『 キャロル2年後 』
02/01/04〜02/03/03


 暑い夏がやって来て、キャロルが王妃となり2年が過ぎた。
 その間世界は動乱の時代が来、バビロニア、アッシリア、ヒッタイトと各国が同盟を結び、大国エジプトはヌビア王女カーフラを同盟の証として、迎えざるを得なくなる。
 キャロルは仕方がないことと諦めようとしてけれど、日々悲しみの中で暮らすこととなる。
 「テティ、解っているの・・・。解っているのだけれど、わたしはやり場のない悲しみをどうして良いのか解らないの。」
 「キャロル様、お願いです。どうかそんなに悲しまないでください。これは形だけの婚姻です。メンフィス様だって、姫様おひとりと決めていらっしゃいますとも。」
 キャロルはただただ、涙を浮かべながら頷くしかなかった。
 大きな夕日沈む前で庭園に出てみるが、メンフィスの昨夜の声を思い出すばかり。
 ーー私の心はそなた一人。何も疑うな。姉上達が同盟を結んだ今、そなたを危険な目に遭わすことは出来ないのだ。全てはそなた一人のため。
   私はカーフラとは何もしない。そなたに誓う。ーー
 信じたい。古代では政略結婚も当たり前だもの。私が耐えれば、このエジプトは救われる・・・。
 そうつぶやくが、やはり蒼い瞳は涙で霞んでくるのであった。

 「おほほほ。ばあや、もっと香油を塗っておくれ。ああ、嬉しい。やっと、やっと、念願のメンフィス様の妃となれる。」
 カーフラ王女のお付きの乳母が香油瓶をもって不満げに応えた。
 「ですが!ヌビアの第一王女様ともあろう方が第二妃とは、このばあや、納得しかねまする。」
 「何を言う!メンフィス様のおそばに行けば、こちらのものよ。
  ナイルの姫など口ほどにもないわ。うふふふ、明日になれば解るわ。」
 明日、カーフラはメンフィスの元へ輿入れするのであった。
 以前想いを遂げることが出来なかった彼女は、国に帰り少しばかりお利口になったのだ。手に入らないものは無い自分。何かが原因になっているのなら、それを消してしまえばよい。その為に国で下準備をして、入念な計画をたてた。
 明日、カーフラはメンフィスの寝所に入る。その時こそナイルの姫の暗殺の決起!
 王なくしては虫けら同然の姫。王はカーフラの身体に酔いしれると絶対の自信もあった。
 明日になればメンフィスもエジプトもわたくしのもの!!
 香油であふれんばかりの匂いとしっとりと濡れた肌は、まさに誰をも魅せられるように輝いていくのであった。


2
 メンフィスは失礼のない程度にカーフラを無視し続けた。初夜の所の中でももちろんそうするはずであったし、これからもそうするつもりであった。が、妖しい香りの中で意識が朦朧としてきた自分を感じ始めていた。
 「カーフラ王女、私は・・・そなたに・・。」
 「メンフィス様、わたくしを見て・・・。美しいでしょう。わたくしはあなたのものよ。
  さあ、わたくしを愛でて、愛してくださいな。」
 国より持参した香燭の中に妖しげな媚薬を調合したものもあった。まさにメンフィスの所入れ前にカーフラは灯をともして用意していたのだった。
 メンフィスの手を取り自分の豊満な乳房へと這わせ、茂ったものが全くないなめらかな谷間へと導いていく。
 「う・・うむ・。不覚であった!この妖しげな香りは・・。」
 意識の抵抗を続けようとするメンフィスに、カーフラはゆっくりと脚を広げてみせ、笑いながらその中心へと誘いをかけるのであった。赤い襞を自ら押し広げると、そこは濡れきった部屋が露わになる。
 カーフラもまた、媚薬の効果のせいか大胆になっている。
 男としての欲情がメンフィスを支配していく。
 キャロル、キャロル、許せ・・・・。
 無意識にそうつぶやきながら、メンフィスはカーフラの満たされた乳房を手に収めていった・・・。

