『 L.O.V.E 』


41
「一体何があったのですかな?ライアンさん。」ブラウン教授がちらちらとイズミルを見ながらライアンに訊ねた。
「これから話すことは絶対に他言しないで下さい。キャロルの命に関わることです。」
ライアンはかつて自分が笑い飛ばした『王家の呪い』がキャロルにかかっているせいで、失踪事件が起きた事を簡潔に話した。
−ただし、イズミルが古代から来た話は除いて。

「ふーむ…ところでこちらの男性は?孫のジミーが何やら言っていたが、ワシもよく聞いていなかったもので…」
孫のライバルなどということは頭になく、粘土板をスラスラと解読することにブラウン教授の関心は向けられているらしい。
「彼は遠い親戚にあたるイズミル・リード。
我々とは別の角度でずっとキャロルの捜索をしてくれていたお陰で、こうしてキャロルを取り戻すことが出来たのです。」
「ほぉー!ご親戚の方だったんですか?いや、これは失礼。古代の文字にもお詳しいようですし、ぜひこの研究所で私の助手になっていただきたいですなぁ。」
ブラウン教授が目を輝かせたその時、ドアの向こうでジミーと研究所の所員の大きな怒鳴り声が響いた。
「ジミー、何をしているんです?ライアンさんから人払いをするように言われていたのに!」
「離して下さい!ライアンさんに聞きたいことがあるんです!!」
盗み聞きしていたことを見咎められたジミーが制止を振り切って室内に入ってきた。

「ライアンさん…嘘でしょう?キャロルが…妊娠しているなんて…」
「もう知っているのか!」驚いたロディが思わずそれを肯定してしまう。
「やっぱり!…噂は本当だったんですね…信じたくなかったけど…」
肩で息をするジミーは、イズミルを睨むと「キャロルも…みんなも騙されているんだ!」と叫びながら殴りかかった。
その右腕をイズミルが避けながら左手で掴むのと、ロディがジミーを抑えるのとほぼ同時だった。
「やめるんだ、ジミー!この学園内の噂は君のせいだろう?もうキャロルを傷つけないでくれっ!」
「僕が…僕がキャロルをずっと守って一緒にエジプトで考古学をやろうと約束したのに…キャロルを返せっ!」

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イズミルは激高する少年をじっと見つめ、そして静かに口を開いた。
「ジミー・ブラウン。そなたは今までキャロルの何を見ていたのだ?確かにキャロルは素直すぎて人を疑うことを知らぬ。
だが、強い意志と勇気と英知を持っておる。キャロルへの侮辱はこの私が許さぬ!」
「じゃあ、本当にキャロルはあなたと?」
「私はキャロルが忌まわしき呪縛に囚われている間もずっと愛し続けてきた。
そして今、キャロルを救うため、我が子を救うためにここに居るのだ。」
ロディに捕らえられたジミーは「我が子」というイズミルの言葉に呆然と立ち尽くす。

「キャロルが騙されたわけでも誰かが画策したわけでもない。理解してくれなくてもいい。だが僕達はキャロルを失うわけにはいかないのだ。」
沈黙を破ってライアンが静かに言った。
「キャロルがそう望んでいる、と言うんですか?」
「ああ、そうだ。」
「う…嘘だ…僕は絶対に信じないっ!キャロルの口から聞いたとしても…信じたくないっ!」
「ジミーや、落ち着くのだ。キャロルの命がかかっているのだぞ。」
孫のジミーをなだめつつ、ライアンに向って、
「ま、他ならぬキャロルとライアンさんのためですからな。
もともとこのファラオの墓に関しては、盗難事件もあって出土品台帳と合わなくなって…
いや、ワシも何も見なかった、聞かなかったことにしましょう。」
最後にブラウン教授は目をつむり、耳を押さえて、慎重に梱包した問題の呪術板と粘土板を持たせて、三人を帰したくれた。

3人がリード屋敷に帰宅すると、キャロルはイズミルの守り刀を枕元に置いて眠っていた。
イズミルが髪に隠して身を守るために使っていた鉄剣は、今はキャロルとそのお腹の子を守っている。
「私の子だ…誰が何と言おうとも。」
イズミルはキャロルの耳元に「愛している」と囁き、頬に口づけをしていつまでも寝顔を見守った。

