『 後宮物語 』

31
―王子のお客人の方、ご機嫌よう。こちらにはいつまでご滞在ですの?
―いつ私どもにご挨拶においでかしらと思っていたのですけれど、おいでにならないから、こちらから伺いましたわ。

綺羅を競う女達はてんでに囀って、意地悪な視線でキャロルを値踏みした。
キャロルに話しかける女達の後ろで聞こえよがしに囁く声。
―まぁ、ずいぶんとお髪を短くしておいでなのね。どうして?
―貧弱な小娘じゃないの。勿体ぶって王子のお庭でおくつろぎというわけ?
―どういう手練手管で王子様を誑かしたのやら?
女達の見え透いた無礼を窘めようとしたムーラが口を開くより先にキャロルが答えた。
「ご機嫌よう。ご挨拶が遅れたことはお詫びいたしますわ。ヒッタイトの風儀にはまだ通じていなくて。いつまでこちらに滞在するかはまだ分かりません。
そのうち王子が送ってくださるはずです。約束しましたから。
・・・・・で、後ろの方がお聞きだった事柄についてもお答えしましょうか?
髪の毛が短いのは切ったせい。王子の庭にいるのは、ここまでなら出てもいいと言われているから。それに・・・」

「まぁまぁ、それくらいになさいな。あなた方」
にこやかな表情を崩さずに、でもつけ込むスキを与えぬキャロルの受け答えにたじたじとなった女達を、ミラが窘めた。キャロルの反撃に一番驚いているのは彼女だ。
「ご機嫌よう、ナイルの娘と呼ばれる方。私は王子の側室のミラです。こちらは王子の側仕えの者達。王子のお客人をおもてなしするのは私たちの役目ですのに王子は何もお命じにならぬから、こちらから押し掛けましたの」
ミラは優雅に言ったが、その声音は固く、顔は嫉妬に引きつっている。
目の前のキャロルが、これまで誰も捉ええなかった気難しい王子の心をいとも易々と奪ったことを本能的に察したのだ。
「ご挨拶する前にお帰りになってしまうかもしれませんものね!」
側女の一人がミラに媚びるように言った。でもミラは決してそんなことはない、と感じていた。

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「でも、まぁ、ご挨拶できて何よりでしたわ。どうか仲良くいたしましょうね。王子のお客人の方」
ミラはそう言って手を差し伸べた。つられてキャロルも白い手を差し出したが・・・。
ミラはびくりと差しのべた手を固まらせた。二人を見守っていた他の女達も驚きの声をあげた。キャロルの手首に光る紅玉髄のビーズの意味を悟ったのだ。
大粒の紅玉髄のビーズはヒッタイトの王子にだけ許されたもの。血のように炎のように光るそれを女に与えるとは・・・・?
「・・・・その飾りはどうなさいましたの・・・・・?」
「? 王子から頂きました」

あの憎たらしい金髪の新参者の前からどうやって私室まで戻ったのやらミラには分からなかった。嫉妬と怒りで目の前はあの紅玉髄と同じ色に染まり、頭の中にミラの失寵を期待する側女達の下卑た囁きがこだました。
―あのビーズは王子のお印。それをあのように下されるなんて!
―しかもお髪をまとめる革ひもにつけて!あの姫は意味を知らないんだわ。あの王子がそこまでなさるなんて、ああ、羨ましい!破格のお扱いじゃないの!
―あの姫、殊更、お手つきじゃないのを知らしめすような娘姿で。王子はよほど大切になさってるんだわ。男は本命には臆病になるっていうじゃないっ?
―では、あの姫が今度は後宮第一の方になるわけ?ミラ様はどうなるのよ?
―ミラ様なんて!今日だって私たちに悪役をふっておいてご自分は良い子の役。私たちはあの方の引き立て役じゃないわ!

