『 後宮物語 』

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「・・・・つまり私が好きになった人は只人ではなくて、だから独占しようとしてはいけないと言うことね。皆で譲り合って大切に扱わなければいけないおもちゃを持った子供のように!」
押さえようとしてもその声には叫ぶような哀しみが滲む。キャロルは痛ましげに自分を見るムーラに苛立った。
「さようでございます、姫君。後宮の女人方は王家と国内の有力貴族、外国の勢力者との繋がりを保証する要でもあるのです。その方々を身近に置かれるのはある意味、王国の安全と繁栄を保証するための王子の義務・・・」
「力ある男性の周りの多くの妻達は、その権勢の証でもあるのね。一時の嫉妬や独占力に負けて、あの人を独り占めしては後宮の、ひいては後宮の女性達の後ろにある権益や思惑を蔑ろにして国を乱すといったところかしら?」
皮肉っぽく、でも冷静に模範的な「正論」を述べるキャロルにムーラは舌を巻いた。
「仰せの通りでございます、姫君。そのように聡くおわすからこそ、王子も心許され、前例のないやり方でお迎え入れなさったのでございましょう・・・」
「ムーラ、今日は少し疲れました。一人になりたいのですけれど」
ムーラは恭しく頭を下げて出ていった。金髪の少女の突っ張って大人ぶった振る舞いに、この人にしては本当に珍しく痛ましい健気さを感じ取ってはいたが、王子の乳母は素直に慰めの言葉をかけることは出来ないのだった。

(分かっているはずだったじゃないの)
キャロルは自嘲気味に考えた。
(あの人が私に愛を告白してくれた時でさえ、心のどこかで考えていたはずよ、あの人の周りにいる女の人たちのことを。
・・・・・私にとって、あの人はただ一人の好きな人だけれども、あの人にとっては私は多くの女性達のうちの一人にすぎないの)
堪えきれない涙が頬を伝った。
「そんなの嫌。でも・・・離れるのはもっと嫌」
優しい心遣い、思いやり、包み込む暖かさ、安心して心を打ち明けられる相手。気がつかぬ間にイズミル王子はキャロルの中でとても大きな存在になっていた。
「他の人と争っても・・・・私はあなたを・・・」

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(あの人を好きになるということは、あの人の側で生きるということは、他の女性達の存在を認め、自分もその中の一人になりきるということ。
私にそれができる・・・?私の生きてきた世界はそんな価値観はなかった。
私が愛するのはただ一人。そしてその人にとっても私はたった一人の人でありたい。でもそれはただの我が儘、夢物語だわ。
私に耐えられる? 他の女性達と一緒にあの人の心を分け合うことが?
それが嫌ならば、私はあの人から離れなければいけない)
キャロルは頭を振った。
「あの人と離れて・・・また一人になれる? いいえ、私はあの人の側にいたい」
声に出して言った言葉がキャロルの胸に突き刺さった。
(私はあの人の側に居たい。あの人が好き。あの人を好きになると言うことは私を・・・捨てること。私の馴染んだ価値観を捨てること。
それでいいの?それが出来るの?誇りも何もかも捨てて、あの人の心を待ちわびるだけの日々・・・)
「・・・・・分からない。でも、もう一人は嫌・・・」
キャロルは紅玉髄の飾りをそっと撫でた。深紅の宝石は王子の真心そのもののように脈打つような光を放った。
「私の選ぶ道をお示し下さい。私が最善の選択を出来るようお守り下さい。
私は愚かかもしれません。私の心がまこと求めるものをお示し下さい」
キャロルは祈るように呟いた。

その日、公務を終えたイズミルはまっすぐキャロルの居室に向かった。
王子の訪れを聞き、子供のように駆けて出迎えるキャロル。その繕わぬ様子が王子をたいそう喜ばせた。
だが、差し向かいに座り他愛のない会話が始まればキャロルの脳裏にはまた先ほどの憂いが萌す。
「・・・・姫、いかがいたした?」
「あ・・・いいえ。あの、今晩は余所に行かなくて良いの?待っている人もあるでしょうに」
王子はすぐにキャロルが後宮の女達のことを言っているのだと悟った。
「そなたが気を回すことではない。ムーラに何か言われたのか?」
キャロルは黙って首を振った。
気まずい沈黙。不意に王子が立ち上がった。
「どうしたら、そなたに私の心を信じさせられるのか」
王子はそのまま寝所にキャロルを運んでいった。

