『 L.O.V.E 』 11 「キャロル!ああ!本当に帰ってきてくれたのね。ママがどんなに心配したか…」 夕方、リード夫人、キャロルの母親がアメリカからやって来た。 「もう身体は大丈夫なの?ママにもっと良く顔を見せて。少し顔が痩せたかしら?会いたかったわ。毎日夢に見たのよ、キャロル。」 「ママ、ママ、ごめんなさい、心配掛けて。もうどこへも行かないわ。ママとずっと一緒にいるっ!」 母と娘はしっかりと抱き合い、再会を喜び合う。 「ライアンから聞いたわ。こちらの方がキャロルを助けてくれたんですってね。」 リード夫人はベッドに横たわるイズミルに歩み寄る。 (この女人が…ナイルの女神…?エジプト人とはまったく異なる風貌だが…) 「私はキャロルの母です。娘を助けてくれて本当に感謝しています。怪我をなさったそうで…。 その上、キャロルと同様に記憶を失くしているんですってね。一ヶ月くらいで退院できそうだと伺いましたが、心配なさらないで。 どうぞ家にいらっしゃい。キャロルと一緒にゆっくりと療養して下さい、ね?イズミルさん。」 リード夫人の言葉には、人を疑うという様子など全く感じられない。 「お母上のお言葉、感謝申し上げます。」 (姫の性質は、母譲りであったのだな…) イズミルは素直な気持ちでリード夫人の言葉を受け入れた。 一方、病室の外では。 「いいのかい?ライアン兄さん。」 「仕方がないだろう。キャロルだけでなくお母さんまでもがああ言う以上は、あのイズミルをリード家で保護しなければ。 ところで、二人の衣服や装飾品の調査はどうなった?」 「それが、やはり保存状態の極めて良い高価な古代の物ではないか、というだけで。 けれども、これだけ保存状態が良いのは考えられないとも。」 「前と同じか…。銃弾の方は?」 「形式は特定できたけど、長く体内にあったから、まだ警備員の所持品と一致するだけの確証はない。」 「ロディ、引き続き調べてくれ。後は二人の出入国記録だな。」 「わかったよ、兄さん。」 12 しばらくしてイズミルの退院許可が出た。それを前にして、ライアンは妹のキャロルに語った。 「キャロル、お前が行方不明になっていた間、エジプトの政府だけでなくインターポールにも調査依頼をしていたんだ。 それだけ大騒ぎになっていたんだぞ。本来ならイズミルは失踪事件の重要参考人。 だが、お前があくまでもナイル川で溺れていたところを助けてくれた、と言い張るから、今後もリード家で保護することにした。」 「ライアン兄さん…それって、イズミルを警察に引き渡すこともできるんだ、ってこと?」 「当然だ。なぜナイル川で溺れそうになっていたお前を見つけたのか、 溺れる前から一緒だったのならば、どういった理由があるのか。 それがわかれば、真相解明に近づくのだからな。」 イズミルが警察に引き渡されるかもしれない。 (メンフィスの墓を暴いた王家の呪い…なんて、兄さんは信じてくれるかしら?) だが、今まで起きたすべての出来事をライアンに話したとして、信じてもらえる自信もないし、話しづらい事もある。 (兄さんがネフド砂漠でイズミルを見て銃で撃ったことをハッキリと覚えていれば…) 「あの…ライアン兄さん、私…行方不明の間に、兄さんに会ったことがあるんじゃないかしら…なんとなくそんな気がして。」 「馬鹿なことを言うな!もしもお前に会っていたら、僕はその場で連れ戻している!」 そう答えるライアンも、キャロルの言葉に益々確信する。 (やはり、二人は油田事故の現場に居たんだ!後は出入国記録を丹念に調べれば、イズミルの身元もわかるだろう。) 13 いよいよ退院の日。 散々迷ったが、キャロルはイズミルのためにアラブの伝統的な装束を用意してもらった。 古代のそれとは異なるが、現代風の洋服に比べれば違和感もないだろうと思ってのことであった。 「家に着くまでの間、街の風景を見ることになるけど驚かないでね。」 「今更何を驚くことがあるものか…。