(あのナイルの姫が王子のお心を捉えたんだわ! 王子がそこまで優しくお心をかけられるなんて! でもあの憎たらしい小娘は何にも気付いていない!)
ミラは寝台で泣いた。
キャロルの前を辞す直前に軽はずみの側女が投げつけた言葉。
―王子が送ってくださると言うことですけれど、あなた、王子はご多忙ですのよ。ほら、ねぇ・・・ミラ様の所に足繁くお通いなんですもの。
それほどお帰りになりたいなら、王子をお待ちしないでもいいんじゃありません?でないと私たちも誤解して勘ぐりたくなるじゃありませんか?
キャロルは心底、驚いた、そして傷ついた顔をした。先ほどまでの毅然とした勝ち気な少女の面影は消え失せていた。
そして・・・ミラの誇りもズタズタだった。側女達はキャロルではなく、自分をまず追い落とそうとしているらしいことくらいすぐ分かる。

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(皆・・・・私の失墜を期待している!私がいなくなるためならば、あのナイルの姫とかいう新参者にすり寄っていくのだわ!)
ミラは口惜しさに身もだえた。これまで自分が散々やってきた後宮特有の陰湿な駆け引きに、自分もまた晒されるのだ。一人の男の寵愛を競うためだけに後宮で引きこもって暮らす女達の共食いにも似た、華やかに残酷な争い。
ミラは高価な首飾りを床に叩きつけた。
「・・・・邪魔者はいなくなれば良いのよ。王子が・・・・私以外の女を愛されるなんて許せない!」

その夜もイズミル王子はミラの部屋を訪れ、彼女を抱いた。
ミラは公認の側室の誇りも、何もかも捨てて男に縋った。男の行為は激しく、そして巧みで彼女の身体をとろかした。
「王子、王子・・・。お願いでございます。私にも・・・私にも紅玉髄を賜りませ。客人におやりになったのと同じのを・・・っ!」
王子は腰の動きを止めた。
「ミラ、そなた、また姫のもとに参ったのか?」
「え・・・? はい・・・」
うっすらと目を開けたミラが見たのは行為のさなかとも思えぬ、男の醒めきった厳しい顔だった。
「王子・・・・・様・・・・? だって、私はあなた様の・・き、妃に立つ女でございます。あなた様の後宮を束ねる女でございます。新参の客人に会いに行って何の・・・不都合・・・あっ!」
王子は激しく女を責めた。
「そなたは後宮の女だ。おとなしく分相応に振る舞えばこそ、私も愛でる。
欲しいものはやろう。何でも欲しいモノは与えてやる。
・・・・・だがそれ以上を欲しがるな。分を弁えて咲いてこそ花は愛でられる」
王子はミラが正体無く眠り込んでしまうまで責め立て、やがてその枕頭に無造作に紅玉髄を放り出すと出ていった。

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ミラの部屋を出た王子はそのままキャロルの居室に向かった。
真夜中過ぎての突然の王子の訪れに宿直の侍女たちは右往左往した。
「構うな。姫に用があるのだ。そなたらは次の間にでも控えておれ」
王子の言葉の意味を察した侍女たちはそそくさと出ていったのだった。

王子は常夜灯の明かりを大きくして、眠る佳人を見つめた。
(どうして最初にそなたに会わなかったのであろうな?どうして最初に抱いた女がそなたでなかったのであろうな。そなたに最初に会っていれば煩わしい後宮など持たずにすんだであろうに)
「う・・・・ん・・・・?・・・・きゃっ!」
「静かに。ただ、そなたの顔が見たくなったのだ。声を上げるな。怯えるでない。誰が愛しい女に無体を仕掛けて嫌われるような愚かしい真似をするものか・・・」
言いながら王子は素早く寝台に横たわり、添い寝するようにキャロルを抱きしめた。だが抱擁はやがて押さえ切れぬ求愛の動作を伴い始めた。
王子は譫言のようにキャロルに言った。

そなたをどこにもやりたくない。ギザに帰してやるなど嘘だ。私はそなたをずっと側に置いておきたいのだ。お願いだ、私を見てくれ。
側にいてくれれば生涯、大切に守ってやる。他の女達の無礼は厳しく罰してやる。私は寂しいのかもしれぬ。だから、だから、だから・・・!