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唇に、うなじに優しく軽く接吻しながら王子は問うた。どうしたのか、と。
答えは分かり切っていたけれどキャロルの口から答えさせたかった。
キャロルは強ばった身体に冷たい汗を滲ませながら王子を押しのけようとした。だが王子は遠慮がなかった。
「やめて、王子。こんなのは嫌なの。いやだったら!」
「そなた、好きな女と一緒にいる男がしたがることを知らぬほど幼いのであろうか・・・。さぁ、我が問いに答えよ。不機嫌の原因は何だ?」
「嫌っ!」
キャロルは力任せに王子を突き飛ばした。
「こんなのは嫌! ほ、他の女の人にもするみたいなこと私にしないで!
私は昨日、あんなことを言ってしまったけれど、私は、私はっ・・・」
「・・・・・・他の女、か」
王子はキャロルを膝の中に抱き直した。不機嫌に、でもどこかに甘えをのぞかせて自分を睨む娘を。
「どうしたら我が心を伝えられようか」
初めての疑問に王子もまた躊躇する。様々なしがらみや義理、義務を離れて初めて心から欲しいと思った相手。
接吻、贈り物、甘い口説、男女の行為。そのどれも娘に真心を伝えるには何かが欠けていた。

「そなたを抱いて我が物とするのは易いこと。そなたの歓心を得られるならば黄金の城をも築こうぞ。どうしたら私の心を信じさせられよう?
他の女とそなたは・・・・違う」
王子は囁いた。キャロルは黙っていた。
この時代の身分ある男性が多妻なのは当然と知識の上では知っていた。もし相手が王子でなかったら一夫多妻など何とも思わなかっただろう。相手を好きにならなかったら多くの妻など気にもならなかっただろう。
「そなたは側室でも側女でもない。妹のような娘のような・・・そして私が初めて欲しいと思った娘だ。いや、違うな。初めてその身体ではなく、心を得たいと思った相手だ」
キャロルは、はっと顔をあげた。
「直近の吉日を選び、そなたを神殿に伴う。神の御前にて我が王家の次の世代を産み落とすそなたをご紹介申し上げよう」

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「私・・・王子の側にいたい。でもそれでいいのかしら?
私は犬のように飼い主が振り向いてくれるのを待つだけの生活に耐えられるのかしら? あなたの心にだけ縋って生きる・・・そんなことできるのかしら?
・・・・・・他の誰かとあなたを分け合う、嫉妬しないように自分を押さえて・・・できるのかしら?
あなたを好きになれば、私は私でいられなくなる気がする」
だいぶたってからキャロルがぽつりと呟いた。
王子は初めて女の心根を哀れに思った。それまでだって王子を独占しようと苦い哀しい涙を流した女は知っていた。でもそれは疎ましいだけだった。
王族であるからこそ、国を司る者だからこそ、誰かに心を傾けるなどということは禁忌だった。
誰かに愛され、心を命を忠誠を捧げられることはあっても反対はない。若者は傲慢で冷酷な支配者になっていった。孤独をその定めと受け入れて。
キャロルの言葉に、涙に、王子の心は初めて戦いた。その脳裏に今まで利用し、うち捨てた人々の顔が浮かんだ。多くの男や女達。
(ああ・・・。これが心か。自分を失うのを恐れ、私に応えることを躊躇する娘。このように重いものを私は引き受け、幸せにしてやらねばならぬのだ。
私がモノのように扱い、義務として所有してきた女達。あの者達もこんなふうに感じたのだろうか?)
王子はぶるっと震えた。
キャロルの迷い、真摯な思い、恐れや望みが彼の心の深い場所を打った。
「そなたに最初に会いたかった。そなたに逢うと分かっていたら、こんなにも誰かに心奪われることがあると知っていれば、もっと違う生き方もできたであろうに」
王子は初めて人を愛する喜びを知り、その恐ろしさと重さも知った。
「私はそなたに対して誠実であろうことを誓おう。そなたはそなたのままでいればよい。私が欲しいのは鋳型に填められ、歪んだ自我を持つ女ではない」

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その夜も王子はキャロルの部屋で過ごした。ただ添い寝するだけの夜。
「・・・私を信じよ。そなたが最初に私に感じた気持ちを信じよ。
信じておれば裏切られることはない。
私は子を生ませる義務を果たすための女が欲しいのではない。私は私と同じ一人の自由な人間としてのそなたが欲しいのだ。
そなたは自分の言葉と自分の頭を持っている。その頭で考えよ。考えて考えて考え抜くが良い。これからどうするのか、何を望むのか。私は待とう」
キャロルは王子を見つめた。
(ああ・・・この人は本当に私のことを考えていてくれる。抱いて欲しいと自棄になった時もただ黙って見守ってくれた。
ただ恩恵を与えるように私を欲しがってくれているんじゃないんだわ)
「・・・・考えて・・・結果、ギザへ行きたいならば・・・私は・・・」
今度はキャロルが王子を抱きしめ、その言葉を封じた・・・。

