『 黒い嵐 』 11 メンフィスの唇がキャロルのそれを塞いだ。 「もう申さぬぞ。そなたは私の妃となる身、エジプトの守り神。他の男のことなど・・・私以外のことを考えることは禁じる。よいな、そなたはエジプトへやっと帰るのだ。喜ぶがいい」 キャロルの目から滂沱と涙が流れた。メンフィスの背後にあるカーテンが風でさっと一瞬靡いて、青い海が垣間見えたのだ。内陸の地、ヒッタイトで長く暮らす内に思い出すこともなくなった海の上に・・・今、自分はいる。 「・・・ここ・・・どこ・・・?」 キャロルは力無く呟き、再び意識を手放した。 再び目覚めた時は夕方だった。側にメンフィスの姿はなく、エジプト人の侍女が控えていた。 「姫君、お目覚めでございますか?ご気分はいかがでございますか?」 過日、エジプトの王宮にいた折りに顔を見たことのある若い侍女だった。名前は思い出せない。 「・・・気分が悪い・・・。吐きそう・・・」 侍女は素早く素焼きの皿をキャロルに差し出した。でも、ひどくえづいて不快なばかりで何が出て来るということもない。 「お水を・・・。無理もございませんわ。長くお薬で眠ったままでいらしたのですもの。それにヒッタイトではさぞご苦労なさったのでしょう。メンフィス様がおいでにならなかったら姫君は・・・」 侍女は本当に涙ぐみながらキャロルの細い肩に柔らかな肩掛けをかけてやった。いかにも気のよさそうな彼女は、キャロルが再びメンフィスの手元に戻ってこられたことをこの上なく喜んでいると決めつけているらしかった。 黙り込んだままのキャロルにお構いなしに侍女は囀った。 「ねぇ、姫君。これからはもう何も心配なさることはございませんわ。全てメンフィス様にお任せなさいませ。ヒッタイトでのことなど全部、悪い夢だったのですわ。嫌な夢などお忘れになって、メンフィス様の御許で幸せになってくださいませ」 キャロルは侍女をきっと睨み付けた。ヒッタイトが、王子の側で幸せであった日々が悪い夢とは!悪い夢であって欲しいのはむしろ今現在だ。エジプト人に囲まれて地中海にいる今! 「気分がすぐれないのです。しばらく一人にして下さい」 キャロルは冷たく言った。 12 「召使いを困らせてはならぬぞ。何が不足だ」 侍女が出ていってしばらくするとメンフィスが船室に入ってきた。 「な・・・!出ていって下さい。一人になりたいのです!」 メンフィスは片眉を上げただけでキャロルの寝台の横の椅子に座り込んだ。黒曜石の瞳がキャロルをまっすぐにのぞき込む。その射るような視線が恐ろしく思われてキャロルは硬直して身動きも叶わない。 「いつも私の側近く離さなかったそなたがいなくなってからどれほど経ったであろう?」 メンフィスは問うた。 「一年半?二年?長かった。私はそなたを片時も忘れたことはなかった。イズミルの許にいるそなたを想うだけで胸を切り裂かれるような心地がした。ナイルの女神の娘たるそなたを早く我が手の中に取り戻したかった。 ・・・そなたが私の許に戻ってきてくれれば全ては上手くいく。もう何も恐れることはない・・・」 メンフィスはそっとキャロルの髪を撫でた。 びくっと身を震わせるキャロル。不意に先ほどの侍女の言葉が脳裏に蘇った。 ―長くお薬で眠ったままでいらしたのですもの― 今いるのはハットウシャを遠く離れた地中海。どれほど長く自分は眠り人形でいたのだろう?その間、メンフィスは何を・・・? 顔面蒼白となり、息苦しげに冷や汗を吹き出すキャロルを見てメンフィスは驚いた。 「どうした?気分がすぐれぬと言うのはまことか?医師を召しだして・・・」 「触らないでっ!」 キャロルは感情を一気に爆発させた。 「私に何をしたのっ!どうして私をこんな目に遭わせるの?」 メンフィスは少し感情を害した声で言った。 「そなたの夫たる私が妻にすべきことを為したまでよ。よいか、そなたは私のものだ。逆らうことは許さぬ。我が側で生きよ」 「あなたの側ですって?冗談じゃないわ、私はイズミル王子の、ヒッタイトの世継ぎの妃です。