『 黒い嵐 』 21 (王子・・・?) 常夜灯の薄暗い光の中、うすぎぬを細く切り裂いてロープを編むという作業に没頭していたキャロルは王子の気配を感じて、驚いて頭を上げた。 すっかり素直になり、あまつさえエジプトの地を懐かしがってみせているキャロルにメンフィスはかなり警戒を緩めたようだった。 監視役の侍女はキャロルが眠れば下がるようになっていた。だからキャロルはタヌキ寝入りを決め込み早速、脱出のための道具づくりを始めてみたというわけだ。 (私を呼んだ・・・?) だが、誰がキャロルに答えてくれるわけでもない。でも緊張しきった心にふっと柔らかな風が通い、王子の暖かさを強く思い出させた。 時として強引で、口うるさい父親のようなところもある、でも決して相手への思いやりを忘れない優しさ。 誰かを愛することに長く疎遠で、感情を表すことがひどく苦手な男性が照れくさそうに示してくれる不器用で天の邪鬼な愛情。 「私は大丈夫よ・・・。ちゃんと逃げる算段もしているんだから」 キャロルは王子と離れて初めて、いたずらっぽい微笑を浮かべた。 化粧品箱の中にある青銅製の小さな剃刀、大ぶりのベール、それに今作っているロープ。それが今のところキャロルの「武器」だった。 「・・・私は大丈夫よ。大丈夫。きっと大丈夫」 キャロルは自分に低く言い聞かせるとまた作業を再開した。 「昨夜はよく眠れたか?」 次の日の朝、メンフィスがキャロルの居間を訪れた。 「ええ・・・。おかげさまで」 「そうか。良かった。今日よりは婚儀の支度で多忙になろう。婚儀は7日後ぞ。・・・それに今日明日にも姉上が、アイシスがこちらに来る。 姉上は最高巫女でもあるゆえ。司式を命じたのだ」 22 「姉上!待っていたぞ、よく来てくれた!」 夕暮れがナイル河岸を黄金色に染める頃、アイシスは下エジプトの宮殿に到着した。上機嫌で姉を迎えるメンフィス。アイシスはこの残酷で無神経で、しかしこの世の誰よりも愛しい男の手を優雅に握ってみせた。 「メンフィスが呼んだのです。誰が拒めましょう?私はあなたの正妃ですよ。王妃は・・・いいえ、妻は何時でも愛する夫に従いますよ」 「姉上。嬉しいことを言ってくれる」 メンフィスは無邪気に笑った。 キャロルを取り戻した。妃にしたい。ついては我が姉上、王妃、そしてエジプトの最高巫女たる姉上に婚儀に立ち会って欲しいのだ・・・。 こんな内容の書状を受け取ったとき、危うくアイシスは失神するところだった。キャロルが戻ってくる・・・。目の前が絶望で暗くなり、自分の心の中に嫉妬と憎しみ、悲しみの蔓草がはびこる様が見えるような気がした。 「姉上・・・?どうした? 婚儀のことだが・・・キャロルは側室ではなく妃の待遇で迎えたいのだ。それなりの格式を与えて。無論、姉上は別格だ。私の姉上であるのだからな。だがキャロルもまたハピの娘。 お願いだ、姉上。我が王妃として、キャロルのこと認めてやって欲しい。これは私だけの意志ではない。民もまた望んでいるに違いないことだ」 本当に・・・愛に目のくらんだ男はどうしてこんなに惨くなれるのだろう? 「・・・・メンフィス。ではキャロルが見つかったというのは・・・ヒッタイトの王子妃を拐かしたというのはまことだったのですね。 ・・・一国の王子妃を拐かすとは、そなた大それた真似を。きっとただでは済みますまいよ」 「姉上!キャロルは我が妃だ。ヒッタイトのことなど口にしないで貰いたい!」 「・・・で、メンフィス。私は式の前にキャロルに会っておきたいのですけれど。かまいませんね?」 だがメンフィスは冷たい声でそれを拒絶した。アイシスが決してキャロルの出現を喜ばないであろう事は分かり切っていたから。 23 「な、なりませぬ。アイシス様っ!ここは姫君のお居間でございます。メンフィスさま以外の方はお入りになれませぬ!あの・・・っ!」 「さがりや!私はキャロルと話があるのじゃ!」 厳しい声音と共にキャロルの前に現れたのはアイシスだった。