キャロルは安定した気持ちでムーラの「ご進講」を受けていた。
ムーラにもその気持ちは伝わっていて、この忠義者の乳母はたいそう安心したのだった。王子の後宮の一員となることを受け入れられないのでは、とやはり心配したからだった。
「姫君・・・。あの・・・後宮の女人方とのおつきあいに関しましてはご心配遊ばしますな。私が精一杯お助けいたしますゆえ。あまり難しくお考えにならずにゆったりとしたお心持ちで、王子に全てをお任せになりまして・・・」
柄にもない心配の言葉をかけたのは育て子イズミルの心を素早く察したためか。
(姫君はこの国をお好きになって頂かなくてはなりませぬ。王子の御為に、私がお育てした大事な王子の御為に。
王子のお心がこの姫君を望まれるのであれば、姫君はそのように振る舞って頂かなくては。おそらくはこの御方が王子の和子を最初にお上げする・・・)
キャロルは落ち着いた深い声でムーラに答えた。
「私は大丈夫よ、ムーラ。迷いや戸惑いが無いと言えば嘘になりますけれど、私は大丈夫」
ムーラはこれから後宮に入る姫君とも思えぬしっかりした受け答えにひたすら恐れ入った。


「まぁ、ミラ様!素晴らしいお品ですこと。王子の贈り物でございますのね!」
後宮の女達の嬌声が明るい回廊に響きわたった。
「ええ。今朝、枕元に見つけましたの。こんなことって初めてですから嬉しいわ」
ミラは誇らしげに胸元につけた首飾りを見せた。
黄金の台座の中央に紅玉髄をはめ込み、その周りにはトルコ石や紫水晶が輝く深紅の宝石を引き立たせるように配置されている。
「ええ、王子が贈ってくださいましたの。思いもかけない素晴らしい贈り物ですわ!」
王子がうち捨てるようにしてミラに紅玉髄を与えてから3日ほどもたった日のことである。
ミラは工房の職人に紅玉髄と手持ちの首飾りを渡し急がせに急がして、この美しい装身具を仕立て上げたのである。思いがけない王子の贈り物はミラの不安を吹き飛ばし、虚栄心を痛く満足させた。
紅玉髄以外は手持ちの品で、紅玉髄が填っている場所にはもともと真珠が入っていたのだが、ミラは躊躇無くそれを外し、赤い宝石を入れることにしたのである。
「王子のお印の紅玉髄を賜りますとは何と羨ましい。やはりミラ様は別格ですのねえ!」
「ナイルの姫のよりはるかに豪華ですわ!あちらはただの石だけ。ミラ様にはこのような首飾り」
女達に本当のことを話してやる必要もない、とミラは考えた。
(ナイルの姫よりも、誰よりも王子のお側で輝いていたい。あの方のお心を得て、后の地位に昇り、皆から仰がれ、羨ましがられたい。
王子を誰よりもお慕いしているのは私。王子のお心を誰よりも知っているのは私。誰にも王子は渡さない!)
「ねえ、ミラ様。内々に宴を催しましょうよ。王子にその首飾りをつけたミラ様をお見せしなくては」
後宮内では一番地位の低い側女が媚びるように提案した。ミラは皆のはやし立てるような歓声の中でそれを約束したのだった。