早く私をヒッタイトに戻して!」 「・・・そなたはもともと我が妃となる身であったのだ。ヒッタイトのことは忘れよ。もう口にしてはならぬ」 「汚らわしいっ!私はイズミル王子の妻です!わ、私への侮辱は夫への侮辱。 ・・・い、いくらあなたが私を辱めるようなことを言ったって私はイズミル王子に身も心も命も捧げています。私が・・・この私があなたのような人に傷つけられたりするものですか!」 13 「黙れ、黙れ、黙れーっ!」 メンフィスはキャロルの頬を激しく撲った。キャロルははずみで寝台から落ち、大きな音をたてた。頭を強く打ったのだろうか?それきりキャロルはぴくりとも動かない。 (キ、キャロル・・・?) 口の中が切れたのか、唇から一筋血を流すキャロルを見てメンフィスは激しい後悔と恐怖の念に襲われた。愛しい娘、恋い焦がれ、待ち望んできた娘に対して自分は何と言うことを・・・! 「キャロル・・・目を開けて・・・くれ・・・」 がくがくと震え出す体。心臓の音が耳元でわれ鐘のような大音響で聞こえる。 「姫君、メンフィス様、いかがなさいました?・・・ああっ!」 音に驚いてやって来た侍女や兵士の狼狽え騒ぐさまがメンフィスを正気に返らせた。 「気を失った。私に逆らったからだ。・・・医師を召しだし、キャロルの、我が妃の容態を見せよ! ・・・キャロルは私に逆らったゆえに罰を受けたのだっ!」 メンフィスは荒々しい足取りで船室から出ていった。 (何故、私に逆らう?そなたはハピが私に賜りし姫。私の妃としてエジプトの地に共に並び立つために。 イズミル王子の手許にあった年月の間に何があったのだ?そなたは私のものなのだっ!ああ・・・これほど愛しいと思い、これほど欲しいと思い、やっと手に入れたと思ったのに・・・憎いかの娘は他の男の名を呼ぶ・・・!) メンフィスは自室の寝台に顔を伏せて悔しさと嫉妬に悶えた。 エジプトで別れた日、あの和平条約を結んだ一室で視線を合わせたのに。 (そなたがあくまで逆らうならば!私は力尽くでそなたを妃とする。あれも女だ。私が・・・妃とすればじきにイズミルのことなど忘れる。いや、忘れさせてみせる!) 14 キャロルが再度、気付いたのは翌日の明け方だった。ずっとついていてくれたらしい侍女が嬉しそうにキャロルをのぞき込んだ。 「お気づきになったのですね、姫君。頭を強く打って気を失っておいでだったんですわ。今日一日は安静になさって。何かお飲物はいかがですか? ・・・メンフィス様もずいぶんご心配で夜中に幾度もお見舞いに・・・」 「! メンフィスのことなんて言わないで!あの人が私を撲ったのよ」 切ったせいか未だ鉄臭い味の消えない口が不快だった。 侍女は困り切った様子で必死にとりなした。 「メンフィス様は姫君をそれは愛しくお思いです。王子の手許にあなた様をしばらくの間とはいえ預けなければならなかったのはこの上ないお苦しみだったんですわ。 ね、他の男の方の許においでだったことを恥ずかしくお思いになったりしてのことでしょうが、どうか素直にメンフィス様のお心にお従いあそばして」 キャロルは氷のような沈黙で侍女に答えを与えた。 さすがにメンフィスは気まずさを覚えるのか、しばらくの間はキャロルに近づかなかった。だが侍女にはよく言い含めてキャロルの様子を細かに聞き出すのだった。 一方、キャロルも侍女にそれとなく自分が眠らされていた間のことや周囲の状況を聞き出していた。考えるだに忌まわしく恐ろしいことだが知らぬ間にメンフィスに辱められているという最悪の可能性もあり得たからだ。 だがそれはキャロルの杞憂であったようだ。メンフィスは律儀に「神々の前にて婚儀を挙行してから」キャロルを我がものとするという手順に拘っているようだった。 (まだチャンスはあるわ) キャロルは自分を奮い立たせるように考えた。 (私はきっと王子の許に帰ってみせるから。王子だって私のことを捜していてくれる。大丈夫よ、メンフィスなんかの思うとおりにはさせないわ。 