『 キャロル2年後 』


21
 「ウナス、これでは動きがとれないわ。どうするの?」
 「なんとか闇にまぎれてと思っていたが、ヒッタイト王子がこれ程迅速に動くとは・・・。」
 二人の話し声を遠くに聞きながら、キャロルの意識は戻っていった。意識がはっきりとしてくると、現実が目の当たりにやってくる。遠くに聞こえる自分を捜す声また声。
 (これではウナスとテティが殺されてしまう。どうしたら・・・。)
 キャロルは二人に気づかれないよう意識のないふりをして、現状を考えた。そして本当にメンフィスのところへ帰りたいのかも。メンフィスのことを想う、しかしすぐにイズミルとの過ごした時間にすり替わってしまうのだ。メンフィスを愛していたはずなのに・・・・。
 思い出すのは庭園で花を差し出す彼の姿、王姉の暗殺未遂にあった少年時代を話す彼の悲しい表情、長椅子で書を広げ字を教わった彼の声。そして、自分の身体に触れる彼の長い指・・・。
 それに、テティにはっきりとヒッタイト王子の妃と言ってしまったのではないのか・・・・。そう、あの時に自分の思いは解ってしまった。もう元には戻れない。
とにかく自分は宮殿に戻らなくてはならない。二人には納得してもらうしかない。
ウナスとテティの命、それはかけがえのないものだ。
 キャロルは身を起こした。
 「キャロル様!!お気づきになられましたか。」
 彼女に気が付いたウナスがすかさず手を取ろうとする。が、キャロルははねのけた。
 「無礼者。わたくしを解放しなさい。わたくしはエジプト王妃ではありませぬ。」 
 「何を仰せられるのです!あなた様はかけがえのない大切なお方。」
 キャロルは二人をにらみ付けると、厳しい声で言った。
 「いいえ、違います。勘違いも甚だしい。ナイルの姫などわたくしは知らぬ!
 解放せねば声を出しますよ。」
 (お願い!!ウナス、もう帰って。このままでは二人が見つかってしまう。)
 厚い沈黙が時間を止めてしまうように感じる。
 「・・・では、なおのことエジプトへお連れして、メンフィス様に確かめて頂きます。失礼を。」
 ウナスは強張った表情でキャロルの口元に布を縛り、手首を縛った。
 「止めて、ウナス!姫様にこんな酷いことを!」
 テティがキャロルを支える。黒い瞳からは涙が出、その手は震えていた。ウナスはぷいっと外に顔を向けると何も言わなかった。


22
 ルカは単独で動いていた。
 庭園の隅々、あらゆる荷駄を調べたが何もなかった。そして、人通りの少ないところ、地下や穀物倉などを見回ってみることにした。予感的中。倉から地下道へ続く道の小部屋に人の気配を感じた。物陰に身をかくし、中の様子を窺う。ウナスとテティの声を聞いて驚き、中へ踏み込めず王子に知らせるか迷った。
 (エジプト人が迎えに来たとなると、姫君はもしかして?)
 しかし、キャロルの声はいっこうに聞こえてこない。不審に思いながら、いつでも踏み込めるように戸口にピッタリと付いた。

 キャロルは泣き続けていた。何もかも苦しかった。
 このままエジプトに帰っても、もう元のようにメンフィスといられない。確かに全てをかけて愛していた。今も愛していると思う。けれど、心の片隅に消えることのないイズミル王子との過去をもちながら、以前と同じようにメンフィスと過ごすことはできない。それに、誤解だったとはいえ、カーフラ妃が後宮に居続ける中自分も側にいられるのだろうか。また、メンフィスは王子の妃となった自分を決して許さないだろう。
 イズミルに対しても不安が突き上げる。この状況は以前ハサンと一緒に逃げたときと酷似している。彼は私が自らの意志で逃げたと思っているかもしれない。この数ヶ月優しい日々を過ごしていたが、その反動を考えただけで恐ろしい。王子は恐ろしい人と忘れかけていたことが鮮やかに蘇る。またそれ以上にイズミルに対しても愛があるのも真実。
 メンフィスの前に、イズミルの前に出るのはどちらも恐ろしい。このままどこかへ消え去りたいとさえ思う。
 (ああ・・・、全ては私が愚かだったために起こったことなのだわ・・・。)
 キャロルの嗚咽が呻き声へと変わっていった。側にいたテティは驚いて、キャロルの口元の縛めを急いではずした。
 「姫様、どこか苦しいのですか?」
 「・・・して・・。」
 床に伏しがちなキャロルの上半身を支えあげながら、テティは何度も呼びかけた。
 「・・・殺して・・。わたくしを殺しなさい。」
 これにはウナスも驚き、彼女の側に駆け寄る。かまわずキャロルは続ける。
 「わたくしはヒッタイト王子の妃です。どうしてもエジプトへ連れて行くのなら、わたくしを刺し、その死体を持って帰りなさい。わたくしを殺しなさい!!」


