『 L.O.V.E 』


31
ライアンは本棚から取り出したスクラップブックを開き、数枚の写真をイズミルに手渡した。

「王家の墓展の写真だ。真ん中にいるのがアイシス。古代文字をスラスラと読む不思議な女性だったよ。その後すぐに二人とも居なくなったんだ。」
イズミルの表情の変化を見逃すまいと注意深く窺う。
「ライアン、これは…?」
写真をめくるイズミルの指が微かに震えている。
「ん?ファラオの墓から一緒に発掘された粘土板だ。砕けてしまったのをようやく復元して撮影したんだ。」
「ファラオの…墓?」
「ああ、古代エジプトのファラオの墓だよ。うちで出資した調査隊がその墓を発見して…」
「…」
「どうかしたのか?あ、ちょっと失礼させてもらう。」
ライアンの携帯電話が鳴った。
「…ああ。」
ライアンは廊下に出て電話を受けた。


−兄さん?僕だよ−
ロディからの電話だった。
「どうかしたのか?」
−実は今、病院にいるんだ−
「病院?」
−詳しいことは帰ってから話す。キャロルが…−
「キャロルが?キャロルに何かあったのかっ?!」
−…妊娠している−


初めて得たイズミルの過去に関する手応えらしきもの。
彼は確かにアイシスと粘土板を知っている!
失踪事件の解明に向けて期待を膨らませたライアンに突きつけられたのは、妹キャロルが妊娠しているという事実。

−ツー、ツー、ツー−

いつロディが電話を切ったのかもわからない。携帯電話を握り締めるとイズミルが居る部屋のドアを睨んだ。
「今日こそは…すべて話してもらうぞ…!」

32
ライアンが出て行ったあと、イズミルはもう一度丹念に写真を見直した。
他人の空似であるわけがない。エジプトの女王、今はバビロニアの王妃アイシス。
最初からライアンの探るような視線に気が付いていなければ、驚きを口に出していたかもしれない。
(アイシスもここに来たことがあるのか。それにこの品々は古びているが確かにエジプトの物だ。これはキャロルに問いたださねば…)

−バン!−
「イズミル…僕はなるべく冷静に話をするつもりだ…。」
ライアンが荒々しくドアを開けたことでイズミルの思考は中断させられた。
「君とキャロルが何かを隠しているのは最初からわかっていた。ゆっくりと聞き出せばいいと思っていたが、そうはいかなくなった。」
ライアンの口調に只ならぬものを感じ取ったイズミルは自然と身構える。

「そう…その君の身のこなし方。いつも不思議に思っていたよ。まるで…」
炎の中、キャロルを抱いて馬を乗りこなしていたイズミルの姿が瞼に浮かぶ。
「剣でも持っていたら似合いそうな…君は一体何者だ?どこでキャロルと知り合った?キャロルは、」

ライアンは言葉を区切ってごくりと唾を飲み込んだ。

「キャロルは妊娠しているそうだ。」

イズミルの目が驚きで大きく見開かれる。ライアンは更に続けた。
「その様子だと知らなかったようだな。だが、君に…その、心当たりはあるのか?」

33
車中は重苦しい空気が流れていた。
「キャロル…あなたの身体のことはおかしいと思っていたのよ…なぜママに相談してくれなかったの…」
ロディは黙ってハンドルを握っていたが、ふと、キャロルの態度が妙だと思い始めた。
(キャロルは自分のことだから妊娠しているかもしれないと知っていた…んだろう。
だけど、記憶の無い間のことだとしたら、もっと取り乱してもいいはずなのに?)

「僕等は家族だ。信頼してなんでも相談してくれ、いいね?キャロル。」
キャロルを刺激しないように優しく言う。
「ライアン兄さんも待っている。何も心配しなくていいんだよ。だから…」
リード屋敷の門が見えてきた。
「キャロルとイズミルの本当のこと、きちんと話してくれ。」
ガードマンによって開けられた門を、車はくぐりぬけ玄関に向っていく。
キャロルは両手で顔を覆い…わかった、と小さく返事した。

玄関で出迎えたばあやによると、ライアンはイズミルと共に書斎に居るらしい。
ばあやにお茶を用意してくれるように頼むと、ロディはキャロルの肩を抱いて書斎へと促した。

「イズミル、本当に…君がキャロルのお腹の子の父親なんだな?!」
書斎の中からライアンの声が聞こえてきた。
急にキャロルがロディの手を振り切ってドアを開ける。
「私の子だ…間違いない。」
「違うわっ!違うわっ!なぜそんなことを言うの!」

