『 キャロル2年後 』


11
 夕刻になり、王妃の宮殿を歩いているとムーラが迎えに来た。
 今宵から南の宮殿ーーー王子の宮殿に住居を移すとのことであった。
 「ムーラ、わたくし今のままでかまわないわ。むしろここの方が人に紛れて、わたくしだと解りにくいような気がするのです。」
 「いいえ、王子のご命令です。王妃様にもご了承頂いておりまする。
  さあ、お食事のご用意も出来ております。ご自分のお部屋へお帰りなさりませ。」
 有無を言わせない慄然とした態度で、ムーラは言った。一瞬はっとしたが、ムーラには何を言っても無駄だと知っていたので、もう何も言わずにされるまま従った。
 長い渡り廊下を経て、あの薔薇に似た花の門まで来た。
 初めてここを通ったときより、一ヶ月近くも経っていた。考え深げに内門を通って自分の部屋と称された扉を開ける。
 そこはあの日以来住人を失っていた。何も変わらないようであったが、部屋中に白い花が活けられていた。
花の甘い香りが漂ってくる。キャロルは香を焚きしめた部屋よりもよっぽど好きであった。
 「良い香り・・・。」
 「姫君は白い花がお好きだとお聞きいたしましたので。」
 「ええ。ありがとう、ムーラ。」
 長椅子に横たわると、ただぼんやりと座っているだけであった。何もすることがない。
その間侍女達は食事の用意を整えていく。蜂蜜入りのパン、果物、主食の肉等々、それに極上のワイン、たくさんの皿が運ばれてくる。その様子を見ていて、あまりの品数に驚いた。
 「ムーラ、そのようにたくさん並べられても、わたくし食べられなくってよ。」
 「今宵は王子がわたってこられ、ご一緒に召し上がりなされまする。」
 「ええっ。そんな話聞いていないわ。わたくし、ひとりで頂きます。後は下げなさい。」
 ムーラに指示するが、聞いていないのか何も応えない。
 段々とキャロルはそわそわし始めてしまった。
 (落ち着かない・・・。王子くらい何よ。しっかりしなさい、キャロル!)