23
 尋常でない姫の声を聞きつけ、ルカは部屋へ飛び込んだ。
 一瞬の出来事であった。ウナスは瞬間剣を取る手が遅れ、ルカはテティの手からキャロルを引き寄せた。
 「ルカ、貴様ヒッタイトの手の者だったのか!!」
 ウナスが剣を取り身構える。それを見てキャロルは叫んだ。
 「違います!!ルカはわたくしの忠実なる僕。ヒッタイトとはなんの関係もありません!!殺すのならばわたくしを・・・。」
 「やめて!!ウナス。そんなことをしてもメンフィス様はお喜びにならないわ!!」
 テティがウナスの腕にしがみついた。ウナスは歯ぎしりしてルカをにらみ付けた。
 「何故だ!!何故、キャロル様はそこまでして、イズミル王子の妃と言われるのだ!あれだけ深い愛でメンフィス様と共に生きてこられて、何故・・・。」
 ウナスは膝を折り、顔を伏せて男泣きに泣いていた。ルカが何か言おうとしたが、キャロルはそれを制した。
 「わたくしはナイルの姫ではありませぬ。だから諦めてエジプトへお帰りなさい。
 それが出来ぬのなら、わたくしの死体を持って帰るがよい。このまま消えても何の悔いもありません。」
 本気であった。このまま死んでしまえば、本当に楽になる気がする。自分さえいなければ、誰も傷つくことがなかっただろう。
 「姫様、駄目です。そんなこと許されるはずがありません。」
 テティがキャロルの足元に屈して泣き出した。ルカはこの状況に判断が付けられず、身動き出来なかった。だが、姫がヒッタイトに残る決意が固いことだけは理解できた。なんとかして王子に居場所だけでも知らせることが出来れば。

 寝所に招き入れたアイシスは、国王ラガシュが剣を置き、無防備になるのを待ちかまえていた。
 「まあ、わたくしのところへお出でになるのに、また剣を携えてなさる。そんなにわたくしが信用ありませぬか?もう、一筋にあなただけでありますのに。」
 アイシスは彼にしなだれかかり、甘える声で言った。
 「そのほうがそのように機嫌がよいのは、珍しいな。」
 「ほほほ。先日、エジプト王妃が死去したと聞きました。わたくしにとって、この上なき朗報。陛下もお喜びでしょう?」
 「うむ。確かにそのような報告は受けておる。しかし、そう簡単にナイルの姫が死ぬとは思えぬ。」
 「いえ、確かにございまする。エジプトのわたくしの部下にも探らせました故。
 ほほほほ。愉快ですわ。」
 嘘ではなかった。ここ数日、アイシスは楽しく嬉しい毎日を過ごしていた。エジプトに帰る日も近い。想像するだけで喜びに満ちあふれる。ラガシュ王の相手など苦にも思わないほどであった。
 ラガシュ王がアイシスにかぶさるようにして、求めてきた。
 アイシスの黒い瞳が光る。
 この時をーーーー、待っていた。
 手に持っていた鈴の付いた扇子を取り落とす。
 合図の鈴の音であった。

 兵士達が一斉になだれ込む。
 ラガシュはアイシスを守るように背を向け、剣を取った。
 「何やつ!!無礼であろう。下がれい!!」
 ラガシュは周りを見渡しはっとした。数人見た顔がある。兵士の中から、男が先達て来た。
 「義兄上には、死んでもらいます・・・・。」
 ラガシュは義理の弟を見ると愕然としたように、言葉を失った。
 「義兄上はやりすぎました。エジプトを倒すため三国同盟など愚の骨頂でありまする。アッシリアなど野蛮な国と同盟を結ぶなど、我がバビロニアの名折れです。
 同盟という名の下で、アッシリアは必ずや我が国に襲いかかってくることでありましょう。武力を固めるどころか各国へ飛び回り、すでに勝ち得たように毎夜酒におぼれる義兄上には、もはや見飽きました。ーーーー覚悟なされい。」
 「オムリ!!どこにいるのか!!」
 義弟は薄ら笑いを浮かべ、代わりに答える。
 「義兄上、義兄上の手の者は既に捕らえておりまする。」
 歯ぎしりしながら、ラガシュは剣を強く握りしめた。
 「決して許さぬぞ。バビロニアの王はこの私だ!!
  アイシス、そなたは下がっておれ。そなたはこの私が必ず守る。」
 後ろにいたアイシスは表情が曇った。
 王よ、何故わたくしを守る?


