『 後宮物語 』 61 「・・・姫君。それでもあなた様は私の教え子イズミルを愛していてくださるのですな? 何があっても、どんなに傷ついても?」 老人は穏やかに尋ねた。その見えぬ目に宿る不思議な光はキャロルの錯綜した思考を解きほぐし、心を落ち着かせる。 「・・・・ええ。でも苦しいばかり。王子を愛して、あの人も私を愛してくれてそれで幸せなんだと思っていたけれど・・・。愛しているのに。愛しているから何があっても耐えられると思っていたのに」 「姫君、愛とはそのように夢のようなものではございませぬぞ。愛があるからこそ全ては苦しくもなるのです」 はっとしたように顔をあげたキャロルに老人は言った。 「もっとお心をゆったりとお持ちなされ。あなた様は見かけ以上に自制心もお強く、しっかりした方じゃ。 愛、愛とあなた様はおっしゃるがおそらくはまだ愛の何たるかをご存じあるまい。愛しているから全て耐えられる、受け入れられるとは大間違い。 愛していればこそ相手を独占し、かけがえのない相手よと大切に胸の内に抱きしめておきたくもなる。お互いにただ一人の相手になりたいと願う。 もっと我が儘になりなされ。あなた様は何も考えずにただ一途に、私の朴念仁の教え子に愛していると言ってやってくださったことがおありかな? おそらくはあの若年寄りに合わせて模範的なことばかり言っておられたのじゃろう。違いますかな?」 老人は面白そうに笑った。 「難しく考えなさるな。意地を張りなさるな。側に居たいと、側に居て欲しいと、何よりも誰よりもそなたが愛しいのじゃと言うだけでよろしいのじゃ。 いや、ただ抱きついて笑いかけてやるだけでよろしいのじゃ。 大丈夫。きっと姫君のお悩みは消えましょう。あなた様はイズミル王子を心から慕っておいでじゃ。そして・・・我が王子もあなたを愛しておられる。 さしあたってはそれだけで充分ではございませぬかな?あなたと王子の絆に他の者は立ち入ることはできませぬ。なのにあなた様は難しく考えてどんどん余分なものを入れてしまわれる」 62 翌朝。キャロルは自分を取り巻く風景がにわかに新しい輝きを帯びているのを感じた。 それはこれまで霧のようにまとわりついていたどこか現実味を欠いた雰囲気を一掃する光だった。そう、また時間が流れ始めたのである。 (何もかも吐き出してしまってずいぶんすっきりしたこと) キャロルはてきぱきと朝食の支度を整えていた。と、そこにラバルナ師が戻ってきた。手には伝書鳩が留まっている。 「ラバルナ様、それは・・・」 「ハットウシャからの伝書鳩じゃ。賢いのう、このような場所まで私を捜してやって来てくれる。・・・王子からの書状をたずさえての」 ラバルナ師はキャロルに書状を手渡した。最初こそキャロルはそれが真っ赤な炎でもあるかのように触れられずにいたが、懐かしい筆跡の誘惑は抗いがたく、目を走らせた。 そこには。 キャロル失踪以来、少しも心休まらぬイズミル王子の苦悩と不安が溢れていた。 キャロルを拐かし、ベヌトを殺した犯人の奴隷商人は瀕死の状態で捕まったことが手短に書状に綴られていた。 そして奴隷商人は紅玉髄と真珠の指輪を持っていたがゆえに捕らわれたのだとも書かれている。ヒッタイト国内ではごくごく限られた人間しか持てない宝石。商人はどこからそれを入手したかという決定的な告白はせずに死んだという。 王子は師に問う。我が妃と定めた姫の行方はいずれかと。我が愛したが故に苦しめ傷つけた姫はいずれにあるかと。 「・・・・・これからいかがなされますかな、姫君」 ラバルナ師がそっと声をかけた。いつの間にかキャロルの頬は涙に濡れていた。 