12
 廊下の方で侍女の声が聞こえ、しばらくしてイズミルが入ってきた。
 キャロルは背を向けていたので、イズミルと目を合わせることが無くほっとしていた。
 「王子、お早いお帰りで・・・。ご用意は出来ておりまする。」
 「うむ。早めに切りあげてきたのだ。」
 にこやかな声が後ろから聞こえる。ムーラの声も明るく、楽しげな会話が聞こえる。まっすぐにこちらへ来ない王子に胸を撫で下ろした。
 「姫、久方ぶりに会ったというに、何をしているのだ?」
 ふいに頭の上から声がした。
 はっとして上を見上げると、茶色の瞳が見える。
 「いっ、いえ。何でもありません。」
 「姫君、王子にご挨拶なされませ。」
 口の重いキャロルにイズミルは椅子に座りながら言った。
 「よいムーラ。さあ姫、こちらへ。」
 声をかけられて、渋々席につく。
 ムーラにも強く勧められ、ぽつりぽつりとパンを口に入れる。
 ワインを飲みながらその様子を見ていて、イズミルは思わず笑ってしまった。
 「まるで借りてきた猫だな。そなたはもっと食さなければならぬぞ。あまりにも細すぎる。これでは抱き留めるたびに折れてしまうぞ。」
 「まあ!」
 あまりの言われように、キャロルの顔は真っ赤になった。
 「失礼ね。それが客人に言う言葉?わたくしにはこれが丁度良いのです。」
 「・・・そうだな。これくらいでそなたらしいのかもしれぬ。」
 イズミルの反応に当てがはずれて、彼女は返す言葉がなかった。いつもなら・・・・。
 急に食べる手が止まったキャロルに気づき、心配そうに覗き込んだ。イズミルの視線に気が付き、あわててパンをちぎる。
 (だめよ。思い出したってしょうがないじゃない。久しぶりに男の人と食事をしているから、落ち着かないのだわ。)
 そして、久しぶりにワインを飲む。少しずつパンを流し込んだ。
 「姫、酒はそれくらいにしておけ。」
 「いいえ、もう少し頂きたい気分なの。私は大丈夫。」
 大丈夫と言う言葉は自分に向けた言葉であった。
 (そう、私は大丈夫。)
 「それよりも王子、本当に戦争が始まるの?奥宮殿ではちっとも聞きませんでしたけど。」
 「そのような話にそなたは興味をそそるのか?」
 「それはもう。でも、出来ることなら戦など止めて欲しい。戦など無ければ、皆が幸せに暮らしていけるのに。」
 テーブルに両手を置き、キャロルは目を伏した。
 沈黙がしばらく続いた後で、イズミルは口を開いた。
 「先になりそうだな。今、バビロニアでは不穏な動きが出てきている。」
 「バビロニアで?もしや、アイシスになにか?」
 関も切らずに王子に尋ねる。しかしイズミルはキャロルの手に手を置き、
 「そなたは何も心配はいらぬ。もし戦争が始まることになれば教えてやろう。
  さあ、食事も終えたのならこちらへ。」
 そのまま手を引き、長椅子に座り、キャロルを腕の中に包み込んだ。
 「王子。」
 「今日は疲れた。しばしこのままで。」
 後ろからキャロルを抱き留め、彼女のうなじに顔をうずめる。まだ、侍女達が食事の後かたづけをしている。恥じらいが彼女の頬を赤くした。王子の腕に触れる。
彼の髪が彼女の頬にあたった。
 王子の香りか、乳香の香りが鼻をくすぐる。
 キャロルは胸が高鳴るのを覚えた。
 ムーラは二人の様子を見て心から安堵の気持ちになり、微笑み、侍女を引き連れて扉を閉めた。


13
 「王子・・・・。」
 呼びかけられ、イズミルは顔を上げた。そっとキャロルの頬に指を走らせ、彼女の肩越しに口づけをする。一瞬の口づけにキャロルは身を固くした。離れようと向きを変えると、イズミルの正面に抱き上げられた。
 イズミルの指が今度はキャロルの髪に絡みつく。そして同じように唇を求められ、彼の舌が絡みついた。忘れかけていた甘さだった。ワインのせいでもあったのだろう。キャロルの身体が口づけだけで熱くなっていく。知らずうちに、彼女の唇からため息が漏れていた。
 「姫、今宵は私のものとするぞ。よいな。」
 王子は言い終えると、彼女の目蓋、耳に口づけしていく。
 陶然となりながら彼女は首を振った。
 「いいえ。だめよ・・・。」
 「否とは言わせぬ。」
 再び口づけが繰り返される。
 切ない。こんな口づけは初めてかも知れない・・・。キャロルの身体から力が抜けていった。かつて愛した人は荒々しいほど激しく彼女を求めてきた。しかし、こんなに彼女を絡め取るように優しくいたわるように求めてきたのは、他では知らないかも知れない。
 (私は流される。流されてしまう。
  この人の総てが、私に枷をつけてしまう・・・。)
 朦朧とした意識の中で、キャロルは抱き上げられた。
 
