『 琥珀と水晶 』

21
夜明け前の冷たい風が王子の頬を撫でた。寝室は鎧戸で閉ざされ、夜通し火が焚かれ、冬の冷たさなど寄せ付けないはずなのに。
「姫っ!」
王子は反射的に飛び起きて、仕切の幕を払いのけ、キャロルの姿を探した。
キャロルは窓の外をぼんやりと眺めていた。鎧戸を少し開け、その隙間から外を覗いていた彼女は王子の剣幕に少し驚いたようだ。
「何をしているのだっ!」
王子は久しぶりにキャロルに荒々しい声をあげた。まさかまた死神が彼女を誘惑しに来たのだろうか?
キャロルは驚いたような声で答えた。
「何も・・・。ただ・・・夢を見て・・・呼ばれたような気がしたから、つい・・・」
「呼ばれた?」
「家族の夢を見ました。私を捜していたの。だからひょっとしてと思って。・・・でも・・・でも・・・ただの夢で窓を開けても誰もいなかったわ・・・」
心を押し殺して久しかったキャロルの瞳に初めて、激しい感情の光が宿った。
「誰もいなかったの!迎えに来てくれたかもと期待したのに!ただの夢だったの、誰もいなかったのよ!私は一人だわ、相変わらず、やっぱり一人だわ。
一人!ひとりぼっち!誰もいないの!誰もよ!
ああ、夢なんか見なきゃ良かったわ。そうすれば、目が覚めてがっかりすることもなかったんですもの!私だけ一人!この世で一人っきり!」
キャロルは息を吸い、身体を震わせると・・・大声を放って泣き出した。
王子は驚いて激しい感情の奔流に身を任せるキャロルを見つめた。こんなキャロルは初めてだった。今まで押さえに押さえてきたものが全て・・・解き放たれたのだろう。
王子は黙ってキャロルを抱き寄せた。抱きすくめられたキャロルは王子の胸を激しく叩きながら泣いた。譫言のように孤独の悲しみと絶望を口にしながら。王子の身勝手を責める言葉を口走りながら。帰りたい、還りたい、優しくしないでよ・・・と。
王子はただ優しく、でもしっかりと小柄な身体を抱きしめ、背中を撫でてやるだけだった。全てを受け止め、浄化してやろうとでもいうように。

22
激情の嵐はやがて去り、キャロルは王子の胸の中で時折、しゃくりあげるだけになった。
それでも王子はキャロルを慈しむように暖かく抱きしめ、軽く背中をたたいてやっていた。小さな子をあやすように。
(姫が・・・初めて心の内を吐き出してくれた。私を罵り、故郷へ帰りたいと・・・叶わぬ願いを繰り返し、泣いてくれた。・・・私の胸の中で)
王子の心は不思議な感動に満たされていた。彼の胸にひしひしと、今まで死んだようになっていたキャロルの心が蘇った兆しが伝わって来て、しんしんと喜びがこみ上げてきた。
愛しい娘が生涯、心閉ざし、己の不幸を凝視し、死を待ち望む人生を送るようなことがあってはならぬと、王子は本気で怯えていた。

(私のせいで姫の・・・人生を生きる甲斐なき空虚なものにしてしまう・・・!恐ろしい罪を・・・おお、どうかイシュタルよ、私に犯させたもうな!
我が身への罰はどのようなものも甘んじて受けよう。だが姫は・・・姫は・・・幸せにしてやりたい。笑顔を・・・取り戻させたい)
ずっとキャロルを手元に留めておきたい、でもそれはキャロルを蹂躙し不幸に突き落とした自分には許されるはずもない、しかし譲れぬ願い・・・。
王子の心もまた、日毎夜毎に血を流し苦しんでいたのだ・・・。