物憂く長椅子にもたれ掛かっていたキャロルは驚いて、でも気品を失わぬ物腰で立ち上がり、侍女を下がらせると闖入者を迎え入れた。 (ほう・・・。この娘、しばらく見ぬ間に変わった) アイシスが覚えている臆病で弱々しい小柄な娘はそこにいなかった。身体の小ささを忘れさせる気品と威厳、それでいて匂い立つような優雅さと、楚々とした美しさが彼女の身に添うている。アイシスは圧倒された。 それは愛し、愛されることで女の身に付いた自信とでもいうべきものか。 (この娘が・・・いや女がメンフィスの心を奪った。もはやメンフィスは・・・!) 妬ましさと口惜しさで口も利けず、キャロルを睨み付けるアイシスに、先に声をかけたのはキャロルの方だった。 「・・・お久しぶりです。女王アイシス。いいえ、アイシス王妃」 「そなたにまた会うことになろうとはな・・・。そなたがまたエジプトに舞い戻ろうとは思うてもみなかった。ふん、メンフィスはそなたにずいぶん執心のよう。そなたも嬉しか・・・」 「私はヒッタイトの王子妃です。どうか侮辱的なことをおっしゃるのはやめてください」 キャロルは凛として言い放った。アイシスは戸惑い気圧されながらも言い返した。 「ほう・・・?そなたはメンフィスの慰み者と思っていたが。たかが慰み者の寵姫相手に婚儀などとメンフィスが酔狂を申し出たは、そなたが寝所で強請ったせいと思い、諫めにまいったのじゃ、私は・・・」 23.5 ばしっ! 鋭く乾いた音が響いた。キャロルがアイシスの頬を撲ったのだ。 「それ以上の侮辱は許しません、アイシス。私への侮辱はヒッタイトへの侮辱です。それにあなたの品位を貶めるものでもあります。口を慎んでいただきたいものです」 (この・・・キャロルは変わった。私が引き込んだ小娘ではない。メンフィスが強引にものにしようとした小娘ではない・・・!) キャロルはアイシスに椅子を勧めながら穏やかに切り出した。 「女王アイシス。ヒッタイトの王子妃としてお話がしたいのです。私をこのままメンフィス王の気まぐれのままにしていては両国にとって好ましくないことになりますよ」 24 「アイシス、率直に言います。私はメンフィスとの婚儀なんてまっぴらです。 そんなことになればヒッタイトとエジプトの間に戦が起こり、多くの人命が失われます。 それだけじゃない。他国の王子妃を拐かして自分の後宮に入れ、寵姫にするなど・・・」 ここでキャロルは一度、言葉を切った。わざと「後宮」「寵姫」などといった刺激的な言葉を使ったことに嫌悪を覚えもしたし、急速に自分の話に引き込まれていっているアイシスに興味を引かれたからだ。 「・・・慰み者にするなど、王者のする事ではないわ。国内の信望も失せましょう。メンフィスにとって非常に好ましくないことが起こるでしょう。 ・・・たかが女のことで偉大なメンフィスの治世に傷をつけていいものかしら、女王アイシス? あなたはご夫君がそのような愚行に走られるのを黙認いたしますの?」 怜悧な口調。相手の心理をずばりと衝いてくる話し方。アイシスの女としての心に揺さぶりをかけ、そして為政者たる女王の心をも揺さぶるやり方。 (このような話し方をするほどの娘であったか?珍しい容姿と、後先考えぬ優しさだけしかない頑是無い子供であったのに! ・・・イズミルが年の離れた妃を、大切に慈しみ育てるように寵愛したとか言う間者の報告・・・嘘ではなかったということか!なんとまぁ・・・) アイシスは薄く笑みを浮かべた。 「なるほど・・・。そなたを女ギツネ呼ばわりする者もあるゆえ、私も身構えていたようじゃ。 さて、キャロル。いいえ,ヒッタイト王子妃キャロル。そなたはまこと、メンフィスのものになるつもりはありませぬのか?世界に冠たる大エジプト王国のファラオに望まれているのですよ?清らかな乙女でなくとも良いとまで、男に言われているのですよ?」 25 アイシスの挑発に一瞬、キャロルの顔が歪んだ。アイシスがよく知る世間知らずの小娘だった頃の表情。 