王子、王子・・・!私を守って。あなたの所に帰れるように!) 15 (姫・・・?) 夜明け前の暗い天幕の中で王子は目覚めた。キャロルの呼ぶ声がしたように思えたのだ。 キャロル失踪以後、方々に放たれたヒッタイト軍とは別に、王子は精鋭の兵を少数率いて妃の行方を追っていた。エジプト軍の偽装は巧みであったが、それでも隠密行動や情報収拾に長けた王子とその麾下は僅かな手がかりから彼らを確実に追って行っていた。 (夢か・・・) 王子は吐息をついた。キャロルが拐かされてから十日近く。エジプト軍の動きは予想外に早く、このままではキャロルを連れたままエジプト領内に入ってしまうかも知れない。陸路を行くと思われた彼らが海路を選んだこと、囮のように部隊を分けて移動していたことが王子の探索の妨げとなった。 王子は物憂く身を起こしてじっと左腕を見つめた。あの夜を含めたいくつもの夜、キャロルが金色の頭を乗せ眠っていた腕。子供のような顔をして眠っていた娘。夜中に目覚めてその顔を見るのがこの上ない幸せだった。 (姫はどうしているだろう?恐ろしい目に遭っているのではないか?悲しんで泣いているのではないか?メンフィスの許で・・・どれほど心細く思っていることか) 王子は鈍くだるい痛みが宿る眉間を揉むようにした。連日の緊張が逞しい若者の心身を蝕んでいた。 (メンフィスの許にあれば・・・命の危険はあるまいと思うが。心に染まぬ事を強いられて苦しんでいるのでは・・・) 嫌な想像が若者を苦しめ、どす黒い嫉妬の蔓草が心を蝕む。愛しい女を男がどのように扱うかを彼はよく知っている。女を愛し、幸せにしてやれるのは自分だけだと自負している男がどれほど傲慢で強引であるかも。 かつてイズミル王子はそのようにしてキャロルを得たのだから。 (神よ。どうか姫を、我が最愛の妃を守りたまえ。どうか、どうか・・・!) 16 イズミル王子の一行がようやく地中海に出たのはメンフィスに遅れること5日のことであった。 「フェニキア商船か・・・。おそらくはそれが我らの目指す船であろう」 イズミル王子は呟いた。やっとここまで来たと思うと感無量だ。しかしそれらしい商船が港を慌ただしく出ていったのは5日も前のことだ。 地中海を行き交う船は多く、目指す商船は大きい。足取りを辿るのは容易かろうが、しかしどこで目指す船に追いつけるだろう?おそらくはエジプト領内・・・。 (メンフィスが性急に過ぎぬことを願うばかりだ・・・) イズミルは神に祈った。そしてキャロルの優しい面立ちの下に隠された気性の激しさと芯の強さを思った。毅然たるあの強さ、鼻っ柱の強さ、懐かしい癇癪。はぜる火のような。 彼女は忠実な恋人、貞淑な妻だ。メンフィスの誘惑など寄せ付けもしないだろう。だがか弱い女の身。理不尽な力が彼女を傷つけぬように、屈辱を厭う潔癖さ故に彼女が自死を選ばざるをえない状況に追い込まれぬように、王子は心から祈った。 (助けてやる、姫。必ずそなたを助けてやる。だから・・・私を待っていてくれ) 脳震盪を起こして昏倒したキャロルが床を離れることを許されたのは三日後だった。その間、メンフィスは彼女の側には来なかった。さすがに自分の蛮行が気まずかったのだろう。その間にキャロルは落ち着いて状況を見て、今後のことなどを考える余裕があった。 (とにかく今は下手に抵抗しないほうが得策だわ。向こうを油断させて隙を作らせて・・・。時間は多少かかるかも知れないけれどメンフィスを 少しでも油断させることができれば監視の目も緩むはず。今は四六時中、誰かが私を見張っているんですもの) その時、侍女がキャロルに声をかけに来た。 「姫君。お床あげもお済みになったのですし、少し外に出られては?その間にお部屋をさっぱりさせておきましょう」 外に出ればメンフィスがいるというわけね・・・キャロルは辛辣に考えたが少しも顔に出さず、微笑みさえ浮かべて言った。 「そうね。そうするわ。心遣いありがとう」 穏やかな言葉に驚く侍女を尻目にキャロルは垂れ幕の外に出た。