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その頃。
イズミル王子はキャロルの部屋を訪れていた。今日は王子自らキャロルの「勉強」の成果を見に来たのである。
緊張した様子で文字を綴り、質問に答えるキャロルを王子は微笑ましく見守っていた。もともと機知や才気煥発さを好む王子であった。様々にキャロルを試し、この生徒の出来の良さに大きく満足したのであった。
王子は金茶色の瞳で生徒を眺める。生徒は不意に自分に注がれる「教師」の視線に気付き、赤くなって離れた。
(この人の側に居たい。この古代で初めて信頼して心打ち明けることができると思った人・・・初めて好きになった人・・・)
キャロルは自分を引き寄せるイズミルの腕の中に素直に体重を預けた。
(きっと人並みの幸せは得られない。嫉妬して、泣いて、苦しんで・・・。
でも側にいたい。流されて選ぶんじゃない、私は自分でこの人の側を選んだのだから。
私は自分の意志でこの人を選んだ。だからこの人の心にだけ頼って幸せにしてもらおうなんて思うまい。
・・・・・私は強くなりたい。不幸せになど生きない!)
「姫?どうした、黙ってしまって。何かまだ心にかかることがあるのか」
王子の声にキャロルは静かに身を起こした。
「いいえ、王子。私、うんと勉強するわ。自分の足で立って歩けるように。
あなたの振り向いてくれるのを待つだけにならないように」
イズミルの金茶色の瞳を射るように見つめる青い瞳。そこにはいつかイズミルが見て、一目で心惹かれた強い意志的な輝きがあった。
(初めてだな、このように強い瞳で私を見る女など。他の女ならただただ私の愛顧を寵を望むだろうに、この娘はそうはならじと己を強く律している)
王子はふっと微笑を漏らした。
「よしよし。うんと学ぶが良い。私の側に立つ重責に堪えうるようにな。支配者は強くあらねばならぬのだから。
・・・私はそなたが飛び去らぬよう心砕くとしようか」
王子は腕の中の娘に口づけた。それは恋人の仕草で、キャロルの未だ知らぬ感覚に火をつけるものだった。
「私を信じていよ。己の強さを信じよ。そなたは私が選んだ女だ。私が共に立ちたいと思う女だ。他の誰とも違うかけがえのない者だ・・・」

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その夜。
イズミルは後宮の女達が催す内宴に顔を出した。「客人」キャロルは出席していない。
ミラを筆頭に4人の後宮の女達、その下に位置する女達が賑やかに華やかに笑いながら歌舞音曲に興じ王子の心を惹こうとする。
王子は杯を傾けながら女達を眺めた。どの女も人並み以上の容貌をしている。
王子のためなら命だって差し出すだろう。王子の為すこと、命じることに何の疑問も持たずに。
(この者達にも姫と同じ心があるのか。今まで私が気付こうともしなかった心が。私の愛顧を得ようと腐心する女達。だが私はこの者達に我が心を与えようとは思わぬ)
全く感情を窺わせない瞳で女達を値踏みする王子。
彼はどんなときも冷徹な支配者の視点を忘れなかった。側に女を召すときすら、美貌や肢体の他に後腐れの無さや妙な野心・権勢欲の無さを必ず求めた。
並かそれ以下の頭しかない女が政治に口を出したり、闇雲な野心に駆られて国の屋台骨を揺るがすことがあってはならないのだ。
キャロルにすら、イズミルは同じものを、いやそれ以上のものを求めていた。
愛しいという個人的感情だけで妻を持つにはあまりに身分高い彼。それゆえにキャロルはイズミルが見出し愛した様々な資質や美点を万人に示し、自ら王子の側に立つに相応しい女性、次代への血を残すに足る女性として立つことを求められていた。
「王子様? いかがなさいましたの?」
婉然と微笑んだミラが酌をしにきた。他の女達は遠慮して少し下がった。
ミラは首に飾った新しい首飾りが目立つように殊更、科(しな)を作って見せた。
「王子様から賜りました紅玉髄の首飾りですわ。似合いましょうかしら?」
王子の冷たい金茶色の瞳と、野心に燃えるミラの薄茶色の瞳が絡み合った。
(この女、分を忘れかけておるな・・・)
王子は言った。
「私が内々に与えた石をずいぶんと立派な台座に填め込んで見せびらかすものだな。我が母上 王妃すらそこまではせぬ。側室には分不相応だ」
宴の空気は一気に冷えた。王子やミラが去った後の部屋にはミラを嘲笑する密やかな笑いがいつまでも消えなかった。


「この首飾りのせいでっ!この首飾りのせいで要らぬ恥をかいたっ!」
床に叩きつけられた首飾りから紅玉髄が跳ね飛び、二つに割れた。
ミラは怒りと屈辱の涙に濡れ、美しい顔は醜く歪んだ。気位の高い彼女に人の嘲笑は耐えられない。
(皆が私を嘲笑う。私の失敗を喜んで。ああ・・・今となってはあのような者達の浅薄な煽りにのって宴など催したことさえ口惜しい。
よもや、こうなることを見越して私に宴を進言した・・・?)
ミラの表情がすっと醒めていった。屈辱の炎に灼かれた心は冷え冷えと冴え渡り、気位高い美姫を鬼にする・・・・・。

「そなたに頼みがあるのですよ」
真夜中近くのミラの私室。彼女の前に控えているのは一番末席の側女である。
ミラに宴を勧めたこの側女ベヌトは、恐れに身を竦ませて裁きを待っていた。
イズミル王子の後宮第一の女性に恥をかかせてしまったのである。手ひどく撲たれるのか、罵られるのか、それとも・・・・殺されてしまう?