 ああ・・。メンフィス、メンフィス。この身が焼けそうよ・・・。約束したわね。あなたは私一人のものだと。
 お願いよ、今すぐ私の元へ来て・・・!!
 ふらふらとキャロルは庭園越しにメンフィスの寝所に近づいていた。
 メンフィスを愛するばかり、無意識に近づいていたのだ。
 「ああっ・・・。メンフィス様あ・・・。」
 「!!!」
 寝所から聞こえてきたのは、カーフラの艶っぽい声!
 キャロルの脳裏は真っ白になり、地面がゆらりと揺れたような気がした。身体の均衡がとれなくなり、脚が崩れ去ってしまった。事態を理解するのに時間もかかったような気がする。
 わ・・わたし?
 その時、誰かがキャロルの髪を掴み、首元にナイフを振りかざした。
 悲鳴を上げる暇もなく一瞬身をかわしたが、ナイフは黄金の髪を切り、キャロルの首に傷を残した。
 「メンフィス!!誰か!!助けて!!」
 やっとの思いで声を出すが、ほんの先にいるはずのメンフィスは出てこない。ナイフを持った相手は、女官姿をした女である。またもや自分めがけて、ナイフを振りかざしてくる。
 「メンフィスーーーー!!助けて!」
 「メンフィス王は出て来まい。カーフラ様と愛を語ろうていらっしゃる。いくら叫んだところで無駄じゃ!!。
  亡き者となってもらいますぞ、ナイルの姫。」
 「メンフィスーーー。」
 ただただ呆然となってしまうキャロル。
 わたし・・裏切られたの?
 ナイフはキャロルの腕斬りつけた。その痛みで我に返るが、またもやナイフが向かってくるのが解った。
 「ひっ!」
 声にならない声で叫んだその時に、とっさに女官を突き落とす者があった。
 「ルカ!!」
 だが、ナイフはキャロルの脇腹を斬りつけていた。
 「ナイルの姫!!早くお逃げ下さい!!」
 女官は巧みにナイフを操り、ルカに隙を見せない。
 (これは、訓練された刺客か!)
 とっさにルカはキャロルを抱きかかえ、横に流れるナイル川に飛び込んだ。後に残されたのはキャロルの血と黄金色の切り刻まれた髪の痕、そして刺客の女官。
 濁流の中、ルカは必死になってキャロルを抱きかかえ、岸へ泳ぎ切った。キャロルの意識はすでにない。
 「お許し下さい。ナイルの姫。王宮の中のことと私が油断しておりました。
  おお、意識が戻らぬ・・。すぐに御身を安全な場所へ。
  このまま我がヒッタイトへ連れて参りますぞ。
  お許し下さい、イズミル王子。必ずや私が無事に身元へお連れいたします。」
 ルカはキャロルに応急処置を施し、抱きかかえ心堅く決意するのであった。


3
 ナイルの河畔、下エジプトの村はずれのオアシスでその人は立っていた。
 ただ立っているだけのお人形のように微塵も動かない。その瞳は遠く空を見ているようだが、ただぼんやりともしているようで、何を考えているのだろうか。
 「ナイルの姫、風が強くなりました。さあ、出発いたしましょう。」
 返事もなく、動く様子もない。それを見て、ルカは本当に困ってしまった。

 エジプト王宮で刺客に襲われて早1ヶ月。脇腹の傷で一旦はキャロルは生死を彷徨っていたが、ルカの懸命の看病によりとうげを越え、回復に向かっていた。
 しかし、キャロルの意識は無いものと同じであった。話すことも笑うこともなく、ただそこに在るだけで何も感じないようであった。
 ルカは必死に呼びかけ話しかけるが、1ヶ月の間キャロルはただのお人形のままであった。

