『 L.O.V.E 』 1 バビロニアから戻ったばかりのキャロルは、婚姻による同盟を画策するカプター大神官の言葉にコロリと騙されてしまった。 もうここには居られない、居たくないと悲しんだキャロルは、ナイルの流れに身を任せようとするが、溺れて意識を失ったままルカに助けられ岸にたどり着いてしまう。 宮殿は静かでまだ誰も異変には気が付いていない。これは絶好の機会だ、ルカはそう思った。 宮殿内部に居て常に目を光らせているルカ、彼は婚姻による同盟の噂を早くから知っていた。 一途なナイルの姫は傷つきメンフィスの元を去るだろうと主従は考えて、イズミルは肩の傷を庇いながらも、荷を運ぶ川舟に乗って宮殿に近い場所に身を潜めていた。 ルカによって意識のないままイズミル王子の川舟に乗せられるキャロル。 舟底に隠された小さな部屋にイズミルはキャロルと二人だけで入った。 濡れた衣装を脱がせ、自分の肌でキャロルを温める。 「私ならば、そなたにこのような悲しい思いをさせぬものを…許さぬ、メンフィスめ!」 メンフィスという言葉に反応したわけではないのだろうが、自分を包む温もりに無意識に手を伸ばし、背に手を回し、胸に顔を埋めるキャロル。 「よいのか…?私は今度こそ自分を抑えることはしないぞ…」 2 キャロルの意識がぼんやりと戻ったのは、熱い行為の真っ只中であった。 (なぜ…?メンフィス…私を裏切ったのに…)しかし、何かが違う。 肌にかかる髪の感触が、腕を押さえる掌の感触が、微かに漂う香りが…そして何よりも自分の体内で感じる相手の身体の一部分が! 「あ、あなたは…メンフィスじゃない…!ここはどこっ?」 だが、暗闇の中で相手を確かめる術もなく、キャロルはメンフィスとの間にはなかった痺れる様な官能の渦に深く堕ちていった。 気が付くと、天井から光が漏れていた。その薄明かりを頼りに自分をしっかりと抱く手の持ち主の顔を覗き見ると… 「イズミル王子!」 キャロルの声でイズミルも目を覚ました。 「目覚めたのか、姫。そなたはもう私のものだ。このままヒッタイトへ連れて行く。」 「い、いやよ!私は、エジプトのっ、うぅぅっ…」 そのキャロルの唇をイズミル王子が塞ぐ。 「エジプトのファラオの元から逃げ出してきたのであろう?そして…そなたは何度も私を求めたのだ。覚えていないとは言わせぬぞ。」 「違うわっ!私を放して!」 しかし、イズミル王子の強い力には抗えない。 (なぜこんなことになってしまったの…これで本当にメンフィスのところには…) そう思うキャロルであるが、本能に火を灯すようなイズミル王子の唇が全身を這う。 (私もメンフィスを裏切ってしまった…) 3 川舟が下エジプトの小さな町に着いた時、乗り換えのためにようやくキャロルは船底の荷物室から出ることができた。 人目を避けるために岸に上がらずに夜の間に乗り換えるらしい。 (このままヒッタイトに連れて行かれて利用されるのならば、死んでしまおう) キャロルは隙を見て舟べりに立つ。 「ナイルの姫!何をなさるのですっ!」振り返るとそこには召使のルカの姿。 「えっ?ルカ?!なぜここにいるのっ?」その瞬間キャロルの身体はナイル川に落ちた。 「ルカーっ!姫を助けろっ!私もすぐに行くっ!」 (なぜ王子がルカのことを知っているの?何がどうなっているの?) 渦に巻かれて川面に顔を出した時に、舟の様子を見ようとしたが大きな渦がキャロルを襲う。 (もうダメ。このまま死んでしまう…でも、どうしてルカが王子の命令されていたかの…知りたかった…けど) キャロルがそう思った瞬間にイズミル王子の姿が水の中に揺らいで強い手を感じた。 そのまま一瞬強い流れに巻き込まれたと思ったら、今度は力強い手によってぐんぐんと引っ張られていく。 「そなたを死なせはせぬ!」