63 ずっとずっと自分のほうがよりイズミルを愛し、それゆえに苦しんでいるのだと思っていた。だがひょっとしたらイズミルはキャロルが彼を愛するのより何倍も深く真摯に愛していてくれているのではないだろうか? イズミルにはキャロル以外の女性がいる。だがイズミルはいつでも誠実であったではないか? キャロルは他の女性を蹴散らし傷つけてまでイズミルを独占したかったのだろうか?イズミルがそうしてくれることを望んでいたのだろうか? (いいえ、違う。私はあの人の優しさを愛したの。誰かの涙を踏み台にして愛されることを望んだのではないの。 あの人はこの世界で何の後ろ盾もない私を愛して守ってくれた。選んでくれた。他の女の人のように義理や義務で私を望んでくれたのではないの。 そして・・・そしてあの人が私を選んだように、私もあの人を選んで求めているわ。あの人があの人であるが故に!) あの自信にあふれて傲慢なまでに強かった王子の苦悩に、キャロルは身体が震える思いがした。 キャロルはラバルナ師をまっすぐに見つめた。 「もしお許しいただけますなら、ラバルナ様。私をハットウシャへの旅のお供にしていただきたいのです」 老人は恭しく腰をかがめた。 「未来のお后様をご夫君の御許にお連れできるのは老いの身の誉れでございますな」 そして冗談っぽく付け加えた。 「じゃが姫君。御身はお妃であられる前に、我が教え子の恋人であられる。 恋人からただ一人の妻になるために何をせねばならぬか、男に何をさせねばならぬかはご存じじゃな?」 「え・・・?」 頬を赤らめたキャロルに老人は優しく言った。 「身分高き男であれば妾や愛人はいくらでも持てまする。じゃが身分の高低に関わらず、生涯を共に歩める妻は一人しか持てませぬ」 老人とその孫娘といったふうの二人連れが首都に続く街道に姿を現したのは、その日の午後のことだった。二人に先行して出発した伝書鳩はじき、出迎えの一行を二人の前に連れてくるだろう・・・。 64 場面はハットウシャの王宮に移る。 「・・・姫は無事であったか・・・!」 伝書鳩が携えてきた報せに、イズミルの瞳には久しぶりに人間らしい暖かみを感じさせる光が宿った。 だが、やがて椅子から立ち上がったイズミルはその金茶の瞳に冷たく底知れぬ凄みのある炎を宿し、冷酷無比とも言って良いであろう表情をその秀麗な貌に刻んでいた。 その美しい悪鬼のような表情は言いつけられて旅支度を揃えてきたムーラをぞっとさせた。 「いつでも出立できるよう準備しておいてほしい。用事が済ませてすぐに発つ故」 イズミルはそういうと悠然たる足取りで後宮のある一室に向かった。 そしてここはミラの私室。イズミル王子の後宮一の権勢を誇る公認側室の美しい居間は、後宮中を騒がせたこのたびの騒動を噂する女達の声で姦しかった。 ―結局ベヌトは殺されたんですってね。後宮を抜け出すなど恐ろしい反逆、謀反ですわ。死を賜る前に殺されたのは罰があたったということかしら? ―ナイルの姫も死骸が見つからぬのですって!奴隷商人が関わっていたらしいけれど結局、何も分からない・・・・。 ―あら・・!ベヌトはエジプトに帰りたがっていたナイルの姫を誘って逃亡を謀ったのでしょう?反逆者は二人ですよ。 ―王子はこたびのことでは何もおっしゃいませぬねぇ。もともとベヌトはご寵愛深いほうでもなかったけれど、ナイルの姫についてはご執心だったよう。 ご自分の所から逃げる蝶などより、美しいミラ様・・といったところかしら? 女達が噂している内容は全てミラが都合良く流した事柄ばかり。 だが後宮の女達は愚かではない。一段と声を落として、自分たちの生死をも握る側室の君の隠している事を探り合う。 ―ミラ様はナイルの姫の出現にずいぶん狼狽えておいでだったようですよ。王子様のあの姫へのお扱いは普通ではなかったから。 ―あの方の邪魔をする女人が‘また’いなくなったのです!ひょっとして・・・! ―ミラ様のお父様はこの国の大臣。王妃様のご遠縁。王子様にもご遠慮があるのでしょう。黒幕はきっと・・・様だけれど下手に処罰すれば表宮殿にも影響が。 ミラはそんな囁きを知ってか知らずか婉然と微笑み、周囲の女達を見下していた。 65 女達の団らんは、イズミル王子の出現で破られた。その顔に穏やかな笑みを―不自然なまでに穏やかな笑みを―浮かべた王子は静かに人払いを命じ、ミラと二人きりになった。 「・・・王子様、ようこそおいでくださいました。一体どのようなご用でございましょう?」 ミラは落ち着き払って言った。相変わらず甘やかに美しく微笑みながら。 王子も同じように微笑しながら言った。 「そなたらが噂していた事柄についてだ。ベヌトを殺した奴隷商人は死んだ。女達を拐かした奴隷商人だ」 「恐ろしいこと・・・」 ミラは内心、今回の事件の真実を知る奴隷商人の死に快哉を叫びながら答えた。しかし同時に自分の頭上に恐ろしい剣が振りかざされていることも予感する。 「・・・・で、ナイルの姫君は・・・?」 ミラは思い切って先手を打った。その気になればこの側室もまた、彼女が愛する男性同様に感情や思考を押し隠した演技が出来るのだ。 王子は答える代わりにミラの膝の上に、紅玉髄と真珠でできた指輪を投げた。 死んだベヌトがミラからせしめた石で作らせ、ベヌトを殺した奴隷商人が奪った指輪だ。さすがにミラの頬がぴくっと震えた。 「・・・・私が紅玉髄を与えた者は、この世に二人しかおらぬ。大粒の全き円珠をした紅玉髄と、それより少し劣るいびつな紅玉髄。この指輪には後者が使われているようだ」 「・・・・・ですから・・・・・?」 王子の顔から作り笑いが消えた。 「内務大臣の娘にして側室たるミラ。そなたを再度、召し出すまでに身を慎んでおれ。これは王の勅命同様に心得よ」 そして場面は再度、変わってキャロルとラバルナ師の歩く街道。 ラバルナ師はキャロルに問うていた。こたびの事件はどのようにけりをつけたいと思うかと。御身はおそらくはおおかたのことを察しておられ、それは間違いではないだろうから、と。 キャロルは答えた。 「私の考えていることはあくまで私の推測。真実とは限りません。 証拠立てられぬことで騒ぎを大きくしたくないのです。全ては・・・・公正な裁きに・・・任せたいのです。結果がどうあれ、私はそれに従います」 66 暖かい午後の日差しが降り注ぐ街道。その向こうに土煙が見えた。それはどんどん近づいてくる。10騎ほどの兵士がまっすぐ老人と少女の二人連れに走ってくる。 (王子だ・・・!) キャロルは土煙を初めて認めたときからはっきりと分かっていた。王子が迎えに来てくれたのだと。騎馬の一行は皆、地味な兵士のなりをしていて、身分ある人間の立派な装束を着けた者はいなかった。 だがキャロルには分かっていた。あの中にイズミル王子がいる、と。 ひときわ大柄な兵士、先頭きって走ってくるあの兵士・・・・・。 「無事で・・・・っ!」 灰色の馬はラバルナ老とキャロルを轢き潰さんばかりの距離で止まった。転がり落ちるように馬を下りたイズミル王子は目の前の二人連れを凝視した。 ずっとずっと待ち望んでいた存在を。 (あ・・・・・・) 覚えている姿よりも少しやつれた男性の姿を見たキャロルはその場に立ちすくんだ。 もしも逢えたなら、ああも言おう、こうもしようとずっと考えてきたのにいざそうなると少しも身体は動かなかった。