『 後宮物語 』

51
「では、ナイルの御方、明日の朝に」
ベヌトはそう言うとキャロルが向かうのとは反対方向に回廊を歩いていった。
キャロルは初めて示された「好意」に少し上気した顔をしていた。

「ミラ様、誘い出しましたわ」
回廊の暗がりで二人のやりとりを見ていたミラにベヌトは薄く笑って告げた。
「ご苦労です。このことは他言無用ですよ」
ベヌトは低く頭を下げたまま下がっていった。彼女が顔を上げ、ミラの端正な顔に刻まれた酷薄な微笑を見たのなら、この企みからすぐに身を引いたであろうに。

西宮殿の回廊は一部が露台のように張り出していて、庭を見渡せる東屋のようでもあった。キャロルはそこの長椅子に腰掛けて王子から贈られた紅玉髄を眺めていた。
(これは王子の心の証。私は王子に相応しい人間になれるだろうか?
ただ好きだ、愛しいって子供のように可愛がられるだけでなく・・あの人に相応しい相手として、私があの人を尊敬するようにあの人も・・・)
紅玉髄を日の光にかざせば、石は生きている炎のように煌めいた。それは王子の瞳の中に宿り、様々に色合いを変える炎のようにも見えた。
不意に。
キャロルの上に影が落ち、紅玉髄の炎も消えた。
「ご機嫌よう、エジプトの方」
「ミラ・・・様」
王子からせしめた紅玉髄を填め込んだ豪華な金の首飾りをこれ見よがしにつけたミラはキャロルに傲慢に微笑んでみせた。
「王子様の御許にいよいよ参られるのですってね。ムーラが出入り商人を相手に色々と注文していましたわ。しっかりしたご実家がない方はお気の毒」
「・・・私は王子にお頼りしているのです。でもそれで嘲りを受ける謂われはありません」
思いがけないキャロルの口答えに逆上したミラは、手にしていた絹のショールでその頬を打った。
「思い上がりもいい加減になさいませとご忠告に参ったのですわ。
・・・王子は私に紅玉髄の首飾りを下さいました。あなた様がお側に上がられて、それからじきに私は王子妃に冊立されます。
この首飾りは王子妃の証なのですよ!」

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ミラは呆然と脱力したキャロルの手首を掴み上げた。王子が与えた紅玉髄の飾りが嫉妬に狂った目を射る。
「思い上がって・・・生まれも知れぬ卑しい小娘がっ! 王子は私を正妃にお選びなされたのです。分不相応な思い上がりは後宮の乱れの元です。
王子の権威を傷つけるものです。よく覚えておかれませ!こ、このような飾りを見せびらかしてっ!」
狂気じみた信じられない力でミラは革紐を一気に引きちぎった。
「痛いっ!」
キャロルは血の滲む手首を押さえた。勝ち誇るミラの手には王子が贈った紅玉髄が・・・。
「そなたは王子のお伽の相手にすぎぬ。王子にもお慰みは必要でしょうゆえ、そなたが居ることを私は認めます。あの方の妻、たった一人の正妃としてね。
でもそれ以上は許しませぬ。紅玉髄は返してもらいます。
・・・その目は何です?王子がお命じになったのです。ほほ、これは私が頂くことにしましょう」
こう言い放ってミラは後も見ずに歩き去った。

(これが・・・あの人を、イズミル王子を好きになるということ)
キャロルは呆然とミラが歩き去ったその後を見つめていた。手首の痛みも、あの大切な紅玉髄が失われてしまったことも意識に上らなかった。
(あの美しい女性があんな凄まじい顔をして・・・乱暴な言葉で・・・)
おそらくは王子も知らぬであろう女の一面。だがそれは確実に存在する。権高で傲慢な側室ミラの癇走った美貌の中に。そして・・・自分の中にも。

「姫君っ? いかがなさいましたの?」
キャロルを探しに来たムーラは金髪の娘が冷え切った身体のまま、露台に座り込んでいるのを見つけて仰天した。
何を聞いても固い表情で答えないキャロルを見て、ムーラはすぐに何か後宮特有の陰湿な出来事が彼女に衝撃を与えたのであろうと察した。
血を滲ませる手首に包帯を巻き暖かいお茶を勧めながらムーラは言った。
王子が熱愛するこの娘を、ムーラもまた大いに好ましく思うようになっていた。
「姫君・・・おかわいそうに。すぐに王子にお知らせいたしましょうね。
何もご心配はいりませぬ。大丈夫でございますよ・・・・」
キャロルはかろうじて頷いた。
だが。ミラの寝所に引き込むようにして招じ入れられた王子はその夜、キャロルを訪れてやることができなかったのである。