水の湧き出る"蛇口"、常に消えることのない"電灯"、これ以上驚くようなこともなかろう。」 そう言っていたイズミルであったが、車窓から見る光景に青ざめてすら見える。 (無理もないわ…古代人にとってこんな未来は想像もつかないのだもの…本当は見せたくない、見せてはいけないものだったのに。) キャロルは眉を寄せて青ざめているイズミルの右手にそっと手を伸ばした。 まだ完全に握力は戻っていない。だが、「心配しないで」というキャロルの指先のぬくもりを逃すまいと、キャロルの白い指の間に自分の指を重ねて少しずつ力を入れる。 後部座席の二人の様子を、助手席のリード夫人はルームミラーで黙って見つめていた。 「この部屋を使って下さいな。身の回りの物は一通り用意させましたけど、足りないものがあったら遠慮なく仰って。」 カイロのリード屋敷は広い。リード夫人はキャロルの部屋の隣のゲストルームをイズミルの寝室とした。 「キャロルのお友達が来た時のためのお部屋で、前は別の方が使っていたのだけれど、気に入っていただけるかしら?」 「お母上のお心遣い、ありがとうございます…」 イズミルはリード夫人の手を両手で捧げ持ち恭しく礼をした。 「今日は家族だけで退院のお祝いをしましょうね。夕食までゆっくりと休んでいらして。キャロルはお部屋の説明をして差し上げて。」 14 「えっと、こっちがバスルームとトイレ。造りは病院とほとんど一緒だからわかるわね。 衣装は毎日着替えてね。お洗濯は、ばあやがやってくれるから籠に入れておいて。 クローゼット、衣装箱はここね。お洗濯したものは、ばあやが部屋まで届けてくれるけど、ここには自分で納めて、着る時は自分で出して。 不便かもしれないけど、我慢してね。…イズミル?大丈夫?」 「ああ…済まぬ。話は聞いておった…」 ベッドに横たわったまま目でキャロルを追いながら説明を聞いていたイズミル。 リード夫人の前では何とか自らを奮い立たせていた。だが、『現実』はイズミルの精神の許容範囲を遥かに超えて重く圧し掛かる。 今信じられる確かなものは目の前のキャロルだけ。 「私は…。気がおかしくなりそうだ、助けてくれ…」 イズミルの右手がキャロルに向ってもどかしげに動く。 「私は今まで命の危ういことなど幾度も遭遇した…だが、不思議と恐怖など感じたことはない…しかし此度は違う。」 「イズミル…王子…」 「そなたの国にあっては、ヒッタイトの王子などという身分はなんの役にも立たぬ、そうであろう?」 イズミルの琥珀色の瞳がキャロルを見上げる。 15 なんと答えればいいのか…しかし、どんな言葉もイズミルの慰めにはならない、キャロルは自分自身の体験でそれを良く知っている。 自分が古代に迷い込んだ時、確かに混乱したが「過去」というものの存在を知っていた。 未来の人間だということを誰一人知らずとも、史実を知っているというだけで神の娘と崇められ、古代エジプトの王妃にまでなった。 だが、イズミルは過去から来てしまった人間。(怜悧な王子が人前でこんなに弱さを見せるなんて想像もできなかった…) 「もう一度、先ほどのように私の手を握ってくれぬか?」 イズミルは不安げな眼差しでキャロルに懇願した。 「眠って…側にいるから。」 イズミルの言葉に胸を痛めるキャロルは、ベッドの端に座ってイズミルの右手を両手で包み込む。 「あの舟の中で…」 瞼を閉じたまま語りかけるイズミルの言葉に、一瞬キャロルは身体を硬くした。 「手を離さないでくれ…。そなたに謝ろうと思っているのだから。 舟に引き上げた時、夢中で私に抱きついてきた意識も朧気なそなたに、我を忘れてそのまま我がものにしてしまった。 そなたの気持ちを踏みにじったこと、本当に済まなかった。これがその罰であろうな。」 「そうじゃないの…あ…いえ…それは関係ないから…」 これまでの出来事はすべて王家の呪いから始まったことである、そう言えたらどんなに楽か。 だが、それには時を隔てた未来の世界であることを説明しなければならない。 