ただ心臓だけが身体の外に飛び出しそうな勢いで動いている。 ただ一兵士に身をやつすようにしてやって来てくれた金茶色の瞳の若者を見つめるだけしかできない。 イズミル王子もまた、キャロルを見つめることしかできなかった。 やっと逢えた愛しい娘。自分が愛したが故に傷つけ苦しめる仕儀となったその娘に、無事を祈る夜毎にどれほど詫びただろう。 愛するが故に苦しめ、幸せを祈るのであれば故郷に送り届けてやるだけでよいのに、それだけは絶対にできない苦しみ。 常に側近くに置き、守り、傅き導き、愛し・・・だがそれは初めて心から愛したキャロルを、後宮の女達の憎しみの矢面に立たせることにしかならないのだ。 王子は鉄の意志で恩師ラバルナに向き直った。そのまま、教え子らしく恭しく老師に礼をし、挨拶する。 「我が師よ、お迎えに上がりました。ご無事のお姿を拝見し、イズミルは喜ばしく思います」 67 ラバルナ師は大きなため息をついた。そのおかげでキャロルの小さく哀しい吐息は誰にも気付かれなかった。 (やれやれ、このような時まで師弟の礼に拘るか。心の全くこもっておらぬ挨拶をされたわしこそ、いい面の皮じゃ。この小さい姫君の萎れよう、見ておれぬのう・・・) ラバルナ師はそれでも、イズミルが引き連れてきた護衛の兵士の手前、そして何よりも自分の手前、照れているのだろうと察するだけの余裕はあった。 「イズミル王子よ、久しゅうございますな。わざわざのお出迎え、痛みいる。 さて・・・。こたびの訪問のお土産にとお約束しておりました宝石をお渡しいたしましょう。お改めあれ。どこにも傷はなく、清らかに輝かしい宝石じゃ」 ラバルナ師はキャロルの白い手を取って、イズミルの大きな手の中に託した。 その光景は神話の中の風景のようでもあり、他の兵士達はごく自然に主君とその師匠、そして金髪の姫から少し距離を置き、視線を下げたのだった。 「姫・・・。よく無事であった・・・」 王子の声は少し震えていたかも知れない。伏せた金茶色の瞳は少し潤んだような光を帯びていたかも知れない。 (ああ・・・・王子だわ・・・) キャロルはまっすぐに愛しい人を見つめた。そのまっすぐな視線は王子の魂を射抜き、永遠に虜にしてしまうほどのものだった。 (もう迷うまい。徒に悩み、大事なものを見失うようなことはしない) キャロルは差し出された王子の手を、自分の両手で包み込むようにした。 「きっと来てくれるって信じていました。・・・・・・ずっとずっとあなたに逢いたいって祈っていました」 王子の目の中に暖かい光が、二度と消えることのない光が灯った。 騎馬の一行はラバルナ師とキャロルを気遣いつつ、ハットウシャを目指した。 キャロルは王子の馬に乗ったが、二人は言葉をほとんど交わさなかった。 だがお互いの暖かみは二人をこの上なく幸せな気持ちにし、キャロルは引き寄せられるままに王子の胸に身体を預けた。 やがて日没近い時間となり、一行は皮の近くで夜営をすることになった。手早く天幕が張られる。王子のと、その師匠のと、兵士のと。 王子は食事を済ませたキャロルを当然のように自分の天幕に導いた。 「あ・・・あのっ・・・」 狼狽えるキャロルに初めて王子は微笑を漏らした。 「そうだ、水を浴びるか。街道の埃はすごかったからな。大丈夫だ、私が見張っておいてやろう」 そういうと王子は軽々とキャロルを抱え上げ、水辺に寄った。兵士らは主君と、羞じらって賑やかに騒ぐその恋人を見ても少しも表情を変えなかった。少なくとも表面上は。 68 恥ずかしがってなかなか水から上がってこないキャロルを待ちかねた王子は、軽い細い身体をマントに包み込み軽々と抱き上げた。 「全く何をしているのやら。