 「ナイルの姫、刺客がまだ御身を狙っているやも知れませぬ。安全を計るためにも一時はエジプトを出奔いたしましょう。」
 ルカは泣きたくなるような気分であった。朗らかに微笑みかける姫はもういない。前回メンフィス王とカーフラ王女の誤解があったときは、怒りと悲しみで親元に帰ってしまったが、まだ元気であった。
 今のナイルの姫はまさに魂を抜かれたただのお人形だ。
 エジプトを出ると言っても、どこへとも聞くこともなく、自分の言っていることはただ空気に流れるだけで、まるで独り言だ。このような状態になってしまったことに、ルカは怒りを覚えている。
 全身全霊でルカは怒りを覚えてしまうのであった。

 そして、このような状態の姫を、イズミル王子は受け入れて下さるだろうか?いや、我がヒッタイトは受け入れることが出来るだろうかと考えてしまう。とにかく今日、王子には伝令を出した。ナイルの姫を国境までお連れすることを伝えた。
そこで王子の返事を待つのだが、今の姫を見るとなんだか心配になってくる。

 とにかく、ルカはキャロルの様子を見つつ、荷駄を駱駝に乗せ出発の準備をした。


4
 既に夜も更け、国境を出たヒッタイトよりの中立の街で宿をとると、ルカはキャロルの寝所を用意した。水をもらいに壺を持って外へ出る。
 一瞬目を離した隙だった。
 部屋に帰ってくると、キャロルがナイフを手に取っていた。
 「姫!!何をなさいます!」
 ルカの身体が凍りついたが、すばやくキャロルの手にあるナイフを取り上げようとした。
 が、キャロルは静かにルカを制したのであった。そして、長い髪を引き伸ばしナイフで切り取ってしまった。
 はらはらと黄金の髪が、床にこぼれ落ちていく。まるでキャロルの涙のようであった。
 あまりのことにルカは言葉を失った。
 そして、キャロルが初めて反応したことに、心ならずも動揺していた。
 「ずっと、ルカの声が聞こえてたわ。
  でも、戻りたくなかった。もう、どうでも良いと思ってた。」
 「ナイルの姫・・・。何故このようなことを・・・?。」
 キャロルは泣いていた。しかし、嗚咽も聞こえず、蒼い瞳から静かに涙を流しているだけであった。
 「解らないの。でも何もかも捨ててしまいたかった。
  これからも私、どうして良いのか解らない。
  家族の元へ帰りたい。
  でも、もう逃げたくない。帰りたいけど、ここから逃げたくないの。」
 黄金の髪は肩に付くぐらいにしかなく、軽やかに揺らしながらキャロルは震えながら泣いていた。
 ルカはじっと黙っているしかなかった。

 キャロルとルカが無言で見つめ合っていると、表が騒がしくなった。
ルカが最初に気づき、キャロルに頭からすっぽりとマントを被せる。

 「お騒がせしてすみません。お客様、ちょっと・・・。」
 宿の亭主がルカを手招きした。ルカはキャロルに目配せすると、亭主に誘われるまま部屋を出ていった。
 一人残され、キャロルは床に力無く床に腰を下ろした。
 このまま消えて無くなりたい。
 本当は叫びだしたい。
 (あれからメンフィスはどうしているのかしら。)
 考えたくないけれど、幸せだった頃を思い出して、そして今の自分の状態を見て、悲しくて叫び出したくなる。
 あなたの言葉を信じていたのに!!
 あんなに幸せだったのに!
 しかし、一言も声が出ることは無かった。ただ、身体は熱にうなされるように震え、涙は枯れてしまったように最後の一筋のみ頬をつたった。

 「・・・・。」
 だれかに声をかけられたような気がして、ふっと顔を上げた。
 「ルカ?」
 「そなたの召使いは捕らえてある。」
 その姿を一目見て、キャロルは身体が冷たくなるのが解った。無意識にマントを引き寄せた。
 「久しぶりだな、ナイルの姫。」
 「イズミル王子・・・・。」
 扉に腕を曲げて寄りかかり、その目はしっかりとキャロルを見据えていた。