43
イズミルは翌日から用意してもらった粘土板に文字を刻み始めた。
現代の技術を以ってすれば、強固な金属に機械的に文字を刻むことなど簡単である。
だが、相手は古代の呪い。イズミルは願いを込めながら一心に文字を刻んでは、ふと考え込んで破棄し、もう一度刻み始める。
一枚は例の呪術板の通りアイシスを鎮めるための粘土板。
もう一枚は、アイシスがメンフィスの葬送の際に『メンフィスが永遠に妃を愛し求めるように』との願いを刻んだ粘土板を封じるためのもの。

粘土板やパピルスからイズミルが推測するところによると、発掘されたメンフィスという王は、即位後に姉のアイシスを妃に迎えたが、間もなく亡くなったらしい。

王位を狙う神官がアイシスに婚姻を迫るが、アイシスは逆にこの神官を追放しようとした。
そこで神官はアイシスを呪縛する呪術板を作り、生ける屍となったアイシスと婚姻して王位を簒奪、権力を握るとアイシスをひそかに埋葬したようだ。

時が流れ、呪術板が壊れたことによってアイシスは復活し、キャロルを殺すために古代に引き込んでしまう。
自らはおそらく憎しみの心だけが古代のアイシスと同化してしまったのだろう。

だが、なんという運命のいたずらか…メンフィスはキャロルを愛して自分の妃にと望んでしまった。
過去が変わってしまった以上、メンフィスにとっての妃は現代に戻ってもキャロルただ一人。
二枚の異なる粘土板に込められた祈りと呪いによって、キャロルは古代と現代を行き来していた。

文字を刻む前に必ずイズミルは全身を清めるため入浴する。
キャロルは入浴後のイズミルの長い髪を梳り、作業の妨げにならないように束ねる。
イズミルが反故にした粘土を捏ね返して下準備をするのもキャロルだった。
「キャロル、そなたは大事な身体。無理をしてはならぬ。」
イズミルは心配するが、キャロルはその度に首を振った。
「いいえ…家族を不幸に巻き込んだ王家の呪いを断ち切ることは、私と古代の…メンフィスとの決別でもあるの。それを人任せになんて…できない…」

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−触れたい−
我が子を身籠っている愛しいナイルの姫、キャロルが目の前にいて、今はキャロルの家族にも受け入れられて誰に憚ることがあるのか。
だが、イズミルは祈りを込めた粘土板に邪な雑念が入ってしまってはならない、そう考えて自らキャロルに手を伸ばすことを禁じていた。
祈りの言葉を口ずさみながら粘土板を刻むイズミルの側で、黙って見守るキャロル。
やがて二枚の粘土板が完成した。

キャロルは完成した粘土板を前にして複雑な思いでいた。
集中していた精神を解放したイズミルはそんなキャロルにすぐに気が付く。
「我が祈りを込めた粘土板を、あれら二枚と重ねて封印することにより、忌まわしき呪いは封じられる。
もう二度とメンフィスの元に引き寄せられることはないであろう。ナイルの姫よ…」
その言葉にキャロルの肩が震える。

「イズミル…二度とヒッタイトに戻れなくなって、もしもこの子がメンフィスの子だったら…」
「それは有り得ぬ。そのような心配はせずともよい。」
「だって私はメンフィスの妃だったのよ。どうしてそんなに自信があるの…」
「バビロニアから戻り、下エジプトの神殿でそなたは月の穢れを迎えた。
神事の続いたメンフィス王との寝所は隔てられ、閨を共にすることが一度もないままメンフィス王はコプトスに出向いた。」
イズミルは一気に言った。
「私の言う事に誤りがあるか?」
「なぜ…なぜそんなことを…」
キャロルは次の言葉が見つからない。だが、一つだけある思い当たる可能性があった。
「もしかしてルカ…が?」
しかし、イズミルはキャロルに答えることなく立ち上がると、部屋を出て行った。

しばらくするとイズミルは鋏を持って戻ってきた。
「キャロル、これで私の髪を切ってくれぬか。」
「髪を?」
「もうこの長い髪も必要ない。ライアンくらいの長さに切り揃えてくれ。」
キャロルは古代での様々な出来事を今更ながら思い出し、溢れようとする涙を堪えながら慎重にイズミルの髪を切り落としていった。

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イズミルはその夜一人で二枚の小さな粘土板を刻み、すべてに指輪に刻まれた自分の印章を印して粘土板の製作を終えた。
ライアンはすべてを受け取ると専門家に頼み焼き上げてもらった。
それだけでは足らずに、セラミックで複製まで作らせた。
イズミルの指示どおり、それぞれの古代の粘土板に重ねるようにして厳重に封印した。