 王子は静かに寝台にキャロルを下ろし、頬にかかった黄金の髪を指で払った。
 王子の瞳が間近に彼女を見る。
 一瞬見つめ返し、キャロルは瞳を閉じた。
 こうなってしまうことは、解っていたのかも知れない。
 切ない口づけをされた日から、彼の存在は大きくなるばかりであった。
 しかし、この人を愛しているか、自分でも解らなかった。
 やはり、してはいけない。
 そっと、イズミルの口元に手を当て、かぶりを振った。シーツの上に髪がこぼれ落ちる。しかし、その手を握り返し、そっと口づけする。キャロルの閉じた瞳から涙が、頬を伝わりイズミルの手に落ちた。
 「そんなに嫌なのか?」
 「いいえ、違うわ。私、あなたを愛しているのか解らない。
  だのにこんな風に流されてしまうのが嫌、なの。私は何もかも失ったけれど、はした女ではありません。
  同情などいらない。自分に対しての誇りだけは失ってはいないわ。」
 「決してそなたの立場を利用しているわけではない。
  愛しているのだ、姫よ。私の正妃となって欲しい。・・・私はもう待てぬ・・。」
 両手首を掴み、キャロルの頭上で押さえ、唇から耳、首、鎖骨へと唇を這わせた。


14
 心を決めかねたまま、キャロルは自らの身体をイズミルに与えた。
 激しさのない、優しい慈愛に満ちた愛の交わりであった。
 まるで、身体の熱い高鳴りと共に、心まで昇りつめるようであった。掴まれていた手首はとうにはずされ、今はイズミルの広い背中に五指が触れていた。
 イズミルを見る余裕はなかったが、その息づかいが聞こえてくる。それだけでキャロルの身体の中心から、たまらなく切ない思いがこみ上げてきた。
 繰り返し触れ合う唇に声なき声が漏れる。
 彼の鼓動までを感じたような気がしたとき、キャロルの身体は心は解放された。そして、喜びか悲しみか、キャロル自身も解らない涙を流した。

 灯火の揺らぐ影の中、イズミルはキャロルを腕に抱き、半身起きあがって満たされた余韻を楽しんでいる。
 キャロルはゆったりとイズミルにもたれていた。
 疲れたように彼の首元に顔をうずめていた。身体が燃えるように熱い。火照った体はほんのりと赤く染まっている。けだるそうに寄せていた彼女を見て、彼は微笑んだ。すんなりと伸びた手足が灯りに照らされ、みだれかかった様子は美しかった。
 キャロルの髪を撫でながら言う。
 「ようやく私のものになったのだな・・・。」
 反論しようとした彼女の腕を取り、口づけをして塞いでしまった。先ほどと違って、激しい接吻。思わず彼女は怯んでしまった。
 「そなたの過去の総てを我が胸に焼き尽くせ。そして、本来の新しいそなたを私に見せよ。」
 強く肩を掴まれ、身体がメンフィスを思い出す。倒錯した幻影を振り払うようにキャロルは呻いた。
 そして、思いがけず激しい交わりの中で、何もかも忘却の彼方へと落ちていった。


15
 朝、気が付くと彼女は一人であった。
 冷たいシーツの中でひんやりとした空気を感じ、目が覚めた。
 昨夜のことは夢だったのだろうか。重い頭を持ち上げ、寝台の周りを見回してみる。
 あたりはしんとして、無空間の中にいる錯覚さえする。寝台から垂れ布を押しやって床に素足を付ける。あまりの冷たさに、背筋に冷たいものが走った。
 隣の居間まで歩いていくが、炎があるにも拘わらず部屋は底冷えするような寒さであった。
 人の気配が全くない。この世界にたったひとり、そこに残されてしまったようだ。
 あまりの寒さ、虚無、孤独感に襲われ、身震いし我が身を抱く。
 ふいに足元が崩れ去る錯覚が襲う。
 声をあげようとするが、音のない悲鳴にしかならなかったーーーーー。