「まぁまぁ、そのように固くならなくてもよいのです。一体どうしたのです?」
「ミ、ミラ様、どうかお許し下さいませ。う、宴のこと。決してわざとしたことではございませぬ。あなた様に対してどうして無礼を働けましょう?」
ベヌトはやっとそれだけを言った。だが返ってきたのは以外にも晴れやかな笑い声だった。
「まぁ、ベヌト!そんなことはどうでもよいのですよ。誰がそなたを咎めましょう?イズミル様はたまたまご機嫌がお悪かったのです。私とて至らなかったのですからね」
ベヌトは信じられない思いで、この高慢で気難しい側室の笑顔を見た。
「・・・それで、そなたに頼みがあるのですよ。他の誰にも頼めませぬ。聞いてくれますか?」
「は、はい!それはもう!ミラ様のおっしゃることなら何なりと!」
あまり頭の良くないベヌトをミラは冷たい笑みを浮かべて見下ろした。
「では・・・あのナイルの国の客人を城壁の外に出してやって欲しいのですよ。あの者を故郷に帰してやるのです」
「ええっ!」
ベヌトは驚いて、思わず腰を浮かせた。
「そんな・・・!だってあの方は王子のお客人。王子が帰国の差配を遊ばしたとも聞き及んでおりませぬ。
お、恐れながら後宮から無断で外出した者は死、死のお咎めを受けまする。少なくとも王子のお情けを一度でも頂いた者は。ミラ様とてご存じのはず」
ミラは口元だけ上向けて笑っているような表情を装った。
「つい先ほど王子からご下命がございました。かの姫は帰りたいと我が儘を申してとうとう王子も根負けされたよう。私がかの姫の旅支度を調えますゆえ、そなたが付き添って城門の外に出しておくれ」

48
戸惑うベヌトにミラは説明してやった。
ナイルの姫はエジプトに帰るのだと。ただ公式に旅の一行を仕立てると外聞が悪いので、お忍びで行くのだ。
城門の外に商人に身をやつした護衛隊が待っている。「ミラと王子の信厚い」ベヌトがそこまで大事な、でも我が儘な客人を送って欲しい、と。
ベヌトは相当、戸惑い疑っているようだった。だがミラが割れた紅玉髄の一片と一粒の見事な真珠をその手の中に握らせてやるに及び、ようやく納得したようだった。
「分かりました、ミラ様。ナイルの姫をお届けいたしましょう。ご安心あそばせ。・・・・ミラ様のご用を勤めることができて嬉しゅうございますわ」
ベヌトは素早く頭を巡らせ、ここでミラに恩を売ることに決めたようである。
「ええ、もちろんこのことは口外いたしませんことよ。ムーラ様にも・・・・・王子様にも・・・・・。
ほほ、紅玉髄と真珠、有り難く配慮いたします。人には見せられませぬけれど・・・私とミラ様の友情の証・・・・ですわね」
気弱さと恫喝するような調子が複雑に混ざり合った表情を浮かべながらベヌトは退出していった。
(愚かなベヌト。今の内にこの私の弱みを握ったような気でいるがいい。
その身の程知らずな傲慢の報いはすぐに来るのだからね)
ミラはくすりと笑った。そして次の日、密かに奴隷商人を召しだし、2日後に女奴隷を一人、売るという契約を結んだのである。後宮出入りの奴隷商人は残忍な笑みを浮かべてミラの言いつけを守る旨を誓った。

同じ頃、ミラの冥く深い嫉妬など知る由もないキャロルは、王子から暦を見せられていた。
「見るが良い、姫。次の吉日は6日後だ。この日はイシュタル女神の小祭日でもある」
上機嫌の王子は膝の中に抱え込んだ娘にきわどく触れながら言う。
「先に約束いたしたな。直近の吉日にそなたを神殿に連れていくと。それがこの日だ」
「ええ・・・・。でも・・・ずいぶん早い」
「今更!私は待たぬぞ。そなたは言ったな、自分の意志でここに残ると。
だから私はそなたを神殿に伴うのだ。これは・・・婚儀のようなものだ。少なくとも私にとってはな。王族が正式なる婚儀を上げるは世継ぎの和子が生まれたその後と決まってはいるが・・私は世の男のようにまず神殿で祝福を受けたい」
キャロルは空恐ろしいほどの幸福感を覚えた。幸福感はしかし同時に不安ももたらすのだった。