キャロルは突然のことに声も出ず、冷たい汗で肌を湿らせながら身体を強ばらせ、無言で涙を流すばかりだった。
でも、恐ろしい、厭わしいと思う一方で男の求愛に流されたいと思っている弱い女をキャロルは確かに自覚していた。
キャロルのうなじに顔を埋めていた王子はやがて顔を上げた。
王子の金茶色の瞳に映ったのは恐怖と屈辱に涙する、青い瞳だった。
青い瞳の主は、欲望に満ちて魔力を秘めた金茶色の瞳を見返した。まるで吸い込まれるような抗いがたい魅力に満ちた瞳。誘惑する琥珀色の瞳。

「許せよ・・・・・」
不意に正気に返った王子に与えられたのは驚くべき返答だった。
「・・・私は誰も好きになってはいけないのに、あなたは私を誘う。どうしてなの・・・?」
キャロルは王子に手を差し伸べた・・・・・。

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キャロルの白い腕が絡みつくように王子の首にまわされる。
「誰も好きになんてならない。この世界のものは何も好きにならない。私はこの世界の人間ではないんですもの。なのに・・・」
夢ではないかと訝る青年の首筋に、暖かく良い匂いのする重みが加わる。
「寂しくて、寂しくて・・・・寒くて心細くて、ひとりぽっちで・・・・あなたは私をどうしたいの? 客人だって言いながら、あ・・・愛人みたいな情けない立場に追いやって・・・」
すすり泣きの声。見当違いの喜びに男の体を熱くしていたイズミルはかろうじて違和感を覚えるだけの余裕があった。
(姫・・・?こんなふうに身を寄せて縋って・・・? でも心はここにはない。姫はこのような真似をする淫らな娘ではない。私が姫を見誤るはずがない)
「寂しくて・・・疲れてしまった。もう嫌。何かを待ったり、考えたり、我慢したりするのは・・・」

キャロルは暖かく広い胸を涙で濡らした。
不本意ながら古代にやって来て、それからはただ抗いがたい力に翻弄され、流されていくばかり。
自分を必死に守り、侮られぬように傷つけられぬようにと緊張して過ごす毎日。慣れぬ世界で親切にしてくれる者がいたとしても、所詮は別世界の人間。心を開き、縋るなど許されるはずもなく。
キャロルはいつかは現代に帰れるかもしれないという我ながら絶望的だと自覚している、脆い望みに縋ってただただ日を過ごしていた。

そんな中で。
イズミル王子は彼女を優しく包み込むように守ってくれた。彼の温かみにキャロルはどれだけ慰められただろう。
キャロルはいつしかイズミルに惹かれていく自分に気付き・・・そしてイズミルもまた自分を愛しく思っていてくれるらしいことに気付いたのである。
キャロルは緊張と孤独の日々に憔悴しきっていた。彼女は自棄になって目の前の誘惑に身を投じる。
「王子・・・王子・・・あなたは私をどうしたいの・・・?」

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「ひ・・・め・・・」
かすれた声でイズミルは囁くと、闇雲に暖かみを求めて縋ってくる少女の身体をしっかりと抱きしめた。キャロルは抗いもしない。
「アイシスに言われたの、帰れないだろうって。帰りたいのに・・・帰れない。なのに後宮の女の人たちは私のことをいやらしく誤解している。
私は何も好きにならないし、なれないんだって分かっているのに・・・それなのに・・・あなたを・・・王子を・・・・・・。
ひどい人・・・ひどい人・・・ひどい・・・ずるい人・・・こんなことして」
「姫・・・・」
「離さないで・・・私を・・・だ、抱い・・・」
王子はキャロルを抱く腕に力を入れ、唇を封じた。
腕の中の身体は驚くほど華奢で頼りなかった。だが王子を離すまいとでも言うようにまわされる細腕の力は何と強いのか。

(ああ・・・姫はただ寂しさに耐えられなくなっただけなのだ。心細さと一人の辛さに耐えきれなくなっただけなのだ。だから・・・男を誘うような自棄をするのだ。それだけなのだ。それだけ・・・。
愛しているから、手放したくないと思ったから、故郷を忘れるまで大切に閉じ込めておこうと思ったのだ。愛しいからこそ、そなたのような子供にそんな酷い真似をしたのだ)
「許せよ・・・。そなたに辛い思いをさせてしまったことを。そなたの口からそのようなことを言わせたことを」
王子は涙に濡れる白い顔を上向かせ、優しく唇を重ねた。
「そなたを大切に思っている。誰よりも何よりも大切に思っている。そなたは特別なのだ。私の一番大切な者なのだ。
信じて欲しい。私はそなたを、他者の侮りを買うようないい加減な扱い方をする気はない。だから・・・そのように自棄を起こすな。自分を大切にいたせ」
低く落ち着いた王子の声音が、ゆっくりと優しくささくれ立ったキャロルの心に染み込んでいく。
「私は・・・そなたを愛している・・・」

