『 琥珀と水晶 』

31
最近、王子はますます多忙であった。
火種を含みつつ一度は終結したエジプトとの折衝がまた厄介な色合いを帯びてきていた。
エジプトのファラオ メンフィスは姉女王アイシスを娶り、その後リビアの王女も娶った。この二人の妃の折り合いが非常に悪かった。
そこに持ってきて、ファラオの異母弟を名乗る怪しげな男が出現し、伝統と格式を誇るエジプトの宮廷は四分五裂し、その混乱は宮廷の外、国内にあまねく波及しているという。
ファラオは国内の不満を逸らし、民心の結集をはかるべく外部に目を付けた。
すなわち戦争による混乱の浄化・・・。標的はどこでもよいのだ。そう、ヒクソス、シリア、そして・・・ヒッタイト。
―我らがナイルの女神の娘を、エジプトに取り戻せ―
そんな不穏なことが公然と囁かれているらしい。

(もとより今のエジプトに外国を相手に大規模な戦をする力はない。牽制と油断なき監視だけで充分だ)
イズミル王子は協議の間を引き取って自室に戻りながら考えていた。
(メンフィスは若く血気に逸るだけの愚か者でもない。じきに国内の混乱も収まろう。・・・犠牲の血はどれほど流れるやら分からぬがな。
それよりも問題なのは・・・エジプトが・・・メンフィスが未だ姫を求めているということだ)
イズミルの心は乱れた。
冷徹な為政者としての思考が、恋の虜となった若者の感情を混ざり合う。

メンフィスは姫に執着している。
姫は契約の印章を押すときにメンフィスと見つめ合った。
姫はエジプトから離れるとき、いかにも名残惜しげだった。
そして自分は・・・嫌がる姫を無理矢理に・・・抱いた・・・!
姫の心は・・・?

32
日々は過ぎ、対エジプトの政治的・軍事的な処理は着実に進められ、ヒッタイトは国王とその共同統治者たる世継ぎの王子のもと盤石の守りを誇った。
エジプトはヒクソス相手にいつ果てるか分からない戦を始めたという。多くの人間が戦争に駆り出され、大義と正義、哀しみと怒りに酔いしれ、不満を忘れているという。
メンフィス王の異母弟は早々に戦死したという・・・そう表向きは。
戦争の中で新たな秩序が生まれつつある。

(メンフィスは・・・姫を忘れてはおらぬか)
イズミル王子はきりきりと疼き痛む胃のあたりに手を置きながら西宮殿への回廊を歩いていった。初秋の夜の冷気が王子を包み込む。
(姫は・・・どうなのだろう?姫は・・・私に対してずいぶんと穏やかになってきた。ひょっとしたら少しは私への憎しみが薄らいだのではないかと思ってしまうこともある。でも本当の心は・・・?)
期待、希望、キャロルへの愛情。それらに対する逡巡。
キャロルと王子の間に流れる空気が穏やかなものになったのは確かだ。言葉を交わすことも普通のことになっていた。
王子はキャロルの物腰から淡い、でも押さえがたい期待を抱くことが多くなった。しかしことキャロルに関しては誰よりも情熱的でありながら、生真面目な若者は自分の大それた望みを押さえつけた。
(私は姫に対して大きな罪を犯した。私は姫を自死に追い込んだことを忘れてはならぬ)

「王子、おかえりなさい」
西宮殿は明るく灯が灯され、キャロルが出迎えてくれた。穏やかな優しい顔立ち。だがその顔はすぐに曇った。
「どうしたの?ひどい顔色だわ!早く中に。それからお医者様・・・」
「騒ぐな、大事ない。少し疲れただけだ」
「胃?胃が痛むの?」
キャロルは王子を引っ張るようにして寝室に連れていき、寝台に寝かせた。
その心遣いが王子にはこの上なく嬉しい。だが確かにこの胃の痛みは普通ではない。王子の全身は冷や汗に濡れ、顔色は土気色。
キャロルが医師を呼ぶよう命じる声を心地よく嬉しく聞きながらも、王子の唇からは痛みを堪えるうめき声が漏れだしてしまうのだった。

33
医師が召し出され、王子を診察し、薬を置いて退出していった。
「王子はひどくお疲れで消耗されておいででございます。おそらくはご心労とご疲労が胃の焼けつくような痛みを産み出しているのでございましょう。
しばらくはご安静に。それからご政務のほうもしばし量を減らされ、療養に努められますよう」