5
 美しく背の高い若者が扉に腕を曲げて寄りかかり、その目はまっすぐにキャロルを見据えていた。
 明るい茶色の髪は腰まで長く緩やかに束ねられ、その瞳はやはり明るい茶色で、着流したように見えるロープは、エジプト人とは違う明るい褐色の肌にまとわりついていた。
 イズミル王子は静かに扉を閉め、また扉に寄りかかった。ずっと無言のままだ。
 お互い何も語ることもなく、沈黙が部屋を包む。
 いつものキャロルならば悲鳴を上げ、すぐにでも逃げだそうとするだろう。しかし今の彼女は不思議に恐怖感が無かった。確かに彼を恐れている自分も感じる。けれども恐怖に醒めてしまっている自分もいる。そこにはイズミル王子に出会った頃の彼女がいた。まっすぐに彼の瞳を見返す
キャロルがいたのだった。
 「いつか見た蒼い目だな。」
 最初に沈黙を破ったのはイズミルであった。ふっと柔らかな微笑みに目蓋を閉じる。
 「そのように堅くならなくても良い。私は迎えに来たのだから。」
 柔らかな声と共に、キャロルははっと我に返ったように、あたりを見回した。表は静かになっている。自分の手を見ると、まるで他人のようにきつくマントを握りしめていた。
 イズミルの言葉など聞いていないように、ゆっくりと呼吸をし、ゆっくりと立ち上がった。
 「ルカはどうしたのです?ルカに乱暴はしないで。」
 相変わらず扉に寄りかかったまま、腕を組みイズミルは微笑んだままだった。
 「無礼は許しません。私はエジプトの王妃。人質になるのならそれも良いでしょう。でも、私と私の侍従に危害を及ぼすことは許しませぬ。」
 「初めて会った頃を思い出すな。そなたはまっすぐに私をにらみ付け、強い態度を望んでいた。
  しかし、姫よ・・・、エジプト王妃はもういない。」
 「えっ!?」
 「つい先日、エジプトでは王妃崩御の知らせがあった。・・・そなたは亡き者になったのだ。」
 イズミルの言葉にキャロルは驚愕した。
 私が亡き者?私が死んだと言うの?
 「そ・・んな。私が死んだとでも言うの?」
 キャロルは悲鳴に近い声をあげ、イズミルに向かって行った。両手はきつく握られ、王子の胸元へ叩きつけた。イズミルは冷静に見つめ、静かにキャロルを受け止めた。
 「私は死んでいない!生きている!生きているのに・・・。」
 もう涙も出なかった。ただ怒りが彼女を支配しているように、イズミルをにらみ付け彼に向かって手を振り上げた。
 その手をしっかりと掴み、イズミルは彼女を引き寄せ抱きしめた。急に自由を奪われて、キャロルはもがいたが、王子を打ちつけるために挙げた手が強く掴まれ、痛みのあまり力を失った。
 その耳元で囁くように王子は語った。
 エジプト王妃は血の痕を残し、ナイルに流され死亡。
 遺体は無かったが、王妃の黄金の髪にも血の痕が残され、生存は絶望。
 国民は深い悲しみに包まれ、納得しないつつもつい先達て崩御を受け入れた。
 次の王妃は第二妃であったカーフラ妃がなるのも、時間の問題であろう。

 生存は絶望?
 エジプト王妃に、カーフラ王女が!?
 キャロルの頭は真っ白になり、唇も蒼白になった。
 「姫、しっかりいたせ。こちらをむけい。」
 キャロルの顔にかかったマントをのけると、無惨に切り取られた黄金の髪と、青白い顔が顕れた。
 (なんと、この髪はどうしたことか。)
 しかし怒りとも恐怖ともとれない蒼白な顔は、何とも美しかった。悩ましげに眉をひそめ、少女の殻を捨てた大人の女性の顔を持っていた。
 その頬に長い指を這わせ、彼は口づけした。
 (王子!)
 キャロルは驚いたが、押しのける力もなく虚力感のなかで、イズミルの口づけを受け入れてしまった。
 改めてキャロルを抱きしめる。
 「だから、私がそなたを迎えに来たのだ。」


