『 L.O.V.E 』 21 「キャロル達は疲れるといけないから、もう上で休んだほうがいい。お母さん、お願いしますよ。」 リビングに寛ぎの場を移した際に、ライアンがリード夫人に切り出した。 「え、ええ、そうね。イズミルさんもまだ怪我が治らないのですもの。さあ、キャロル、ジミーにご挨拶をして…」 「ジミー、今日は本当にありがとう。マリアやハッサンにも私は元気だと伝えて。」 「キャロル、僕は…君がカイロ学園に戻ってくる日を待っているよ。一緒に考古学を勉強する日を…僕達は約束したよね?」 「私は、もう考古学のことは…古代の歴史には関わりたくないの。ブラウン教授にもお世話になったのに…ごめんなさい。」 「それはどういうこと…?」 しかし、キャロルは目を伏せ静かに首を横に振るばかり。まるでもうその話はしたくない、と拒絶するかのようにさえジミーの目には映る。 当然のようにキャロルの脇に立つイズミルを、非難するような眼差しで見つめるジミーだが、逆にイズミルの射るような琥珀色の瞳の前にして… (その男は誰なんだ?キャロル、君は僕と結婚の約束をしたじゃないか!) なぜその一言がいえないのか。 イズミルはふと自分を凝視するライアンの視線に気が付いた。そしてキャロルの手を取りジミーに向って初めて言葉をかける。 「ジミー・ブラウン、キャロルも疲れておるようだ。早く休ませてあげたいゆえ今日は失礼させてもらう。」 その堂々たる態度は、ヒッタイト帝国の王子として威厳を保ったイズミルそのもの。 ジミーに反論の余地など与えずに、戸惑うキャロルを連れて部屋から出て行く。 22 「ライアンさん…彼は一体…」 唇を咬みながらジミーはようやくライアンにずっと聞きたかった言葉を口にする。 「イズミルに関する質問は一切答えられない。だが、キャロルは落ち着き次第、アメリカに帰らせるつもりだ。」 「ライアンさん!キャロルは僕と一生、考古学をやっていこうと約束したんですよ?!」 「考古学から離れたいというキャロルの言葉は今日はじめて聞いたが、僕はもともとそのつもりだったし、それがキャロルの返事ではないのか?」 「僕は…僕は納得できません!」 これでは平行線だ、と思ったロディが口を挟む。 「ジミー、君がキャロルを心配して今まで探してくれていたことは感謝するよ。 でも、キャロルが失踪したのは、兄さんが反対していた君との婚約パーティの日だったんだ。 お母さんや僕がキャロルの気持ちを十分考えなかったことをどんなに悔やんだか、それを察して欲しいんだ。」 「…わかりました…でも僕はキャロルに忘れて欲しくないんです。 僕と一緒に古代エジプトの歴史を研究していこうと誓ったことを…何度でもキャロルに言います!僕は絶対に諦めないと!今日は…これで失礼します…」 ジミーが去った後、リード兄弟は書斎に席を移した。 「今までお前はジミーに好意的だったが、キャロルの言葉が原因ではあるまい?」 兄の言葉に弟は頷く。 「例の油田事故の件、兄さんの言ったとおりだった。」 「では、あの銃弾が?」 「99パーセント間違いないだろうと。」 「やはり二人はサウジアラビアで一緒だったんだ。あの油田事故の現場からどう逃げたのかわからないが…」 「でもね、兄さん。そんなことが可能だろうか?炎の中から逃げるなんて。」 「いや、銃弾が一致した、それだけでいいんだ。後は…直接聞き出すしかない。あの二人は何か隠している。」 23 久しぶりに自分のベッドに横たわるキャロル。しかし、その胸のうちは乱れて眠りにつくことが出来ない。 深夜の静寂の中、ゆらりと闇が動き過去から自分を呼ぶ声が聞こえてくるような気がして一人の夜が怖かった。 思い返せば、メンフィスの墓を発掘した時からアイシスによって自分にかけられた王家の呪い。 自分は古代でそのメンフィスと出会い、エジプトの王妃となった。 だが…そのために古代の歴史を捻じ曲げ、多くの命を犠牲にした。 しかもアッシリア城を崩壊させ、バベルの塔までも破壊してしまい、それだけでなく、 古代ヒッタイト帝国の世継ぎの王子を現代に連れてきてしまったのだ。 (私が古代に興味を持ったことで、多くの人を傷つけてしまった。) キャロルは、自分のせいで現代に迷い込んだ古代ヒッタイト帝国の世継ぎの王子さえいなければ、すぐにでもアメリカに帰りたかった。 (でも、王子を放っておくことはできない。私の責任だもの。) キャロルは起き上がるとそっと廊下に出て、イズミルの部屋のドアを静かに開けた。 「あの…起きていたの?」 イズミルは窓辺に立っていた。 「こんなことはこの国に来て初めてだが…目が冴えてしまって眠れぬのだ。そなたは?」「あなたのことが心配だったのと…ちょっとね、一人で居ると怖くて眠れなくて。」 (どんな理由であれ私の元に来てくれた。)イズミルの顔が綻ぶ。 「少し話をしてもかまわぬか?」 イズミルは窓辺の椅子に座りながらキャロルを手招きし、向かいの椅子に座るように促す。 月の灯りだけが部屋を照らしている。 24 「星を見ていた。ヒッタイトやエジプトと変わらぬ星が煌いている。月も同じだ。だが、私はどのくらい遠くへ来てしまっているのだろうな。」 距離でいえばここはエジプトその地であり、地中海を隔てたトルコはかつてヒッタイト帝国が存在した場所。 だが、時間の隔たりをどのように説明すれば良いのか、キャロルには答えられない。 「そんな顔をするな。私は、今そなたと一緒に居られること、それだけで心が安らかになる。 もう無理にそなたを抱いたりはしない。そなたを悲しませてお母上にも嫌われたくない。」 「もしも、もしも戻ることができなかったら、私はずっとイズミルの側にいるわ…」 「なに?それはどういう…?」 「だから、もしも、よ。イズミルがヒッタイトに戻らなかったら、それこそ大変なことが起きてしまうもの。」 「それはナイルの姫の予言か?」笑いながらイズミルが続ける。 「だが、そんなことを聞くともう戻らずとも良いさえ願ってしまうぞ。」 「姫、王子、は禁句よ。」キャロルもつられて笑う。 古代で、イズミルの元で過ごす時はいつも緊張していたキャロルが、イズミルとこんな風に穏やかに話すのは初めてである。 沈黙に怯えて逃げ出そうとしていた頃と違って、静かな時間が流れることが心地よいとさえ感じる。 (不思議ね…今は王子が怖くない。逆に王子の側に付いていないと不安になってしまう。ここが現代だからかしら…?) キャロルは、イズミルに対して素直な気持ちを言葉に出来るような気がしていた。 25 「以前、ライオンに引き裂かれたまま帰ってきた時…うんん、その前もそうだった。 いつも声が聞こえるの。私を呼ぶ誰かの声、エジプト兵の幻、その声と幻に導かれてナイル川に流されて…」 「今は聞こえぬのか?」 「聞こえないわ…聞きたくないの。だから一人になるのが怖くて。」 「聞こえぬのは、私のせいかもしれぬぞ?」 「どうして?」キャロルはきょとんとして聞き返す。 「そなたが姿を消している間、私も星を見ながらいつも呼びかけていた。私の声が足らぬのであろう。」 「イズミルったら。あなたがそんなに大声だなんて知らなかったわ。」二人は声を上げて笑う。 (イズミルがここにいるから…本当にそうなのかもしれない…なんだか眠れそうな気が…) 「キャロル?」 イズミルは窓の外をずっと見ていたが、静かになったキャロルが気になって呼びかけた。 キャロルは椅子に座ったままいつしか目を閉じ眠りに落ちていた。 「部屋に戻って寝たほうがよいぞ…私の腕ではまだ連れて行けそうに…」 揺り動かすが、キャロルは一向に目覚める様子はない。 (母上やライアンが見たら何というか…だが、仕方あるまい。) 左手で上体を支えて自分のベッドまで連れて行く。少し乱暴に横たえるが、それでもキャロルはぐっすりと眠り込んでいる。 (無理に抱かぬ、と言ったばかりだからな。) キャロルに自分のベッドを譲り、長椅子に身を横たえて(やれやれ…)とため息をついた。 26 「お母さん、キャロルが部屋にいないんだ。」 朝を迎えたリード家、ライアンがキャロルを起こしに行くと、部屋はもぬけの殻。 「まあ!なんですって?」 「まさかイズミルの部屋に?」 