「罰ならば私一人に…あなたが悪いんじゃないから。私のせいなの…ごめんなさい…」 (王家の呪いのせいだけじゃない。歴史を歪めた私の罪。) 16 ダイニングテーブルを飾っていたリード夫人は、来客の報せを受けて玄関ホールに出向いた。 「お久しぶりです。あの…さっき祖父からキャロルが退院したらしい、と聞いたので。」 玄関に立っていたのはジミー・ブラウン。 「入院中もずっと会えなくて、心配していたんです。キャロルに会わせて下さい!」 「キャロル・リード嬢発見される」の報道はあったが、その後の状況などは一切マスコミに発表されなかった。 家族以外は面会できず、病院関係者の口も堅かったためにジミーもキャロルに会えず事情がわからないまま、苛立ちの日々を過ごすしかなかった。 リード財閥の考古学発掘事業に祖父のブラウン教授が携わっている関係で、今日が退院の日らしいとようやく耳に入ったのだ。 「ジミー、何度も病院に足を運んで下さったと聞いています。でもね…ごめんなさい。 ライアンからキャロル達には誰も会わせるなと言われていて…」 「キャロル達?キャロルは一人じゃないんですか?!」 ジミーはリード夫人の失言を聞き逃さなかった。 「僕はキャロルの婚約者です!お願いです!」 「私から返事はできません…キャロルも今はまだ休んでいるでしょうし、ごめんなさいね…ジミー。」 この前キャロルが失踪したのは、ジミーとの婚約パーティの最中で、婚約をライアンの反対を押し切って進めたのは自分であった。 それが原因でキャロルが失踪したのではないか、リード夫人はずっと悩んでいた。 「キャロルの様子を見てきますから…ライアンが戻るまでここでお待ちになって。」 17 しかしキャロルは自分の部屋にいなかった。 (イズミルさんのお部屋にいるのかしら?)ノックをするが返事がない。リード夫人はそっとドアを開けてみると… 自分をそっと揺り動かす手の温かさでキャロルは目を覚ました。 ベッドに横座りしたまま、イズミルの胸を枕に眠ってしまったらしい。 「あ…ママ…」 「しっ。静かに。イズミルさんを起こしては気の毒だから。」 キャロルはゆっくりと身体を起こし、ずっと繋がれたままの手をそっと離した。 「キャロル、実はね、ジミーが来ているの。」 「え?ジミー?」 「あなたが会いたくなければ断ってもかまわないのよ。ライアンからもそう言われているし…。」 どんな顔をして会えばよいのだろう。かつて婚約までしたジミー。だが、今の自分は… 「ママ…私…」 「いいのよ、キャロル。ジミーとの婚約のことはママが悪かったの。それが嫌だったのね?ごめんなさいね…キャロル。」 「ジミーのことを嫌っていたんじゃないのよ!でも…違うの…その結婚とか…」 「ママがジミーにお断りするから、今日は帰っていただきましょう。」 「いつかきちんと自分の口からすべて話すから…ごめんなさい…」 それはジミーに対してか、母のリード夫人に対してか。 階下の玄関ホールでは、すでに騒動が起きていた。 18 「なぜ僕がキャロルに会わせてもらえないんですか!」ちょうど帰宅したライアンにジミーが懇願していた。 「僕はキャロルの婚約者です。今までずっとキャロルを探してきたんです!会わせて下さい!」 ライアンはジミー・ブラウンという青年をあまり好きではなかった。 それはジミーのせいではなく、あくまでもライアン個人の感情。 だが、婚約パーティの最中にキャロルが失踪した時に、やはり自分の考えは間違っていなかったのだと、この青年はキャロルには相応しくないのだと確信していた。 「君との婚約は、キャロルが失踪した時点でブラウン教授に解消を申し出ている。 君のご両親も同席せず両家の合意に基づく正式なものではなかったし、元々僕は反対だった。」 「キャロルの気持ちが聞きたいんです!会わせてもらえるまで帰りません!」 頑として動こうとしないジミーに困り果てるライアンであったが、ふと思いついた。 