6
 悲しみと絶望の中で、キャロルは眠っていた。見る夢は悪夢ばかり。うなされ続けて、夜をあかしたようなものであった。自分を取り戻してからたくさんの事実を聞かされて、何も考えたくなかった。深い眠りに頼ろうとしたのだが、あてがはずれていた。

 キャロルのかたわらにいるイズミルが、そっとキャロルの涙を拭っていた。
 キャロルを見れば見るほど、その美しさは増してくる。エジプトの強い太陽光に焼けた肌は、すべすべとして染み一つない。抜けるように白かった肌は、衣類の下に輝きを持って隠されていた。
 短くなった黄金の髪はさらさらとシーツの上に息づいているようだ。大きなはっきりとした瞳は、長い睫毛に閉じられて今は見ることが出来ない。
 華奢な体つきは昔と変わることが無く、ほっそりとした手脚は相変わらず強く握ると折れてしまいそうだ。すんなりとした手の指は,かすかに動きまるでイズミルを求めているようにも見える。
 小さい形の良い唇はバラ色に光り、イズミルを誘惑しているようだ。
 たまらず、その唇に重ねた。優しく愛しく接吻を与える。キャロルが目覚めているときには見せない優しさで、イズミルは甘く唇を奪う。手のひらを彼女の胸元に添え、その呼吸を確かめるように触れて、そして、脇にあるはずの傷痕に指を流した。
 キャロルが目覚めている時に今宵こそは胸に抱こうとしたのだが、脇を掴んだとたん、彼女は苦痛の悲鳴をあげたのだ。刺客に刺された傷痕はやっとふさがったばかり。出血こそしていないものの、激痛が彼女を苛む。
 代わりに腕の中で眠らせることにしたのだ。
 眠っているキャロルを引き寄せ、抱きしめた。
 「もう二度と離しはせぬ。決して否とは言わせぬ。未来永劫私と共に生きるのだ。
  ・・・・愛しい・・。愛しい我が妃よ。」
 また再び、唇を与える。甘く切ない接吻であった。
 (そなたには知らせておらぬが、メンフィス王は暴君となり果てておる。そなたが消えて昼夜探し回り、今もそなたの死を認めてはいない。
  今度の戦でもってメンフィスと果たし合い、我が手でそなたを得るはずであった。しかし、今我が手にはそなたがいる。もう二度とメンフィスには触れさせぬ。)
 「あ・・・。」
 キャロルの口から、声が漏れる。薄く蒼い瞳が開けられる。
 「だれ・・・・?。」