ライアンが今にも掴みかかろうという形相でイズミルを睨みつけているのを見たキャロルは、二人の間に割って入り必死でイズミルにしがみついた。

「あなたの子であるわけがないわ。だって私は…私は…メンフィスの…」
「それ以上申すな!」

34
イズミルはしがみついて来たキャロルを放すまいと、しっかりと自分の腕で抱きしめた。「我らが愛し合って授かった大切な子だ…そなたが一番よく知っておるはずだ。
キャロル…私も真実を知りたい。アイシスのことも…何もかも。」
キャロルの動揺がイズミルの腕に伝わってくる。

「キャロル、兄さんがサウジアラビアの油田事故で二人を見たことがあると言っていた。
その時イズミルに向けて撃った銃弾と、手術でイズミルの身体から摘出した銃弾と、ほぼ一致しているんだよ。
記憶を失っていないなら本当のことを話してくれ。みんな座って、お母さんも。」
ロディはお茶を運んできたばあやに席を外すように目配せした。

「キャロル…大事な身体なのだから、さあ。」
子を授かったという喜び、そしてキャロルの口から語られる真実に対する不安がイズミルの中で交錯する。
「…わかったわ…すべてすべてライアン兄さん達に話しましょう…そしてアイシスのことも。
イズミルにとっては辛い話になると思うの…」
もう隠し通すことは出来ない…それでもキャロルは目の前のイズミルが受ける衝撃を想像すると胸が引き裂かれるような思いだった。
すべてを観念したキャロルは、きゅっと目を閉じてイズミルの心が壊れてしまわないことを祈った。

35
「…みんなに嘘をついていたこと、本当にごめんなさい。
以前の時と違って、今は最初から全部覚えていたけど、どうしても話せなかった。
それからイズミルにも嘘を付くように私が頼んだの。イズミルは悪くないの。」
家族とイズミルに対してキャロルは謝罪した。隣に座るイズミルをチラリと見てから、その手におずおずと手を重ねた。
「どうか…心を落ち着けて聞いて…イズミルも。」
イズミルはキャロルの冷たい手にもう一方の自分の手を重ね、強く握り締めた。

リード一家、そしてイズミルが見守る中、家族に対しては自分が行方不明の間、過去の古代エジプトにいたこと。
イズミルに対しては、ここがエジプトであること、それもイズミルの生きた時代からは遥か未来のエジプトであること。
キャロルはゆっくりと語り始めた。

「な…なんだって…?それを僕達に信じろと言うのか?!」
王家の呪いすら笑い飛ばしていたライアンにとって、キャロルが古代で生きていたこと、イズミルが古代ヒッタイトの王子であることなど、俄かに信じがたい。
しかし、これまでキャロルが発見された時の状況証拠を考えるとすべて辻褄が合う。
辻褄は合ってもライアンの感情は、愛する妹キャロルを妃に迎えながらも悲しませた男と、それを奪い自分のものにしてしまった男に向って今にも爆発しそうだ。
その震える拳を目にしたキャロルが、衝撃を受けているイズミルを守るようにして寄り添い、兄に懇願するような視線を送らなければ、おそらく理性を取り戻すことが出来なかったであろう。

「放っておけばキャロルはまた…どうすればいいのか、まずそれを考えよう、兄さん!」「わかってる!わかっているが、ちくしょう…どうしたらいいんだ。」
「私のことよりも、イズミルが古代に帰る方法を!」
ハッとしたように皆の目がイズミルに集中する。

「イズミル、君の気持ちはどうなんだ?もしもその手段があればキャロルを残して一人で帰る覚悟はあるのか?」
ロディがイズミルに尋ねた。
「ロディ兄さん、イズミルはヒッタイトのたった一人の世継ぎの王子なのよ!」
「お待ちなさい、キャロル。ロディはイズミルさんに伺っているのよ、キャロルは黙っていなさい。」
リード夫人はイズミルに向き直ると
「私はね、正直なところ…あなたにはここに居て責任を取って貰わなければならないと思っています。」
家族の誰もが母親の言葉に驚いている。