52
(王子は・・・来てくれない)
キャロルは隣室に控えているムーラら宿直の侍女たちに悟られないように寝返りをうち、吐息をついた。枕も夜衣の袖も、そして手首に巻かれた包帯も苦い無言の涙で濡れている。
(来てくれたらどうだというの?何を言うの?あの人を責めるの?それとも縋って泣いて甘える?
馬鹿ね・・・どうしたって無駄なだけよ。自分の誇りと引き替えにあの人の同情を買うだけ。そこまでしたいの?キャロル?)
夜は驚くほど長く、寝台は冷たく広すぎた。いつもなら戸惑うほど過剰な愛情を傾けてくれる青年が添い寝をしてくれるのに。

(あの人を信じてここに居ようと決めたわ。たとえ後宮の中の一人でも良いから初めて好きになったあの人の側に居たいと思ったの。全てを覚悟して、全てを捨てて・・・。
でも、でも惨めだわ・・・)
ミラの仕打ちがひどく堪えた。権高な美貌の側室はキャロルを侮辱し罵倒した。強くあろうと心を強く持つキャロルだが、張りつめすぎた心は衝撃に耐えられずぼろぼろになった。
全ては嫉妬に狂ったミラの狂言だとキャロルは知るよしもなく、祈るような気持ちで王子を待つだけだった。

じき夜も明けようかという時間。
酒を過ごした時特有の頭痛を覚えながらイズミル王子は目を覚ました。そこは側室ミラの寝所で、側にはしどけなく夜衣をはだけたミラが眠っていた。
(しまった、姫の許に行ってやろうと思っていたというに!)
王子は素早く起きあがり、寝ぼけ眼の宿直の侍女たちに見送られてミラの部屋を後にした。酒やきつい香料の匂いが肌にまつわって不快だった。

「姫はどうしているか?うっかりしてしまってな・・・」
王子を出迎えたムーラは手短に告げた。キャロルの手首から紅玉髄が消え、王子の思い人はひどく憔悴し、泣くばかりだと。
「なに・・・」
王子は瞬時に悟った。自分を引き留めて離さなかったミラ。紅玉髄の飾りが増えているように思えた首飾り。何故、まだ着けていたのか?
(ミラ・・・・。この私を愚弄する気か?)

53
ぎいっと軋むような音がして寝所の扉が開いた。
キャロルが身を起こすより先に王子が寝台にやって来て、キャロルを無言で抱いた。
「遅くなった・・・許せよ」
王子の肌は暖かく、安心できる匂いがしてキャロルはふっと緊張感が緩んだ。
「さぞ心細かったであろう。許せよ」
王子は優しく囁き、幼子を宥めるように小さな背中を、白い額を、金色の髪を撫でた。
後宮を持ち、女達の華やかに残酷な争いを冷徹に見通している王子であったが、今回のミラのやり方にはいささか驚かされた。気位の高い側室がキャロルに手を出すとは。王子はキャロルの手首の包帯にも気付いていた。
(私が姫を愛しく思い、大切に扱うことは決して姫のためにはならぬのか。
姫を愛すれば愛するほどに、姫を傷つけ追い落とそうとする輩が出てくる。
後宮の争いはやがて表宮殿をも巻き込むやもしれぬ。くっそう、国のためにと迎えた女達が、このような形で私を悩ますとはな。
・・・誰かを・・・かけがえのない大切なる者とすることは相手にこそ苦しみを強いることであったのか。
私は只人ではない・・・・ゆえに・・・。私の側にいることは苦しみと危険を伴うこと、か)
王子はキャロルの顔を上向かせた。涙に濡れ、疲れ果てたその顔を哀れにも、また艶めかしくも思う王子。
「幾度でも申そう。そなたは私のただ一人の女人ぞ。何も心配することはないのだ。私がそなたを守ってやる、そなたはただ私を信じて、私を・・・私を愛していてくれればよいのだ」
手慣れて流麗に流れる口説も今は歯がゆかった。真実の想いを籠めているのに何と空虚に響くのか。
それはこれまで数多の女人を仮初めに愛し、はかない望みを抱かせた報いか。

(王子・・・・。香料の移り香。女の人の・・・誰か他の人を抱いた残り香)
キャロルは驚くほど強い力で王子を押しのけた。
「私は大丈夫です。だから放っておいて。・・・・・・誰か他の人の所に居たくせに!こんな明け方に恩着せがましく来たりして!馬鹿にしないで!
わ、私じゃなくても誰だっていいのでしょうっ?」
心にもない言葉が口から迸る。キャロルは今度こそ声をあげて泣いた。