これから私は一人で戦わなくてはいけないのだと武者震いを感じながら。 17 心地よい海風が頬を撫でた。内陸ハットウシャとは明らかに違う風の匂い、空気の色。海も空も果てしなく青い。 「キャロル・・・。傷はもう・・・いいのか」 日を遮るような位置に長身のメンフィスが立ち、心配そうな声音で問うた。先ほどまでキャロルにくっついていた侍女はもういない。 キャロルはびくっと身体を震わせた。顔も見たくない、激しく罵倒したい、という衝動をやっと押さえて答える。 「ええ・・・。おかげさまで」 「・・・すまなかった。そなたを傷つけたこと・・・」 メンフィスはそっとキャロルの頬に触れようとした。キャロルは敢えてそれを拒まず、メンフィスの好きにさせた。 「許して・・・欲しい。つい激情に我を忘れた。だが、そなたはかけがえのない我が妻。どうか素直に私に縋って欲しい」 キャロルを手放した後、失意の内に異母姉アイシス、リビア王女カーフラを娶り、側室も増やした青年はようやく本命の相手を得たというわけだ。謝罪の言葉にも熱が入る。 「・・・ずっとそなたを想っていたのだ。そなたを手放すのではなかったとどれほど後悔したことか」 キャロルは黙ってメンフィスの言葉を聞いていた。 「ようやくそなたを取り戻した。もはやそなたを手放さぬ。そなたは我妻として生涯を生きるのだ。これまでのことは全て忘れよ。運命が戯れに見せた悪夢なのだから」 身勝手に愛の言葉を並べ立てメンフィスはキャロルの顔を上向かせた。 「どうした?何か申せ。何故に黙っている?」 キャロルは目を伏せてメンフィスの視線を避けた。今は相手を刺激しないのが得策と分かっていても生来の気の強さがキャロルを突き動かそうとする。キャロルはやっと言った。 「夢だなんて・・・。では今も私は夢を見ているのじゃないかしら?何が夢で何が現実かなんて分からないわ」 癇癖の強いメンフィスの顔が歪む。キャロルは素早く言い足した。 「・・・私はエジプトに行くしかないのね 18 「そうだ。そなたは我がエジプトに参るのだ。そなたが帰ってくるのを皆待っている」 メンフィスがそう言って船室へとキャロルを導いた。キャロルは心を抑え抗わない。 (皆が待っている・・・ね。少なくともアイシスやカーフラ王女はそうじゃないでしょう。私がヒッタイトにいた年月。エジプトも変わったはずだわ。私、どうなるのかしら?) 皮肉にキャロルは考えた。 「キャロル?どうした?」 「いいえ、何でも。あの・・・少しまだ頭が痛いの。休みたいのだけれど」 メンフィスは医師よ、薬よと大騒ぎして付き添い、キャロルが一人になれたのは日も暮れてからだった。 キャロルが朝起きると侍女が控えていた。どうやら夜通し彼女を見守っていたらしい。メンフィスは船室にキャロルを軟禁しながらなお脱走の心配から逃れられないようだった。 メンフィスの執着に気味の悪さと恐ろしさを感じながらもキャロルは彼に逆らうことなく油断させようと改めて自分に言い聞かせるのだった。 「姫君。お目覚めでございますか?朝のお食事を・・・」 「ええ・・・」 隣室に用意された食卓。当然のようにメンフィスが席に着いている。 「キャロル・・・。頭が痛いのは治ったか?起きても良いのか?」 キャロルはそっと瘤のあたりに手を当て、穏やかに微笑めいたものを浮かべながら答えた。 「ええ・・・。大丈夫だと思うわ。でも脳震盪なんて初めてですもの。ちょっと怖い」 「それは・・・。医師は直後に激しく嘔吐したり発熱したりすることがなくば大丈夫と申していたが」 メンフィスはおろおろと言った。自分のせいでキャロルに怪我をさせたこと、今のキャロルが存外素直でいることが罪の意識をより重いものにする。 キャロルはそんなメンフィスを見て内心心地よく感じながらも、それはおくびにも出さずに言った。 「そう。では大丈夫ね。食事を頂いて良い?」 相手を油断させ、自分の体力と気力を充実させておくこと。