『 黒い嵐 』

41
「アイシス様、メンフィス様がお召しでございます。あの・・・ナイルの姫君のお部屋においでくださいませ」
侍女がアイシスに言いにくそうに告げに来た。
「何?メンフィスが?すぐ参ります」
アイシスはキャロルの居室に急いだ。高ぶった神経が、自分を呼んだのはメンフィスではなく、むしろ「ヒッタイト王子妃」キャロルであろうということを告げていた。

「おお、姉上。待っていた」
キャロルの寝台の横に置かせた椅子に座っていたメンフィスが、立ち上がって手を差し伸べた。
「キャロルの・・・怪我の具合はどうなのです?先ほど病平癒のための護符を持ってきたのですが。・・・キャロル、どうです?」
すがるような目をしたキャロルが口を開くより前にメンフィスが言った。
「うむ。恐ろしい思いをしたらしい。それで襲われた直後だというのに一人になりたいだとか我が儘を申す。
・・・それに・・・怪我をして髪まで切られた故、婚儀は挙げられぬなどと!」
苛立ちの炎がメンフィスを内側から輝かせた。
「アイシス女王、私は今一人で静かに休みたいのです。お、男の方が側にいては落ち着かなくて。それに、怪我をして血を流して髪まで失ったのだからしばらく潔斎しなくては神殿には参れません。
それにファラオが不浄の私の側にいるのはきっとよくありません!」
キャロルは必死だった。とにかく今は、今夜を控えた今はメンフィスにだけは側にいて欲しくない!
「ああ・・・・なるほど。キャロル、そなたのいうことはいちいちもっともですね。メンフィス、確かにキャロルは潔斎しなくてはならぬ身。そなたも控えておりなさい。
何て顔をしているのです、メンフィス。女人は繊細なもの。ましてやキャロルは女の命とも言うべき髪を失ったのです。察してやりなさい。とにかく今は望みを叶えてやるのですね」
アイシスはキャロルの感謝の視線、侍女達の怪訝そうな目、メンフィスの怨みがましい視線を感じながら滔々と述べ立てた。

42
キャロルは垂れ幕を降ろした寝台の中でまんじりともせず目を開けたままでいた。今夜は新月の晩。イズミル王子がやって来てくれるはずの晩。
窓の外は漆黒の闇。しかし、そこここに松明が灯され、闇を明るく切り取って見せている。
暗殺者―もといカーフラ王女―に襲われたキャロルを心配したメンフィスが、常よりも警備を厳重にしたのだ。怪我をして、自慢の金髪をむごた
らしく切り刻まれた彼女をメンフィスが心配するのは当然である。
そして。キャロルの寝室の扉のすぐ外にはメンフィスがいる。大エジプトのファラオたる彼が今宵は愛しい妃のために寝ずの番を勤めるという。
同じ部屋で休むと言って聞かなかった彼を何とか説得できたのは、キャロル自身の控えめながら強硬な拒絶と、アイシスの巧みな説得があったか
らである。

(王子・・・・。いよいよ今夜は決行の時。でもこんなになってしまって・・・)
キャロルは常夜灯のもとで涙を流した。きっと王子は自分を助けてくれると信じて疑わなかったが、それがために危険に晒されると思うと心が凍り付いた。
それに切られて短くなった金髪。王子がこの上なく愛し、決して切ることを許さなかった髪。王子と過ごした幸福な年月を物語る金の糸。王子自ら編み上げ
てくれることもあった。王子との閨で、枕の上にはしばみ色の髪と混じり合って広がる自分の髪をキャロルは内心ひどく誇らしく思っていた。
(私・・・私・・・醜くなってしまった。王子は醜い私をどう思う?)
涙が寝台の上に小さくシミを作った。

その時。不意に大きな音がして、新月の夜の暗闇が明るく照らし出された。
「火事だあぁぁっ!」
人々の悲鳴が王宮の夜の静寂を切り裂いた。窓から見れば、厨房や、食料倉庫のある宮殿の一角が赤々とした炎に包まれている。
「油倉庫に火がっ!」
浮き足立つ人々。警備兵は足音も高く火元に駆けつけていく。侍女の悲鳴が遠く近く聞こえる。
(王子だわっ!)
キャロルは反射的に立ち上がると、自室の扉に鍵をかけた。今、メンフィスやお節介の侍女達に入ってこられたくはない。

43
キャロルは窓際により、常夜灯をかざした。
(私はここよ、私はここ!)

