『 後宮物語 』

21
「姫君? いかがなさいましたの? そちらは端近にすぎましょう。もう少し奥へ」
ムーラに声をかけられてキャロルは、はっと我に返るとムーラの指し示す椅子に腰掛けた。
「日差しがきついゆえ、垂れ幕を・・・」
ムーラは侍女たちに命じて大きな窓を紗の垂れ幕で覆わせた。王子個人の客間はこれで外からは見えなくなり、庭から密かにキャロルの様子を盗み見しようとしていた後宮の女達はがっかりと帰っていくことになる。

(私・・・私ったら一体どういう顔をして王子に会えばいいのよっ? 待っていなさいと言われたのに寝てしまうなんて・・・王子の寝台を独占してムーラに起こされるまでぐっすりなんてみっともない!
起こしてくれれば良かったのに。そうしたら私、起きて自分の部屋に引き取ったわ。親切で寝かせておいてくれたのは分かるけれど・・・家族でもない他人の男の人に寝顔を見られるなんて!)
ムーラの差し出してくれたお茶を機械的に飲みながら、キャロルは自分の顔が真っ赤に染まっていくのを止められなかった。
意識的に感情を押さえた表情と声音でムーラはキャロルの身支度を手伝ってくれたが、そこには無礼な王子の客人への驚きと呆れた気分が色濃く漂っているようにキャロルには感じられた。
「あの・・・ムーラ」
「はい?なんでございましょう、姫君」
「色々と世話をして気遣ってくれてありがとう。でも少し一人にさせてもらえませんか?昨夜来、あなたには迷惑をかけ通しで申し訳なくて・・・。あなたの仕事もあるでしょうに」
ムーラは、育て子の王子とよく似た苦笑を片頬に刻んだ。
(全く風変わりな姫君を王子は見初められたこと!今朝方など王子がお出ましになるのにも気付かずに眠り続けて、お起こししてみれば涙を零して寝入ったことを恥ずかしがって闇雲に王子にお詫びを言いに行こうとされて・・・。
今だって、やたらと周囲に気遣い、慣れぬ場所でただただ恥ずかしがって困り果てた様子を隠そうともなさらぬ。
変わったお子だこと!王子もお手をおつけにならなかったようだし)
「お気遣いは結構でございます。姫君。慣れぬ場所で落ち着かれぬのでしょうか?私は王子からあなた様のお世話を言いつかっております。王子がお戻りになるまで落ち着いてお待ち遊ばせ」

22
ムーラの言葉にまた頬を染めて黙ってしまったいかにも世慣れぬ風の娘を見ながらムーラは今朝方のことを思い返していた。

王子が垂れ幕の後ろから起きだしてきたのはようやく空全体が闇色から灰白色に色味を変えだした頃だった。ずいぶんと早い起床に手水の支度よ、朝湯の支度よと騒ぐ宿直の侍女らを制して王子は朝から酒を命じた。珍しいことである。
垂れ幕の後ろ、未だ寝台の中に居るであろう金髪の少女の気配を気遣いつつ、手酌の青年を心配そうに見上げるムーラに王子は言った。
「ふふ、そのような顔をいたすな、ムーラ。そなたが心配するような事は何もないぞ。姫は疲れたのであろう、まだ眠っている。そのままにしておいてやってくれ」
「はい・・・・あの・・・」
「・・・・朝酒か?そうだな、子守は存外疲れて心乱れるものゆえ飲みたくなったのだ。全く子を持って初めて分かる親の恩とはよくいったものだ」
「はぁ・・・?」
「何も無かったのだよ、ムーラ。何も、だ。あの姫はぐっすり眠り、私は初子を持った母親のように寝顔をのぞき込んでいたというわけだ。
あの姫は私の客人だ。間違っても他の側女のような扱いはいたすな。
起きたら、食べさせて部屋に連れていってやってくれ。そうだな、部屋からは出してはならぬ。退屈そうなら私の書物など見せてやれ。昼頃に一度顔を見に来る。
他の女達が姦しく新来の姫を見物に来るだろうが、会わせることは叶わぬぞ。
女達に分を弁えさせるようあしらって欲しい」
「・・・・はい。姫君をどなた様にもお会わせしないのですね」
ムーラは問いかけるように育て子であり、主君でもある若者を見た。
「ふ・・・ん。ミラには私から申し聞かせる。ま、あの気位の高い側室の御方は物見高く新参者を見に来はせぬだろうが」
辛辣にそう言って王子はまた杯を満たし、干した。
「そのように見てくれるな、ムーラ。私とて初めてのこと故、どうして良いか分からぬのだ。女に執着を覚えるなど」
王子は酔っているようだった・・・。