二人はイズミルの部屋の前まで来たが、なんとなく躊躇ってしまう。 というのもリード夫人は、昨日イズミルの胸を枕に手を繋いでうたた寝する娘を見たばかり。 ライアンは、二人が行動を共にしていた証拠を得たばかり。ドアの向こうの光景を想像してライアンは眉をひそめる。 「イズミル、入ってもいいか?」 ドアをノックすると予想と違ってすぐに「どうぞ」とイズミルの声が返ってきた。 「夕べこのまま眠ってしまいました。部屋まで連れて行くことができず…」 キャロルはイズミルのベッドでぐっすりと眠っており、イズミルは長椅子の上でたった今目覚めたような様子。 「キャロルったら…ごめんなさいね、イズミルさんの方が怪我人なのに。」 そのうちにキャロルも目を覚ました。 「ママ、ライアン兄さん…おはよう…あれ?」 キャロルには寝乱れた様子もない。 「えー!私、昨日あのまま寝ちゃったの?イズミル、ごめんなさーい!」 「いや、私は構わないが、お母上やライアンが心配しているのだぞ。」 古代では見られなかったキャロルの様子に、さすがのイズミルも苦笑する。 兄ライアンに叱られると思ったが、キャロルの頭をコツンと叩き「心配させるなよ」と言っただけだった 27 イズミルは約束を守ってくれた。 その安心感も手伝って、キャロルとイズミルは一日のほとんどを二人だけで同じ部屋で過ごすようになった。 現代に来てから2ヶ月近くになる。 会話はできても文字を知らないイズミルのために、英語とアラビア語の子供向けの学習教材を取り寄せて、二人で文字の勉強をする。 「私もアラビア語はなんとか聞き取れるけど、まだまだなの。」 「ふうん…こちらがキャロルの国の英語で、こちらがこの地の言葉のアラビア語か?」 「その他にもいろんな言葉があるのよ。フランス語、ロシア語、ドイツ語…いろんな国でそれぞれの人々が自分たちの言葉を話すの。」 「ここにはたくさんの国があるのか?」 「ええ。それぞれに信じる神様がいて、国ごとや国の中にも違った主張があったりして、争いが起きることもあるわ。」 「国の王は?」 「王様が治めている国もあるし、国民の代表、これは国民によって選ばれた人なんだけどね、そういう人々が相談して治める国もあるの。」 「民が…?」 「そうよ。あ、そろそろお医者様がお見えになる頃だわ。今日はここまでにしましょう。」 「もうそのような時刻か?まだまだ聞きたい文字があったのに…」 週に一度、イズミルの診断のために医師が出向く。 「病院でリハビリ治療を受けるのが本来は望ましいのですが、順調に回復していますよ。 あとは以前の握力や筋肉を戻すようにしてください。」 医師は術後の経過が順調なことを告げる。 「おや?キャロルさんは少し顔色が優れませんが…どうかしましたか?」 「い、いいえ、何でもありません。」キャロルは少し慌てた。 「家からあまり出ないものですから…運動不足かしら。たまには外出した方が?」 リード夫人の言葉に医師も同意する。 「そうですねぇ…お若いのですから少し身体を動かしたほうがいいかもしれませんね。」 28 それから10日ほど経ったライアンとロディの休日。キャロルとリード夫人は、ロディの運転でショッピングに出かけた。 「イズミルに似合いそうな服をロディ兄さんに選んでもらうわ。楽しみにしていてね。」リード夫人だけは心に秘めた心配を抱えつつも、キャロルの初めての外出に一家の誰もが優しい笑顔で浮かべている。 だがリード家の人々の知らないうちに、すでにある噂が巻き起こっていたのだ。 カイロ市内、高級店がテナントとして軒を連ねるショッピングモールの広場。 若い女性の呟きが、連れの少女の耳に入った。 「あの人、もう大丈夫なのかしら?随分と気分が悪そうだったけど。」 「なあに?姉さん。」 「さっき化粧室でね、ちょっと。」 少女が隣に立つ姉の視線の先を辿ると、そこには同じカイロ学園のキャロル・リード、今まさに学園で話題になっている当人が、母親と共に高級紳士ブランド店の前に立っている。 「…同じ学園の下級生よ。」 「あら、まだ若いのね。