24
 ラガシュは内乱によって倒れた。
 全てはアイシスの画策した通りに。アイシスの見たものはラガシュの最後であった。
これでエジプトへ帰ることが出来る。しかし、彼女の心の片隅にラガシュ、最後の言葉が残り決して忘れることはない。
 ーーーアイシスよ。我が美の女神よ。
    私の目はそなたしか映らぬ。そなたの美しき姿を見るだけで、われは幸せぞ。
    だが、それを語りかけるのは愚か者のする事だ。
    王者ならば国を持ってして、そなたに応えるのだ。
    私はまだそなたとの約束を果たしておらぬ。
    ここで死ぬわけにはいかぬ。
    我が願いはそなたの願い。
 アイシスの琴線が語る。
 一国を背負う王の愛。アイシスに向けられたのは真の王者の愛であった。
 それを秘め、彼女はエジプトへ帰国する。



 強い日差しが続く。エジプトに季節はない。
 下エジプトへ帰国したアイシスは、メンフィスの噂をよく耳にする。それは聞くに耐え難いものが多い。政務はしっかりとこなしているようだが、睡眠もろくにとらず、すぐに激やすく手打ちになった者も少なくない。敵国の間者を見つけようものなら、容赦なく拷問を与える。
 イムホテップやミヌーエの話を聞いてはいるようだが、聞く耳を持たなくなるのは時間の問題。
 愛を失った者はなんとすさんでいくことか。
 アイシスはメンフィスに会えずにいた。自らの意志が愛しいメンフィスに会うのを止めていた。
 なにかしら止める意志が、アイシスを押さえ込んでいた。自ら剣を持って殺したのではないが、自分が計略を図りラガシュを殺してしまった。未練はない。しかし、何故か彼女はラガシュ王の喪に服していた。決してラガシュの愛に応えるものではない。ただ敬意を払わずにはおられなかったのだ。
 「アイシス様、ミヌーエ将軍がお見えです。」
 アリに案内され、ミヌーエが奥に控えていた。
 「ミヌーエ、何用じゃ。」
 「アイシス様、無事のご帰国をなされ、お喜びを申し上げます。バビロニアではご心痛であったことと思われます。エジプトのためにアイシス様がなされたこと、国民としてお礼申し上げます。」
 「心にもないことを申すな。出戻りのバビロニア王妃が帰って参って、臣下達は困っていることであろうな。」
 「けっしてそのようなことはございませぬ。」
 アイシスは扇子をぱちんと閉じると、側にあった椅子に打ちつけた。
 「空々しいことを・・。わたくしは王宮にはまだ戻りませぬ。そなた、イムホッテプに頼まれたのであろう。臣下達はわたくしを追い出しておきながら、キャロルがいなくなるとメンフィスのために必要とするのか?わたくしを何だと心得る!?まがりなきもエジプトの女王。臣下の指図はうけぬ。」
 アイシスに控えていたアリが静かに言った。
 「ミヌーエ将軍、お引き取り下さいませ・・・。」
 アリは侍女に帰りの案内をさせ、二人きりになるとアイシスに問うた。
 「アイシス様・・・・、ミヌーエ将軍が参りましたことは、王宮にとっての救いの策だったのでは?」
 「申すな、アリ。まだじゃ。まだ会えませぬ。ーーーーわたくしはメンフィスに会いたい。しかし、今はまだ時が早すぎる。何度と無くわたくしを拒絶した我が弟のこと、今更わたくしに会う顔は持ち合わせていないであろう。キャロルのことでわたくしを憎み、そのわたくしのおかげでしばし戦を遠ざけることができ、素直に姉と慕うことはできぬであろう。
  今、メンフィスは王者でありながら個人の男として悩み苦しんでおる。わたくしが慰めたところで焼け石に水じゃ。ーーーしかし時は近い。それまでわたくしはこの下エジプトで待ちましょう。」
 「おお、そこまで王の心中をお察しになられておいでとは・・・。やはりメンフィス王にはアイシス様でなければ・・・・。」
 アイシスの言葉にアリは呟くように言った。