 気が付くと朝になっていた。
 傍らにいるイズミルの腕の中で眠っていたらしい。彼の静かな寝息が身体に伝わってくる。彼の腕は暖かかった。
 しかし、キャロルの胸内では恐ろしいほどの孤独感が詰まっていた。悪夢を見ていたような気がする。けれど、どんな夢だったか思い出せない。これ程人恋しく思ったことはない。まだ身体が震えている。
 「・・・、姫、起きたのか。」
 身動きしたキャロルを感じたのか、イズミルが目を開けた。
 微笑むと彼女を抱きしめ、その額に口づけした。
 「どうしたのだ。震えているではないか。寒いのならばもっとこちらへ寄るが良い。」
 上掛けを引き寄せ、キャロルをくるんだ。
 「いいえ。多分恐ろしい夢を見たせいよ。よく思い出せないのだけれど・・、恐ろしかったわ。」
 キャロルの顎に指を添えて、優しく口づけする。その頬に触れて、彼女を大切に見つめる。
 「王子、こんなことになってしまっても、私あなたのこと本当にどう思っているか解らない。
  でも、一人は嫌。一人になってしまうと、怖い。」
 「我が儘な姫だな。そなたは私だけを見つめておればよい。必ずそなたを幸せにしてやろうぞ。身も心も私なしでは生きられぬようにしてやる。だから、私を愛せ。私を求めよ。私は必ず応えてやる。」
 もう一度彼女を抱きしめ、その華奢な身体を肌に感じた。
 (おお、夢ではない。本当にわたしのものとなったのだ。)
 表情こそ出さなかったが、イズミルは心から沸き上がる喜びを噛み締めていた。
 キャロルはイズミルに包まれて、孤独感が徐々に消え去り代わりに安堵感が霧のように包むのを感じていた。信じ愛していた人を失った大きな心の穴に、そこに入り込んできたイズミルの存在が徐々に大きくなっていくのを、キャロル自身気づき始めたばかりであった。  

16
落ちる。しかし、その手を握り返し、そっと口づけする。キャロルの閉じた瞳から

 ムーラは朝の食事をとり語らう二人を見て、感極まっていた。
 とうとう王子は想いを遂げられた。普段顔にこそ出さないが、姫に恋焦がれているのはムーラにはよく解っていたのだ。今こそ、王子のあのように幸せそうなお顔は見たことがない。嬉しさのあまり出た涙をそっと拭う。横によりそう姫の姿も、王子の愛を受けて一層美しく輝いておられる。
 (後は王子がつつがなく花嫁をおむかえなされるよう・・・、わたくしは姫君をお守りして、ご婚儀の準備に力を尽くさなければ。ヒッタイトの歴史に残る式でならねばならぬ。)
 「姫君、どうぞこちらも召し上がり下さいませ。王子のお好きな果実ですのよ。」
 薄い紅色をした果実を勧める。朝露に輝くそれを見てキャロルは驚いた。
 「これは大変珍しいもので、王子が宮殿内の庭園に植えられたのです。晩夏から秋にかけて芳香を漂わせ実りまする。」
 「杏子・・・。東方の殷王朝からの贈り物ですね。すばらしいわ。
  ーーーいい香り。後で杏子の樹をを見に行きたいわ。」
 独り言のようにいうキャロルを見て、イズミルとムーラは怪訝そうな顔をした。
 イズミルは果実をとり、一口囓る。
 「これは、そなたのような味がする。・・・そなたの言うように東方から来た商人が持ってきたものだ。
  しかし、遠く東の国はまだ未知の国。まだ、我が国との国交はない。」
 はたとキャロルはイズミルの言いたいことに気が付いた。ムーラに洋皮紙と筆を用意させ、食器を寄せて出来た空間に置いた。
 すらすらと不思議な模様を書き込む。そして模様の中心に印を付け、彼に言った。
 「ここがヒッタイトです。そしてここがエジプト。バビロニアとアッシリアはここ。ーーーそして、ここが殷。」
 「ムーラ、私の部屋へ行き、書庫から地図を持って参れ。」
 早急に持ってきた書を受け取り、すぐさま広げ比べてみる。イズミルの地図には陸地、海、河に山、そして永遠に地が続く。対してキャロルのは形をなしており、地が終わり海に続く。
 キャロルはイズミルを見ると、くすりと笑って言った。
 「秘密よ。」
 彼は見返した。キャロルは続け、次々に地図を埋めていく。
 「これは世界。世界の形。とても広いの。見て、ヒッタイトは世界のここ。そして、私の国はここ。」
 アメリカ大陸の北を指して、懐かしそうに言った。
 「でも今だと、私の祖先、私の血族はここ、ブリテン島にあるはず。ここはケルトという神話の国。」
 「では、ここは神の国か?そなたのように黄金の髪に蒼い目の人々が住まわっているのか?」
 「いいえ、神の国ではないわ。民があり国がある。それに、黄金の髪はどちらかというとここね、バイキングの祖先の国があるはず。」
 地図の北側、北欧を指していった。
 「ここは皆黄金の髪に蒼い目緑の目を持っているわ。もし、あなたがここに行けば、神と崇められかもしれない。褐色の肌に茶色の髪に瞳は珍しいもの。」
 イズミルは顎に手をあて、地図を見て考え込んでいた。
 「信じられぬ。これが世界だと?」
 「そう、だから秘密。私の国はとても遠いの。それにブリテンもバイキングも遙か遠くにある。そうね、ここからでは幻の国ね。とても行くことはかなわない。」
 視線は遠く彼方を指すように、キャロルの瞳はただ空間を見ていた。まるで空気に同調してしまいそうな気配に、イズミルは彼女の手を握った。
 「さあ、話はこれくらいにして、そなたが私の妃になったことを、母上に報告しに参ろう。」
 赤くなったキャロルを促して、彼は席をたった。