二枚の小さな粘土板はイズミルが自分の髪と一緒に木箱に納めてキャロルに手渡す。
「キャロル、これを私と一緒にナイルに流すのだ。」
「ナイル川に?」
「アイシスの呪い、古代からの招き、それらを封印するための祈りの文字を私が刻んだ。
もう一枚は、私がそなたとこの未来という世界で共に生きること決意した言葉を刻んだ。…私が…生を受けた遥か遠い世界との訣別だ。」

イズミルが粘土板を流すのに選んだのは、キャロルがイズミルと一緒に現代に現れたロディのマンションに近いナイル川本流。
時刻はナイル川を紅く染める夕暮れ時と決めた。
家族が見守る中、イズミルとキャロルは二人だけでナイル川の岸を目指した。
キャロルは歩きながら「これで本当にすべてが…終わるの?」ポツリと呟いた。
「私…誰にもお別れを言ってなかったの…」

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今はイズミル・リードという新たな姓を与えられ、エジプト出国後はアメリカに渡り、キャロルの夫として新しい人生を歩むことが決まっているイズミル。
すでに誰憚ることなくキャロルの隣に立つことが許されている。だがその胸の内は…未だにメンフィスへの嫉妬に胸を焦がすこともある。
自分の子を産み共に生きることを承諾してくれたキャロル。
だが−キャロルは自分への愛の言葉をまだ一度も口にはしていない。
互いの愛をその唇で指で、そして全身で確かめ合っていない。

「まだメンフィスのことが忘れられぬか?」イズミルが口にしようとしたその時…ピシャピシャ、水の跳ねる音がした。
二人が目を向けるとそこには…肩で息をしたジミー・ブラウンが怒りの炎を燃やしながら立っていた。

「キャロル…僕は許さないよ…」
ジミーの背後でナイル川がまるで命を吹き込まれたように不自然に波立つ。
「なぜ君はその男と一緒にいるんだ?」ゆらりと身体を揺らしてジミーが近づいてくる。
『なぜそなたは私の元から去ったのだ…』
「どうして僕を悲しませるようなことをするんだ?」
『キャロル…キャロル…』

47
「ジミー…え?何?これはっ!」
「なんと!メンフィス王!」
ジミーの背後、ナイル川の上には古代下エジプトの神殿の風景が浮かび上がる。

『キャロルかっ!』
『キャロル様!』
『キャロル様だーっ!』
メンフィスが、ミヌーエ将軍が、ウナスが…そしてメンフィスの前に青ざめた顔で跪くルカがいる。
『キャーッ!幽霊!メンフィス様ーっ!近づいてはなりませんっ!』
メンフィスに抱きつくのはリビアの衣装を纏ったカーフラ王女。
『ええい!無礼であるぞ、カーフラ王女!幻であるはずなどない!』
『いいえ!ナイルの王妃亡き後は、私がメンフィス様の只一人の妃になるとカプター大神官様がお約束してくださったのです!あれは幻です!』
『キャロルー!私は第二の妃など迎えておらぬ!迎える気などもない!なぜ私の元を去ったのだ、なぜイズミルと一緒にいるのだーっ!』

「あるいは…そなたが手を伸ばせば…我等はこのまま戻ることができるかもしれぬ。」
キャロルの耳元にイズミルが囁く。
「イズミルは…どうなってしまう…の?」
「賢いそなたがわからぬか?私は捕らえられ、殺されるであろうな。」

ナイル川はキャロルを古代へといざなうようにざわめき、波立っている。
その波はまるで古代のエジプト兵の姿にも見えた。

「私の子を身籠ったまま…メンフィス王の元に戻るか?」
−確信はある、ルカの報告が正しければ、だが…−
思わずキャロルの腕を掴むイズミルにとってもそれは最後の賭けだった。

「キャロルー!イズミル!近づいてはいけない!早く逃げるんだ!」
只ならぬ雰囲気に土手で見守っていたライアン、ロディ、リード夫人も二人の元へと駆け出す。
ジミーは、自分の想像を遥かに超えてナイル川の上に広がる光景を目の当たりにして、言葉にならない叫び声を上げている。
それらの声を掻き消すかのように、時空を隔てた古代下エジプトの神殿の喧騒とナイル川のざわめきが辺りに響き渡る。
−キャロルとイズミルには古代エジプトのざわめき以外、何も耳に届かなくなっていた。

48
メンフィスが目の前にいる…カーフラ王女を第二の妃にはまだ迎えていなかった。
しかし、カーフラ王女は今もエジプトに居る。
そして自分は…この子は…イズミルは…どうなる?