その時、部屋の外が騒がしくなった。侍女が告げに来た。
「ムーラ様、ミラ様がおいでになりました」

23
押しとどめる侍女を突き飛ばすようにして入ってきた女性はきらびやかに着飾り、冷たく権高な「公認の側室」の仮面では覆い隠せないほどの激しい癇走った表情を眉根のあたりに漂わせていた。
薄いベージュ色の髪の毛は鏝で丹念に巻いてあり、薄いオリーブ色の肌は入念に化粧されていた。見るからに高価そうな衣装に装身具。美しく整ってはいるけれど何だか作り物めいて冷たい容貌。
それが、王子の後宮の女達の頂点に立つミラだった。

いつものようにミラの私室に朝のご機嫌伺いにやって来た後宮の女達の聞こえよがしなお喋りがミラをここまで駆り立てた。
―ご存知?昨夜、やって来たエジプト人は王子のお部屋に泊まったのですって!下仕えの小女が言っていたわ、あの外国人のために用意された寝台には皺一つ寄っていなかったって!
―旅の途中で王子のお命を救って看病したのですって。以来、王子はお側を離さぬほどにご寵愛というわけ。
―あの方は子供じゃあるけれど何でもエジプトの女神の娘なんですってよ!
本当ならファラオのお側に上がるはずだったんだけど、王子様に見初められて駆け落ちまでなさったんですってよぉ・・・
女達はさり気なくミラの方を窺う。自分たちに対して権高に振る舞う側室の御方様がどう出るか愉しみで仕方ないのである。
新参者のキャロルは自分たちのライバルであるけれど、もし噂通りの高貴の姫君ならば、高慢で気取りかえったミラに自分たちに成り代わり罰を与えてくれるかもしれないではないか?
後宮の女達は強かで意地が悪かった。権力者の娘ミラに押さえつけられてろくに王子に目通りすることも叶わないのだ。

女達はミラにこう言った。
「私どもは取るに足らぬ身分の側仕え。今更、王子のお心を望めるような立場にはございませんわ。
あのような目映いばかりに美しい女神の御娘がおいでになったからって、何の気苦労もございません。こうなってみると王子の寵薄い、ぱっとしない身の上も却って有り難いことかもしれませんわ」
女達の目はこう嘲笑う。それに引き替え、ミラ様は・・・・と。

24
(これが・・・・・ナイルの女神の娘)
ミラは目の前の小柄な子供を見下ろした。どのような美女かと思ったが、目の前にいるのは小柄な子供だった。昨夜、灯火の元で見たときよりさらに頼りなげに見える。
いつもなら、新しく王子の寵を受けた女性を見ても心は騒がなかった。自分に勝る相手がいるはずはなく、全ての女に勝り超然としていられると信じてこれたからだ。
だが。
今回は勝手が違った。目の前の毛色の変わった少女の恐れげのない澄んだ青い瞳が、ミラの心を激しくかき乱した。自分と対峙しても少しもたじろがぬ女など初めてだった。
未婚の娘が着るような幼げななりをさせられ、処女の証に髪の毛は梳き流しただけのキャロル。男の手はまだついていないと殊更、強調するようなやり方。
(王子、あなたは一体、この娘をどうなさるおつもりなのです?)

「ご機嫌よう」
先に声を出したのはキャロルだった。居合わせた人々は、驚いて、または好奇心剥き出しでキャロルを見た。
「私はキャロルと申します。王子の客人としてしばらくこちらに滞在いたします・・・」
すっと差し出された形の良い白い手をミラは狼狽えて取った。
(これではまるで君主の手を押し頂く臣下のようではないのっ!)
ミラは思ったが、同時に「王子の客人」という単語に縋るように飛びついた。
では、この女は後宮に入るのではないのだろうか? いや、だが王子はこの娘と同衾なさったというではないか・・・?
ミラは今度こそ、冷たく気高い側室の仮面で素顔を覆った。
「ご機嫌よう、エジプトの御方。王子の客人たるあなた様にご挨拶いたしますのは、あの方の妻たる私の義務ですわ。ご滞在が楽しいものとなりますように」
それだけをやっと言うとミラは引き取って行った。足早にキャロルや、他の侍女や女達から離れることで、かろうじて彼女の矜持は保たれたのである。