7
 早朝、身支度を整え、キャロルはイズミルから逃げることなく静かに座っていた。
いつものようにきょろきょろすることもなく、ただぼんやりと座っているだけであった。
 「逃げぬのか?」
 薄く笑いながらやはり身支度を終えたイズミルが声をかけた。
 「逃げたって、行くところがないわ。生きているってエジプトに帰ったところで、もうメンフィスとは会いたくない。
  ーーーー王子、私はヒッタイトへ行くと決めたわけではないわ。」
 相変わらず頑固なところに、イズミルは少し安心していた。昨夜は自分の口から
言ったこととはいえ、キャロルを悲しみに突き落としてしまった。衝撃のあまり今日
は起きあがることさえ出来ないかと思っていたのだが。
 (強くなったな・・・・。)
 じっと見つめるだけのイズミルにしびれを切らし、キャロルはさっさとマントを羽織った。
 「どこへ行く?ナイルの姫。」
 きっと振り返ったキャロルの瞳は燃えるように熱かった。
 「何処へでも自分の行きたいところへ行くわ。
  それから私のことをナイルの姫とは呼ばないでちょうだい!ナイルの姫はもういないの。私はナイルの姫ではないわ。
  私は何もかも失ったし、そして捨てたの。
  ・・・・・そう。私が私でいられるように、名前も全て捨てるわ。」
 「なに。名前を捨てると。ふっ・・、それも良い。
  そなたが何者であろうと、私には関係ない。私はそなた自身が欲しいのだ。」
 けげんそうな顔をしてイズミルに向き合った。王子の計略の真意を謀りかね、イズミルを眺める。
 「私はもうエジプトの王妃ではないのよ。そして、ナイルの姫でもない。そんな私を手に入れたところで、あなたには何の特も生じない。あなたなら、よく解っているでしょう。」
 イズミルはテーブルのそばで、杯に入っていた水を飲んでいた。彼は先ほどから椅子に座り、くつろいでいる。それがキャロルをいらいらさせた。その様子を密かに楽しみながら、黙っている。
 「王子!!」
 「近いうちに戦が起こる。私はそなたがいずとも必ずこの手でエジプトを手に入れる。だからそなたが人知れず者になったとしても、かまいはしないのだ。
  そなたは行くところがない。そなたの姿を見て、いくら否定しようとも皆ナイルの姫と認めるであろう。そうすると、すぐにでも刺客が来るぞ。
  それならば私の側に居よ。私がそなたを守ってやる。そして、そなたを裏切ったメンフィス王がどのような戦をするのか、傍観しておればよい。」
 「なんですって。戦が始まるのね。」
 イズミルは立ち上がって、キャロルを引き寄せた。弾みによろめいて心ならずもイズミルの胸元に飛び込んでしまった。
 キャロルの唇を激しく求める王子に、抵抗も出来なくなっていた。
 (それならば、戦を止めさせなければ。たくさんの死者が出る。
  裏切ったメンフィスは憎いけれど、私を慕ってくれたエジプト国民を守らなければ・・・。)
 「このような時に・・・、何も考えるな。」
 キャロルの心を見透かしたようにイズミルが言った。再び唇を重ねる。イズミルの舌が絡みつき、それは甘く切なかった。とろけるような接吻にキャロルは何も考えれなくなっていった。
 ようやく離した後、微笑みながらイズミルは、彼女を抱きしめた。
 「じゃじゃ馬には、キスが一番だな。」


8
 宮殿深く、石造りの柱をぬって通り過ぎると、急に視界が広がる。エジプトのように照りつけるような太陽はなく、ベールがかかったような光りの中、何段にも重ねられるように植物が立ち並んでいる。小鳥たちも時折やって来ては休息をとる。奥宮殿に存在するバビロンの空中庭園である。
 一番高いところは本宮殿の屋根にも居並ぶ高さで、階段を長く上らないと辿り着くことは出来ない。珍しい木々や花々は、アイシスのために植えられた。エジプトから取り寄せた花々は特に丁重に扱われていた。暑い国から来た花々は、バビロニアの気候には過敏すぎて庭師によって厳重に管理されている。
 それはまさにバビロンにいるアイシスそのものであった。
 「アイシス様、朝はよく冷えまする。こちらへお召し替えを・・。」
 「アリか・・・。昨夜、ナクト将軍が来ていたようだが、何か?」
 アイシスは、自分の部屋へ帰りながら、アリに問うた。
 昨夜王が寝所を訪れた為か、アイシスの肌はしっとりと濡れている。つややかな黒い髪が空気を泳ぐようになびく。
 「お気づきあそばされておりましたか。目立たぬよう将軍は参上されました。
  ーーーー我が君、アイシス様。エジプトにて王妃崩御の知らせを持って参りました。宮殿内の目がありますゆえ、将軍には外で待機させておりまする。」
 「なにっ!!」
 アイシスは目をむいて、アリを振り返った。アーモンドの形をして深い睫毛に囲まれた瞳が燃える。
 「それは、まことか!」
 「はい。エジプトでは国民は悲しみに包まれ、明後日より葬儀の式が始まりましてございます。
 全国民が喪に服している様子。」
 キャロルが死んだーーーーーー。
 おお、何と長く願った我が思い。おお、何と嬉しい。
 しかし。
 「して、メンフィスの様子は、いかがしておる?」
 「メンフィス王におきましては、激怒され誰も近づくことさえかなわぬご様子。このまま烈火のごとく怒り狂われるのではないかと、皆ご心配申し上げているとこのことでございまする。」
 おお・・・、メンフィス・・・。わたくしがそなたの側におれば、そなたの苦しみを鎮めてあげましょう・・・。
 愛しいメンフィス・・・。