だが次の瞬間、キャロルは気高い女王の表情になった。いかなる侮辱、中傷も傷つけ得ない気高い貌。 「二度とは言いません。私はヒッタイト王子イズミルに愛と忠誠を誓った身、ヒッタイトの未来に仕えようと決心した身です。 あなたはエジプトの王妃として、私をヒッタイトに帰してくださるべきです。 エジプトの民の上に立つ女王として、夫君を愛する妻として、メンフィスを止めるべきです」 二人の女はじっと見つめ合った。 長い沈黙。凍り付いた時間。 「・・・天晴れじゃな。私の挑発にも乗らず、見事!褒めてやろう」 先に沈黙を破ったのはアイシスだった。 「ふふ、そなたを見くびっていたようです。許されよ、王子妃殿。 ・・・そなたに請われずともメンフィスの暴走は止めましょう。そして・・・エジプトの女王、共同統治者、第一王妃として責任を持ってそなたを保護いたしましょう」 「・・・分かっていただけると・・・思っていました。女王アイシス」 アイシスは、この自分を圧倒した小柄な娘に軽く会釈すると部屋を出ていった。 キャロルはへたへたと座り込んでしまった。張りつめていた心が解れ、涙が浮かんでくる。 「王子・・・。私、ちゃんとできたわ。私、アイシスに負けなかった。・・・怖かった・・・。でも・・・ちゃんと帰るから。待っていて。そして・・・褒めて。よくやったって・・・」 「姉上がそなたの部屋に来たのかっ!」 荒々しい足音と共にメンフィスが居間に入ってきた。侍女が告げ口したのだろう。 「何があった?何を言われた?嫌な目にでも遭わされたか!」 メンフィスは乱暴にキャロルを確かめた。傷を負わされていないか、酷い言葉にひどく傷つけられてはいないか。待ち望んだ最愛の娘を目の前にして、メンフィスはアイシスの真摯で哀しいまでの深い愛にすら気付かなくなっていた。 26 キャロルは無言で目をそらした。 「どうした?何を黙っている?申してみよ。そなたを傷つける輩は私が許さぬ!姉上は何をしたのだっ?」 「・・・何も。アイシスは・・・あの・・・式の話をしに・・・」 「嫉妬に狂って・・・そなたを苦しめるとは許し難い・・・。たとえ姉上でも・・・!」 苦し紛れの言葉に騙されるメンフィスではなかった。 「本当にっ!何でもないの!メンフィス、アイシスはあなたのお姉さんで、妻でしょう?お妃でしょう?どうしてそんな言い方するの?アイシスはあなたのこと・・・きゃっ!」 キャロルの唇をメンフィスのそれが塞いだ。 「私の妃はそなただけだ。優しいのは構わぬが、そのような気遣いは無用。私は・・・そなただけしか要らぬ。そなたを諦めようと・・・国主の務めを果たそうと妃を娶り、側室を召しだした。でも今はそなたがいてくれる。そなたが私の血を引く和子を産んでくれる。 私はそなたしか要らぬのだ。・・・わかっておろう?」 メンフィスの唇はいつしか恐怖にひきつるキャロルの首筋に移動していく。 「分かっておろう?このように物狂おしい気持ちは初めてだ。 遠くヒッタイトの地にあるそなたを・・・イズミルめの許にあるそなたを想うたびに気が狂いそうだった。私が愛するのは天にも地にもそなた一人なのだ。 他の女などいらぬ!」 真摯な黒の瞳がキャロルを射抜く。初めて愛を知り、人を愛おしむことを知り、誰かに愛されたいと熱望する若者。でもその想いは決して相手には届かない。 メンフィスの唇はキャロルの白い肌に紅薔薇を咲かせ、手はいつしか胸元に伸びていった。 「嫌・・・です。やめて・・・」 やっとキャロルが口にした拒絶の言葉は、先ほどとは打って変わった恐怖と悲しさに満ちており、メンフィスの燃える心を一気に冷やした。 「すまぬ・・・つい。我を忘れた。怖がらせるつもりはなかったのだ。だから嫌がったりしないで呉れ」 27 メンフィスは似つかわしくない優しさで手を差し伸べた。 「広間に商人どもを召しだしてある。そなたの婚儀の品を揃えねばならぬゆえな。さぁ、参れ!」 「え・・・?」 「嫌なのか?」 メンフィスの声がにわかに不機嫌の色を帯びる。 