キャロルは唇も触れんばかりに囁きかけるイズミルに…その唇を自ら近づけた。
『キャロルー!何をしておるのだっ!』
メンフィスの声がキャロルの心を引き裂く。

「イズミル…私に勇気を…あなたに乞われて教えたあの文字を私の掌に…」
キャロルは木箱を左手で支えて右の掌を差し出した。
イズミルはキャロルをしっかりと背後から抱えて、キャロルの掌に…

I love you.

右手の人差し指でゆっくりとなぞり、キャロルの耳元に同じ言葉を囁いた。

『ナイルの姫君っ!』
宮殿の喧騒の中でひときわキャロルの胸に響く一人の男の声。

(ああ、ルカ…あなたはヒッタイトの…私よりも、イズミル王子の名前を叫びたいでしょうに…)
イズミルから受け取った文字を自分自身に刻むように胸に当て、そのままナイル川に向って歩みを進める。

「ルカ」
キャロルがナイル川の幻に向って発した言葉は、ヒッタイトの間者でもあるかつての召使に対する呼びかけ、ただその一言であった。
イズミルにしっかりと抱かれながら木箱をナイル川に流す。そしてもう一度ルカだけに目を向けて微笑み…キャロルはくるりとナイル川に背を向けイズミルの胸に顔を埋めた。
(さようなら…背を向けることでしか伝えられなくて…ごめんなさい)

ざわめきが遠ざかる。メンフィスも古代エジプトもすべて遠くなる。
イズミルは消え行くメンフィスから最後まで目を逸らさずにじっと見つめていた。
再び静かになったナイルの岸。
イズミルの胸に顔を埋めたままのキャロルの耳にようやく周囲の声が届く。

「キャロル!キャロルー!」(ああ、これはライアン兄さんの声)
「キャロルもイズミルも大丈夫かっ?あっ!ジミー!しっかりしろ!」(そしてロディ兄さんの声)
「ああっ!今のは一体…」(ママの声も聞こえる)
「キャロル…愛している」(そして耳元でそう言ってくれるのは…)

「私の家族…みんな愛しているわ…」キャロルは泣きながら何度も何度も繰り返した。

49
−一方、古代では
ナイル川の渦に巻かれてキャロルとイズミルの姿が忽然と消えた当時、ルカは夢中で流域を捜し回っていた。
それがナイルの王妃を捜索していたミヌーエ将軍の知るところとなり、とうとう下エジプトに出向いてきたメンフィスの前に引き立てられた。
−姫君は止める間もなく自らナイルに戻られた、その姿を追いつつ夢中で下エジプトにまで来て捜していた−
ルカが苦しい釈明していた時に、ナイルの上に突如として浮かび消えた王妃キャロルとイズミルの姿。

メンフィスは、あれが幻であるはずがないと周囲の捜索を命じ、キャロル救出とイズミルを生きたまま捕えるために自らが舟で指揮を執る。
ウナスは、これまで苦労を共にしたルカのために、メンフィスに対して許しを請い、単独行動をさせないという約束で連れ立って捜索に向った。

だが何の手がかりも得られないまま日々が過ぎ、人々の不安と疲労の色が濃くなった頃、ウナスとルカは葦の茂みの中に小さな木箱を見つけた。
その木箱がメンフィス以下人々の記憶を呼び起こす。
あの日ナイルに消えた幻の中、キャロルとイズミルが川に流していた木箱。
その中身を確かめ、驚きが悲痛な叫びに代わる古代エジプトの人々。

ある晩、ルカは木箱ごと盗み出し宮殿を抜け出した。
ウナスは腹心の近衛兵らと共に、闇に消えるルカの背を黙って見送った。
(なぜキャロル様はアイシス様の呪いから逃れるために、イズミル王子と神の国で生きられることを選んだのか?
いずれにしても…あの品々がエジプトにあるのはメンフィス様もお辛いだろう…ルカ…持ち出してくれて感謝するよ。無事にヒッタイト王に届けてくれ。)
古代エジプトは砂漠の熱い風に吹かれ、歴史の中に埋もれてく−