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キャロルは王子の瞳を見つめかえした。
暖かい金茶色の瞳に、もう先ほどの危険な誘惑の色はなく、ただ深い深い慈しみの色があるだけだった。
もう何も分からなくなって、春をひさぐ女のようにみだらに振る舞って無理矢理に流されるばかりの自分をどこかに繋ごうとしたのに、目の前の青年は全てを受け止めて包み込んでくれた。
(こんな私を・・・大切に思うと言ってくれた?あ、愛しているって言った?)
ときめきをキャロルはすぐにうち消した。
(馬鹿ね。この人は優しいもの。同情してくれているだけよ。自分から抱いて欲しいなんて言うはしたない私に困っているのよ)
「同情なんて・・・いいから・・・」
キャロルは絞り出すように言った。かわいげのないその言葉に返されたのはさらに暖かい抱擁と接吻だった。
「愛している。心から大切に思っている。そなたに寂しい思いをさせ、追いつめたことを済まないと思っている。
・・・・・私は・・・たとえ自棄になった心が言わせた戯言だと分かっていても・・そなたが私を求めてくれたことが・・・嬉しい」
キャロルは驚いて目の前の青年を見つめた。整った顔はどこまでも真摯で誠実で、キャロルの心に紛れもない真実を受け入れさせる力があった。
「私は・・・」
王子はそっと指先でキャロルの唇を封じた。
「私は焦らぬ。心落ち着くまで待つとしよう。今宵はもう眠れ。私がそなたを守ってやる」
王子はどこで覚えたのかと自分でも訝しく思うほど上手にキャロルを寝かしつけてしまった。
(手放したくない。もう決して手放さぬ。そのために姫にどれほどの犠牲を強いることになろうとも、私はきっとそれを贖ってあまりあるほどの幸せで姫を包んでやろう・・・)
王子はキャロルの部屋で一夜を明かしたのである・・・・・。

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軽い衝撃とぎし、という寝台の軋む音にキャロルは眠りを破られた。
泣き寝入りした翌日なので頭の芯はぼうっと重いが、心は不思議と軽やかだった。古代に来てからこんなに爽やかな弾むような心持ちで迎えられた朝は初めてではないだろうか?
キャロルはぐっと身体を伸ばすと、目を開いた。
その途端。
「お、王子っ!」
すっかり身仕舞いをして、寝台に腰掛けて彼女を見守っていたのはイズミル王子だった。
「目覚めたか・・・。よく眠れたようだな。私はもう行かねばならぬが、そなたは今日一日おとなしく私の帰りを待っておれ」
王子はキャロルが恥ずかしがったりする暇を与えぬように言い聞かせた。その声は優しく深く、キャロルは我知らず顔を赤らめるのだった。
「よいな。・・・・そうそう、昨夜私がそなたに申し聞かせたことは夢ではないぞ。そなたはもう一人ではない。軽はずみな真似をして私を心配させるでない。ムーラの申すことを私の言いつけと思い、良い子でおれ」
王子はそういうとキャロルの頭を撫でて出ていった。キャロルは戸惑いと幸せと・・・また新しい渦の中に巻き込まれていったのではないかという漠然とした不安を感じながら王子を見送った。

王子と入れ替わりにムーラたちが寝室に入ってきた。ムーラは手慣れた様子でキャロルの身支度を整えていく。
キャロルは手鏡の中の自分の首筋に王子の接吻の跡を見つけて大いに狼狽えるが、よく訓練された侍女たちはそんなものくらいにびくともしない。
キャロルには未婚の女性の衣装が着せつけられた。昨日までのものと同じような形の衣装だが、飾られる装身具は今まで見たことのない、豪華な品物だった。
「王子からのお心づくしでございます、姫君」
ムーラは柔らかな声音で語りかけた。
「大切に遊ばしませ。それから王子が下さった紅玉髄の飾り、こちらはこれから決して肌身離さずお付けくださいますように。他の品とは比べものにならぬほど貴重な品でございます」
口にこそ出さなかったが、キャロルに仕える女達は皆、彼女が未だ娘の身体だということに驚いていた。
王子はキャロルの部屋に泊まりながら指一本触れず、それが不快の印などではない証拠に豪華な後朝の贈り物をして、また部屋に来ると言い残して公務に出ていった。
側女でも側室でもない姫君に皆、興味津々だった。