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「あ、あの王子・・・。姫君は・・・」
「少し気が高ぶっている。一人で居るのが苦にならぬたちらしいゆえ、今日はそっとしておいてやって欲しい」
王子は心配のあまりか少し取り乱したムーラにそう言いつけると公務のために表宮殿に出ていった。

(しっかりした気性、自制心の強い落ち着いた性質よと思ってはいても所詮は子供か・・・。頭で分かってはいても心が理解せようとはせぬのだろう。
噛んで含めるように言い聞かせても少しも聞こうとはせずに怒って泣いて・・・。あのようなところは初めて見せるな)
キャロルを説得し、機嫌を取り結ぼうとしたのにどんなことをしても小さな佳人の心は解れなかった。
しかし王子はそんなふうに感情をむき出しにして泣いて怒る少女に戸惑いを覚えつつも愛しくてたまらなかった。慣れぬ小動物を手懐けるような愉しみ。
(また夕刻に・・・今宵は一晩かけて慰め、詫びて、あの小さな意地っ張りにつき合ってやろう。あの娘とて頭は悪くないのだ。私が悪気で姫の許を訪れなかったのだとは思ってはおるまい。
ただ悲しくて怒って、そのまま怒りの納め方が分からぬだけ。ふふっ、時間はたっぷりあるのだ、たまには喧嘩別れの朝というのも面白かろうよ・・・)
キャロルが何よりも愛しくて、こと彼女に関しては日頃の余裕も無くなりがちな王子ではあったが、今朝に限っていえばこの粋人は余裕綽々であった。

(誰もいない・・・)
キャロルは目立たないベールで全身を包んで部屋から滑り出した。ベヌトが市場に連れていってくれると約束した日である。
だがキャロルは緊張し、ともすれば涙しそうになりながら脱獄囚のように部屋を抜け出る。換金性の高そうな装身具、目立たず動きやすい服装、水袋、干した果物一袋、朝食の残り物・・・・。
キャロルは王子の許を去るつもりだった。

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「ああ、こちらですよ、あなた!」
ベヌトはキャロルを差し招いて召使い達が通る裏通路から王宮を出た。途中いくつもある関所のような扉ではミラから渡された鑑札がモノを言った。
「ほほ、秘密めかして怪しげなとでも言いたげですね」
ベヌトが笑いかけた。
「後宮からの女出入りは厳しく改められるのですよ。心配はいりませぬ。ほら、あそこを抜けたら外ですよ!」
緊張して冷たく強ばった白い手を引きながらベヌトは明るく言った。その指にはミラから与えられた紅玉髄と真珠で作った指輪が輝いていた。

「ベヌト、では頼みましたよ。あの金髪の姫を城門のところで待っている商人に引き渡して。さすればあの姫も好きなところに帰れましょう!」
「かしこまりました、ミラ様。目印は黒い髭に灰色のターバンですわね。ほほ、無事に“引き渡し”が済みましたらミラ様はますます御安泰。おめでとうございます」
「・・・」
「ああ、そうそう。ミラ様から賜りました真珠と紅玉髄で指輪を作らせましたの!もちろん職人は口が堅いですし、私もしょっちゅう着けて歩くような真似はいたしませんわ。
“分不相応”ですものね。でも折々は着けたいですわ。特別の折りになど・・・。ミラ様と私の友情の印ですものね・・・」
恫喝するように微笑むベヌトにミラは微笑を向けた。
「好きになさいな、ベヌト。あの姫を送っていってくれる時も着けると良いわ・・・」
ベヌトは勝ち誇った笑みを側室ミラに向けると下がっていった・・・。

「・・・ベヌト、あのずいぶん歩くのね。あの私、少し一人で歩きたいんだけどダメかしら?」
「ええ?ああ・・・一人で、ね。そうね若い娘さんは一人歩きもしたいでしょう。でもあともう少し。ほら城門の所まで行きましょう!」
この娘はエジプトに帰らせてもらえることを知らないのではないかしらと遅らばせながらベヌトが気付いたときはもう遅かった。
城門の陰では辣腕の奴隷商人が待ちかまえており、「商品」キャロルを引き取った。
そして・・・ベヌトは何が起こったかも理解しきれぬうちに命を落としたのである。ミラに対してあまりに強気に出た美しい側女は。