いくら満月夜とはいえ、夜の水には何が潜むやら分からぬに!・・・・さぁ、参るぞ」 キャロルは煌々たる月光に照らされた青年の横顔を見て、心ときめくのだった。 王子はキャロルを自分の天幕へと連れ帰った。簡単に設えられた天幕の内は灯火に暖かく照らし出され、何やら母の胎内のようにも思えた。 王子はキャロルの身体をしっかりと布で包み直すと、そっと低い簡易式の寝台の上に横たえた。そして自分は川の水で濡れた衣装をくつろげ、諸肌脱ぎになる。 キャロルは彫刻のようなその体から目が離せなかった。 (私・・・ずっとあの胸に凭れていたんだわ。あの腕に抱き上げられたんだわ。そして・・・) 真っ赤な顔をして、それでも初めて目の当たりにする愛しい男性の体から目を離せないでいるキャロルに王子はそっと微笑を漏らした。 布一枚で外と隔たっただけの仮の宿りではあるけれど、人目を憚らずにずっと探し求めていた恋人との再会を愉しめると思うと、イズミルは男の悦びを感じるのだった。 「ずっと、そなたに逢いたかった。そなたは私のただ一人の妻だ。私が初めて心から欲しいと思った相手だ。信じて欲しい、私の心を・・・」 王子は肩肘で体を支えて横たわると、優しく白い頬を撫でた。 キャロルはその手を包み込み、恥ずかしそうに口づけた。 「あなたが好きです。誰よりも何よりも。あなたの側にいては苦しいばかりと思ったこともあったけれど・・・でも私はあなたしか・・・」 蛹が殻を破るようにキャロルが布の内から白い腕を差し伸べた。白磁の胸元も露わになり、水ですすいだ清潔な肌が誘うように甘く匂った。 「そなたにとって私がかけがえのない者であるように、私にとってそなたは唯一無二の愛しき者。どうか姫よ・・・御身を我妻とすることを許されよ」 69 Ψ(`▼´)Ψ いきなり王子がキャロルを組み敷いた。寝台がぎいっと撓るような音をたてた。 「あ・・・」 驚くほど間近に迫った男の顔を見て、キャロルは反射的に身をよじり逃げようとした。触れ合った肌が驚くほど熱い。 「あ・・・あの、やっぱり私、まだ・・・!」 だが王子は容赦しなかった。猛禽のような光を帯びた金茶の瞳がキャロルの動きを封じる。 「だめだ・・・」 イズミルはキャロルを覆っていた布を剥ぎ取り、地面に落とした。 「今宵、そなたを我妻とする。もう待てぬ。ここがそなたを永遠に娶る神殿となるのだから・・・」 欲望にかすれた声で王子は言い、首に下げていた嵐の神の護符を枕辺に置いた。 「そなたが欲しい・・・。二度と見失わぬように私の印を付けてしまわねば・・・」 男の大きな手が、まだ子供のままの細い手首を押さえつける。身動きの叶わぬ相手を王子は手慣れた仕草で改め、愛していく。 白いうなじに、胸元に唇で濃い紅色の刻印を押し、生まれたままの肌を舌と指先で弄ぶように愛し、少女が未だ知らぬ感覚を教え込んでいった。 「あ・・・・っ・・・・・!」 必死に声を抑えるキャロルだが、執拗に乳嘴を味わわれるうちに妖しい感覚が身の内に萌してきて甘い声が漏れ、艶めかしく身体が震えた。 「いや・・・・っ、もう・・・・」 「何が嫌なものか。そなたはこんなに私を求めていてくれる・・・」 王子はキャロルのもっとも女性らしい部分を慈しみながら呟いた。 キャロルを深く深く執拗なまでに愛して、ようやく王子は愛しい娘を女にした。 「そなたは私の妻だ・・・。私が唯一心を許した相手だ・・・」 王子は女になったばかりの娘の涙を唇で吸ってやりながら言い聞かせた。 キャロルは夢見るように微笑むとそのまま深く寝入ってしまった。 70 イズミル王子がキャロルを伴って王宮に帰還したのは真昼の光目映い時刻だった。