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「お見事でございました、姫君」
緊張のためか青ざめたキャロルの冷たい手を、母親のようにさすってやりながらムーラは言った。
ミラの人もなげな振る舞いに一時はどうなることかと、この有能な女官は肝を冷やしたのであるが意外にもキャロルが泰然としていたため事態は穏やかに集結した。
(小さな子供のように泣いて萎縮してばかりかと思えば、あのように毅然と厄介な野次馬達をあしらわれる!
そういえば昨夜も、後宮の女達に少しも臆することなく優雅に振る舞われたのを感心してお見上げしたものだったけれど・・・。
本当に不思議な御方だこと!まぁ、頭のよろしい方というのは確かやも。だとしたらお仕えのし甲斐もあるというもの。私、泣き虫と愚図と馬鹿は嫌い)
「皆は誤解しているのね・・・・。私が王子の新しい愛人か何かかと思っているのよ。私がうっかり王子の部屋で寝込んでしまったから・・・」
そう言ったキャロルの頬には早、新しい涙が伝い始めている。ムーラはつい先ほどの自分の感想は何かの間違いだったかしらと訝しく思いながら、涙を拭ってやった。
「もうそのことはよろしいではございませんか、姫君。
誤解云々につきましては今はお忘れ遊ばせ。そうそう、王子が姫君に書物をお貸しくださるそうです。ご覧になりますか?」

浮き立つ心を我ながら不思議に思いながら、王子はキャロルの部屋にやって来た。
地図を膝の上に置き、何やら物思わし気だったキャロルは王子の姿にびくりと身体を震わせた。
「姫、今戻った。何をしていた?おとなしくしていたか?疲れは取れたのか?」
「あ・・・あの・・・はい、大丈夫。それより昨夜は、というか今朝はごめんなさい。うっかり寝過ごしてしまって。本当にごめんなさいっ!」
睦言の一つもと期待していた王子は、謝るキャロルを宥め、気を紛らわせようと様々に冗談や軽口を叩きながら過ごすことになったのである・・・。

26
だが結局、王子は不機嫌な雰囲気を纏ってキャロルの部屋を出ることになるのである。

キャロルが午前中に眺めていた絵図は地中海世界やナイルの岸辺の地勢を示したものだった。当然、下エジプトのギザも載っている。
キャロルは無邪気に言ったものだ。
「やはりギザは遠いわね。送っていってもらえるとしても・・・ずいぶん長くかかってしまう。
・・・・・送っていくって約束してくれてありがとう、王子。私一人だったらとてもこんな長い距離は旅できないわ」
遠慮がちに、でも断固として約束の履行を迫る娘に王子は少し鼻白んだ。
「やはり帰りたいか、姫よ」
「ええ、そりゃすぐにでも帰りたいわ。でも我が儘はいけないわね。ごめんなさい」
「・・・・そなたは昨夜・・・・」
「えっ!やっぱり私、何か言ったの?何か夢を見て寝ぼけていたような気もしていたの。何か変なこと言った?」
王子は何故か心底がっかりした気分を味わった。
(馬鹿馬鹿しい、寝ぼけた子供が生返事をしただけではないか。私の側にいると約束したわけではないのだ。
姫は早く帰ることだけを考えている。私のことなど何とも思っていない)
「覚えていないならよい。私はもう公務に戻らねば。さて、姫よ。今夜は寝ずに私を待っていてくれられるかな?」
「ええ、いいわ!・・・・あ、そうだわ、王子。お願いがあるの」
「うん?」
「あの、あのね。王子の後宮の女の人たちに・・・私のこと、ちゃんと説明して欲しいの。私はただの客で・・・その・・・王子とは何でもないって」
不愉快そうに顔をしかめた青年にキャロルは簡単にミラ来訪のことを説明した。

かくて。王子は図々しくもキャロルの品定めをしにきた側室と、それを押しとどめ得なかった乳母、それに自分の心を全く無視する金髪の少女の3人に腹を立てながら午後の公務に向かったというわけである。