(過労・・・ってことよね)
キャロルは、寝台に横たわり痛み止めの薬のせいで眠り続ける王子の顔を見つめていた。
(ずっとずっと王子は忙しそうだった。いつも夜更け過ぎにここに戻ってきて・・・疲れているだろうに私のことばかり気遣ってくれて、私が横になるのを確かめてから自分は長椅子で休んでいたっけ。
大丈夫?って声をかけて・・・無理しないでって言いたかったのに。何だか言えなかった。私が気遣ったりしたら煩がられると思って・・・)
ひどい自己嫌悪が彼女を苛んだ。
(心配だったのは本当。疲れているのは分かっていた。でも気遣う言葉が言えなかったのは・・・王子があんなことを私にしたのを・・・許せないと、いいえ、許してはいけないと自分を縛っていたから)
キャロルの頬を涙が伝った。
(心労と疲労。倒れるほど王子は消耗していたのに私はそれを気付かぬようにしていた。
そして私はどうして・・・ここまでひどい状態になったのか、その原因も知らないの・・・!)

押さえきれない嗚咽が漏れ出す。
「・・・許して・・・下さい。私を・・・許して下さい」
白い手をそっと額にあてる。冷たい汗で湿る額。
不意に眠っていた王子の眉が顰められ、琥珀色の瞳がキャロルを見た。
「泣くな・・・。そなたに泣かれると私は・・・辛い」

34
「夜明け前か・・・今は。どうした?姫。何故、起きているのだ?休んでいないのか?・・・ああ、私が寝台を独占しているから・・・か?」
起き上がろうとする王子を優しく押しとどめながらキャロルは言った。
「どうぞそのままで。あなたは昨日、倒れたの。病人なのよ。お医者様が胃がひどく荒れているから当分、療養に専念するようにって」
「・・・ずっとついていてくれたのか?」
王子は驚いたようにキャロルを見つめた。心配そうに自分を見ている娘。その碧水晶の瞳は涙に濡れて。
「・・・ごめんなさい」
キャロルは王子の手を取りながら言った。
「あなたがひどく疲れているのに、私はそれに気付かぬふりをしていました。
あなたが自分のことは二の次にして私のことを気遣ってくれるのを当然のことだと思っていました。許して下さい」
王子は驚いてキャロルの言葉を聞いていた。
(何を言っているのだ、姫は。詫びている?この私に?倒れたのは私の勝手なのに、詫びている?泣いている?
ああ・・・まさか・・・ひょっとして私を心配してくれている・・・?)
「あなたが忙しくて・・・何か心に掛かることがあるらしいのは分かっていたの。でも私は・・・あなたが私にしたことを許さないように意地を張って、罰しようと思って、心配して労ることをしなかったの。
何がここまであなたを消耗させたのか知ろうともしなかったの。
・・・許して・・・下さい。そして・・・そして・・・早く・・・早く」
「姫・・・?そなたは・・・私にそう言ってくれるのか?ああ、聞かせてくれ、そなたの言葉を。優しい言葉を!」
「・・・早く良くなって下さい。お願い・・・お願い・・・」

王子は痛み止めで気怠い体を物ともせず、キャロルを抱きしめた。あの冬の終わりの日々、手袋をはめてやった娘が今、自分の腕の中に身を任せ、泣いている。
キャロルは抗いもせず、王子に抱きついて泣いた。

35
王子はしっかりとキャロルを抱きしめていた。薬のせいか思うように力が出ないのがもどかしかった。
キャロルは王子の胸に縋っている。小刻みに震える背中。王子の胸元が暖かく湿っていく。キャロルの涙。

キャロルは泣いていた。いつかのように、それは悲しみと絶望、怒りを吐き出し浄化するための涙ではなかった。
自分の心を縛めていた鎖を断ち切り、王子を・・・いつの間にか強く心引かれていた相手に素直に詫び、許しを請うことができたことに対する安堵と、自分の贖罪のための涙だった。
そして・・・そんな自分を抱きしめ、受け入れてくれる存在がこの世に存在することに対する尽きせぬ感謝。

王子は祈っていた。
これが秋風の見せた夢ではないようにと。キャロルが自分を気遣い、自分を傷つけたことを詫びる言葉を口にしたことが夢ではないようにと。
この暖かな身体が、染みわたる優しい心が、すり抜けて夢のように消え失せないようにと。
王子はそっとキャロルの顔を上向かせた。戦き、裁きの言葉を待っている娘の顔。
「・・・私にも今一度、許しを請わせてくれ、姫。
そなたの身体を、尊厳を踏みにじった傲慢な私の行いを。そして・・・少しでよいから信じてくれ。私は・・・そなたを愛している。そなたに幸せになって欲しい。知っていて欲しいのだ」
キャロルはじっと王子の瞳を見つめた。誠実な光が宿るその瞳。
気付くまでにあまりに多くの時間がかかった。傷つき、多くのものを失った。
自分の心をがんじがらめにして迷宮の奥に迷い込み、痛みと絶望に浸った。
でも。もう終わりだ。新しい一歩は歩み出されねばならない。