(いや!私は自分意思ですべてを決めるのよ!!) 濁流に身を打たれて目すら開けられないキャロル。だが川岸にたどり着いたことだけはわかっていた。 「うぅ…姫…大丈夫か…しかし…ここは一体…くっ!」(またイズミル王子に捕らえられてしまった…) しかし、自分を支えていた強い力が急に崩れ落ちてしまったことで、キャロルはようやく例えようのない違和感に気が付いた。。 「ひ、姫…ここは…どこなのだ…」 イズミルの聞き慣れた声、だがその口にする言語はキャロルの母国語の英語、そして自分達の居る場所はコンクリートの上。 恐る恐る目を上げると、そこには… 4 リードコンツェルンの次男ロディは、港湾整備事業の出資に関する視察でナイル河口を訪れていた。 仕事を終えてカイロの屋敷に戻ってもいいのだが、母はアメリカに帰っている。 「ばあやには悪いが…今日はここに泊まるか。」 そこは自分ひとりのために用意したナイル川沿いの高級メゾネットマンション。ナイル川から引いた人工川に直接出られる庭もある。 締め切っていた室内の空気を入れ替えるために、ナイル川に面した窓を開けたその時。 「あっ…!ロディ兄さん?本当に兄さんなの?」 護岸工事を施したなだらかな斜面にうずくまるキャロルと、右肩を真っ赤に染めて横たわる男を見つけたのだ。 「キャロルーっ!お前、今までどうしていたんだーっ!」 ロディに問われても、キャロルはすぐに答えることができない。 (前に現代に戻った時は記憶を失くしていたのに、なぜか今は古代のことをハッキリと覚えているなんて。) いや、それ以上にキャロルが呆然としているのは、古代のヒッタイト王国のイズミル王子がこの場にいること。 (イズミル王子を現代に連れてきてしまった…どうすればいいの…) 「キャロル…その男は…?」 咄嗟に口走るキャロル。 「わ、私もわからないのっ!でもこの人は私を助けようとして川に… 肩にひどい怪我をしているわ。お願いっ!兄さん、この人の命を救って!」 5 カイロに滞在中のキャロルの長兄ライアンは、ロディからの連絡を受けてすぐに現地に向った。 妹の無事を喜びつつも、身元不明の男の正体が気にかかる。 しかも妹のキャロルはなぜかその男を保護してくれと頼むのだ。 「右肩に銃弾が入っていました。手術で取り除いたのでもう大丈夫でしょうが、右肩から右手にかけて完全に回復するまでは、しばらく時間がかかります。 他にはかなり強く全身を打っているようです。こちらは安静にしていれば良くなるでしょう。」 ライアンの前にいる医師はカルテを見ながら続けて言う。 「妹さんは、少し興奮していましたが、外傷はありません。 一緒にいた男性の側に居たいと言っておられるので、今はその部屋に。あの、いけませんでしたか?」 「いや…わかりました。入院中は外部から完全に遮断できる環境を整えて下さい。妹と少し話してみます。 それから、取り出した銃弾ですが、後で弟に渡しておいて下さい。こちらで調査します。」 病院に搬送する途中に見た男の顔が、ライアンの記憶を呼び起こす。(まさかとは思うが…) 6 麻酔のせいか青白い顔で横たわるイズミル。 「どうしよう…どうしたらいいの。王子を連れてきてしまうなんて!」 古代での悲しく辛い記憶を引きずったまま現代にもどったキャロルが、パニックにならずに済んでいるのはある意味でイズミルの存在のおかげであり、またイズミルの存在がキャロルを苦悩させている。 (私が古代に行った時と同じように言葉だけが通じるなんて…王子は英語なんて知らないはずなのに。) 看護師に、麻酔から覚ますために名前を呼びかけてください、と言われたのを思い出し、キャロルはイズミルの頬に手を当てながらその名を呼んだ。 「王子…イズミル王子…」 キャロルの言葉に反応したのか、イズミルの瞼がかすかに動く。 