「王子っ、あれに灯りが。姫君のお部屋でございます!」
「おお・・・!あの様子では姫は部屋に一人か」
ルカは黒装束に身を固めた王子に指さした。商人に身をやつして王宮に潜り込み、真夜中まで待ってから要所要所に火を放ったのは王子だった。
慌ただしく人々が行き交う中、王子とルカの主従は配下の兵から離れてキャロルの待つ奥宮殿に向かった。
途中、出くわした不運なエジプト人は声を出す間もなく手際よく殺された。
王子は返り血の生暖かさを意識しながら逸る心を必死に押さえて、愛しい妃の待つ部屋に急いだ。
(姫、姫。待っておれ。今行ってやる!長く待たせた。だがもう苦しみは終わりだ)
新月の夜の暗闇の中で、ひそやかに踏みしだかれる草の音だけが響いた。

キャロルは暗闇の中に必死に目を凝らした。王子が来てくれている!と思うとそれだけで体中の血が逆流しそうなほどの興奮を覚えた。
(早く、早く、早く・・・!)
キャロルはいつか作ったロープを出し、興奮に湿った手の中には小振りなナイフを握っていた。今は動かないほうがいいと思いながらも体は窓の外に飛び出しそうだった。
その時。
心臓が凍るような大音響が部屋の中に響いた。施錠された扉を荒々しく苛立たしげに叩く音。
「キャロル!キャロル!どうしたのだっ?!ここを開けよ!私だ!」
扉の外で熱愛する娘を守っていたファラオ メンフィスの声であった。
(! メンフィス! どうして?! 火元に行ったのではなかったの?)
そして、窓際で青ざめて動くこともできないキャロルの耳に紛う事なき懐かしい声も飛び込んできた。
「姫! 私だ!」
声の主は軽々と壁を登り、キャロルの側に降り立った。
「・・・王子・・・!」
だが感動の再会劇はお預けだった。王子が入ってきたのとほとんど同時にメンフィスも扉を破ってしまったのだった。

44
イズミル王子は咄嗟に常夜灯をたたき落とした。
ほのかな灯りは消え、キャロルの居間は真っ暗になった。
「キャロルっ?!キャロル?どうしたのだ?」
メンフィスが苛立たしげに叫んだ。明るい廊下から暗い部屋に入ってきた瞬間に、常夜灯も消えてしまったのだ。暗さに慣れない目には全てが不明瞭だ。

どうしたものかと冷や汗をかくキャロルの肩を王子は力強く抱いた。もう大丈夫だ、と。
キャロルは息を吸い込むとメンフィスに声をかけた。
「わ、私は大丈夫です。メンフィスこそ・・・こんな所にいてもよいの?すごい騒ぎです。アイシスやカーフラ王女は大丈夫なのかしら?」
「ああ・・・キャロル。急に灯りが消えたゆえ驚いたぞ。そなたは無事なのだな?早くこちらに来い。そなたは何も心配せずにただ私の胸の中にいればよいのだ」
部屋の外の灯りを背に、大柄なメンフィスの影が部屋の中に入り込んでくる。それほど広い部屋ではない。じきメンフィスはキャロルに・・・イズミル王子にしっかりと抱きしめられたキャロルに触れてしまうだろう。

(ここはエジプト王宮。ああ、よりにもよってこんな時にメンフィスが来るなんて!王子がいることがばれれば・・・いくら王子でもひとたまりもなく殺されてしまうわ。そんなことは絶対にイヤ!)
キャロルは震える指先で、自分の胸元に回されたイズミル王子の力強い腕を解きにかかった。
(王子、今は逃げて!あなたに何かあったら私はどうすればいいの?)

「キャロル?どうしたのだ?早くこちらに来い。・・・さぁ、一体どうしたのだ?まさか何かあったのか?」
メンフィスの声が徐々に苛立ちと不安の色合いを濃くする。
なんでもありません、とキャロルが答えようとしたとき。
イズミル王子の声が暗い室内に響いた。
「我が妃を返しにもらいに来たぞ。メンフィス王」

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メンフィスの体がぴくりと震えるのが逆光の中で見えた。でもそれは恐れや不安のためではない。
敵の出現を悟ったライオンが、瞬間的に体に満ちる殺気やエネルギーを放出するのにも似たその僅かな体の動き。
キャロルの細い身体は我知らず震えた。メンフィスの殺気に当てられたのだ。その身体を押さえ、守るように腕に力をこめるイズミル王子。その手は油断なく剣の柄に掛けられている。
メンフィスの大柄な影の立つ扉の不吉な明るさ。長く離ればなれであった恋人同士が潜む室内の暗さ。みなぎる緊張感。