「いえ・・・。あの、でも首筋・・・。見られるのは嫌です」 「ああ・・・そうか。恥ずかしがり屋なのだな、そなたは。首飾りをして隠せばよい」 メンフィスは侍女に命じてキャロルに幅広の首飾りをつけさせた。黄金と宝石を連ねた見事な品だ。 キャロルは黙ってメンフィスに従った。 奥宮殿の広間には多くの商人が、荷を広げて待ちかまえていた。美しい布地、装飾品、小間物、香料、化粧品、花・・・。極彩色の渦だ。 「さぁ、望みのままに選ぶがよい。私も選んでやろう」 メンフィスはベールをつけ、顔を隠したキャロルに上機嫌に言い放つと商人達の中に入っていった。商人達は新しいお妃に夢中らしい若いファラオに如才なく品物を勧める。キャロルは物憂く自分の膝においた手を眺めていた。 その時。 「姫君。この品はいかがでございます?あなた様にこそ相応しいお品かと存じます」 聞き覚えのある声と共に目の前に差し出されたのは、ヒッタイトで自分が身につけていた腕輪・・・! 「! ルカっ?!」 押さえた声でキャロルは叫んだ。 「あなたなの?」 「しっ、お静かに、姫君。遅くなりましたがお助けに参りました。もう安心でございます。王子もすでにこの地にお入りです。私が先遣として参りました。 必ずお助けいたします。どうかお心をしっかりと・・・」 キャロルは素早く腕輪を握りしめると目立たぬように頷いた。 「キャロル?気に入ったものがあったのか」 「ええ・・・。この腕輪が。とても美しいわ」 「ファラオ、お妃様はお目が高い。こちらは異国の珍しい品。黄金に銀の象眼、宝石をあしらい、華やかな中にも上品さを失いません。いかがでございましょう?」 メンフィスは初めてねだりごとをしたキャロルに有頂天で、すぐにその腕輪を買い上げた。 「・・・姫君、腕輪の中を後ほど・・・」 ルカはそう言って下がっていった。 28 「婚儀の日が楽しみだな。小間物の整理が済んだら私の側に参れ、よいな」 メンフィスはそういうと部屋を出ていった。 「まぁ、姫君!見事なお品ばかり。こう申してはなんですけれど、アイシス様やカーフラ様に勝るとも劣らないお扱い。いいえ、お二方の時はメンフィス様御自ら品定めをなさることなんてなかったですわ!」 侍女は上機嫌で囀った。 「あの・・・少し一人になって良いかしら?何だか人中に出たのは久しぶりで・・・のぼせてしまったわ。そうそう、お水も後で持ってきて下さいな」 キャロルの言葉に侍女は素直に下がっていった。婚儀を間近に控えた姫君の初々しい様子、とすっかり思いこんでいるようだった。 (やれやれ・・・優秀な侍女をつけてもらったこと) キャロルは腕輪に填め込んだ宝石をぐっと押して隠された空洞を露わにした。果たして中には丸めたパピルスが。 ―3日後の新月の夜に― ただそれだけ。無事か、とも待っていてくれ、とも書いていない。でも紛う事なき愛しい人の筆跡だ。 (王子・・・!) キャロルはその小さい小さい紙片に頬ずりして涙を流した。 拐かされた女には悲惨な運命が待っているのが当然のこの時代、ひょっとしたら自分はヒッタイトの体面を汚す存在として黙殺されるのではないかと、覚悟してもいたのだ。 王子の心を疑うことはなかったけれども、それでも為政者として自分の感情を殺してしまう強さを持った王子の悲しい心を一番理解しているキャロルは、自死を当然のように覚悟していた。 (あの人は来てくれる・・・!新月の夜に・・・!) 紙片を大切に大切に元の場所に収めるとキャロルはゆったりと長椅子に座り直した。 29 人払いをしたファラオの居間では。 「さて、姉上。婚儀は7日後だ。キャロルに禊ぎの儀式なども受けさせたい。姉上、私の王妃として、ネフェルマァト王の血を引く最高神官の一人として、私の婚儀を祝福して欲しいものだな。 ・・・昼間のような勝手な真似は謹んで貰いたい」 メンフィスは王妃であるアイシスを未だ姉上、と呼んでいるようだ。 アイシスの表情は硬く、抗うように口を開こうとした。