・・・。」 ルカは何かあればハサンもカレブも切り捨てる覚悟でいたが、気のいいハサンを切るのは気が進まなかった。 「やっぱりな、黄金の髪を見たときに、ナイルの姫ってのはすぐわかったけど何かしら事情もあるんだろうよ。 商人だから結構いろんな情報は手に入るしよ、だからってお前さんに恩着せがましくしようってことじゃないぜ。 ただ困ってそうだから力を貸しただけだ。 まあ、ここにゃあ居たいだけ居ればいいさ。俺達は商人だから家を空ける事も多いからな。 気にすんなよ。俺ぁ、あのお姫さんをちいっとばかし気に入っただけさ。 苦しい息のうちにも、俺にごめんなさい、ありがとうって言えるなんてさ。」 少し照れたようなハサンを見て、ルカは感謝をしたが、どうやって王子と連絡をとりいつ落ち合えるかどうか予想も着かないため、一抹の不安を消す事はできなかった。 カレブだけは酒を飲みつつ、何かしら意味ありげな目でキャロルのいる寝台の方へ視線をやった。 17 看病の甲斐あって、キャロルも少しづつ回復に向かった。 病床での退屈を紛らわせてやろうと、ハサンは自分達が商いで巡る土地土地の話や扱っている商品、美しく装飾された壷、珍しい布、その地域でしか取れない宝石などをキャロルの目の前に手にとって見せてやったりした。 キャロルは大いに喜び、ハサンの話に目を輝かせて聞き入り、あろうことかハサンの知らなかった知識などを子供のように無邪気に喜びながら話すのに、ハサンも傍で聞いていたカレブも仰天した。 噂話として、あちこちから流れてくる近隣諸国の話にも、時折鋭い意見などをちらりとこぼすその様子はハサンやカレブが「神の娘」として聞いた話にも確信を抱かせた。 キャロルはメンフィスを失ってしまったことについての痛手からはまだ立ち直っていなかった。 だがいつまでもこうしてハサンやカレブの世話になっているわけにも行かない。 これからどうすればよいのだろう? もう遥かな時の彼方にいる、ママやライアン兄さん、ロディ兄さんにも会えないのだろうか? そう思い立ったとき、自分をこの古代に誘い込んだアイシスに思い当たった。 アイシスならば、神官をも務めるアイシスならば何かしら知っているはずじゃないのだろうか? 以前呪詛版が何か・・・・と聞いたようなお覚えはある。 アイシスに会おう、とキャロル決めた。 だがエイジプトに入っても、キャロルの身はどう扱われるのか、王宮には自分は近づく事さえ難しいのではないか? ハサンとカレブがそろそろ商いの旅に出ようと相談しているのを聞き、キャロルもルカと一緒に同行させてもらうように頼みこみ、4人はエジプトの周辺諸国をめぐる旅へと出発したのである。 18 ヒッタイトの国境を越え、シリア砂漠の近くにいたキャロル達はシリア砂漠を越え、地中海沿いの町へ向かう事となった。 キャロルの気遣ってか、あまり急がないようにとの配慮もあったが、アッシリアの近くはなるべく早く通り過ぎたいと、ハサンもルカも思っていた。 アッシリのアルゴン王は、過日のメンフィスとキャロルの婚儀の際にキャロルを気に入り酷く執心しており、手に入るものならいくらでも金を出そうとという話が商人間からの情報として伝わってきていたのである。 おりしもアルゴン王はお忍びでこの付近に滞在しているとの話も流れていた。 キャロルの肌に色を塗り、目立たないぬのをで全身被っても、目の色だけは隠せないのだ。 用心に用心を重ね、早くこの地を去るしかないのだろう。 だがルカに抱かれて駱駝に乗っていくにもキャロルの身体には無理があった。 もう夕暮れも近いため、一行は目立たない場所で休む事に決めた。 ルカがキャロルの世話をしていると、カレブは「野暮用だ」と夕暮れの中を一人出かけていった。 カレブが向かった先は、アルゴン王が潜伏している野営地であった。 そこでカレブは「黄金の貴重なるものを手に入れた」とアルゴン王に持ちかけたのである。 アルゴン王は歓び、半金を払うゆえ、そのものが到着し確認すれば残りを支払うと申し出たがカレブはその値よりも遥かに高い金額を提示してみせた。 「なるほど、あの姫君は白い肌と輝く黄金の髪、青い瞳で確かに美しい。 だが、女の容色等時が経てば色褪せるもの。 あの姫の本当の価値はそんな容貌ではないのだ。 