17
 今年初めての雪が降ったとき、ヒッタイトでは王子の婚儀が行われた。
 近隣諸国から祝いの客がたくさん来国し、国民は全土で祝いの祭りを行った。
 花嫁は深いベールを被り顔を見ることがなかったが、大層美しい姫君だとの噂がたっていた。王子は花嫁の好きな白い花を、冬でさえ商人から取り寄せるという溺愛ぶりだ。いつの頃からか、花嫁は白き花の君と呼ばれるようになっていた。彼女の身の回り、部屋中に白い花はかかされることがなく、いつも満たすように活けられていた。王子の宮殿の庭園には特別な庭師がおり、一郭に咲く白い花を特別に管理するようになっていた。
 そして、彼女の身につける衣装は、いつも白い生地に黄金の刺繍が裾からほどこされており、いつのまにか彼女だけが身につけるものとなっていた。今日はその上に深い緑の肩衣をはおり、庭園に出て書き物をしながら侍女達とお茶をしていた。
いつの間にか眠ってしまったらしい。今日は冬にしては暖かい日であった。風邪を引くのを心配して、侍女が彼女を起こそうとする。深く寝入ってしまったキャロルに困惑すると、側につかえていたルカが抱き起こし、彼女の部屋まで連れて帰った。
 ルカはキャロル付きの武官として任命され、いつも側に仕えるようになっていた。
ルカが最初から王子の命によって近づいた者とはキャロルが知ることが無く、キャロルが妃に成ったとき特別に王子から許され、側仕えになったと言い渡されていた。
ルカは至上の喜びとして彼女を守るべく心新たにして仕えていた。
 その姿を影からそっと見つめる者がいた。

 (やはり!!あれはルカ!では、では、王子の妃は姫様なのでは?)
 ヒッタイトの侍女の姿に身を変えて、エジプトの女官テティは柱の影に姿を隠して人気がいなくなるのを待っていた。
 夏、ナイルの姫は暗殺されてしまった。どんなにテティは悔やんだことだろう。
カーフラ妃を迎えた夜、悲しむ姫を気遣いお一人にして差し上げたことを、ずっと悔やんでいた。あの時、自分が少しでもお側を離れなかったらと何度思ったことか。
ナイルの姫の血痕はメンフィス王の寝所の側に残されていた。
 (姫様はメンフィス様のところへ行かれたのだわ。ああ、何故あんなことになったのだろう。)
 毎日思い悩む日々が続いた。そして、キャロルが死んだのを受け入れられなかった。そして、それが自分だけではないことを発見した。キャロル付きの武官であったウナスも、同じ思いであったのだ。
 今日までテティとウナスは心を共にして、キャロルを探してきた。そして、ヒッタイト王子の白き花の姫の噂を聞きつけたのだ。いてもたってもいられなかった。
きっとナイルの姫に違いないと何かが確信していた。
 ミヌーエ将軍が止めるのも聞かず、二人してヒッタイトにやってきて宮殿になんとか忍び込んだのであった。
 そして、今、キャロルと共に消えたルカを見つけたのだ。