27
「まぁ、イズミル王子様!」
夕日の残照が差す部屋に訪れた青年をミラは狂喜して迎え入れた。
ミラは王子にしがみつき、悩ましく身体をすり寄せたが、近寄りがたい硬質な反応にじき身を離した。
どうも最愛の男性は機嫌が悪いようだ。原因は何となく察しがついた。あの新参者の外国人だろう。
「そうそう、今日は王子が新しくお連れになりましたエジプトの方のところに伺いましたの」
ミラは艶やかに微笑んで先手をうった。
「小さな幼い方ですのね。ご自分は王子の客人なのだと言っておりましたわ。
ねぇ・・・・あのような方は初めてなので私も気になってしまって。
まことのところ、どうなのです?」
馴れ馴れしく体重をかけてくる身体の香料の匂いと熱に、いつにない嫌悪を覚えながら王子は感情の窺えないいつもの口調で答えた。
「側室の君たるそなたが、そのようなことを気にするとは珍しいな。
そなたは私の側室だ。世間が公認し、重んじるただ一人の側室だ。他の側女とは違う。それでは不満か?
私が一番多く訪れる女、それがそなただ。不満か?」
王子はいきなりミラを抱え上げると寝台に放り出した。そのまま五月蠅い口を封じるように女を愛していく・・・・・。

「・・・・王子様。お忘れにならないで下さいませ。あなた様を一番愛しているのは私ですわ・・・。あなた様の妃に立つのは私ですわ・・・」
いつになく激しい行為の疲れに半ば以上、眠りながらミラは囁いた。王子は一言も答えず、毛ほどの疲労も見せずに女の部屋を後にした。

「ようこそおいでなさいました、王子」
王子は思いもかけないキャロルの出迎えに嬉しい驚きを感じた。
キャロルは悪戯っぽく笑った。
「ね、今日はちゃんと起きていたでしょう?やればできるのよ」
王子とキャロルは様々な会話に興じた。決して出しゃばらず、知ったかぶりもせず、しかし求められれば即座に適切に答え、深い知識と知性を示す娘は王子にとってこの上ない話し相手だった。
「・・・よかったわ、王子。何だか気分が優れないようだったから心配だったの。何かあった?」
「うん?いや・・・そうか、私は不機嫌そうであったか。
ふふ、だが、そなたと話していて長く不機嫌ではいられまい。女と話して面白いと思い、飽きなかったのは初めてだ」
「ふふっ。私みたいなお喋りは珍しいかしら?でも旅の時だって色々話したわね。・・・私も王子と話していると楽しいわ」
「・・・・・・どうだ、姫。ずっと私の側にいぬか?ずっと私の話し相手をつとめてくれぬか?」
「・・・・・・・・・・・・それはだめよ」

28
私はあなたとは違う世界の人間。
あたなと居ると何だか兄さんと居るみたいで安心できるの。あなたはこの世界での私の一番信頼できる友達だわ。
でも・・・いいえ、だからずっと一緒にいられないの。

言ったでしょう? 私がどこから来たか。どこで生まれ育ったか。あなたは信じられないことかもしれないけれど、本当のことだわ。
あなたがこの世界で王子として生きるのを定められたように、きっと私も20世紀の世界で生きることを定められているの。
あなたの生きる世界はここ。私の生きる世界は遙か向こう。世界の違いを越えて一緒にいれば、そのうち私たちお互いに自分でなくなってしまうかもしれないじゃない。自分でいるというのは大切なことよ・・・・。
異世界から来た私は、王子の生きるこの世界にとっては異分子なんですもの。
私の存在が、あなたに障りになることがあったら私、自分を許せないわ。

・・・・・・・・・あなたは私の大事な友達よ。
心から信頼できる友達って生涯にそう何人もできないわ。私は一生あなたを大事な友達として覚えてきたいの。だから・・・一緒には居てはいけないの。


明るい月がよく見える窓辺でキャロルは静かに語った。
そこには王子のよく知っている年の割に幼い少女はおらず、真摯で理性的な娘がいた。
「ずっとずっと・・・・大好きな大切な友人だわ。だから・・・」
キャロルは最後にそういうと、そっと王子の頬に手を触れた。