人々は仲睦まじい恋人同士を興味津々見守った。 後宮から勝手に抜け出た女は死罪となる決まりであったが、王子は手際よく国王夫妻にキャロルと共にラバルナ師を迎えに行ったのだと報告し、そのまま西宮殿に入った。 無論、王子の西宮殿で奴隷商人や死んでしまった側女のことなど、今回の「陰謀にまつわる噂話」を口にする者もいない。 後宮の女達は時として嫉妬深く愚かで陰湿ではあるけれど、ある種の「空気」を読みとる才能は長けていて、その他の諸々を圧倒した。 彼女らは王子が伴ってきた女性─金髪の姫がもう乙女でないことくらい誰にでも分かる─が自分たちの上に立つ存在となったことを瞬時に悟ったのだ。そう、追い落とされたミラに代わって・・・・。 ミラはすでに後宮にいなかった。イズミルとの短い会談の後、彼女は実家に下がっていった。しかし彼女は死を賜ることはなかった。 彼女は自決用の短剣の代わりに護符を贈られていた。謹慎用の狭い部屋に監禁されながら。 ・・・・彼女は王子の子を身ごもっていたのである・・・・。 しかし、側室の懐妊がおおっぴらにされることはない。彼女は王子に対して大きな罪を犯した罪人なのである。彼女が生き長らえているのは偏に彼女の内にある高貴な血を守るためだけ。 キャロルが王子に迎えられた今となっては、その胎児はら危険で忌まわしいだけの存在なのだけれど。 新しく王子の側室となったキャロルの身辺の華やぎに比べれば、ミラの身辺は暗く冷たかった。ミラはただお腹の中に宿った愛しい男の子供をのみ心の支えにして生きていた。 彼女の冥い情念を、自分を追い落とした金髪の姫への憎しみの深さを誰が知ろうか・・・。 71 「だいぶ髪の毛が伸びてきたな・・・」 王子は手の中で金色の髪の毛を弄びながら満足そうに笑った。 白いうなじに映える金色の髪の毛を彼はたいそう自慢に思っていた。肩を覆うほどの髪の毛にそっと花を飾ってやりながら王子は言った。 「さて、これほどに髪の毛が伸びたのであるから良い髪飾りを贈ってやらねばな。どのようなものが良いであろう? 紅玉髄はもう懲り懲りだ。そなたの瞳と同じ碧い宝石?肌の色と競うような真珠、それとも紫水晶、ラピスラズリ・・・」 キャロルは幸せそうに微笑んだ。 「あなたがくれるものなら何でも嬉しいわ。いいえ、あなたが側にいてそう言ってくれるのが嬉しいの」 「可愛いことを言ってくれる・・・」 王子は優しくキャロルのお腹を撫でた。ふっくらと丸いそこには王子の子が宿っている。待ち望まれ、祝福されて生まれてくる王子の和子が。 「良い子を産んで欲しい・・・」 ミラが女の子を産み落としたのは一年前のことだ。ヒッタイトでは女の子にも王位継承権は認められている。王位継承権を持った子の母は国母となる。たとえ罪を得て監禁状態にある女人でも、である。 王子は女児誕生、母子共々健康という報告を聞き、ひそかに舌打ちをした。これは王子の父王も同じであった。 だから。 王子はキャロルの産み落とす和子を心待ちにしている。このままミラが力を持つようなことがあれば、国王と、ミラを推した王妃は対立し、それは宮廷全体に波及するだろう。 そして。 月満ちて、王子の寵厚い側室キャロルは王子を産んだ。国中は熱狂して新しい王子を迎えた。キャロルは子を産んで3日もたたぬうちにイズミル王子の正妃に冊立されたのである。 キャロルは幸せだった。愛しい夫と子供を持ち、人々の信望も厚かった。 しかしその幸せがミラとその王女の不幸の上に咲く徒花だと言うこともキャロルは知っていた。 王子と、彼を愛する二人の女性、キャロルとミラの存在は国の将来に大きな影を落とすのであるがそれはまた別の物語である・・・・。 |