『 琥珀と水晶 』

11
その時。
「姫っ!何をしているっ!」
いきなり強い力がキャロルの肩を掴み、引きずるように後ろに引っ張った。
「きゃあっ・・・?!」
驚くキャロルの目の前にあの琥珀色の瞳があった。いつもの傲慢で自信溢れた色はなく、純粋な狼狽と・・・懼れに似た光が宿っている。
だがそれも一瞬。王子の琥珀の瞳は深紅の怒りの炎を湛え、乱暴に彼女を船室に引きずっていった。
(お・・・王子・・・?何?急に・・・?)
キャロルはモノのように寝台に投げ出された。王子がその細い肩を押さえつけ、のしかかるように顔を近づける。
「そなた、一体何のつもりだっ!あのような真似をして!私が止めなければ、どうなっていたか!」
何を怒っているのだろう?何を狼狽えているのだろう?何を驚いているのだろう?
(海を見ていただけなのに?・・・まさか・・・私が飛び込むとでも思った・・・?)
そう思ったキャロルの口元にはあるか無きかの・・・でも初めて王子に見せる微笑が刻まれていた。
「私は・・・海を見ていただけよ」
「・・・喰えぬ奴!」
王子は初めての微笑に不覚にも喜びを感じ、怒りも忘れ果て、早々に出ていった。その頬の赤さをキャロルが見ることはなかったけれど・・・。
キャロルは黙って衣装の乱れを整えた。

12
「王子・・・。あの、私はもう休みますからお引き取り下さいな」
いつにも増して王子の視線のきつさを感じた夕食も終わり、自分のための船室に引き取ったキャロルは、そこに当然のように居座る王子に苛立った声をあげた。
「だめだ」
王子は冷然と言った。
「そなたは一時たりとも目が離せぬ事が夕刻の出来事でよっく分かった。
そなたはもはや一人きりになることは叶わぬ。夜の監視は私がする。
・・・偉そうに逆らえる立場か、そなた。自分の為すべき事を弁えた賢き姫かと思ったが、入水をしようとしたではないか」
「あ、あれは・・・別にそんなつもりじゃ・・・。私はただ海を見ていただけよ」
キャロルは呆れたように言った。「夜の監視」とは!冗談ではない!
ところが王子は本気で、その上、ひどく怒っているようだった。
「そなたはエジプトの姫。我が国と、そなたが愛してやまぬ母女神の国の要としての役目を背負ってる。好むと好まざるにかかわらず、それはそなたに課せられた義務であり、責任だ。
命を自ら絶つことで逃れられるようなものではないことは、そなたが一番よく知っておろう?」
「・・・じ、自分の役目くらい分かっています。私は・・・人質ですもの」
「拗ねたような物言いをするでない。そなたは子供だ。何も分かっておらぬ」

王子は激しく言い募った。自分でもこれほど激昂するとは、と怪訝に思うほど今の王子は苛立ち、思うに任せぬ金髪の娘に腹を立てていた。
黄昏の光の中、白い身体を今にも濃紺の海の中に投じようとしている娘の姿を見たとき・・・彼は心の底から恐怖を感じた。
―この娘を失うわけにはいかない―
そして訳の分からない感情。
―死ぬほど私の側にいるのが嫌か―

気がつけば目の前の娘は涙ぐみ、それでも気丈に王子に言葉を返していた。
「私は自分の為すべきことくらい痛いほど分かっています。戦を止めて下さいとお願いしたときから!
私の命はすなわち、エジプトの人々の命と同じです。私が無責任なことをすれば、それは多くの人々の死に繋がります。軽率なことなどしませんし、できるはずもありません。
分かっています。それなのに、あなたは私をこれ以上、監視すると・・・」
「一度失った信頼を取り戻すのは難しい。一瞬たりとも一人にはせぬ。油断ならぬ姫よ」

13
王子は本気だった。
結局、キャロルの寝室で一夜を明かし、朝食も共にし、監視の兵士と入れ替わるように部屋を出ていった。
周囲の人々はキャロルが王子のモノになったと思いこんでいるらしい。キャロルは声を殺して悔し泣きをした。