18
 夕刻になると侍女達が動き出す。それまでがチャンスだった。
 テティはあたりに気を配りながら、先ほどルカが出てきた部屋に入っていった。
 部屋の中は白い花の香りで満ちていた。緑の見事な調度品のある居間を通り過ぎると、奥の寝室で一人の女性が眠っていた。テティは震える手で垂れ布を引いて、その人を見つめた。
 肩で切りそろえられていたがまぎれもなく黄金の髪に、白い肌の女性が眠っていた。
 (姫様!!やはりこの方は姫様だわ!)
 興奮のあまり後ずさりすると、真後ろにあった座椅子を倒してしまった。
 眠っていたキャロルは音に気づいて、目蓋を開く。
 あわててテティは彼女の口元を押さえ、自分を指し示した。
 「姫様、私です。テティです。姫様、お探ししました!!」
 目の前の人物を目の当たりにして、キャロルは心臓が止まるほど驚いた。声も出せずに矢継ぎ早に話すテティの話を聞く。
 「メンフィス様は姫様がいなくなって、まるでご乱心したように探されてます。
 決して姫様が亡くなったと信じてはおられませぬ。私どもも同じです。どうしてこんなところに・・・。さあ、私がお助けいたします。ご一緒にエジプトへ帰りましょう。」
 (メンフィスが私を捜して?)
 何も語りかけないキャロルにいらいらして、テティは彼女の腕を取った。
 「メンフィス様はカーフラ妃のことなど、何とも思っておりません。姫様がいなくなってから、一度もお側に置かれたこともございません。どうか、メンフィス様を信じてあげてくださいまし。」
 テティの言葉はキャロルの心臓を貫いた。身体は硬直し、しかし瞳から涙が流れていく。
 (メンフィスが?本当に?)
 喜びがわき出るようであった。しかしすぐにイズミルの姿が脳裏によぎった。
 ーーーーいついかなる時も、そなたを愛している。
 イズミルの言葉が彼女を捕らえて離さなかった。
 「わたくし・・・・。」
 キャロルは頭を手で包み、床に伏してしまった。