不意に腕の中の暖かさが離れて、王子は我に返った。
「取り乱してしまったわ。・・・もう大丈夫・・・。おやすみなさい」
キャロルはすすり上げ、乱暴に顔を擦ると、ちらと王子を窺った。
そこにあったのは泣き叫んだ後の子供がよく見せる、気まずさと恥ずかしさが混ざった反抗と甘えの表情。青水晶の瞳には涙とは別の光が宿っている。
王子は懐かしいその光を凝視した。
「・・・笑わないでっ!何がそんなに面白いの!」
泣きすぎて赤らんだ鼻、涙の筋の残る頬。愛らしい、愛しい、大事な娘・・・。
王子は唐突にキャロルの顔を両手で包み込むと、薔薇の唇に優しく接吻した。
・・・キャロルは驚いて王子を突き飛ばすと、自分の寝床に走っていった。

23
冬の日差しは弱々しい。でも確実にほのかな暖かさを以て万物を照らし出す。

あの夜以来、キャロルの心は少しずつ開いていった。とはいえ、それは外界の自然の美しさや、王子を除く周囲の人々の心遣い等に対してであったけれど。
彼女の心は再び、周囲を感じるだけの生気を取り戻しつつあったのだ。

ずっと書物を読んできたキャロルは、軽く伸びをすると窓際に歩み寄った。
窓の外に広がる薄青い空。大気は冷たく澄み、書見に倦んだ頭をすっきりさせてくれた。遠くに飛ぶ鳥。ちぎれ雲。
(月日の経つのは早いこと・・・。じき冬も終わるのね)
彼女が読んでいた書物は王子が贈ったり貸してくれたりしたものだった。それは存外面白くて、キャロルは王子の心遣いにごくあっさりと礼を言った。
「姫君、お茶はいかがでございますか?」
侍女が勧めに来てくれた。盆の上には美しい舶来の茶器、干し果物と木の実を使った甘い小菓子、この季節にどこから取り寄せたのか新鮮な果物。
「そちらは少し冷えますでしょう。肩掛けをお召し遊ばして」
別の侍女は、キャロルの贅沢な葡萄色の衣装によく映える白い肩掛けを持ってきてくれた。軽く暖かい極上の品。
「ありがとう」
憂わしげな微笑を浮かべて、手を差し出すキャロル。その指には瞳の色と同じ碧い宝石を填め込んだ指輪が輝く。
(贅沢に囲まれて慣らされて・・・私はここで年をとるのかしら?こんなままでは良くないわ。私が望んだのは・・・)
キャロルは贅沢に心地よく整えられた自分の居間を、美しく装った自分を困惑の眼差しで見た。
全ては王子の心遣い。よく訓練された召使いは王子の手足となってキャロルのちょっとした挙措、視線から彼女の好みや望みを読みとり、叶えていってくれる。全ては王子の償いと・・・愛情。
賢い王子は知っている。自分の心遣い全てがキャロルにとっては重荷、枷にしかならぬことを。でも・・・賢いと同時に愚かな若者は愛情の表し方を他に知らないのだ。

24
王子が妃キャロルのいる西宮殿に帰ってくるのはいつも夜更け過ぎであった。
キャロルは起きて待っていることもあったし、先に休むこともあった。
様々な政務が国王の共同統治者たる若者の肩にかかっていた。イズミル王子は殊更、多忙であろうとしているのかもしれない。
見飽きぬ愛しい妻は自分を厭うているのだから。顔をあまり合わせないのがキャロルの心には良いのだと自分に繰り返し言い聞かせていたのだから。

キャロルは黙って暖炉の火を見つめていた。
(今日も王子は遅い・・・。体は・・・大丈夫なのかしら?)
キャロルの心は少しずつ変化している。王子は憎かった。大嫌いだった。生涯、許してはならない汚らわしい呪わしい存在だった。
でも。だんだん、相手を憎み続けることにキャロルの心は倦んでいった。
自分でも何故かは分からなかった。物に釣られてほだされて、というわけではなかった。ただ・・・王子の心を無視するのが重荷になってきていた。