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身支度も朝食も済んでしまうと、ムーラがキャロルの前に様々な書物を運んできた。
「姫君、こちらは我がヒッタイトの歴史や風土に関する書物でございます。
まずはこちらをお読み遊ばせ。
もう後、一刻ほどいたしましたら今度は僭越ながら私が姫君に宮廷の作法や決まり事などをご進講申し上げます」
王子からのお言いつけでございます、しっかりお励み遊ばせと言うとムーラは部屋の隅に下がっていった。キャロルは素直に書物に没頭した。
もとより好きなことであったし、書物に集中していれば昨夜のことなど考えずにすむ。
(私ったら昨日、王子にとんでもない所を見せてしまったわ。あ、あんな訳の分からないことを言って困らせてしまうなんて最低。みっともないったらないわ・・・)
とはいえ、その戸惑いは好きな人の前で取り乱したところを見せてしまった少女の戸惑いと自己嫌悪だった。
(でも・・・あの人は優しかった。優しくしてくれた。私を・・・私のことを・・・愛しているって言ってくれた。
では・・・私もあの人を好きになっていいのかしら?本当にいいのかしら?)
キャロルの頬は自然に赤らんだ。
住む世界の違う自分が、この古代社会で誰かを好きになるなど笑止だと自らを戒めていたキャロルだが、今となってはその戒めを思い出すのも苦しかった。
キャロルははっきりとイズミルに対する想いを自覚していた・・・。

やがてムーラが声をかけてきて、キャロルは宮廷の典礼その他を学ぶことになった。ムーラは蕩々と、しかし簡潔に分かりやすくキャロルに宮廷の事柄を教えていった。
「・・・というわけでございます。次に王子様のお住まいになるこの西の宮殿と、王子様にお仕えする女人方についてご説明申し上げます」
ムーラの言葉にキャロルは、はっと顔をあげた。幸せに浮かれていた心が一気に引き戻される。
ムーラはそんなキャロルの様子を素早く察し、いかにも世間知らずな子供然とした彼女を可哀想に思いながら言葉を続けた。
「王子様は我がヒッタイトのお世継ぎの君。表宮殿でのご公務の他に王家の血筋を残すという大切なお役目もお持ちでございます。
すでにご存じではございましょうが、王子の後宮にはご公認の側室ミラ様を筆頭に4人の御方様がおいででございます」

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ムーラは注意深くキャロルの様子を窺いながら、王子を取り巻く女性達のことを話した。

――王子は諸国、臣下とのつながりをより強固なものとするため、また貴重な王家の嫡流の血筋を次代に残すために側室、側女と呼ばれる女性達を召しておられます。
現在、ご正妃はおいでにならず、「側室」の称号と格式を許されておられるのは王妃様の遠いご縁戚にあたられるミラ様のみでございます。
ミラ様は国内の神官貴族のご一族で、王子にはもう5年ほどもお仕えでございましょうか。当年とって19歳におなりでございます。ミラ様は王子の後宮の
一の御方でございます。
他のお三方はいずれも「お側女」の方としてミラ様の下のご身分でございます。ご出身のお家柄も、まぁ様々ですがミラ様に比べれば軽いお扱いでございますね。
・・・・・この他にも何人か王子のお側に召された女人は数多おりますが、王子の後宮の女人方と申し上げるときはミラ様を含めたお四方を指しまする。
正式にお部屋を賜り、召使い達もついているのがこの方達。
今のところ、王子の和子をおあげした者はおりませぬ。ご身分、お人柄ともに申し分ない方がお后にお立ちになり、さらにお世継ぎの和子をお上げすれば万々歳でございます・・・。

ここで少しムーラは言葉を切ってキャロルの様子を窺った。
キャロルは殊更感情を押し隠すような緊張した顔つきであった。
(ああ、この方はお分かりだ)
ムーラは安堵の吐息を漏らした。如何にも世間知らずでありそうな、男と共寝した夜を持っても未だ乙女のままの娘が、一体どの程度、自分とイズミル王子(を取り巻く女性達も含めて)の関係を理解できるだろうか危ぶんでいたのである。
「姫君はその王子の御許に参られるわけでございます。エジプトの神の御娘たるあなた様のことを王子が格別に思し召しておいでなのは今更申すまでもございません」
キャロルは固い表情でムーラを見やった。

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