「イズミル王子?気が付いたの?」 「う…ひ、め…」 「王子、ああ、気が付いたのね…」 しかしキャロルは次の言葉がでてこない。この状況を一体どうやって説明すればよいのか? 「姫、ここは…一体どこだ…?」 「それは…あの…」 「見たこともない風景、見たこともない建物…ここはそなたの母がいる神の国か…?」 「王子…私の言っていることがわかる?」 キャロルは確かめるようにゆっくりと英語で語りかける。 「お願い…今はとにかく私の言うとおりにして。私もまだどうしていいかわからないの。」 「うっ…っ!」 起き上がろうとするイズミルをキャロルは必死で押さえる。 「まだ動いてはいけないわっ。王子の肩の傷は…バビロニアへの旅の途中でライアン兄さんが撃った銃弾のせいだったの。」 「あの折の不思議な大音響…?」 「もうすぐライアン兄さんもここに来ると思う。でも王子は何も知らない、覚えていないと言って。お願いだから…」 (私が古代にいた時と同じように言葉だけが通じるなんて…王子は英語なんて知らないはずなのに。) 7 「キャロル?入るぞ…」 ライアンは術後の男が眠る部屋のドアを開けた。 「キャロル、一体お前に何があったんだ?どんなに探したか…」 あれも聞こう、これも聞こうと思っていたライアンであるが、まるで男を守るかのように立つキャロルを見ると言葉がでてこない。 病衣に身を包む妹が妙に大人びて見える。 一方のキャロルも会いたかった兄ライアンに何をどう説明しようか、まだ決めあぐねている。 (古代ヒッタイトの王子だなんて、兄さんは信じてくれないわ…でも、現代で王子を守ることができるのは私しかいない!) 「キャロル、お前が何も覚えていないのは医師からも聞いた。麻酔から覚めたその男と直接話したいのだが。」 (王子、お願い、打ち合わせた通りに)キャロルは祈るような気持ちでイズミルを見る。 「エジプト人には見えないが、まず名前と国籍を聞かせてもらおうか。」 「この人も何もっ!」 「お前は黙っていろ!次に、なぜ妹と一緒にいた?さあ、答えてもらおうか。」 「私の名は…イズミル。それ以外はここがどこなのか、なぜここにいるのかもわからぬ。」 「ライアン兄さんっ、わ、私ね、この人に助けられたのなら、今度は私が助けたいのっ! 私はここに戻ってくることができたけど、この人はこのままじゃ戻ることもできないわ。 出来る限り世話をしたいの。お願い!この人を助けてあげて!」 病室に沈黙が流れる。ライアンの口からどんな言葉がでてくるのか。 「私は…大切な人がナイルに流されるのを見て夢中で追いかけた…ただ、それだけだ…。」 沈黙を破ったのは渦中の人、イズミル。 「大切な人?妹は君にとって大切な人だった、それは覚えているんだな?」 「…失うわけにはいかない…我が命に代えても!それだけはハッキリと覚えておる!」 8 「わかった。今はキャロルの望み通りにしよう。何も心配するな。」 二人が何かを隠していることはわかっている。 だが今問い詰めても仕方がなさそうだと感じたライアンは、とりあえずキャロルの願いを聞き入れて、失踪事件の手がかりになりそうな男を保護することにした。 ライアンが病室を出て行くと同時に、キャロルは椅子に座り込んだ。 「いつまでも兄さんを騙せるとは思えないけど…しばらくは何とかなりそうだわ。」 「姫、そなたが私を助けてくれるのか?」 「その呼び方はやめて、って言ったでしょう?私の名前はキャロル。そう呼んで。私も王子のことは…名前で呼ぶから。」 「キャロル…?」 「そうよ、えっと…イズミル。王子とか姫とか…家族が聞いたら驚いてしまうわ。 古代と現代とでは生活の仕方も違うから、私が側を離れずにいるしかないの。」 