36
眉を寄せて古代の呪術板の写真を凝視していたイズミルが口を開いた。
「率直に申し上げます。キャロルがナイルの女神の娘と言われ始めた頃から、ずっとキャロルを愛してきました。
エジプトのファラオの正妃となった後も、その気持ちは変わらず強くなるばかり。
メンフィス王は国の安定のためにキャロルという得がたい妃を悲しませてまで、リビアの王女を第二の妃に迎えようとしました。
私は…ナイルの姫、キャロルを悲しませたメンフィスが許せない。もう二度と辛い思いをさせたくない。」

「もちろん僕らだって、キャロルを二度とそんなところにやりたくないよ!」
息巻くロディをリード夫人が止める。
「続けて下さい、イズミルさん。」

「今の私は地位も身分もなく、この未来…という世界に来て戸惑うことばかりで無力です。
だが、キャロルにかかった呪いを断ち切ることが出来るのは、過去から共に来た私だけかもしれません。
私がこのままキャロルの側に居ることをどうか許して下さい。ヒッタイトのことは永遠に忘れます。」

「もしもキャロルのお腹の子が、メンフィスという人の子供だったら…それでもキャロルを愛することができますか?」
「子の父は私であるとの確信があります。しかし万が一メンフィス王の子であったとしても…大丈夫です。
私が子の父となることを認めてください。」
イズミルは立ち上がるとリード夫人と兄二人に向って深々と頭を下げた。

おそらく…一国の世継ぎの王子として人に頭を下げることなどなかったに違いない。
その男が、一度は別の男のものになった妹を愛し、遠く未来の世界で共に生きたいと、自分達に頭を下げている。
ライアンの胸に渦巻くのは”嫉妬”なのか”羨望”なのか…それとも”敗北感”か。

37
「頭をあげて下さい、イズミルさん。あなたのご決心、確かに受け取りました。
さて、次はキャロル、あなたの番よ。
私はジミーとのことで後悔したから、キャロルに無理強いはしないわ。
誰かのためでなく、誰かに言われたからでなく、あなたがどうしたいのか、どうすれば一番良いと思うのか、キャロル、自分で決めなさい。」

「お母さん、キャロルに自分で決めろなんて、そんなこと無理ですよ!」
ライアンが母を非難するように口を挟んだ。

「そうかしら?自分自身のことなのに、なぜキャロルが自分で決めるのが無理なの?」
「キャロルはまだまだ子供です!」
「ライアン、あなたがキャロルを可愛いと思う気持ちはわかるわ。
でもね、キャロルは母親になろうとしているのよ。授かった命も含めて…キャロルが自分で決めるべきだわ。
キャロル?あなたの人生よ。自分の気持ちを正直に言いなさい。」

キャロルは今まで見せたことのない静かな強い意思を持った瞳で家族を見上げた。
「愛しているかどうか…まだわからない…まさか赤ちゃんを授かるなんて思わなかったから…。
でも、イズミルが古代を捨てるのならば、私は誠意を持ってそれに応えたい。
イズミルと共に…ママやライアン兄さん、ロディ兄さんのいるこの現代で…生きて行きたい。」
「応えなければならない、ではなくて、応えたい、なのね?」
キャロルはコクリと頷く。
リード夫人はキャロルの言葉に満足げに微笑み、ライアンを見てその発言を促した。

イズミルを連れて戻ってきてから、イズミルの前でふと「女の顔」をする瞬間の妹を幾度か見てきたライアン。
「いいだろう。イズミル…君は本当に王家の呪いを封じ込めることができるんだな?」
「可能だ。これは今どこにあるのだ?この呪術板をじっくりと見たい。他の物があれば、それらも。」
イズミルは呪術板の写真をテーブルの上に差し出した。

38
「ふむ…。粘土板は、再調査のためにカイロ学園にある我が社の研究所に保管され、今もブラウン教授が調べている。
早速連絡して、明日イズミルと一緒に確認に行こう。」
「兄さん、私も連れて行って!」
「いや、キャロル、お前は学園に行くな。家でおとなしくしてるんだ。」
珍しくライアンよりも先にロディがキャロルの外出を強い口調で止めた。
「そうよ、キャロル、明日もう一度お医者様に詳しく診て頂きましょう?」リード夫人もやんわりと言う。
「でも、粘土板を解読するなら私が…」
「古代文字ならイズミルが読めるんだろう?お前は絶対に行っちゃダメだ!」
ライアンに比べれば、妹に強制などすることの少なかったロディに対してはキャロルも反論する。
ロディの表情から、キャロルをその場に連れて行きたくない理由があるのだろう、と推測したイズミルは、
「ロディや母上の言うことを聞くのだ。アイシスのことだけでなく、そなたにはもう一つ…
ナイルにある過去と未来を繋ぐ忌まわしき流れを、永遠に断ち切らねばならぬのだ。
さあ、今日はもう休むがいい。母上、キャロルを部屋へ連れて行って下さい。」
そうキャロルに説いて聞かせた。キャロルも仕方なく頷く。
「わかったわ…おやすみなさい。ママ、今日はママの部屋で寝ていい?」
「ええ、いいわよ、さあ行きましょう。」