「お帰りなさい・・・」
冷たい夜更け、もどってきた王子を出迎えたのは侍女達に囲まれたキャロルだった。
「おお・・・!待っていてくれたのか。疲れているのではないか?無理に起きて待っていてくれることはないのに」
隠しきれない喜びに顔を綻ばせる王子に、キャロルの頬も我知らず薔薇色に染まった。
夜食を摂り、湯浴みを済ませた王子夫妻の許から侍女達は早々に去っていった。暖かい居間には二人きり。
「これを・・・。気に入ると良いが。トロイよりの献上品だ」
王子が差し出したのは美しい真珠の首飾り。
「綺麗・・・。でも・・・いただけないわ。だってこの間も色々、高価な贈り物を。私ばかり・・・贅沢すぎて申し訳ないの。困ってしまうわ」
本気で困惑しているキャロルの様子が王子を喜ばせ、またがっかりさせた。
「喜んでくれると思ったのだが」

25
心底がっかりしたような王子の声音がキャロルを驚かせ、自分の振る舞いを恥じ入らせた。
「ごめんなさい。あの・・・嫌ではないの。でも困ってしまう。だって贅沢すぎて・・・。色々な贈り物をしてもらっているでしょう?この部屋も・・・衣装も、装身具も、食べるものだって。
寒い思いしている人もいるし、毎日一生懸命働いている人もいる。それなのに私だけ何もしないでただ分不相応な贅沢な暮らし・・・。いけないと思うの」
王子は困ったように真珠の首飾りを見つめた。やはり自分のやり方はキャロルには重荷にしかならない。でも、ではどうすればいいのだ?どうすれば気が晴れる?
「しかし・・・分不相応とは?そなたはヒッタイトの王子妃だ。どのような贅沢も分不相応などということはない。我が母上も同じように暮らしておられる」
「王妃様は国王様の補佐や後宮の統括をしておいでよ。義務も責任も果たしておられる。
私はまだ・・・16でそんな若い娘がこんな贅沢なんて不遜な気がする。・・・ただここにいるだけ。何もしていない。・・・もちろん私は人質・・・ではあるけれど」
王子は心底困ったように意見を述べるキャロルの心根に不思議な感動を覚えた。そして考えるより先に口にした。
「では,この首飾りは贈るまい。でもこれは高価な品だ。うち捨てるにはあまりに惜しい。・・・どうだ?この首飾りの代価で貧しき者らに粥でも施してやるか?」
「本当?」
キャロルの顔がぱっと輝いた。
「嬉しいわ、そうしてくれる?お願いよ。それから私の倉庫のなかにある毛織り布ね、あれも配っていいと言って。私だけじゃ、使い切れないほど布があるのを知ってるわ」
どうして王子に否と言えよう?初めてのねだり事なのに。

26
慈悲深い王子妃。優しい姫君。貧しく身分低い者達にも暖かく心配ってくださる。少しも高ぶったところのない恥ずかしがりのお姫様。
市井の人々はこんなふうにキャロルを噂した。
冬の終わり頃、一番寒さが厳しい頃、貧しい人々に粥を振る舞い、暖かな布を配り、王妃の作った施薬院に気前の良い寄附をしたキャロルは一足早く訪れた春の精のようなものだった。

「王子・・・。あの・・・私の我が儘を聞いてくれて・・・あ、ありがとう。嬉しかったの、本当に」
キャロルは施薬院の手伝いであかぎれのできた荒れた指先をさりげなく隠しながら言った。
人々の暖かい声がキャロルには嬉しく、また自分だけが贅沢をしているという引け目からも少しは救われた。
「ふふ」
王子はつとめて嬉しさと喜びを押し隠しながら微笑した。この娘は少し怒っているくらいの方が元気があって良い、と思うようになっていた。
「そなたが礼を言ってくれるのは初めてだ。私としても・・・嬉しいな」
王子の頬は少年のように紅潮していた。そんな王子の顔を見るキャロルの心も不思議に波立って・・・。
でも照れ隠しのように口から出たのは小憎たらしい言葉。
「私がひどい礼儀知らずみたいな言い方。私、これでも約定を守ろうと努力しているわ」
実際、彼女の王子妃ぶりは見事だ。幼げな外見に似ず、如才なく振る舞う。
「ふふっ。努力は認めよう。だがそなたはやっぱり癇癪持ちの子猫だ。私だけだな、淑やかな王子妃の正体を知っているのは」