あの英知、あれこそが値千金、どのような財宝の山を目の前にしても全く引けを取りますまい。 あの姫がいれば、その英知でどれほどの利益が図れるか、想像もつかぬ」 カレブの巧みな弁にアルゴンもその値をカレブの言うとおりの金額を承諾したのである。 19 次の朝、出発しようとハサンがカレブに声をかけると意外な返事が戻ってきた。 ハサンもよく知ってる商人仲間がこの近くにいるのだが、とある薬草が至急必要なので届けて欲しい、と。 ハサンは薬草に詳しいが、カレブはそうではない。 仕方なくハサンは行く事になった。 準備をしていると、にやにしながらカレブがハサンに、ほんの少し、眠り薬をくれという。 「いやぁ、昨夜ねんごろになった女がなぁ、最近気が高ぶってよく寝付けねぇってこぼすんだよ。 つい、いい薬持ってるから持って来てやるって嘯いちまってなぁ・・。」 「いい格好ばっかりするからだぜ、全く。商売もんだってのに」とぶつくさ言いながらもハサンはカレブに薬を手渡した。 「で、おめぇはどうするんだい?カレブ」とハサンが尋ねると 「昨夜の女と約束しまってな、もう一泊ほどここにいらんねぇかなぁ」と相変わらずにやにやしている。 カレブの女好きは今に始まったわけでもないのをよく知ってるハサンは、 「ちょっと出かけてくるから、気をつけるんだぜ」と声をキャロルとルカに掛け出かけていった。 イズミル王子に何とか連絡を取りたいルカに、カレブは「自分が側についているから」と安心させ外出させ、狙いどおりにキャロルと二人きりになった。 キャロルを気遣う振りをして、飲み物にさっきハサンから受け取った眠り薬を入れ飲ませてしまった。 キャロルを目立たない布で包み、駱駝に乗せるとそのまま一気にアルゴン王の野営地へと向かったのである。 キャロルが人の話し声でうっすらと目を開けた時、カレブの声がしていた。 「ではこれで取引は終わりですな。これ以降は私めの責任ではございませんのをお忘れなく」 何?何の取引? 頭の芯がぼうっとしたような、咽喉が渇いているけど、胸がむかむかするような気持ち悪さを感じながらキャロルは目を何度か瞬いたその時。 「おおっ、目が覚めたか、ナイルの姫よ、これからはこの俺がそなたを存分に可愛がってやろう」 目の前に満足げなアルゴン王の姿があった。 20 「ア・・アルゴン王・・・・?どうして・・・?」 まだ体の自由がよくきかないキャロルを抱き上げ、アルゴン王は高らかに笑った。 「そなたを我がアッシリアへ連れて行く。 城でそなたを可愛がってやろうよ、そなたさえ居れば我がアッシリアは無敵ぞ。」 そう言い放つとキャロルがもがくのも構わず、アッシリアへ向けて出発した。 私はどうなったの? カレブが私をアルゴン王に売ったの? ルカは?ハサンは私が何処にいるかわかるのかしら? 何とかして逃げださないといけないけど、どうすればよいのだろう? アッシリアの城では、キャロルに豪華な衣装を着せ、すっかり上機嫌となったアルゴン王はキャロルに手を触れようとしたが、 「私に指一本でも触れれば舌を噛み切ります!」との必死に抵抗にあい、しぶしぶ手を引っ込めた。 諦めたわけではなかったが、ここは我が城、か弱い女の身では何もできないであろうとタカをくくったのである。 「商人がお目通りを・・。」と家臣からの声に気付き、アルゴン王はキャロルを連れて大広間へ出た。 「この姫に最高の衣装と宝石をな、我がアッシリアの誇りとなるように」 落ち着かないキャロルを横にアルゴン王は上機嫌である。 「なんとお美しい姫君、こちらの布はいかがでしょう?」 浮かない顔をしているキャロルに商人はなおも問い掛ける。 「こちらはいかがでしょう?よくお映えになります・・・お姫さん、俺だよ。」 「ハサ・・・・!」 商人として堂々と入り込んできたハサンにキャロルは嬉しさで涙が出そうである。 その時キャロルの頭の中に浮かんだアイデアがあった。 「後で絶対助けてやるからな、だから待ってろよ」 「あのね、ハサン、助けにくるならね・・・」 衣装を選ぶ振りをしながらキャロルはハサンに必要なものを調達してくれるよう頼んだ。 ハサンは承諾し、帰り際にキャロルの手に薬の入った小さな入れ物を手渡した。 「カレブが使ったものより協力で即効性の高い薬だから、逃げる時にでも使えるからな、もっときな。」 |