25
 事はイズミルが踏み込む前に起こった。
 急に表が騒がしくなりウナスはテティを連れて、部屋から飛び出したのだ。キャロルを残して。
 ウナスとテティは地下道の闇の中へ消えていった。後を追おうとしたルカをキャロルは止めた。
その直後、イズミルが部屋へ駆けつけてきたのだ。
 イズミルは手首を縛られてルカに抱きかかえられている彼女を見つけ、腕の中へ引き入れた。
 「無事であったか!!心配したぞ。ーーー衛兵!!侵入者を捜し出せ!必ずや見つけ出すのだ。」
 (ウナス、テティ。無事に脱出して・・・。)
 緊張の糸が切れ、キャロルは彼の腕の中で崩れ落ちるように力を失った。
 すぐさまイズミルは彼女の縛めを解き、抱きあげた。彼女の状態を見て、囚われの身であったこ
とが解る。
 「王子、姫君は死を決意までなされ、我が国に残られました・・。」
 ルカが詳細を語る。それを聞きながら、キャロルの顔色が青白く血の気のないことに心配する。
真冬の中、底冷えする地下倉庫に閉じこめられていては無理もない。
 「ルカ、妃の身体が冷たい。とにかく宮殿へ連れて帰る。衛兵に侵入者の逃亡先を連絡後、すぐに私のところへ参れ。その後に詳しく聞く。」
 冷え切ったキャロルの身体を抱きしめて、急いで南の宮殿へと向かった。
 イズミルの腕の中は暖かかった。二人の行方を心配しながらも、これでよかったのか自問自答する。上を見上げると、彼の横顔が目に入る。表情は硬く、茶色の髪が流れていく。
 (この人の妃だと言ってしまった・・・。)
 冷たい指が彼の頬に触れた。その感覚にイズミルはキャロルを見下ろした。ぼんやりと彼を見る視線に少し微笑みを返した。
 「少し我慢いたせ。すぐに暖めてやる。」
 冷たい手を彼の首元の回した。彼の手に力が入ったように感じる。
 少し先から声がかかった。
 「おお、妃様、ご無事で。」
 ムーラが厚い毛皮の掛け物を持って走り寄ってきた。キャロルはくるまれてそのまま部屋の湯殿へと連れて行かれた。イズミルはルカが来たことで部屋で事情を聞くにあたった。湯殿でキャロルはすぐに湯に浸かった。横でムーラがしきりに謝罪している。その姿を見て本当にみなに心配をかけてしまったと改めて思った。
 熱いお湯がじんじんと身体に沁みる。侍女が暖まると言ってワインを勧めてきた。
 彼女は俯せに湯船の縁に覆うようにかぶさり、ワインを口にした。
 いつの間にか、側に彼が立っていた。
 「落ち着いたようだな。」
 「・・・捕まったの?」
 イズミルは腰掛け、キャロルの手から杯を取り残りを口に含んだ。
 「あなたがここにいるのなら、最後まで逃げ切ったのね。よかったわ。」
 「何故一緒にいかなかった?エジプトの者はメンフィス王が待っていると言わなかったか?」
 キャロルは濡れた黄金の髪を掻き上げて、イズミルに背を向けた。
 「待っているとは言っていないわ。メンフィスは知らないことだったのよ。多分あの者たちは勝手に来ただけなの。私の死を受け入れられず、・・・無我夢中で・・・。」
 言葉は続けられなかった。二人の心中を思いやると、こみ上げてくるものがある。つらい。
 「お願い。二人の後を追わないで・・・。もう二度と此処へ来ることはないと思うわ。
  それからーーーーー王子、外に行っていて。」
 「今更何を隠すことがある?」
 イズミルが最後に言い終わらない内に、キャロルは側にあった物を彼に投げつけた。しかし、イズミルは笑いながらするりと身をかわすと、湯殿から出ていった。