先に沈黙を破ったのはメンフィスであった。
「・・・・イズミル、がいるのか? キャロル」
押さえた凄みのある声が、室内の沈黙と闇をより深いものとした。
「答えよ、キャロル。そなたは我が妃となる身ぞ。答えよ。あるいは・・・答えられぬような目にあっているのかっ!」
メンフィスがずい、と室内に踏み込んだのと同時に窓の外がまぶしく光った。
火の手が爆発するように大きくなったのだ。
照らし出された室内にメンフィスが見たのは、抱き合う二人の男女。大柄な男の腕は華奢な女の身体にしっかりとまわされて。女は必死に男の胸に縋っている。

45.5
「お・・・のれ・・・!」
メンフィスはきりきりと唇を噛んだ。
「そなたの罪を贖って貰うぞ!」
そう言って先に抜刀し、鋭く斬りかかっていったのはイズミル王子であった。
長い長い間、どのような気持ちで愛しい人の身の上を想っていたか今こそ思い知らせようとでも言うように。
自分の腕の中から妻を奪われて、傷つけられた男のメンツを矜持を、贖わせようとでも言うように。

ひゅっと剣が空を切り裂く音がした。すんでのところで身を避けたメンフィスはファラオの黄金づくりの短剣を抜き放つと応戦に転じた。
「おのれ、貴様イズミル!我が妃に何をしたかっ!我が妃への侮辱はファラオたる私への侮辱である、許さぬ!」
「黙れ、メンフィス!我が姫を返して貰おうか。姫は我がヒッタイトの正当なる王子妃。その身を拐かし、幽閉せし罪は重いぞ」
揺らめく火災の光に照らし出された室内で、二人の男が雌雄を決する戦いを繰り広げている。どちらも愛する女を我がものとするために。
だが・・・女の愛がどちらに捧げられているかはすでに明らかである。
「やめてっ、やめて、メンフィス!お願い、王子を傷つけないで!」
捨て身で王子の懐に入り込んだメンフィス。その短剣の切っ先が王子の左肩を切り裂いた。

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王子の肩から血しぶきが飛んだ。
一瞬ひるんだ王子になおも斬りかかろうとするメンフィス。
「神の子たるファラオの手に掛かって死ぬことをせめて名誉と思えっ!」
「だめぇっ!」
キャロルがメンフィスにしがみついた。
「おのれ、キャロル!離さぬか、血迷ったか!」
必死にバランスを取ろうと藻掻きながらメンフィスは怒鳴り、キャロルを突き飛ばした。キャロルは他愛なく床に倒れてしまった。
その隙に王子は体勢を立て直すと、裂帛の気合いと共にメンフィスに斬りかかった。王子の鉄剣がメンフィスの秀麗な顔に深い傷を負わせた。右の眉上から、かろうじて閉じた瞼の上を通り、顎に向かって斜めについた血の筋。
「くそっ・・・!」
メンフィスの視界はにわかに暖かい己の血で遮られてしまった。
「待てっ、キャロルを返せ!キャロルは私のものだ!誰にも渡さぬ!」
なおも斬りかかるメンフィス。王子の鉄剣とメンフィスの黄金造りの短剣が激しくぶつかり・・・鋭い金属音と共に黄金の剣が折れ、薄暗がりの中に消えていった。
「ちいっ・・・!」
メンフィスは短剣の柄を王子に向かって投げつけた。難なくそれをはじき飛ばす王子。
「姫は返してもらうぞ」
王子の冷静な声音にメンフィスの理性は完全に吹き飛んだようだった。
エジプトの少年王は獣のような咆吼をあげると、全身で憎い男にぶつかっていった。
あまりの唐突さにイズミル王子も虚をつかれ、はずみで剣を取り落としてしまった。
メンフィスは怒り狂った手負いの獅子のように、王子に襲いかかった。鉄拳を繰り出し、歯を剥き、急所を狙う。
王子も負けてはいなかった。
「そなたとは、決着をつけねばならぬようだなっ!」
狂ったように襲いかかってくる獅子を、しなやかに迎え撃つ鷹。
拳を繰り出し、蹴り、脚を払い、腕を捻りあげ、胴を締め上げ・・・勝負はいつ果てるともしれなかった。
メンフィスの顔面は血に染まり、王子も又、傷から激しく出血していた。新しい傷の痛みも二人には感じられないようだった。
不意に。組み合いのバランスが崩れ、メンフィスは二本の指をV字型に突き出すと王子の目に狙いを定めた。