それが当面の課題だった。 19 「明後日には下エジプトの王宮に入る。民もそなたを待ちわびている」 メンフィスはキャロルに見やすいように海図を拡げながら上機嫌で喋っていた。 脳震盪からこちら、キャロルは素直なものだった。メンフィスがぶっきらぼうで直截な愛の言葉を囁いても嫌悪の表情も露わに怒ることもない。 「明後日・・・。ではここはもうエジプトの勢力圏内ということね」 キャロルは何心ない様子で問い返した。 「ふむ。そうだな。だが油断はできぬ。うろんな輩はどこからか現れるものだし・・・それに口惜しいが我がエジプトは海軍力ではまだまだの部分も確かにある。これからは、そなたの力も得て海へも目を向けたいものだ」 「そうね・・・。海は外界へ通じる大切な通路。海やナイルを伝ってもたらされるものも多いでしょう。交易船は見られるかしら?」 「? まぁ、な。だが他人に軽々しく姿を見せてはならぬ。そなたは私の妻になる高貴な女人だ。船室で大人しくしておれ」 メンフィスの苦々しい顔に、キャロルは花のような微笑を向けた。 「でも私、懐かしいエジプトをよく見たいのよ。私が色々なものを見たがるのを忘れた?」 久しぶりに、いや初めて自分に向けられた微笑。メンフィスは有頂天になった。やはりエジプトに戻ったことでキャロルの心も自分の方に戻りつつあるのだ! 「よしよし。だが一人で勝手にうろうろしてはならぬ。侍女か私が付き添うようにしよう。そなたに何かあっては一大事だ」 「まぁ。あなたのいる船の上。何があるというの?まさか私がいなくなるとでも?」 「・・・そなたは油断ができぬゆえ」 メンフィスは少年のように真っ赤になって言った。 キャロルは「好奇心の強い姫君」として船内を歩き回り、海を観察した。 木訥そうな兵士や船員に小さな子供のように質問をして、様々なことを聞き出した。潮の流れや、行き交う小型船の用途など、水路から陸路への連絡方法。その気になれば色々なことが聞き出せるものだ。 幸い、おつきの侍女はキャロルがメンフィスに従順であることだけに心砕いているようで、キャロルが人々にさりげなく、でも多くの質問をすることも単にファラオの妃らしからぬ我が儘ぶりと思うだけらしいのが幸いであった。 20 「むう・・・。メンフィスと姫は下エジプトの宮殿に入ったか・・・。くっそう、途中に思わぬ時化で手間取ったが口惜しい」 「しかし王子。一度、下エジプトの宮殿にファラオらが入ったのであれば、もはや移動は当分ありますまい。我らも急ぎエジプトに潜入し、姫君をお助け申しましょう。遅れはまだ取り戻せようかと存ずる」 「さよう、王子。姫君を妃にと望むメンフィスですが、かの者の側にはアイシス、カーフラの両王妃、それにあまたの側室が控えております。いかにファラオとて、すんなりと婚儀は挙げられますまい」 王子の傍らの将軍とルカが代わる代わる述べる。王子は黙ったままだ。 誰も口には出さないが、エジプトに入るより前にキャロルを奪取できなかったのは痛かった。 ファラオは下エジプトの宮殿奥深くにキャロルを閉じこめるだろう。 メンフィスに熱愛されるキャロルを妬む女性達が、彼女に危害を加える可能性も高い。 どのようにしてキャロルの居場所を探る?どのようにしてキャロルを助け出す?どのようにして・・・? 将軍が言った。 「今はただ・・・姫君のご運の強さをお祈り申し上げるだけです。エジプトには姫君の御母女神がおわす。女神が御娘をお守り下さるでしょう」 その夜遅く。 王子の一行はひそやかにエジプトの地に上陸した。休む間もなくルカは変装し、キャロルのいる下エジプト宮殿を探る先遣として出立した。 王子は天幕の中で眠れぬ体を横たえた。 (姫、どうか無事であれ。そなたの囚われている地にやっと・・・私も。そなたを守ってやれなかった不甲斐ない私を許せ。必ず助けてやるから。 辛いであろうがどうか堪えてくれ。おお・・・イシュタルよ、ナイルの女神よ。どうか我が妻を守りたまえ。・・・姫・・・!) |