50
リード一家は静かにエジプトの地を離れ、本拠地アメリカ・ニューヨーク郊外の邸宅に戻った。

−5年後−
「もう起きていたの?まだ夜明け前よ。」
「まだ夜明け前なのに、わざわざ起きてコーヒーを煎れてくれたのか…香りの方が先に届いていたぞ。」
キャロルは舌を出して笑うとカップをイズミルの机の上に置いた。
「ここが夜明け前でも、世界中のどこかの国では日の光が降注いでいるのであろう?」
イズミルは部屋の隅にある地球儀に目をやった。
「ロディ兄さんね?あなたに早起きさせるのは。」
「ライアンはトルコ、ロディはイギリス、二人が不在の時、せめて大学に行く前くらいは会社に顔を出さねば…な。まだ役には立ちそうにないが。」
イズミルはパソコンの画面に映し出されるロディからのメールに目を通す。
「私がそなたの夫としてリード・コンツェルンで受け入れられるために、ライアンもロディも尽力してくれている。」
「あなたは真面目すぎるのよ…イズミル、もっとゆっくり…」
キャロルがイズミルの視界を遮り、その唇がイズミルの口を塞ぐ。

ニューヨークに戻ると、イズミルはすぐに現代の世界で生きていくための様々な教育を受けた。
極秘にリード家が用意した最高の教師陣。元々聡明なイズミルは短期間で多くのことを学び取った。
今は大学で経済学を専攻する傍ら、主にロディの秘書を務めている。

「ライアンからのメールに写真が付いていた。仕事とは関係ないが…トルコの遺跡だそうだ。」
唇を少しだけ離したイズミルがキャロルに告げた言葉は、キャロルの瞳に不安げな影を浮かばせた。

51
穏やかな日々を過ごしていても、キャロルは時々不安に襲われた。
まるで子を盾にして、イズミルの自由を奪ってしまったかのような責め苦に苛まれた。
最初は何がキャロルを不安にさせるのか理解できないイズミルだったが、ある時ようやく気が付いた。
−そなたがそのように不安になるのは…私を心から愛するが故であろう?
素直に言葉にすればそれで良いのだ…私はそなたを深く愛しておる−

キャロルは泣いた。泣きながら初めて言った。

I love you.

その時二人は初めて本当の夫婦となり、ほどなくして第二子に恵まれた。


「いつか歳を経た時に、トルコの地を二人で歩こう。」
イズミルはお腹の大きなキャロルを膝の上に座らせた。
「我が愛するは天にも地にもそなた一人…」
肩を抱き、髪をなで、瞼に、頬に、そして唇に尽きることの無い愛を注ぐ。
キャロルの不安が自分を愛するが故であれば、もっと愛してやれば良い、それを言葉に、行動に示すことこそが、イズミルの愛の形であった。

52
「ママぁ…どこ?ミタムンが泣いてるよぉ…パパも居ないよぉ。」
廊下で心細げな声が響いた。イズミルはキャロルに微笑むと、少し開いたドアに向って
「ルカ、こちらにおいで。」
と声をかけた。
小さな男の子−イズミルにそっくりな長男ルカ−が、目をこすりながらドアの隙間から顔を覗かせた。
「ルカ、教えてくれてありがとう。」
キャロルはイズミルの膝の上から急いで降りると、小さなルカの頬にキスをして部屋を出て行った。
その瞳にもう不安の色は無かった。

ルカが寝ぼけ眼をこすっていると、身体がひょいと持ち上げられた。
「ルカ、偉いな。ミタムンが泣いているのをママに知らせてくれたのか?」
「うん。だってミタムンはまだ小さいからね、夜、ママが居ないと泣くんだ。
でもママは大きいのに…夜はいつもパパのお膝の上に居るんだね?」
−子供はよく見ているものだ−イズミルは苦笑した。
「そうだな…ママが泣かぬよう、いつもああして抱きしめているのだよ。」
「そうかぁ…じゃあ、ミタムンも、それからもうすぐ産まれてくる赤ちゃんも泣かないように僕が抱きしめてあげるよ!」

窓の外はニューヨークの朝が明けはじめた事を告げる小鳥が囀っている。
小鳥の声の中に混じって「王子…ナイルの姫、どうかお幸せに…」と古代のルカの声が聞こえた。


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