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「ベヌトっ!」
目の前で斬り殺された側女。キャロルは何が起こったかを充分理解する時間も与えられず、乱暴な当て身を食らわされ、頭からすっぽりと黒い袋をかぶせられた。
「行くぞ!へっへ、高く売れそうな女だ。お前ら、商品に手を着けるんじゃねえぞ。こりゃ極上品に化ける。処女のままで磨き上げて売り飛ばす!」
奴隷商人は上機嫌だった。これまでだって後宮の女達から頼まれて女を拐かし売り飛ばしたことは何回かあったが、今回の側室ミラからの「委託品」ほどの上物は初めてだった。
(ご側室様もこれでますますご安泰か。邪魔者は躊躇無く消して、その後は口を拭って知らん顔。女は怖いねぇ。
未来の名君よと仰がれるイズミル王子様は、てめえがおっかねえ雌蛇抱いて寝ているということに、さて気付いておられるのやら?)
奴隷商人は無感動にベヌトの返り血を拭い、死体を跨ごうとした。艶やかに美しい後宮の側女を殺したことで常にない不快感のようなものを感じていた。
ミラはキャロルを消すついでに、哀れな協力者ベヌトも消すことにしたのだった。無論、奴隷商人はその依頼を断らなかった。よくあることなのだから。
キャロルをひと思いに殺さなかったのは、自分をここまで追いつめた相手を思う存分、辱め、傷つけたいという肉食の爬虫類じみた執念ゆえだった。
「・・・・・おや・・・?」
奴隷商人は死体の指の美しい指輪に気付いた。真っ赤な宝石と純白の真珠が金の台座の上で煌めいている。
「・・・・・・王子のお印の紅玉髄・・・?へっへ、面白い。貰っていくか」
奴隷商人はキャロルを大きな櫃に入れると、素知らぬ顔で城門を出た。

やがてキャロルは意識を取り戻す。そこはハットウシャの城壁の外。奴隷商人は好色な目で彼女を見ながら、冷酷に宣言する。
お前は奴隷に売られたのだ。気取り返った顔はもう出来ないぞ、と。

57(ダイジェスト版)
奴隷商人達の旅は早い。キャロルは幾度も幾度も脱走を企て、商人達に逆らったが白い肌にむごたらしい痣が増えるだけであった。
「頑固な女だな!何様のつもりかは知らねえがお前はもう売られたんだ。
脚を開かされねえだけ有り難いと思うんだな。ったく味見も許してくれねえんだからお頭もけちくさい」
(売られた・・・私が・・・・。慰み者になるために、辱められるために。
一体誰が?私、私・・・王子以外の人に・・・?故郷にも帰れないままに?)
キャロルは恐怖と不安に身も心も引き裂かれそうな心地を味わいながらも脱出のための不毛な努力を続けるのだった。

ハットウシャを離れて4日目の夕暮れ。夕食の支度よ、天幕の準備よと忙しい奴隷商人の一行の隙をついてキャロルは逃げ出した。足首には縄と、それを地面に繋ぎ止めていた小さな杭をつけ、手首にはやっと引きちぎった革紐をぶら下げたままで。
だが拙い脱走はすぐにばれる。奴隷商人達の罵声を聞きながら必死に走るキャロル。
そこに。
思いもかけない救いの手が差し伸べられる。王子の師ラバルナ老である。
瞬時に状況を悟った老人は奴隷商人達にキャロルの買い取りを申し出る。
「爺いが何をほざきやがる。これはわしらの大事な商品だ。貧乏くさいすけべ爺いはもっと他の売春宿でもあたるんだな。さぁ怪我して後悔しねえうちに・・・」
「お前達は自分が誰に、何をやっているのかまるで分かっておらぬらしいな。
愚か者でしかおられぬとは哀れな奴らよ・・・」
ラバルナ老の細い腕が素早く動いたかと思うと奴隷商人達は次々に地面に転がされてしまった。
それだけではない。老人の呟きに呼び寄せられたかのように大風が吹き、商人達はてんでに吹き飛ばされてしまったのである。
「お久しゅうございますな、姫君。一体何が、とはお聞きいたしますまい。
ともあれお救いできて良かった。さぁ・・・」
だが差し出された手をキャロルは取ることはしなかった。
「放って置いてください。私はもう・・・・行くところがないのです」

58(ダイジェスト版)
「さぁ、今夜はとりあえずここで明かすとしましょうかの。もう何も心配なさることはない。もう誰もあなた様を傷つけはしませんわい」
「私はハットウシャには帰りません。王子の側には行きたくないのです。私・・・」
「その話はまた後で。今は休まれよ。そうすれば傷も早く癒えましょう」
ラバルナ師がキャロルの額にそっと人差し指で触れた。キャロルは呆気ないほど簡単に深い眠りの中に沈み込んでいった。