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愛しい娘のすべてを愛で、余すところなく見つめたであろう憎い琥珀の瞳をメンフィスは潰そうとしていた。憎い男の脳裏に記憶された、女の身体の映像を断ち切るために、まずその罪深い目を潰そうとしていた。
「覚悟いたせっ!」
メンフィスは吼えた。
「だめえっ・・・!」
起きあがったキャロルが全身でメンフィスにぶつかっていった。手にはかねて用意の短剣を握りしめて。
「王子を傷つけることは許さないっ!」
非力な女よと侮っていた相手の必死の攻撃は、驚くほど強力なものだった。左肩を刺されたメンフィスはもんどり打って床に倒れた。しかし同時にメンフィスは自分をこれほどまでに露骨に裏切って見せた憎たらしい女の細い手首を掴み、床に引き倒した。
「おのれっ、キャロル、貴様・・・!」
メンフィスの怒り、憎しみが一気にキャロルに向けられた。愛しいと思っていたからこそ、大切に愛おしみ添い遂げたいと願っていたからこそ、自分の想いに答えぬ女への憎しみはより強いものになった。
「殺してやる・・・っ!」

メンフィスの手がキャロルの細首にかかり、一気に締め上げたまさにその時。
メンフィスは強い衝撃を首の後ろに感じ、何が起こったのか正確に把握できぬまま昏倒した。
イズミル王子が傲慢なるファラオ メンフィスの無体に鉄槌を見舞ったのだった。
「姫、しっかりいたせ!目を開けぬか!」
イズミル王子はメンフィスが完全に気を失っているかを確認するのももどかしくキャロルを抱き上げ呼びかけた。我を忘れて軽い華奢な身体を揺すれば、じきに王子を見つめ返す懐かしい青い瞳。
「王子・・・」
「・・・そなたを迎えにきたぞ」
王子は妃を助けて立ち上がらせてやった。
その時。
扉に人影が現れた。様子を見に来たアイシスであった。

48
「メンフィス・・・!」
アイシスは火事の禍々しい光に照らされた室内を見るやいなや素早く状況を理解した。
立ちつくすアイシスを冷たく見返すイズミル王子。その胸の中には乱れた衣装に身を包み、未だ恐怖の情忘れがたいキャロル。

「女王アイシスか・・・。久しいな。見ての通りだ、私は私の妃を救い、我が国が被った恥辱を雪ぐためになすべきことをした。
・・・聡明なる女王よ。そなたに問う。そなたはこれからどのようにするつもりか?」
穏やかな声音。しかし言葉の主の瞳は冷たく光り、いつの間にか髪の中から取りだした鉄剣が目の前の女王の胸元を狙っている。
「答えよ、アイシス。為政者の誇りがあるならば。メンフィスのために恥多き復讐を望むのか?」
「いいえ、王子。いけません。どうか剣をおろして」
キャロルが言った。
「女王アイシス。このような形であなたにお別れを言わなければならないのは残念です。私は夫と共にヒッタイトに帰ります。
・・・メンフィスは私の名誉を踏みにじり、イズミル王子を傷つけようとしました。私たちは身の安全と、名誉のためにしなければならないことをしただけです」
毅然とキャロルは言いきった。それは過日、アイシスに見せた堂々たる女王の貌。

(キャロル・・・そなたはまことに強くなった)
アイシスはふっと視線を下げた。床に横たわる最愛の男性。弟にして夫、決してアイシスとは相愛にはならぬであろう身勝手な男性。いくら愛しても、メンフィスは傲慢にその愛を弄び、食べ散らかし、答えてはくれない。
でもアイシスが愛するのは・・・愛しうるのは天にも地にも同じ血を引く弟たるメンフィスのみ。
(私はキャロルがイズミルを愛するより深く激しくメンフィスを愛している。
だが・・・メンフィスは決して私に同じものを返してはくれぬ!)
アイシスは言った。
「王子妃殿。すべては私の与り知らぬこと。この上は疾く去られよ。こたびのことは私がエジプトの女王として責任を持って処理いたします」