「ここがそなたの生まれた神の国か…いずれにしても今の私にはどうすることもできぬらしい。言うとおりにしよう…キャロル。」 そうは言うものの、キャロル自身がこれからどうしたらいいのか混乱していた。 (メンフィスの元から逃げ出して…そして、私はこの人に…もうメンフィスの元には戻れない、わかっているのに…) 9 リード家のために病院が用意したVIP用の病室に、ばあやも一緒に泊り込むという条件で、キャロルはイズミルの付き添いをすることになった。 右手が不自由だからと理由を付けながら、現代での生活に順応するために様々なことを教えるには最適な空間であった。 ばあやが屋敷に戻ったり、買い物で出かけたりする時には二人だけになる。 「今日はママがここに来るから、ばあやは出迎えに行ったの。夕方まで帰ってこないから…」 「ナイルの女神が?」 「あのね、何度も言っているけど私は普通の人間よ。もちろんママも女神じゃなくて普通の人なの。絶対にそんなことは言わないで。」 「そうであったな…しかし私には神の国としか思えない。」 「さ、お昼ご飯を食べて。」 右手の使えないイズミルのために、キャロルはナイフとフォークを使い料理を切り分け、一口ずつ口元に運ぶ。 その合間にスープはスプーンで同じように運び、パンは小さくちぎってバターやジャム、 時にはメインディッシュのソースをつけて左手に渡し、その食欲から嗜好を確認して細かく記すようになっていた。 現代に来てから、これまでずっとイズミルは物静かであった。キャロルを除いて、身の回りの全てが初めて目にするものばかり。 自分がいた国とまったく異なる生活習慣に馴染まなければならない、ということはイズミルも十分承知していた。 10 古代での出来事、メンフィスのことは当然ながら、川舟の中での二人の行為についても、イズミルは敢えて一切触れなかった。 それは、キャロルに対する家族や常に一緒に居るばあやの接し方から、今までのようにしてはいけない、と本能的に感じ取り自分自身を抑えていたのだ。しかし、今日は二人だけ。イズミルも自然と饒舌になる。 「ここにエジプトの者は…来たことがあるのか?」 「え?」 「エジプトの…メンフィス王…」 「…」キャロルの手が止まり、室内に沈黙の時が流れる。 「済まなかった…忘れていたわけではないのだ。そなたは家族の元に帰りたくても帰れないと、よく泣いていたな。」 現代に来てから初めてイズミルはキャロルに向って手を伸ばした。 「泣きそうな顔をするな。胸が締め付けられる。」その左手がキャロルの右頬に添えられる。 「いいえ…私は…今は家族に会えたんだから。でもあなたは…。」 「私は大丈夫だ。キャロル、そなたさえ側に居てくれれば。」 「でも王子はヒッタイトの世継ぎよ。必ずヒッタイトに帰すわ。そうでなければ…歴史が変わってしまう…」 「一緒にヒッタイトに帰らぬか?」 「ダメ!私はもう…メンフィスのところには帰れないし、本当はあなたをヒッタイトに帰す方法もわからない…」 「メンフィスの元になどやらぬ!私とヒッタイトで共に生きれば良い!」 「やめて!やめて!」 「なぜそのように私を拒む!そなたはあの時、私の愛を受け入れたではないかっ!」 「もう、やめて…ここで全部忘れたいの…メンフィスのことも…すべて…。」 どのくらい時間が過ぎたか。「ごめんなさい…取り乱してしまって。料理も冷めてしまったわ…」 キャロルが口を開くまでの間、イズミルは左手をキャロルの右頬、そして髪をゆっくりと撫でていた。 「姫、いや、キャロルよ、私がヒッタイトに帰りたいと望むことがそなたに苦痛を与えるのか。」 「王子…」 「王子とは呼んではならぬのであろう?もう泣くな。」イズミルが静かにキャロルに微笑んで、病室は再び静かな時間が流れ始めた。 |