27
王子も軽口で応じた。
そう、ヒッタイトに来る途中の船上で幾度もキャロルをあしらい、怒らせたあの口調で。
キャロルの癪に触る、でも懐かしく愛おしい憎まれ口が一瞬、王子に自分の罪を忘れさせた。
「失礼ね!」
キャロルはむっとして言い返した。全くこの男は・・・!
その時、ムーラが夕食の支度が整ったと告げに来た。王子はごく自然にキャロルの腰に手を回すと、居間に誘った。キャロルも又、その手に抗おうとしなかった。

「姫君、お薬を・・・」
寝室の中からの声に驚いて、湯浴みを終えたばかりの王子は扉を開けた。
「薬?ムーラ、何の薬か?姫はどこか悪いのか?」
「いえ・・・王子。あのあかぎれのお薬でございます。姫君は最近、施薬院でのお手伝いをよく遊ばします。冷水を扱われることも多いのでお手が荒れて」
ムーラは怪訝そうに言った。睦まじい夫妻であるはずなのに、王子は妻のあかぎれのことを知らない・・・?
「ムーラ、ありがとう。薬は自分でつけるからもういいわ。・・・王子、大丈夫よ。ただのあかぎれですもの」
「ムーラ、下がれ。姫、手を見せよ」
王子が愛した手は痛々しく荒れて、乾いた血がひび割れにこびりついている。
醜い手を恥じて乱暴に引っ込めようとするキャロル。だが王子は許さなかった。黙って薬の入った貝殻を取り上げて、香料で良い香りをつけた油薬を擦り込んでやる。
「やだっ・・・!自分でできるから離して」
「いつからだ?」
「え?」
「いつからこのように・・・」
「お、怒ってるの?でも王子には関係ないわ」
「妻が手を荒らして施薬院での仕事に没頭している。私はそれを知らなかった。だから労ってもやれなかった。関係ないことはないっ!そなたは私の・・・大事な妻だ」
王子はむっつりと言った。

28
キャロルは真っ赤になってあかぎれの手を王子の大きな手の中に預けている。
(妻・・・。王子が私のことを妻・・・だって。人質でも、妃でもなく・・・妻・・・。きゃあ・・・)
年相応の娘らしいときめきを覚えるキャロル。
(だめよ。馬鹿ね。何を考えているの。この人は酷い人、恐ろしい人。私に何をしたか・・・まさか忘れたわけではないでしょう・・・?
私を騙して傷つけて・・・滅茶苦茶にしたのよ。心許してはだめ)
強いて自分に言い聞かせねばならないほどに・・・キャロルの心は変化していた。
(心許しては・・・いけないの。惨めな思いをするのはもうたくさん。
・・・ああ、でも、でも・・・この優しさは・・・)

「さぁ、これでよい。ああ、そうだ少し待っておれ」
王子は部屋を出ていき、間もなくビロードのように柔らかいなめし革でできた手袋を持って戻ってきた。それは武具を扱うときに籠手の下にする保護用の手袋だった。
「これを・・・」
王子は大きすぎる手袋をキャロルにはめてやった。
「これをして眠れば少しは治りも早かろう。まだあまり使っておらぬし。・・・少し大きいがな」
しなやかで暖かい手袋。まるで大きな袋のよう。不格好な大きな手袋。
でも、この上なく優しく荒れた手を包み込む。
まるでささくれて疲れ果てたキャロルの心を包む王子の心のように・・・。
キャロルはくすりと笑った。
「かなり大きいわね」
王子はどう答えていいやら分からない。この人にしてはとても珍しい。
「でもとても・・・暖かいわ。それに柔らかいし、ちくちくすることもない。
・・・・・・ありがとう、王子」
キャロルは少し涙ぐんでいた。今まで必死に自分の心に防壁を築き、王子の存在を拒否し、王子の心遣いを無視してきた。
でも今、キャロルと同じくらい、いいや、それ以上に傷つき苦しむ王子の孤独な心と、労りと贖罪に満ちた心が・・・初めて深く心に染み込んできた。
敢えてうち捨ててきた王子の深い愛情が・・・。
・・・初めてキャロルの心の防壁が崩れ、感じまい、気付くまいとしてきた事柄が一気に流れ込んできたのだった。