キャロルはこっくりと頷いた。
「はい・・・。私はあなたの心を受け入れます。・・・あなたを許します。そして私のことも許して下さい」

36
―あなたの心を受け入れます。あなたを許します―
待ち望んだ許しの言葉。罪に汚れ、耐えがたい良心の痛みに苛まれ、自分が滅茶苦茶に辱めた乙女が不幸に堕ちていく姿を常に目の当たりにしていなければならなかった日々。愛していたのに。
キャロルの心を望んで望んで、でも決して望みは叶えられることはないと思っていた永い日々。
許されるのか?許されたのか?再び・・・今度こそ心から愛を請う資格が得られたのか?

「本当に・・・?本当に姫、そう言ってくれるのか?心から言ってくれるのか?私を許してくれるのか?」
「はい・・・」
「では・・・ああ・・・そなたを愛していると言うことを、そなたの愛をもう一度最初から請うことを・・・許してくれるか?」
あまりに不器用な、あまりに真摯な、誠実な求愛。王子の不安が、幼子のような不安がキャロルの胸に伝わる。

(ああ・・・私は愛されている。私はこんなにも・・・愛されている・・・)
キャロルは戦いた。
(こんな私が・・・。ああ、恐ろしいわ。でも・・・幸せで・・・。こんなふうに思うのは不遜だと分かっているけれど、傲慢だって分かっているけれど・・・嬉しい・・・!)
キャロルはまっすぐ王子の瞳を見つめた。
「あなたが本当に・・・私なんかのことをそこまで思ってくださるなら・・・嬉しいことだと・・・思います。
人質なんかじゃなく、外見の珍しい外国人としてじゃなく、ただの私を・・・」
王子は恭しくキャロルの手に口づけた。
「そなたを・・・他の誰でもないそなた自身の心を、私は何よりも望む」

37
王子の療養は思いの外、長引くことになった。
キャロルは王子の看病に専念した。薬を飲ませ、細々とした雑用をこなし、王子が眠るときは寝入るまで、白い手を王子の痛む胃のあたりにそっと手を置く。その優しい暖かさに王子はこの上なく癒されるのだった。
キャロルは大っぴらに愛を語る性格ではないようだし、王子も何とはなしに遠慮して色めいたことは仕掛けなかったが、二人は静かな時間の中で睦まじかった。
ムーラはひっそりと遠慮がちに寄り添うような二人の姿に涙を拭うのだった。
彼女だけは・・・王子とキャロルが実質を伴わない「白い夫婦」だということを見抜いていたのだ。

療養の徒然に王子はキャロルに政治向きの話をしてやるようになっていた。病床でも政務は少しずつこなさなければならないのだ。
エジプトのことを話してやったとき、キャロルの顔が憂わしげに歪んだのを王子は見逃さなかった。キャロルが心を開いてくれた日以来、思い出しもしなかった疑惑がにわかに蘇った。
「・・・心配か?恋しいか?逢いたいか?」
「え?」
「・・・メンフィスに・・・逢いたいか?私などより・・・」
王子の琥珀の瞳は冷たい冥い炎を宿し、キャロルはその恐ろしい光に怯えた。
「何を言っているの?メンフィスって・・・?」
キャロルにとってメンフィスは恐ろしい暴君。思い出したくもない恐ろしい相手。
「そなたはメンフィスを・・・!」
そこまで言って王子は口を噤んだ。自分らしくもない嫉妬に我ながら驚いたのだ。目の前で怯え緊張するキャロルの姿も王子の自己嫌悪を誘った。
「すまぬ・・・。今のことは忘れてくれ。つい・・・」

38
「いやよ!どうして誤魔化すの?私が何故、メンフィスのことを恋しがらなきゃいけないの?私、何かあなたを怒らせるようなことした?」
キャロルも負けていなかった。王子が久しぶりに聞くキャロルの怒った声。
「どうしていきなりメンフィスが出てくるの?」
言い募るキャロル。
何となくは分かっていたのだ。王子はどうやら焼き餅を焼いているらしいと。戦で荒廃するであろうエジプトの国土と人々を思って心痛んだキャロル。でも王子はメンフィスを心配していると思っているらしいのだ。