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「ラバルナ師がハットウシャに向かっておられる。数日後に到着されよう」
杏の木が西宮殿の奥庭に美しい花を咲かせる季節。余人の入れぬこの美しい王子の庭に、青年は初恋にのぼせる少年のように想い人を招じ入れた。
「本当?いつかお目にかかった王子の先生ね。連絡があったの?」
王子が見立てた衣装に身を包み、くつろいだ様子で茶器を口元に当てているキャロルは柔らかな安心しきった微笑みを浮かべている。
「ふふ、風が語ってくれた」
「え?!」
「嘘だ。伝書鳩だ。あの方は華やいだ場所はお嫌い故、こたびのようなことは本当に珍しいのだよ。色々と話をしたいものだ」

(この人はこんなふうに笑うのね・・・)
キャロルは王子の顔を眩しく思った。
英明にして冷静沈着。冷徹にして時に苛烈。公明正大で慈悲深い君主ではあるが決して自分の内側を覗かせない。孤高の王者・・・・。
様々に表され、尊敬され恐れられている老成した青年の内面を知っているのはキャロルだけだったかも知れない。
必要悪としての武術、軍事術にも充分通じているが、本当は学問や思索を好む内省的な青年。不器用な子供のようなところもある優しい心の持ち主。
(私・・・この人の笑顔好きだわ)

(ふ・・・む。妻を娶るとはこういうことか)
王子は目の前で無邪気に微笑む娘の顔に暖かいものを感じた。
物思いに倦み疲れ、憔悴した表情でいるキャロルの様子が心に掛かり、二人きりでくつろげる時間をとるようにしたのは王子だった。
「姫、こちらにおいで」
王子はキャロルを引き寄せ、そっと組み敷いた。そのまま薔薇色の唇を貪り、高ぶった自身を衣装越しに女の脚に擦りつけた。
「早くそなたが欲しい・・・・・」
緊張し、冷たい汗を流しながらも抗いはしない娘の様子が王子を喜ばせた。後宮の女にはついぞ感じたことのない強い欲望と、目の前の無垢の娘にそのような感情を抱く事への自己嫌悪がない交ぜになり、王子は複雑な気分を味わった。
世間ではそんな王子を「初恋に溺れる坊や」とでも評するのだろうか・・・。

50
「ナイルの姫君、ご機嫌よう」
回廊で急に声をかけられてキャロルは緊張して振り向いた。お供の侍女も連れずの一人歩きの最中であった。
声をかけてきたのは後宮の側女の一人ベヌトだった。イズミル王子より少し年かさ、盛りをやや過ぎた肌に豊満な体つきの派手やかな美貌の持ち主である。
「そんなに驚かれますな。まるで私があなた様を虐めでもするようではないですか」
ベヌトはそう言って馴れ馴れしくキャロルの顔をのぞき込んだ。
(なるほど綺麗な小娘だわ。ミラ様が追い落とそうとなさるのも無理ないこと。でも世間知らずのようだし、私がミラ様なら上手く丸め込んで利用するのに)
「ご機嫌よう。何か・・・ご用ですの?あの・・・」
「私はベヌトと申しますよ。イズミル王子様のお言いつけであなたさまを市場にお連れしようと思うのです」
「え?」
驚くキャロルにベヌトは蕩々と説明した。後宮の女は気晴らしのために毎月、決まった日になら市場を見て回り買い物をする自由が与えられている。
何やら退屈しているキャロルを心配した王子は、ベヌトにキャロルを市場に連れていってやるよう命じたのだと。
「ほほ・・・。信じられないようなお顔つきですのね。どうして王子の側女の私が、とお思いなのでしょう?
私は王子より3つほども年上なのです。だからでしょうか、お側女としてのおつとめの他にもちょっとしたご用を承ることも多いのです。頼りになると行っていただいているんですよ、これでも。
ムーラ様があなた付きのようですけれど市場巡りならば私の方が詳しいし、若いあなたに気詰まりでないと思うのです。
後宮の女達はいがみ合って暮らしているわけではないんですよ。言ってみれば王子を中にした友達みたいなところもありますからね・・・」
ベヌトは如才なくキャロルに話しかけ、じき相手に市場行きを承知させてしまった。

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