「結局、今日は一日中、泣いていたのか」
夕刻、船室に戻ってきた王子は呆れたように言い、そっと金色の髪を撫でた。驚くほどに優しく暖かな手にキャロルは引き込まれそうになった。
(素直にしていてくれれば何とも愛らしい姫なのだがな。気むずかしくてすぐ爪を立てるから困ってしまう。
・・・明日にはヒッタイトだ。泣かせることなく上陸させたい。本当に・・・意地っ張りで何が幸せなのか考えてみようとしないのが困るのだ)
「さぁ、もう今日は休め。明日はいよいよヒッタイトに上陸する。船旅はさぞ疲れたであろう」
「明日・・・?!もうなの?
・・・じゃあ、王子。今日は余計に一人になりたいのです。私・・・」
「だめだ。そなたは目が離せぬゆえにな」
問答無用といったかんじで言い捨てると、王子は先に横になった。キャロルは怒りのあまり身震いするとあてつけのように固い床に横たわった。王子は困り切って吐息をついた。

ヒッタイトに到着したのは真昼の光目映い時刻だった。
美しく盛装したキャロルは王子に手を引かれ、国王夫妻に拝謁した。
落ち着き払って威厳と気品を漂わせて挨拶するキャロル。そこには王子を手こずらせた子猫はおらず、申し分のない異国の姫がいるのだった。
続いて国王夫妻と王子、キャロルは神殿に入り祝福を受けた。
意味の分からない古い言葉で延々と続けられる祈祷を、王子の傍らでキャロルは歌詞のない音楽のように聞き流していた。やがて神官が香炉を振り、王子とキャロルに祝福を与える仕草をした。キャロルは王子に目顔で促されるまま、頭を下げた。
神殿から出た一行を迎えたのは熱狂的な歓呼の声だった。
「な、何なの?」
気圧され、怯えを滲ませた声で囁くキャロルに王子は何でもないことのように教えてやった。
「私がそなたを娶ったから、皆が喜んでいるのだろうな」
「・・・!・・・・」
王子の手はあまりに力強く、キャロルは人形のように虚ろな表情でされるまま歩いていった。衝撃はキャロルから意志を全く奪ってしまったのだった。

14
夜。
キャロルは緊張しきった顔で寝台に座り込んでいた。
間の抜けたことに、彼女は自覚のないままに王子と婚礼をあげてしまったらしい。
祝賀の宴が催され、王子がぬけぬけと人前で彼女を新妻扱いしたこと、周囲の人々が
口々に異国から来た彼女に祝福の言葉をかけること、召使い達が逆上寸前の彼女を壊
れ物のように扱い、新床(!)に連れていったこと・・・全てがキャロルを打ちのめし、
この上ない怒りを感じさせた。
(誰が・・・王子の思いのままになるものですか!人を馬鹿にしたらどうなるか思い知ら
せてやるんだから!)
キャロルはそっと枕の下を探った。そこにあるのはエジプトからこっそり持ち込んだ守り刀。
小振りで地味なものだが実用性はある。
と、その時。
「待たせたか・・・?妃よ?」
王子は寝台に近づき、そっとキャロルの頬を撫でた。暖かな慈しみが直に伝わってくる気がして、
思わず気勢を削がれそうになるキャロル。
「今日は驚くことばかりであったろうな。もっとじっくり言い聞かせてやる時間があれば
よかったのに、そなたは意地を張ってそっぽを向いているし、私もつい意地になってな。
・・・悪いことをした」
王子の口調は優しく労りに満ちたものだった。驚き、戸惑い王子を見上げるしかないキャロルの
唇はいきなり王子に奪われた。
「さぁ・・・。これまでのことは水に流そう。我らは夫婦になったのだから」
「やめてっ!」
キャロルはのしかかってきた王子を思いきり突き飛ばそうとした。
「私、婚儀は挙げたけれどそれ以上のことはするつもりがありません!もう出ていって!
約束したじゃない?私のこと敬意を以て扱うって!捕虜じゃないんだから理不尽な扱いはしないって!
・・・私の嫌がることはしないって!私に触らないで!」
だが王子はびくともせずにキャロルに挑んでくる。
「もう意地を張るな。私はそなたを愛しいと思っている。そなたに幸せとは何かを教えてやるぞ・・・」
「いやあっ・・・!」
キャロルは隠し持っていた短剣でいきなり王子に切りつけた。咄嗟に身をかわす王子の腕を切り裂く
銀色の小さな刃。

15
「こやつ、何を・・・!」
王子は易々と短剣をもぎ取り、キャロルを寝台に押さえつけた。憎からず思っている娘―有り体に言えば彼は新鮮な魅力を持った小柄な金髪の少女に惚れている―がこんなかわいげのない真似を!
(私が嫌いか?そんなにも?・・・メンフィスが忘れられぬか)
王子の脳裏に粘土板に印象を押した時の風景が蘇る。見つめ合っていたファラオとキャロル。やはりあれは・・・。
「逆らうことは許さぬ!そなたは私の妃だ!ヒッタイトとエジプトを結ぶ要となるのだ!」
王子の力は圧倒的に強かった。
「いやっ、王子!いやあぁぁぁっ・・・!」