「いいだろう。今日は家族だけで退院祝いをする。キャロルの友人としてならば招待しよう。」 「ライアンさん、ありがとうございます!」 「用意が出来るまでリビングで待っていてくれ。さあ。」 ジミーをリビングに通すと、ライアンはイズミルの部屋へと向った。 「お母さん、キャロルもここにいますね?入りますよ。」 イズミルもすでに目を覚ましており、ドアを開けたライアンは笑顔を作りながら言った。 「二人とも、退院おめでとう。イズミルは回復するまでゆっくりと過ごして下さい。 キャロルも無理をせずにのんびりとすればいいから、な?」 「ラ、ライアン。ジミーが…」 「ああ、お母さん、そうですね。今日はジミーが訪ねてきたので食事に招待しました。 キャロルの支度をしてあげて下さい。さあ、あまり待たせては気の毒ですよ。」 ライアンはキャロルとリード夫人を部屋から追い出すように急き立てた。 19 「さて、イズミル。聞いての通り、今日は一人客人を招くことになった。キャロルの友人ジミー・ブラウンという青年だ。」 イズミルはリード夫人がキャロルを起こしに来た時から気が付いていて、目を閉じたままずっと二人の会話を聞いていた。 (この男、何を考えておるのだ?ただ招いただけとも思えぬ。) イズミルは黙ってライアンの次の言葉を待つ。 「以前、母が彼とキャロルを婚約させたがっていたが、今日はあくまでも友人の一人として招いた。 彼はそのことで君に何か無礼な事を言うかもしれないが、気にしないでくれたまえ。」 (なるほど…ライアンはその青年を快く思っていない…と言うことか。) 「もうしばらくしたら、キャロルと一緒に下りて来てくれ。」 「ライアン。」 部屋を出て行こうとするライアンにイズミルが話しかけた。 「なんだ?」 「こうして世話になっていること、貴殿には感謝している。」 (おそらく、私には私の役割があるということだな。ここはライアンの望むとおりに…) キャロルがジミーを愛しているとは思っていなかった、いや思いたくなかったライアンは、婚約パーティの最中にキャロルが失踪したことを表向きの理由として、婚約の白紙撤回を申し出ていたし、 ブラウン教授もリード夫人も承諾しているが、当のジミーだけは今もキャロルとの婚約は、二人の間で約束したのだと主張する。 (ジミーには気の毒だが、キャロルの口から直接言わせるようなことはさせたくない。イズミルの存在を…利用させてもらうか。) 妹可愛さのあまり、ふと思いついた計画がどのような結果になるのか、ライアンは知る由もなかった。 20 「席が…6つ?」 ダイニングルームに招き入れられたジミーは違和感を感じた。 リード夫人の言葉に従って席に座るが、空いたままの三つの席は自分の隣にひとつ、円卓のちょうど向かい側、リード夫人とライアンに挟まれた二つ。 残る家族はロディとキャロル本人だ。 自分の隣にキャロルが座ったとしても、向かい側の二つの席は主役が座るべきもの。まさかロディとその連れ?しかし家族だけの退院祝いとライアンは言った。 「あの、ロディさんは?」 「ロディは仕事の都合で少し帰りが遅れるそうだ。」 その時、ジミーの背後でドアが開いた。 席を立って振り返ると懐かしいキャロルが…すぐに駆け寄ろうとしたジミーの足が止まった。 「キャロル…」 「長い間、心配をかけてごめんなさい。ジミー、あの、、、今日はありがとう。」 キャロルをエスコートしている髪の長い異国の男性の存在が、ジミーに言葉の続きを飲み込ませてしまう。 少し時代的な雰囲気はあるが、ライアンの元までキャロルを導き、当然のように自分の向かい側の二つの席に座るのをジミーも黙って見ている以外ない。 「紹介しよう。キャロルを助けてくれたイズミルだ。怪我をしてまだ右手が不自由なので、キャロルが世話をしている。」 途中で遅れてきたロディが参加して、キャロルの退院祝いは、不安げなジミーの気持ちをを他所に和やかに過ぎていった。 |