26
 着替えをすませ、暖かい居間に戻るとイズミルの姿はなかった。
 キャロルは気にもとめず窓へ行き、鎧戸を開けて冬の風を室内へ入れた。
 火照った肌に冷たい空気が心地よい。風が頬をかすめる。エジプトにいた頃を思い出す。大好きだったメンフィス。私だけを求め、愛してくれた。最後にあった日、未来永劫私だけを愛すと言ってくれた。そのメンフィスが自分を待っていたーーー。私を捜していた。嬉しい・・・。
 でも、メンフィスのところには戻れない。
 ヒッタイト皇太子妃である以上、メンフィスにあわす顔がない。それにメンフィスはもとよりイズミル王子の側にいたいとも思った。
 (そう、結果的には私は王子を選んだ。イズミルを愛しているーーーー。)
 メンフィス、あなたが私を想っていくれたことは、本当に嬉しい。けれど、これでお終いにしましょう。あなたもわたしも別々の道に、一歩踏み出してしまった。もう後戻りは出来ない。私たちの別れ方はあまりにつらかった。これで最後。あなたも私を忘れて、新しい道を進むことを願うばかりです。私もあなたを忘れるよう努力するわ。
 
 顔を上げ、窓の外の、高い夜空を見上げる。
 「どうぞ、風よ、私の声を届けて。エジプトまでーーーー。」
 
  さようなら・・・・。愛しい人、かつて愛した人。
 そして、・・・・ごめんなさい・・・。


27
 真夜中、月明かりの下キャロルは冷たい空気を見ていた。城塞の下に街の灯りはない。ひっそりと静けさだけが闇を覆う。
 「眠れないのか?・・・無理もないが。」
 扉の音さえ気が付かなかった。キャロルは窓枠に腰掛け、声をかけた人を見る。イズミルは彼女の側へ行き、鎧戸を閉めた。身動きせず彼の動作をただ見守るだけのキャロルに、彼は微笑んだ。
 「そなた、我が妃と最後まで言ったそうだな。しかし、死ぬことは逃げることぞ。私に無断で去ることは許さぬ。それにいつか現実から逃げぬと申したな。」
 キャロルの頬がかっと赤くなった。イズミルに視線を合わせられなくて、ルカに対して恨み言を呟いた。
 「そなたらしくもない。そのように動揺いたすな、事実であろう。それともまた何か企んでおるのか?」
 「いいえ。その事実を言ったまでよ。私はエジプトへ帰れない。何故ならナイルの姫はもういないからよ。」
 イズミルは彼女を抱き寄せ、膝の上においた。長い指は彼女の髪を弄ぶ。そして改めてキャロルを見る。
 初めてあった頃はまだ十代であったろう可憐な少女であった。メンフィス王の愛を受け、自分の愛を受け、瑞々しい少女はしっとりとした濡れたような瞳をした、神々しいまでの女性へ変貌していった。今此処にいるのは世にも得難い美しさと気品さを持つ、吹けば飛ぶような体つきをしているがしかし意志の固い妃であった。


28
 「わたくし、剣を習いたいわ。もっと力強くなりたい。自分の身ぐらい自分で守れるくらいになりたい。このままじゃ、今までと変わらない気がする。」
 突飛な言葉にイズミルは少し唖然とした。キャロルは平然と腕をたくし上げ、力瘤をつくる。
しかし細い腕に筋肉はなかった。その様子を見て、彼は声を出して笑ってしまった。
 「とんだじゃじゃ馬の妃に見えるぞ。何を言い出すかと思えば・・・。本当にそなたは思いがけないことを言う。だが、そなたは我が手におればよい。いつもここにいれば私が守ってやるものを。」
 「ここにって、ずっとこの宮殿に閉じこめられるのは嫌よ。私は籠の中の鳥じゃないわ。私は私自身の自由を持っているはずよ。」
 「ならぬ。今回の騒動といい、まだまだ表へ出ることはまかりならん。」
 イズミルの反対にかなりむっとなりながら、胸内で思い切り舌を出した。
 「そのように怒るな・・・。そのうち私が市街地へでも連れて行ってやろう。」
 しかし、キャロルは顔を背けたままだった。
 「そのうちって、あなたはいつも忙しいじゃない。前はいろんなところへ旅に出ていたのでしょう?
 これから旅立つことがあっても、わたくしはお預けね、きっと。」
 「そのように駄々をこねて、私を困らせるな・・・。さあ、もう休まぬと夜が明けてしまうぞ。」
 イズミルは彼女を抱き上げて寝所へ連れて行こうとしたが、するりとイズミルの手から抜け出して垂れ幕の陰に隠れた。
 「今日は一人になって寝ます。どうぞ、おやすみなさいませ。」
 そう言うとさっと寝所に引っ込んで扉を閉めた。イズミルは何も言わなかったが、一息ため息をもらしたのであった。

1部完

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