薄暗がりの中で・・・二つの影が揺れる。
激しい嵐が、しなやかな薔薇の若木に襲いかかる。薔薇は撓り、嵐に折り取られまいとするが・・・やがてその猛威の許に屈服する。
柔らかな身体の中に固く荒々しい炎が深々と刺さる・・・。

・・・・・・・・・・・・・・
どれほどの時がたったのか。
「そなたは・・・乙女であったのか・・・」
(何と姫は清らかであったのか!てっきりメンフィスのものになっていると思ったのに!)
キャロルは王子に背を向け、声を殺してむせび泣いている。
「許せよ・・・」
「いやっ!い・・・や・・・」
王子はそれでも弱々しく抗う白い身体を抱きしめた。愛しく思っていたキャロルが真実、乙女であったことの嬉しさと、自分の行為に対する嫌悪感がない交ぜになった複雑な心境。
「愛している・・・」
身勝手な王子の言葉は果たしてキャロルの耳に届いたのか・・・。

15
長い長い沈黙。
やがて王子は寝入ったらしかった。
キャロルはゆっくりゆっくり王子の腕の中から、熱く痛む身体を引き抜いた。
屈辱感。痛み。哀しみ。絶望。怒り。叫んで泣き喚きたい衝動。
寝台の下を探れば、あの短剣が手に触れた。
キャロルは裸身に夜衣を纏い直すとじっと銀色の刃を見つめた。刃は誘うように鈍い光を放った。
(私に残された道は・・・)
キャロルは水の入った鉢を置いた小卓に歩み寄った。跪いて手を浸ければ水は驚くほどに冷たい。
キャロルは迷うことなく左手首に刃を当て、一気に引いた。熱い痛みと共に夜目にも鮮やかな血潮が迸る。
そのまま水に傷を浸せば、血は渦巻いて水に溶け込んでいった。
(命が流れていく・・・)
キャロルは黙って長い睫毛を伏せた。
(これで・・・楽になる。何もかも終わる・・・)

16
ひどく体が重かった。呼吸がしにくくて訳の分からない焦燥と不安が心を苛む。
(悪い夢を見ているのだ・・・早く目を開けよう)
頭の中で鳴り響く警告の音。早く早く・・・。でも体は縛められたように動かない。
五官を必死に研ぎ澄ます。何かがおかしい。決定的な・・・致命的な・・・過ち。早く早く目覚めて・・・手を打たなければ。
ちりちりと肌を刺す不吉な予感。重苦しい空気はねっとりと血の匂いを帯びて・・・。
(血の匂い・・・?!)

高いところから一気に放り出されるような感覚と共に王子は目を開けた。
反射的に傍らに手をやる。そこはもぬけの空だ。
「姫っ・・・?!」
最悪の予感と、まだこれは夢の続きを見ているだけかも知れないという不思議な感覚を引きずって王子は薄暗い寝室に視線を巡らせた。
「あ・・・?!」
その視線の先にあったのは。寝台から飛び出した王子が見いだしたのは。

小卓に凭れて目を瞑る金髪の少女。片方の手を気持ちよさそうに水に浸けて。
透明であるはずの水は黒に近いほどの紅に染まっている。
その色合いとは対照的な白い腕・・・蒼白な顔・・・力無く顔を俯けている少女・・・。落ちているのは銀色の小刀。
「ひ・・・め・・・?」
恐る恐る手を引き上げてみれば未だ止まらぬ血潮が卓上に新たな模様を描き出す。冷たい冷たい手首から溢れる未だ暖かな血潮・・・。

(嘘だ・・・嘘だ・・・。これは何だ?これは誰だ?私の姫はどこに行った・・・?私の大事な姫は・・・?これは・・・?これは・・・?」
「姫・・・」
叫びだしたしのに口から漏れるのは囁くような声だった。
「さぁ・・・。巫山戯ていないで私を見よ。怒っているのか?無理矢理に・・・したから・・・?」
(私はそなたが愛しいのだ。そなたを愛しく思っているからあんなことをしたのだ。誰が政略だけで娶った女を抱くものか。
意地っ張りで怒るか泣くかばかりだったそなた。でもそなたは賢く聡い。知っていてくれると思って・・・)