キャロルは王子が出ていった扉を涙に潤んだ瞳でじっと見つめていた。
(馬鹿なキャロル。気がつかなかったとは言えないわ、私自身の気持ちに・・・。ライアン兄さんによく似た王子の優しさが嬉しかったくせに。いつだって、いつだって・・・・・!)
積み重なる旅の日々、交わされる会話、見交わす瞳、さりげない心遣い。
キャロルは、王子に恋心を抱きかけている自分をひたすら戒めた。

29

「くそっ・・・・!」
王子は寝台にどさりと横になった。
先ほどキャロルに触れられた頬が驚くほどに熱かった。
女であれば誰でも待ちこがれるはずの男からの恋の告白。ヒッタイトの世継ぎとして人々から賞賛される男からの求愛。口先だけではない、心からの願い。
側に居て欲しい、と。
それなのに肝心の娘はそれを拒否した。見事なまでに。言葉を尽くして。大切な友人だからこそ一緒に居てはいけないのだなどと韜晦して!
王子はその口を封じ、身体を奪うことができないままに引き下がった。いつもならば女を組み敷いて奪って、その胸に自分の面影を焼き付けてしまうのに。肉食獣が狩りをするように、欲しいものは力尽くで奪って・・・。
「この私が・・・・この私を翻弄するとはなっ!」
王子は酒杯を呷った。酒は苦く焼け付くようだった。
(女ならば誰でも強い男からの求愛を待ちわびているのではないか?
私では不足なのか?母女神の国のことなど忘れよ。これまでそなたと過ごした日々・・・そなたもまた私のことを憎からず思っていてくれていると感じたのは私の愚かな勘違いなのか?)
強く瞑った瞼の裏側にキャロルの面影が通り過ぎる。
馬上で楽しそうに景色を見ていた娘。王子すら知らぬその土地固有の事象をよく知っていた博学な娘。
明るく微笑んで周囲の誰からも好かれた娘。そう、王子が嫉妬して隠してしまいたいと思ったほどに。
何の見返りも求めずに、王子の看病をしてくれた娘。女性ならば命と同じほどに大切であろう髪の毛をも惜しげもなく捨てた娘。
そして・・・・・・故郷を思い、孤独に打ちひしがれ涙していた娘。
(そなたを幸せにするには・・・やはり我が手の中から離さねばならぬのか)

30
(王子は今日も一度も来てくれない・・・・)
昼下がりの庭園の一角でキャロルはそっと吐息をついた。
あのやりとりから3日。厳しい、でもどこか寂しげな顔で部屋を出ていった王子は一度もキャロルの許を訪れてはくれない。
多忙である、という伝言の粘土板を添えて、献上品の珍しい果物や花、それに装身具といった如何にも女性好みの品々は届けられるのだけれど、キャロルが好きだと言った書物などが貸し与えられることもない。
(私はあの人が選んで貸してくれる書物が好きだったのに。いいえ、書物を持ってきてくれる人が好きだったんじゃないかしら・・・?
王子は気を悪くしたのね。謝る機会もくれないわ。でも・・・謝るって何を?
あなたの言うとおりに、ずっとあなたの話し相手を勤めますっていうの?)

そんなキャロルをムーラはじっと見守った。
実の母よりもイズミルの心の機微に通じたこの女性は、育て子の初めての恋に驚きと嬉しさを感じていた。いつもいつも行儀の悪い子供がお菓子を食べ散らかすように無感動に女の相手をしていた冷たい男性が、初めての恋をした!
これまでムーラは、王子の周辺にたむろする女達に嫌悪や軽蔑を感じこそすれ、好意めいたものを覚えることはなかった。彼女は育て子とある意味、心ひとつであった。だからイズミルが惹かれた娘に初めて好意を覚え、何とか彼女自慢の育て子を愛して欲しいと強く願うのだった。
(私のお育てしたイズミル様は誰よりも優れた殿方。姫君は王子をお慕いになればこそ、ヒッタイトにおいでになったのではありませんの?
どうして今更、王子のお心に従われることを拒まれます?何をご心配かは存じませんが王子は全てからあなた様を守って下さいますよ・・・?
私のお育てしたあの方に一体何の不満が? 理由如何によってはお許し出来ませぬよ?)

その時。不意に賑やかな声が近づいてきた。後宮の女達を従えたミラだった。

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