そうよね、私ったら。」 女性はクスクスと笑って自分の腹部を愛しげにさすった。 「私も悪阻が酷かったし、気の毒になって声をかけたら、じっと私のお腹を見ているし、なんとなくそうかな?と思っちゃって。 変なこと言って悪かったわ。びっくりするのも当たり前ね。」 「ちょっと待ってよ、悪阻?妊娠してるってこと?」 「だから私の勘違いよ。まだ高校生なんでしょ?」 「新聞読んでいないの?姉さん。彼女よ、ほら行方不明になっていたリード財閥の…」 「え?あなた達のアイドル、ジミー君の婚約者?」 「学園でも噂になっているのよ。ジミーの様子も変だし。」 少女は学園で耳にした、かなり憶測の入り混じった噂話を姉に詳しく話した。 「あなたがジミー君のファンだっていうのはわかるけど、変なこと広めないでね。 本人も連れのお母さんも否定していたんだし、もし本当だとしても可哀想だわ。」 「わかってるわよ。わかってるけど…」 少女は母親らしき女性に気遣われているキャロルを強い視線で見つめた。 29 リード家を訪問し、イズミルと一緒にいたキャロルに会ったジミーは確かにショックを受けていた。しかし、キャロルへの思いやりも当然あったし、自尊心も手伝って不用意にイズミルの存在を洩らすようなことはするべきでない、と考えていた。 だが、ジミーのキャロルに対する態度に「なあに?あれ、ベタベタしちゃって。」とやっかんでいたり、何もかも恵まれたキャロルその人に対して妬みを持っていた者たちは、 「婚約者に会わせてももらえないの?」とジミーのプライドを酷く傷つけるような言葉を投げかける。 その挑発に乗りたった一度だけ、思わず口をついて出た言葉、 −助けられたなんて…キャロルは”あの男”に騙されているんだ− その話に尾鰭がついて、「キャロルは婚約パーティの最中に、別の男と駆け落ちして家出したのが真相らしい」などと噂されている。 そしてこの少女の口から明日には更に悪質な噂が撒き散らされようとしている。 駐車場から車を出すために家族から離れて歩いていたロディは、偶然にも彼女らの会話が断片的に耳に入ってしまった。 (なんてことだ。キャロルがそんな風に中傷されているなんて知らなかった。それにしても妊娠だって?まさかそんな馬鹿なこと!) 30 一方、リード家の書斎ではライアンとイズミルがチェスに興じていた。 キャロルが暇つぶしに教えたのをイズミルはすぐに上達してしまい、ロディも「イズミルには敵わないよ」と言うようになっていた。 「君は、本当に初めてなのか?」(油断しているとやられそうだ。) 「おそらく、な…」(ロディと違って手強い、ライアンは。) 「ふぅむ、それにしては駒運びが上手いな?」(もしかして僕の戦略を読まれている?まさか…) 「師がよかったのであろう…」(キャロルの教え方は丁寧であったから。) 「キャロルが?おいおい、僕はキャロルに負けたことがないんだぞ?」(そういえばこの二人は一時、ずっと深夜までチェスを…本当にチェスだけだったのか?) 「さて、チェックメイトだ。」(本物の戦に比べたら所詮は遊びだ。) 「むっ!本当に初めてなんだろうな?!」(この僕が負けるとは信じられん!!) イズミルは身体を楽にして笑った。 「幾度聞かれたところで、それを証明できないのだから仕方あるまいが…最初の頃は、母上にも勝てなかったではないか。」 「それもそうだな。キャロルは自分が下手なくせに、教えた相手はすぐに強くなる。アイシスも確か…」 ライアンはかつてリード家に滞在し、キャロルと共に姿を消した女性の名前を口にした。 「アイシス…?今、アイシスと言ったか?」 「ああ、弟を探している途中だという女性をキャロルが世話していたんだ。あれはキャロルが最初に行方不明になる前だった。 そのままキャロルと一緒に居なくなったから、何か関係があるのかと調査したんだが…もしかして、何か思い当たることがあるのか?」 「いや…どのような女性だったのだ?」 「エジプト人で…弟の名前は…メンフィス、だったかな?ああ、写真があったかもしれない。ちょっと待ってくれ。」 |