 立ちすくんだまま、アイシスは動かなかった。彼女の手が微かに震えている。キャロルの死をアリでさえ、胸高鳴るほどの喜びに包まれているほどなのに、念願であったアイシスの胸の内は計り知れない。
 「アリ・・・、わたくしはエジプトへ帰ります。」
 驚いたアリは声をあげた。
 「なりませぬ、アイシス様!!御前は敵国の王妃でごさりまする。既に三国が同盟を結んだ今、引き返すことは出来ませぬ。」
 「いや、アリ。まだ戦は始まっていない。同盟国に対し、いくら大国とてエジプトには部が悪い。
 メンフィスの力をもってをしても、負け戦になるやもしれぬ。それならば、キャロル亡き今メンフィスのために、わたくしがバビロニアを崩すことが出来るやも知れぬ。
 ーーーーナクト将軍に伝えよ。メンフィスに伝えよ。わたくしがバビロニアに手を下そう。その代わりに、エジプトはわたくしを迎え入れよ。女王アイシスを受け入れよと伝え申せ。証拠にアリ、わたくしの王家の紋章のはいったこの指輪を将軍に持たせ。」
 (おお、そこまでしてアイシス様は・・・。)
  「御意にございまする。」
 アリはアイシスから指輪を受け取り、足早に立ちり去った。
 ひとり自分の居間に残されたアイシスは、窓際に手を置き立ちすくんだ。
 胸が高鳴る。全身から喜びが吹き上げてくる。思わず口元から笑いがこぼれた。
 メンフィス、わたくしはあなたのために生きまする。
 いくら毎夜ラガシュ王に抱かれようとも、わたくしの心はあなたのみ。
 ほほほほ。邪魔者はいなくなった。メンフィス、あなたの心はわたくしが埋めて差し上げましょう。
新しい妃などはいて捨てましょう。
 メンフィス・・・・。
 愛しているわ・・・・。


8.5(概略のみ)
 夏の終わり、キャロルはイズミル王子に連れられて、ヒッタイトの首都ハットゥサへ到着。出迎えのムーラに会い、南の宮殿に自分の部屋をあたえられる。
 イズミルに対してキャロル、特に発展なし。自分はあくまで客人と言いはる。
 ヒッタイト王妃との対面。大エジプト帝国の王妃であったキャロルの覇気におされ、王妃はキャロルを認めざるを得ない。
 また今のキャロルの相貌は「愛らしさが一層の輝いた美しさへと代わり、幼稚さの代わりに威厳に満ち、・・・・」たもので、誰もが目を離さずにはおれなかった。
 宮殿でのキャロルの存在を隠すため、王妃はイズミルから彼女を預かることにする。
 しばらくの間、離ればなれになる二人。
 その後・・・・。


9
 夏が終わり、秋がひっそりとやってきた。
 ヒッタイトでははっきりと季節が分かれており、気候の変化は肌で感じ取れる。
人々の服装も薄衣から風を通さない布を身にまとうようになり、革で作られた靴にサンダルから履き替えられる。
 宮殿の中にもカーテンが幾重にも掛けられる。昼は光りを入れるために開けられ、夜はまだ鎧戸の季節ではないのでカーテンで暖を包み込む。
 キャロルはたまにカーテンの中で迷い子になったような気分になる。開いても開いても幾重にも重ねられ、出口のない毎日。まだ読むことの出来ないハッティ文字を覚えたりすればよいのだが、宮殿から出ることも出来ない生活に、窮屈な思いを抱いていた。
 王妃の側にいる毎日。たまにイズミルに会うとどきりとする。夏の終わり以来、イズミルと会うことはほとんどなかった。奥宮殿のここでは一体いつ戦争が始まるのかも解らない。キャロルが出会う後宮の女達には関心無いことなのか、何一つ聞くことはない。
 戦争を止めるためにここに来たのに、全く情報が得られない状態で、焦燥感がじわりと胸につかえる。せめてイズミルに会うことが出来れば。戦を見ていれば良いと言った肝心のイズミルには、ほとんど会うことがない。今だヒッタイト王にも一度も見かけることがない。一体自分がいることを知っている人間は、この中でどれ位いるのだろう。一体世界は今、どうなっているのだろう。