19
 「姫様!!急いでくださいませ。夕刻になれば侍女がやって来ます。外ではウナスも待っております。さっ、お早く。」
 テティの言葉を聞いて、彼女は静かにこうべをあげた。瞳は涙で濡れていたが、テティを見てはいなかった。ゆっくりと立ち上がり、テティに背を向けて窓辺へと歩んだ。カーテンを開けて、外を眺める。
 「ナイルの姫!!!」
 「お人違いでしょう。」
 静かに応えた。えっとテティは一瞬怯んだ。
 背を向けたままキャロルは静かに話した。
 「エジプトのテティとやら、わたくしはナイルの姫ではありませぬ。わたくしはヒッタイト王子の妃です。
  これ以上狼藉を振る舞うと、人を呼びますよ。」
 「おおっ、そんな!黄金の髪、蒼い目、この声。ナイルの姫にまちがいありません。何をおっしゃられるのです!」
 「ナイルの姫はとうに亡くなったのでは?わたくしによく似た方なのかもしれませぬ。それに、わたくしはエジプトへは一度も行ったことはありません。さあ、納得してエジプトへお帰りなさい。そして、エジプト王に申し上げなさい。ナイルの姫など捜さずに、国務にせいをだしなさいと。」
 衝撃がテティを襲った。一瞬本当にこの方はナイルの姫なのだろうかと疑うほどだった。
 振り返ったキャロルの顔は無表情だった。冷たい表情にテティは凍った。
 「さあ、わたくしの侍女がそろそろ参りますよ。見つからないように。そっとお帰りなさい。そなたはひと間違いをしたのです。亡くなった者の影を追うのは、もうお止めなさい。影を引きずると不幸になりますよ。」
 戸口を指し示し、微笑みながら最後にキャロルは言った。
 「さようなら・・・・。」
 扉の外から人の声がする。テティは心迷い、しかしがんと自分を受け入れないこの姫を知った。しかし、ここでナイルの姫を見捨てて行くわけにはいかないとも強く思った。
 姫に何が起こったのかわからない。たとえ、ヒッタイト王子の妃になろうとも、その身はエジプト王妃でしかありえないのだ。深く考えるより先に行動が先に出た。
 「姫様!!失礼おばいたしまする!!」
 テティはキャロルの細い手首を鷲掴みにすると、側にあった布を覆い被せ、無理矢理に引っ張って部屋の外へ出た。
 あまりに突然の行動にキャロルは声も出せなかった。しかし、悲鳴をあげるわけにはいかなかった。ここでテティの素性をヒッタイトに知らせるわけにはいかなかった。
テティを死なせるわけにはいかない。強く掴まれる手が痛む。今はただただ、恐ろしさに身をすくませていた。声も出すことも出来ないままテティに従い、宮殿の影から影へと駆け抜ける。
 メンフィスに、王子に恐怖を感じながら、遠くに見つけた懐かしい顔、ウナスを見たとき、彼女の意識は遠のいていった。


20
 最初の異変に気が付いたのはムーラであった。
 花瓶からこぼれた白い花が、床の上で踏みつけられていた。寝台横の座椅子は倒れ、部屋のカーテンは開け放たれたまま。
 「くせ者じゃーーーー!!!たれかある!!」
 ムーラの叫び声が南の宮殿に鳴り響いた。

 イズミルがキャロルの部屋に駆けつけたとき、床に散らばっている白い花がまず目に入った。
 全宮殿中が侵入者の捜索にあたっていた。その声がイズミルの頭上を通り抜ける。
 彼が床の花をとると、その花弁はぱらぱらとこぼれ落ちていった。

 何故だ。何故だ。何故だ。
 くせ者は妃がナイルの姫と知っての犯行か?
 ーーーーーそれとも、妃となったにも拘わらず、自ら逃げ出したのか?

 苦しい考えがイズミルを襲う。そして、怒りが我を忘れさすほどに、全身を包む。
 (許せぬ。決して許さぬぞ。侵入者あらば我が手中から妃を奪うとは。
  ーーーー妃でありながら逃げ出したのであれば・・・・・、その身、思い知らせてくれようぞ・・・。決して逃しはせぬ。)
 「王子、宮殿はもとよりハットゥサ市街の城塞、全ては封鎖いたしました。賊はまだ市外へは出ておりませぬ。必ずや正妃様をお助けいたします。」
 ルカがイズミルの側に平伏して言った。彼の声が聞こえているのかいないのか、イズミルは深く考え込み、黙っていた。乾ききっていない花弁を見やる。
 「ルカ、床の花の散り具合を見て、妃が部屋を出てまだそう時間はたっていないであろう。市街へ逃れたとは到底思えぬ。」
 「それでは、まだ宮殿内に・・・。」
 「うむ、夕刻も過ぎ、夜の闇にまぎれて脱出するつもりであろう。即刻全宮殿内の庭園、城門内にある荷駄を調べ上げよ。侵入者あらば、私の前へ引きだせい。
 目にものを見せてくれようぞ。」
 王子の内に秘めた烈火のごとく怒りを目の当たりにし、ルカは蒼白になりながら
走り出していった。

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