が、キャロルの哀願する眼差しを思いだし咄嗟に女王の仮面をつけた。 「私は王妃の、最高巫女の義務を心得ています、弟よ。いいえ、愛しい夫よ。 ・・・ヒッタイト王子妃を娶るにあたっては・・・それなりの覚悟はしているのでしょうね。諸外国はどう思いましょう?民はどう思いましょう?」 「黙れ、黙れーっ!姉上、何という雑言だ!キャロルは女神ハピの娘、私の妃!断じて他国の王子妃などではない!姉上はこの婚儀に反対なのかっ!」 メンフィスは激昂した。 「・・・いいえ。メンフィス。反対賛成など関係ないでしょう。そなたはもう決断してしまっている。今更・・・。 ただそなたに覚悟のほどを聞きたかっただけです」 「覚悟か・・・。私は私の全てをかけてキャロルを望む。それだけだ」 アイシスを目の前にしてメンフィスは残酷に言い放った。アイシスは黙って目を伏せた。もし昼間、キャロルと話していなかったらきっと彼女は弟とキャロルを手に掛けていただろう。 29.5 「キャロル、さっそく腕輪をつけているのだな」 メンフィスが陽気に言った。ファラオの個人的な広間。キャロルの訪れにあわせて山海の珍味が整えられ、客人の席にはアイシスが座っている。召使い達はいない。 「キャロル、ここに来い。そなたも我が妃ではないか」 メンフィスを刺激しないように慎重な如才なさで対応するキャロルの笑みのない瞳。アイシスはキャロルに言った。 「キャロル。ファラオのお心のままになさい。メンフィスの妃になるならば、そなたは私の大事な妹です」 アイシスは決意した。メンフィスと共にある自分の幸せを、未来を守るためにキャロルを守らねばならないのだと。 その時。にわかに部屋の外が騒がしくなった。 「お待ち下さいませ、カーフラ様!ファラオはただいまお人払いを命じておいででございます」 「お黙り!私はファラオの妃ですよ!アイシス妃だけが召されて私はテーベなど許されるわけがない!」 30 カーフラ王女は凄まじい目つきでキャロルを睨み付けた。 「召使いどもが噂していたのは本当だったのね。・・・またお前の顔を見ることになるとは! メンフィス様っ、これはどういうことでございます?ヒッタイトの売女など・・・きゃあっ!」 メンフィスがカーフラ王女を打ち据えた。 「口を慎まぬか、カーフラ!キャロルは我が妃ぞ。無礼は許さぬ!それにそなた何故に勝手にテーベを出た?そなたなど召してはおらぬ!」 凄まじい怒りの白い炎がメンフィスの全身から吹き出していた。気圧されたカーフラ王女は一言もなく、部屋を出ていった。 「不快だ・・・っ!」 メンフィスは吐き捨てるように言った。 「私・・・下がらせて下さい。メンフィス。今日はもう・・・」 「それがよいでしょう、メンフィス」 アイシスも言葉を添え、素早くキャロルの傍らに立つと耳元に囁いた。 「ヒッタイトの王子妃殿、そなたを助けましょう。必ずそなたを脱出させます。今は心殺して・・・。私はそなたの味方です」 それは女らしい自分勝手な心が言わせた言葉であったかも知れないが、アイシスの本心でもあった。 この嫉妬深い哀しい女王の心のどこかに・・・自分が古代に引き込んだ娘への負い目があったのかもしれない。かつて20世紀で実の妹のように錯覚することもあった娘。 キャロルは無言で会釈すると部屋を出ていった。 アイシスも退出し、一人残されたメンフィスは無言で酒杯を傾けた。思うに任せぬあらゆる事柄に関する腹立ちと苛立ちが、血気盛んで傲慢な若者の心を煮えくりかえさせた。 「キャロルの部屋に行く」 メンフィスは唐突に立ち上がった。 「え?この夜更けに?姫君は・・・お休みかと・・・」 「かまわぬ!妃の許に夫が行くのだ、眠っているなら起こすだけ」 夜更け、突然のファラオの来訪に宿直の侍女達は驚いたようだった。姫君はお休みでございますがお起こししますか、という問いははっきりとした声になることはなかった。 メンフィスの激しい視線の前に侍女達は、守るべき女主キャロルを捨て早々に下がっていった。 |