血は流れるばかり。夢は終わらない。キャロルの血のほのかな暖かさが王子の体にも触れる。
(これは夢ではない・・・!)
王子の絶叫が寝室に響いた・・・。

17
婚儀を終えたばかりの花嫁は連日の疲れ故か、床に伏せってしまった。
侍医は軽い疲労だと拝診したが、王子は新婚の妃をこの上なく気遣って優しく看病している・・・。

ヒッタイトの王宮はこんな噂で持ちきりだった。噂好きな人々は、病弱なお妃では跡継ぎが心配であるとか、王子が花嫁を慈しみすぎたので子供のようなお妃が参ってしまったのだとか様々に面白がった。

王子は厳重な箝口令をひいて、キャロルが自害を図ったことをひた隠しにした。信用のおける侍女達がキャロルの側に詰め、侍医は一日中若い王子妃の側についていた。
王子は常と変わらぬよう政務に励んだが、一日の仕事が終わるとキャロルの病室に飛んできた。
だが王子を迎えるのはいつも人々の残念そうな顔だけだった。
「お妃様は今日もお気づきにはなられませんでした」

二人きりの夜更けの寝室。
王子はキャロルの白い頬を撫でながら、その浅く力無い呼気を窺った。
愛しいと思っていたのに。意地っ張りの子猫のような娘。からかうのが面白くて。つい意地の悪いことばかり言って。早くエジプトを忘れさせたいから、わざと辛辣なことを言った。ヒッタイトを・・・自分のいるヒッタイトを好きになってほしかったから。
ヒッタイトを?いいや、違う。好きになって欲しかったのは自分のこと。
初めて・・・誰かに愛して欲しいと思ったのに。
どう伝えていいか分からなかった。これまでは女の方から煩いほどに好意を寄せ、媚びてくれた。好きな女をどうしていいか分からなかった。
(気づいてくれ。目を開けてくれ。そなたの心を踏みにじった私を責めてくれ。罵ってくれ。嫌いでもいいから。せめて・・・私をもう一度見てくれ。そして・・・許しを請わせてくれ。愛しているのだと言わせてくれ。
許してくれなくてもいいから。愛してくれなくてもいいから)
王子は優しい手つきで包帯を巻かれた手首を持ち上げ、恭しく口づけた。
(神よ、どうか姫を生かせたまえ。これは私の傲慢に対する罰なのか?私が姫の身体を・・・心を・・・尊厳を踏みにじった罰なのか?
ならば・・・痛みも苦しみもこの姫の上にではなく我が上に。どうか姫を助けたまえ)

18
・・・誰かが泣いている。苦しそうに。哀しそうに。
・・・可哀想に。どうしたの?どこか痛いの?ねぇ、ねぇ・・・。
キャロルは遠くから聞こえる胸に突き刺さるような嘆きの声に語りかけた。

キャロルはぼんやりと目を開けた。焦点のはっきりしないぼやけた視界の中で誰かが嬉しそうに叫んだ。
「おお・・・!姫君が目を開けられた!誰か!王子にお知らせを!」
まぶしすぎる世界。嬉しそうに言葉を交わし、甲斐甲斐しくキャロルの世話を焼く人々。身体がひどく重い。
「わ・・・たし・・・は・・・」
「姫君、長いご不例だったのです。御静まりあそばして。じき王子も参られます。・・・ああ、本当にお気がつかれて良かった・・・」
王子の信頼厚いムーラが涙ぐんでキャロルの手を押し頂いた。
目に突き刺さるような白い包帯が巻かれた手首。
(私・・・死のうとして・・・生きている?どうして・・・?)
キャロルは、はっとして思わず起き上がろうとした。
(私・・・死のうとして失敗したんだわ!どうしよう、王子が・・・どんなに怒るかしら・・・?あの人は・・・私を許さないわ・・・!)
急に起き上がったところにもってきて気持ちが高ぶり、キャロルはひどい目眩に襲われた。吐き気を覚えるほどの不快。
だが、ぐんにゃりと倒れかけた身体は大きな手に支えられた。
「姫!しっかりいたせ。やっと気づいたばかりなのだ。無理をしてはならぬ」
目を上げれば、そこには暖かく輝く琥珀の瞳があった。イズミル王子。
声も出せず、ひきつる彼女の身体を王子は優しく寝台に横たえた。
「まぁ、姫君。王子がおいでになったので起き上がろうとなさったのですねぇ。意識がない間もずっと王子を恋しく思し召したのでしょう」
感に堪えないようにムーラが言い、居合わせた人々が口々に優しくキャロルを窘めた。
キャロルは薬湯を飲まされ、やがて王子と二人きりにされてしまった。