「ああ、お母さん、その前に。イズミルをリード家の一員としてアメリカに連れて行くためには、新しい籍を作らなければなりません。その手続きは一切僕に任せてくれますね?」
リード夫人は信頼の籠もった眼差しをライアンに向け承諾を与えて、キャロルを連れて自室へと下がっていった。

39
「キャロルはいつの間にか大人になっていたのね…」
リード夫人は亡き夫のベッドに横たわるキャロルに話しかけた。
「アイシスさんの弟の…メンフィスという人とは幸せだったの?」
「幸せだったと…思う。でも…私は心が狭いのかもしれないわ。
メンフィスが私以外の人を妃に迎えることを、理屈ではわかっても我慢できなかったの。」
「イズミルさんのことはどう思っていたの?前から知っていたんでしょう?」

キャロルは困ったように言葉を選んだ。
「イズミルは…怖かったわ。ヒッタイトに連れ去られて、その度に逃げようと必死だった。あの頃は愛されているなんてとても思えなかったし、ゆっくり話をするなんてこともなかったし…」
しばらくキャロルは黙ってから…リード夫人が寝たの?と声をかけてようやく話を続けた。
「今はね…イズミルを守りたいの…すべては古代で重ねた私の罪なの…」
キャロルは今度こそ本当に眠ったらしい。リード夫人も瞼を閉じ、めまぐるしかった一日がようやく終わろうとしていた。

−だが、しばらくして静かなドアの開閉音に気が付いた。サイドテーブルの時計を見ると日付が変わる直前。
隣に寝ているはずのキャロルの姿は見えず、代わりに時計の下にメモが置いてあった。
『イズミルが心配なの。イズミルの部屋に行きます。ごめんなさい。−キャロルより』

リード夫人は「寂しいわね…でも手の届かない過去の世界にいるよりも…」メモにキスをして再び瞼を閉じた。

40
翌日、カイロ学園の敷地内にある研究所にブラウン教授を訪ねる車の中。ハンドルを握るロディ、助手席のライアン、そして後部座席で瞑目するイズミルの3人。

「寝不足か?」
昨夜キャロルがイズミルの部屋に向ったことを気配で知ったライアンは、少し意地悪くイズミルに話しかけた。
イズミルは深刻な顔をしている。
「今のキャロルが私の側にいたがるのは過去からの招きを避ける為だ。
エジプトの亡者がナイルの姫を望む声は、私が想像していた以上に強い。この地は危険だ。」
「そういえば、前はよく何か聞こえると…ノイローゼじゃないかと思っていたが、それも王家の呪いのせいだったのか?」
「キャロルと離れるのが心配で、私の守り刀を手元に預けてきた。それがあれば少なくとも亡者は近づけまい。
それよりも、連れてくることをロディが強く反対していた事が気に掛かる。」

ロディはルームミラーをちらりと見た。カイロ学園の正門はもう目の前。
「昨日、偶然カイロ学園の生徒の噂話を耳にしたんだ。キャロルとイズミルのことがひどく中傷されている。」
「なんだって?イズミルのことはマスコミにも出ていないぞ!」ライアンはロディの言葉に怒りを顕にする。
「ブラウン教授にすらイズミルのことは話していなかったんだ。考えられるのは…一人しか居ないよ。」ロディは唇をかみ締めた。
駐車場に車を止め歩き出すと、ロディの言うとおり方々から投げかけられる興味本位の視線を背中に感じる。

俗世の噂話など頓着なしのブラウン教授が興奮して3人を待ちかねていた。
「これが例の粘土板で、その他の出土品はこちらに並べておきましたぞ。」
挨拶もそこそこにイズミルは早速粘土板の数々やパピルスを調べ始めた。そして問題の呪術板と文字の擦れかけた粘土板を指差し、ライアンに何事か囁く。

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