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「ああ・・・ハットウシャの城壁・・・!なんてきれい!」
青く澄んだ空に映える堂々たる城壁。キャロルは嬉しそうにイズミル王子の顔を見上げた。
あの火事の夜、王子に抱かれてエジプトの王宮を脱出したキャロル。懐かしい故郷へ愛しい人と戻る旅は、メンフィスの追っ手や盗賊・獣を避ける緊張に満ちた旅であったが、イズミルに守られたキャロルはただの一度も不安を感じることはなかった。
イズミル王子は自分の腕の中で微笑むキャロルの顔を優しく見つめ返した。
その白い顔は、異国での苛烈な経験と旅の疲れを滲ませて、未だやつれてはいたが緊張と不安から来ていたきつさは無くなっていた。
「元気に笑ってくれるそなたと再びハットウシャの空を眺められてよかった」
王子は暖かく答えた。感情を露わにしたり、素直な愛の言葉を囁くことに不慣れであった若者は、周囲の人々が驚くほど饒舌になった。
「そなたは帰ってきたのだ。もう何も心配することはない。私が守ってやる。もう二度と恐ろしい思いはさせぬ」

世継ぎの王子夫妻の無事帰還を祝う興奮さめやらぬ広間を一足先に退がることを許されたキャロルは、湯を使いくつろいだ。ムーラをはじめとする侍女たちがキャロルを大切に傅くことはこの上ない。
「皆、ありがとう。私はもう大丈夫よ。さぁ、もう下がって休んでくださいな」
鷹揚なキャロルの言葉に侍女たちは恭しく頭を下げ出ていった。その優雅な気品に彩られた威厳あふれる言動は、自ずと人々の尊敬と・・・確信を勝ち取るものだった。
すなわち。
―王子妃様は、エジプトのファラオにも誰にも辱めを受けてはおられぬ。この方の気品はご自分のお力だけで試練を乗り越えられた方にのみ備わるもの―

父王と母王妃、それに王族に連なる重臣達の前から退出した王子は弾む足取りでキャロルの待つ部屋に向かった。
長く異国の地で囚われの身であった美しい王子妃を巡っては、心配と同時にかなり不愉快な事柄も取りざたされていたようだった。この時代、他の男にさらわれた女性一般に起こりがちであった屈辱的な事柄が、王子妃の身にも・・・というわけだった。
だが帰還したキャロルの振る舞いはあくまで堂々としており、その厭わしい疑いを殆ど一人で払拭してしまった。無論、帰路に王子自身が密かに侍医を立ち会わせ、その身を改めたという事実もそれを補完したが。

50
エジプトのファラオ メンフィスは黙ってナイルの川面を見つめていた。
秀麗な顔には斜めに傷跡が。イズミル王子と争い・・・キャロルを失った屈辱の証。体についた傷は癒えた。だがその傲慢なまでに誇り高い心に負った傷は癒えることなく、いや、日毎に重くなり嫌な熱を持ち、不吉な膿を垂れ流すのだった。
(私は・・・私はキャロルを失ったのかっ・・・!)
メンフィスは握りしめた拳で円柱を撲った。
あれほどまでに欲しいと思い、あれほどまでに愛しいと思った娘。一度は手に入れたはずなのに、気まぐれな小鳥のように手の中からすり抜けていった憎い―愛しい―娘。
イズミル王子の胸の中で、安心しきって、そして自分を哀れむかのように見つめていた青い瞳が忘れられない。

にわかにメンフィスの背後の宮殿の一角が騒がしくなった。そこは今しもファラオの初子を産み落とそうとしている正妃アイシスの産屋。
「ファラオっ、おめでとうございまする!アイシス様、無事、王女殿下をご出産あそばしました!」
ナフテラとアリが先を争うようにして報告に来た。
「そうか・・・・」
メンフィスの返事は驚くほど素っ気なく冷たいものだった。メンフィスはアイシスを嫌い抜いていた。キャロルとの恋路を妨げた嫉妬深い女。イズミルへの復讐を全力で阻止して見せた女。賢く誇り高い女王よと諸国の名望高い姉をメンフィスは少しも愛してはいなかった。
・・・いや、あの火事の日以来、愛せなくなっていた。
「ふん、王女か。神殿に使者を出し、感謝の祭儀を執り行わせよ!祝賀の準備を命じる。エジプト王国の正妃腹の子供だ、相応に祝ってやれ」
メンフィスは言い放つと、産屋とは反対の方向に歩み去った・・・。
(私はいつかキャロルに世継ぎの王子を産ませて見せようぞ!)
野心に満ちたメンフィスの視線の先に高く舞い上がるハヤブサの影があった。まるで何かの予兆か啓示でもあるかのように。

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