(王子が初めて愛された姫が奴隷に身を落とされ、王子を拒む強い言葉を口にされる。よほどお辛い目に遭われたのだろう。おいたわしいことよ)
殆ど見えぬ目の奥に焚き火の明かりの揺らめきを朧に感じながらラバルナ師は黙考する。
(・・・・・・・何が・・・・あったのかの・・・・)
老人は眠るキャロルに小さく詫びの言葉を呟くと、そっと手を額に当てた。そのまま不思議の術に通じた老人が何事かを唱えると、その脳裏にキャロルの記憶が流れ込んでくる。
映像は鮮明であったが、ひどく断片的で感情を押さえ込んでいるような印象を受けるものだった。
(眠りの中にあってもたやすくは記憶を、お心の内を明かすことはなさらぬか。心の強い御方だ。全て開けひろげになる者が多いというのに。ふむ、我が教え子の君もそうであったのう・・・)
それでもだいたいの事情を察したラバルナ師はこれからどうしたものかと悩んだ。
先日の伝書鳩ですでにキャロル失踪の件は知らされており、今回キャロルを救出できたのも幸運とそれ以上に、ラバルナ師の不思議な力に負うところが大であったのだ。

翌朝。起きだしたキャロルにラバルナ師は何も言わなかった。都に移動しようとも、無事を王子に知らせようとも何も。
二人は洞窟を仮の宿りとして静かに暮らしだしたのだった。

59(ダイジェスト版)
(私はこれからどうなるのかしら?ラバルナ師はどうなさるのかしら?確か王子を訪ねてハットウシャに向かう途中のはず・・・)
黄昏ていく空を眺めながらキャロルは吐息を漏らした。洞窟で暮らし始めてもう一週間。ラバルナ師は穏和で知恵深い老人でキャロルを孫娘のように慈しんでくれた。キャロルはそんな老人に深く心を寄せるようになっていった。
王子がキャロルを神殿に伴うと言っていた日もとうに過ぎ、人界から隔絶された静かな暮らしは時間の流れから忘れ去られたようだった。
(いつまでもこんなふうにしていてはいけない・・・)
ラバルナ師の手当のおかげで傷も癒えていき、醜い痣も薄く消えかかっている。
思い悩むキャロルをラバルナ師は黙って見守っていた。賢く優しい性質でありながら、ひどく頑なで融通の利かないところもある潔癖な少女が殻を破るのを待っていたのである。

「・・・・おや、少し泣かれたかな? どうなされた?」
ようやく洞窟の中に入ってきたキャロルの気配に頭をあげたラバルナ師は静かな声音で尋ねた。
「何か心にかかることがおありですな・・・。どうでございます、少しお心の内の重りを吐き出しておしまいなっては?心配事や憂い事は長く持っていると毒となってお身体を蝕みまするぞ」
老人は近寄ってきた娘を本当の孫娘でもあるかのように腕の中に抱き、背中を撫でてやりながら聞いた。
キャロルは引き寄せられるまま跪き、老人の胸に頭をもたせながら訥々と話しだした。

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「・・・私、自分の心が分からないのです。ご存じでしょう、私は好きなあの人がいるからこそ、この世界を選んだのに・・・あの人は私一人の人ではなくて、私はあの人の周りにいる女の人の中の一人です。
愛しているから・・・そんな立場でも構わないとまで思い詰めて覚悟したつもりだったけれど、実際は耐えられませんでした。
あの人にだけ縋って、あの人が来てくれるのを待つだけにはなりたくなくて勉強もしたわ。あの人に全てを委ねるだけの生き方だけはしたくなかったから。
あの人なしでも大丈夫なくらい強くなってから、あの人を愛そうと思っていたの。でも無理。
気がついたら私にはあの人しかいなかったの。一番惨めで馬鹿みたいな生き方を私、選んでしまっていたんです。
私、あの人を好きです。でも好きになればなるほど私は私じゃなくなっていくわ。そんなふうにしかなれないのなら、私はあの人の側にはいられない。
だって、あの人が好きだと言ってくれた私は、そんな惨めで愚かな私じゃないんですもの」
嗚咽を堪えて気丈に話すキャロルの強さに老人は不思議な感動を覚えた。長く生き、広く深く世間を知っていると自負してはいたが、女性がこんなふうな強い自我を持っているとは初めて知った。
(なるほど、イズミル様が居並ぶ女達を蹴散らして心から欲せられたのも無理からぬ事。このように意志的な方がおられては!
以前、会ったときにはまだまだ子供であられたがずいぶんと成長された)

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