29
「姫っ?どうした?何故・・・泣く?」
王子は狼狽えて、静かに涙を流すキャロルに問うた。
(それほど触れられるのが嫌だったのか?私の持ち物を身につけさせたのは無神経だったか?)
キャロルは自分の頬に触れた。涙が・・・気付かぬうちに涙が流れている。
「私・・・泣いてる?おかしいわね。嬉しい・・・のに・・・」
「姫・・・?」
(嬉しい・・・と姫は言ったのか?拒絶の言葉ではなくて?)
王子の胸は高鳴った。初めて・・・初めて愛しい娘は暖かい言葉を返してくれた!
王子はキャロルに手ひどく拒否されるかもと恐れるいつもの心を忘れて、指先でそっと涙を拭ってやった。
・・・キャロルはされるままだ。拭っても拭っても流れる涙。暖かな涙。
「もう・・・泣くな。まるで私がそなたを虐めたようだ。使い古しの手袋を貸してやっただけではないか。首飾りは欲しがらなかったのに、こんな手袋くらいで・・・」
王子は照れ隠しでわざと淡々と、少し呆れたように言って見せた。
だが涙を堪えていたのはむしろ王子の方だった。
(姫が初めて・・・私の好意を受け取ってくれた。涙まで流して、嬉しいと言って・・・)
「さぁ・・・もう休め。疲れたであろう?早くあかぎれが治るといいな」
キャロルはこっくりと頷いて拒絶も敵意も哀しみも含まない、穏やかな深い声で言った。
「おやすみなさい。・・・手袋、ありがとう」

30
(何て忘れっぽいのだろう、私は。私の心は・・・)
寝台に横たわり、顔の上に手袋をはめた手を掲げたキャロルは小さく吐息をついた。
(王子の心遣い・・・。あれほどあの人に辛くあたって傷つけたのに、あの人はこんなにも優しくしてくれる。あの人を傷つけることで自分の痛みを紛らわせようとした、私みたいな片意地な頑なな人間に・・・)
醜いあかぎれに優しく念入りに薬を塗り込んでくれた大きな手。そっと手袋をはめてくれた暖かな手。
―そなたは私の大事な妻だ。
(本当にそう思ってくれるの?政略で娶った相手ではなく、無神経に弄び辱めた取るに足らない女ではなく、本当に妻として思ってくれるの?)
自分を見守る王子の視線、さりげない、でも細やかな心遣い。

(あの人は恐ろしかった。やめてって言ったのに・・・嫌だって言ったのに・・・無理矢理に・・・私を・・・)
思い出すたびに胸がきりきりと締め付けられるように痛み、冷や汗が吹きだし、身体が震える忌まわしい思い出。
キャロルはそれを思い出すたびに頭が真っ白になり倒れそうになった。
でも今は違う。今は・・・その後の王子の罪に戦き、キャロルへの贖罪に心砕く姿が次々に思い出された。不器用な、でもそれだからこそ一層、哀しみと反省に彩られた誠実さが際だつ行い・・・。

―私のために、私の側で生きてくれ。愛してくれなくてもいい。許してくれなくてもいい。そんなことはもとより求める資格はない。分かっている。でも愛しているのだ、そなたを幸せにしてやりたいのだ―
矛盾と苦渋に満ちた叫び。それは自死を選んだ折りの冥い意識の世界で繰り返し聞いた王子の声。
(夢ではなかったのだわ。あの声は。意識の無いとき・・・薄暗がりの世界で聞いた泣き声は・・・王子の声。
王子は・・・酷い人。残酷な人。でも・・・でも・・・汚らわしい罪を償って余りある愛があったのが・・・今の私には・・・分かる)

キャロルは手袋にそっと唇をつけた。そして静かな優しい吐息をつくと垂れ幕の向こう、王子の眠る方を向いて囁いた。
「おやすみなさい」

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