18.5
「姫・・・。そなたが気づいて・・・これほどの喜びはない。そなたが私の為したことを厭うて自害を図ってより・・・そなたのことが心配で心休まることがなかった」
王子は目を伏せるキャロルに優しく語りかけた。それは心からの誠意と優しさ、そして罪の意識に裏打ちされた言葉で、キャロルがいくら拒もうとしても彼女の心の深い場所まで染み通ってくるのだった。
「姫・・・。ずっとずっとそなたに詫びたいと思っていた。そなたを辱め、死を選ばせるほどに傷つけたことを。そなたを愛しているからと強引に事を成した私の傲慢さを・・・詫びたいと思っていた。
・・・許せよ・・・」
キャロルは思わず目を上げて、王子を見た。打ちのめされたその声。意識のない冥い世界で彼女に聞こえていた嘆きの声・・・?
だがキャロルの口からはただ冷たい声が出ただけだった。
「・・・人質の分を忘れて勝手なことをしたのは私の咎です。このことで両国の平和が損なわれなければいいのですけれど・・・」

19
冷たく固いキャロルの声。未だ弱々しい光しか宿さぬ蒼い瞳は、感情を押し殺した氷のような冷ややかさ。
キャロルの肩を抱こうとあげた手を、王子はぎゅっと握りしめ、自分の膝の上に置いた。

―分かっていたはずだ。分かっていたはずだ。こうなるのは。
神に祈ったではないか。姫が許してくれなくてもいい、罵るだけでも良い。
ただ・・・生きてくれ、と。ただ・・・目を開けてくれ、と。
愛してくれなくてもいいから。
そう、自分の愛に応えてくれなくてもいいから、と・・・。

「そなたに咎などあるはずもないものを」
王子の声は疲れ果て、嘆きと後悔に倦み疲れた様子がありありと漂っていた。
思わずキャロルがその琥珀の瞳を覗き込んだほどに。
「心配いたすな。そなたは私の無体に身をもって抗議したのだ。約定を破り、そなたを踏みにじった私にこそ咎はある。
今はただ・・・身体を治すことに専念いたせ。そなたは・・・生きていてくれねばならぬ」
王子は万感の思いを込めて言った。そしてなおも言葉を続けようとする。
そなたの嫌がることはなにもしない。ただ私のために、私の側で生きてくれ、と。
でも。
「人質だから・・・エジプトとヒッタイトの関係がもっと安定するまでは・・・生きていないといけませんものね。
もう大丈夫です。あなたが怒っていないので安心しました。私は義務を捨てたりしません」
返ってきたのは冷たい冷たい声音。キャロルの心に王子の想いは届かない。

20
健康を回復したキャロルは人々の前にも姿を見せるようになった。なにしろ彼女はイズミル王子の妃なのだから。
その細い左手首には幅広の金色の腕輪が輝いている。豪華な細工を施したそれは新婚の妃に対する王子の愛情の深さを表しているようで、皆が羨ましく見守っている。
王子はいつも側からキャロルを離さなかった。大切に大切に傅き守り、優しく見守り、そして最低限しか人々と交わらせなかった。
王子の寵厚いキャロルはいつも控えめに目を伏せて、王子に従っていた。
「理想のご夫婦よ」「まぶしいほどのご寵愛」「エジプトと我が国のこの上ない同盟の固め」
何も知らぬ人々は概ね好意的に噂した。でも彼らがキャロルの伏せられた目の奥を覗くことが叶ったなら・・・。
青く美しい瞳はいきいきとした光が宿ることはなく、諦めと哀しみと・・・深い静かな怒り―自分を翻弄する理不尽な運命に対する怒り、自分をこんな目に会わせながらなお大切に側を離さぬ王子への怒り―が沈殿する底知れぬ淀んだ淵があるだけなのだから。
王子だけが瞳の奥に隠されたキャロルの本当の心を知っている。

―決して私を愛しては呉れぬ姫を愛し求める我が心の苦しさよ・・・。イシュタルよ、これが私の傲慢への罰なのか。姫の癒えることなく血を流し続ける心の傷を見つめながら生きるのが私への罰なのか・・・―

王子は腫れ物に触るように、壊れ物に触るようにキャロルを気遣い大切にした。それをキャロルはどう思っているのだろう?
人々の手前、二人は一緒に寝室に入ったが決してキャロルに指を触れることなく・・・自分は部屋の隅に置かせた長椅子で一人眠るのだった。
キャロルと王子は二人きりの時、決して言葉を交わすことはなかった。
そして時だけが流れていく・・・・。

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