「もう申すな。私が口を滑らせたのだ」
王子は言った。自分の嫉妬を相手が見透かしているらしいのが面はゆく不快だった。
自分はこの癇癪を起こして囀っている小鳥よりも遙かに年上なのだ。少女が初恋の相手を恋しがるくらい見逃してやるのが大人の男だ。
そして・・・馬鹿な感傷に浸るのを止めさせ、冷静に幸せの指針を与えてやり,初恋の男を忘れるくらい愛して幸せにしてやるのが・・・大人のやり方ではないか?
「そなたくらいの年頃なら、まだ恋物語を楽しみたいだろう。初恋の相手を恋しがるのは仕方ないな」

「馬鹿っ!」
いきり立ったキャロルは王子の差し伸べた手を乱暴に払った。
「私がメンフィスを恋しがるですって?あんな乱暴なだけの人を?どうしてメンフィスなんか相手に恋物語よ?勝手に話を作らないで。不愉快だわ!」
キャロルは涙を乱暴に拭った。
私はこの人を好きなのに。好きになったのに。肝心のこの人は私が・・・私がこんなに好きなのを気付いていてもくれない!
「王子は賢いわ。大人だわよ、確かに。でも馬鹿よ!」
キャロルはそう言うと呆然としている王子を置いて垂れ幕の仕切の向こうに行ってしまった。

39
(姫は本気で怒っている)
王子はまたしくしくと痛み出した胃を宥めるように手を腹部に置いた。
ここしばらく優しくしおらしいキャロルしか見ていなかったのに。
(私が嫉妬したからか?メンフィスのことなど素知らぬふうをしていればよかったのか?)
その思考はすぐにうち消される。
(いいや違う。姫は言ったではないか。私が・・・姫はメンフィスを恋しがっていると決めつけたから怒っているのだと。あんなに顔を真っ赤にして怒って。癇癪を起こして私に乱暴な言葉を投げつけた。
・・・ということは・・・姫は・・・少なくとも姫は・・・)
胃は痛むのに、顔には押さえきれない笑みが浮かぶ。
(メンフィスのことなど本当に何とも思っていないということか!そして・・・私のことを・・・好きということか・・・?!)

―王子は賢いわ。大人だわよ、確かに。でも馬鹿よ!―
久しぶりに聞いたキャロルの罵声。
「そうだな、癇癪持ちの子猫よ。私は確かに馬鹿だ。少なくともそなたに関してはな」
王子は痛みを堪えながら、声を殺して涙を流して笑い転げた。
その気配に驚いたのか。ふと王子が目を上げればキャロルが狂人でも見るような顔をして垂れ幕の後ろから顔を出していた。
「こちらへおいで、姫。確かに私は馬鹿だ。大馬鹿者だ。そなたの心が分からなかった。
さぁ、来てくれ、姫。馬鹿は死なねば治らぬ病とか。そなたは生涯、私の看病をせねばならぬぞ」
びくびくと近寄ってきたキャロルを素早く寝台に引きずり込み、王子は手慣れた調子で愛しい初な娘に接吻を贈った。

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「愛しくてたまらない・・・。大事な私の子猫。私の・・・妻」
王子は女の扱いに慣れた男の仕草と余裕でキャロルに触れた。今まで敢えて自分を押さえ、ままごとのような睦み合いで満足できていたのが不思議なくらいだ。
やはり、無理矢理のようにエジプトから奪ってきたキャロルに遠慮があったのだろうか?それとも年下の子供に男として大まじめに迫るなど倒錯じみていて気恥ずかしかった?
「王子ったら!何?どうしたの?私は・・・怒っているのよ?」
「知っている。私が見当違いの嫉妬をしたから。メンフィスのことなど持ち出したから」
イズミル王子は、深く結ばれた大人の男女がするような接吻を初めて受けて、頬を赤く染めたキャロルを愛おしげに見つめた。キャロルはすっかり王子のペースに呑み込まれている。
「そなたは・・・私のことを・・・愛してくれているのであろう?だからあんなに怒ったのだ。違うか?」

王子の心は、ことここに至ってもまだ恐れている。キャロルは自分を拒絶するのではないかと。キャロルに愛されていると思ったのは全て勘違いではないのかと。愛しすぎる相手。心は臆病に震える。
でも同時に。
初めて恋を知り、誰かを愛しく思うことができた心弾みが彼を大胆にする。つれない乙女であるならば振り向かせてみせようではないか!
青年は今まで子供扱いしていた小柄な娘を腕の中にしっかりと抱きしめた。今度こそ誰憚ることなく、この小さな子供を自分の腕の中で大人にしてやろう。

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