10
 早朝、王妃の元にイズミルがやって来た。
 イズミルは早々に聞いた。
 「母上、そろそろ姫をお返しいただけませんか?」
 王妃はにこやかに微笑みかけながら、飲み物を飲んでいた。
 「王子、このような早朝に何かと思えば・・・・。ほほほ、そなたの我慢もつきましたか。」
 「おたわむれはお止め下さい。姫は私が長年待ち続けた女性です。」
 先ほどの柔らかな風囲気とはうって変わって、王妃は王子の目を射るように見た。
 「母に遠慮はいらぬ。」
 「姫は我が妃と定めと女性です。姫の傷もそろそろ癒えた頃とお見受けいたします。
  ーーーー私は今すぐにでも婚儀をあげ、皇太子妃として迎えたい。」
 イズミルの手を取り、ふわりと優しく包んだ。
 「その言葉を待っていたのですよ、王子よ。そなた、あれほどの姫を迎え、王者と成り得ますか?父を越え、ヒッタイトを盛時できまするか?あの姫は普通の者では扱い得ることはできない姫のように思います。
  以前より陛下はナイルの姫を欲しておられる。姫を見つければ、有無を言わせず我がものとされることでしょう。だから姫をわたくしの元へおいたのです。
  王子イズミルよ・・・。そなたにわたくしから姫を差し上げましょう。
  これで陛下はそなたの望みを叶えて下さることでしょう。」
 王妃の真しの言葉にイズミルは声も出なかった。
 そこまで王妃は思いやって考えていたのだった。確かにイズミルが見つけてきたと知るや、王はイズミルの手から簡単に奪い去っていくだろう。しかし、王妃という後ろ盾を受けて、王妃が下した姫ならば王も認めないわけにはいかないだろう。
 「母上、母上は以前ミラを妃にとおっしゃった・・・。」
 「確かにミラはミタムンの乳姉妹であり血筋も確かな娘じゃ。気だても良い。しかし、姫とは格が違いすぎまする。皇太子妃にはできぬ。しかし王子よ、ミラも側室に迎えると約束してくれまいか?」
 「母上、私の最愛の姫はただ一人。側室を迎える気はありませぬ。」
 考えもしなかった王妃の申し出に、王子は拒否以外何もなかった。例えミラを迎えたところでそれは形だけのものになってしまう。それよりも身分の高い臣下のところに嫁いだ方がミラも幸せであろう。
 「王子、姫がエジプト王妃になり2年が過ぎ、あれほどにエジプト王が溺愛していたにも拘わらず、公子の誕生はありませんでした。一度子は流されたと聞きましたが、誕生がなければ意味はありませぬ。
  我がヒッタイトにも血筋は受け継がなければなりませぬ。もし、姫が子の出来ぬ身体になっているならば、側室は必要です。」
 「しかし・・・。」
 確かに王妃の言うことはもっともであり、王族の血筋を絶やすことは出来ない。
しかし、キャロル以外の女性を迎える気には全くならかった。しかもメンフィス王とカーフラ妃の一件を絶対許さないかたくなな彼女を知っている。
 「・・・そなたの気持ちは解りました。では、条件を出しましょう。婚儀をあげ一年の間に懐妊の兆しがなければ、ミラを迎えなさい。」
 きっぱりと王妃は言い切った。
 これで全ては後戻りはできなくなった。

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