『 琥珀と水晶 』


薄暗く奥まった部屋で二人の男が契約の印象を粘土板に押そうとしていた。
それを固い表情で見守る1人の女。

神聖な契約板にはエジプトとヒッタイトの二つの国が婚姻を通じて友好と和平の条約を交わす旨が記されている。
エジプト王メンフィスはヒッタイトにナイルの女神の娘にして、エジプトの王女であるキャロルをヒッタイト王子に与える。
ヒッタイトは不慮の死を遂げたミタムン王女の賠償の一部として、ナイルの女神の娘を得る。
エジプトは非公式ながらも王女の死についての責任を認め、謝罪し、莫大な賠償金と人質キャロルを差し出す。

「これで戦は回避された」
イズミル王子は傍らに立ち尽くす金髪の娘に手を差し伸べた。
「参れ。そなたの望んだ通り、戦で無駄に人命が失われることはなくなった。
参れ、そなたはこたびの平和の要、我が国の重要な人質」

キャロルは一瞬、取り乱した視線を彷徨わせ、その端に固い表情のメンフィスを捕らえた。
メンフィスは言葉もなく、一方的に深く想いを寄せる娘に語りかける。
―行くな、こちらへ来い。お前を守ってやる。愛するお前をどこにもやりたくないのだ。
―どちらに行っても私の未来はない。私は20世紀に還りたいだけなのに。
絡み合う二つの視線。愛する女を求める男。雛鳥のように怯えきった女。

その視線の交わりに勝者たる男は何を見たのか。
「離れよ、ナイルの姫。そなたは今日より我がヒッタイトで生きるのだ」

そしてキャロルは力無く王子に牽かれていった・・・。


「ナイルの姫。何をしている?船室に入らぬか」
ヒッタイト王子イズミルはいつまでも消えたエジプトの岸辺を見つめる少女に苛立って声をかけた。
「もうエジプトは見えぬ。子供じみた意地を張るでない。冷えて身体を壊しては何とする」
「私は大丈夫です。放って置いてくださって結構ですから。・・・意地を張っているわけじゃありません。捕虜ですもの、あんな豪華な船室はいりません」
「ふ。そなたは捕虜ではないぞ」
王子の顔に面白そうな微笑が浮かんだ。可愛らしい顔立ちながら、一人前に顔を顰め、固い声で王子に応対する少女の子供っぽさが興味深かった。
「そなたは“人質”だ。人質と捕虜は違う。人質は捕虜に比べて格段の価値がある。そなたはこの上もない宝なのだ。何しろ、戦を回避し、我がヒッタイトに莫大なる富をもたらし・・・しかも不思議な力を持つ神の娘ですらある。
宝を気遣うこちらの心持ちも察して欲しいものだ。
・・・おっと・・・!」
王子は自分を大胆にも撲とうとした白い手をやすやすと捕まえると、女性好みに整えた船室に連れていった。
「さぁ、ここで頭を冷やすのだな。そなたが醜く抗えばエジプトの恥となるぞ」
「・・・私をあざ笑えばいいわ。私を蔑むがいいわ。私は・・・人質ならばそれらしく振る舞ってみせてあげるから。
でも・・・でも、どんなにあなたが私を見下しても・・・あなたは絶対に私を屈服させたりできないんだから!」
うっすらと涙に濡れた碧水晶の瞳は白熱する白い炎を宿し、王子の琥珀の瞳を射抜いた。
「頼もしいことだ」
傲然と王子は言い、振り向きもせず船室を出ていった。


(どうしてああいうことになったかな?)
王子は片頬に皮肉な微笑を刻みながらキャロルとのやりとりを思い出していた。
(全く綺麗な顔をしていながら気の強いかわいげのない性格だな。戦を止めてくれと泣いて縋ったのと同じ娘とは思えぬ)
「王子?どうされましたかな。姫君は・・・?」
「おお、将軍か。じゃじゃ馬・・・いや、姫は船室に下がらせた。高貴の女人が兵士の行き交う甲板に立ちっぱなしというのも外聞が悪い」
「ほう・・・?まぁ、年若い方です。色々に感慨も感傷もおありでしょう」
たたき上げの軍人にしては雅量もある将軍は、憔悴しきったキャロルの表情に同情しているらしかった。
将軍の何気ない一言が、しかし今のイズミルの神経に障った。

感慨と感傷。
この一言で不意にあの場面が蘇る。見つめ合うメンフィス王とキャロル。
あれは・・・愛し合った男女が別れを嘆いていたのではなかったのか?
不意に嫉妬の炎が王子の内に燃え上がった。初めて見たときから心憎からず興味ひかれていた娘。女であれば誰しも自分の好意を得ようと媚態を示すのに、あの娘は違う。小さいながらも鋭い爪を剥いて逆らった。
何故、怒り狂って逆らう?何故、自分の好意を得ようと汲々としない?
(それは・・・メンフィスの面影が忘れがたい・・・から・・・?)

「王子?いかがされました?」
「いや、何でもない。まぁ、あの甘やかされたじゃじゃ馬を躾けるのは良い暇つぶしになろうよ」
王子は感情を全く隠して自分の船室に戻っていった。
(あの王子が、姫君にはずいぶん興味がおありのようじゃ。さて珍しいこともあるものよ)


「王子。出ていって下さい。こんな夜更けに非常識です!」
恐ろしさに震える声で、でも涙を必死に堪えてキャロルは王子に言った。
「何をしにいらしたのです?」
その虚勢の張り方が何とも可愛らしく思えて王子は思わず微笑した。
その微笑がキャロルの怒りに油を注いだ。
「何が可笑しいの?」
「何をしに来たと思う?」
王子はわざと気の強い娘をからかってみたくなった。
「なっ・・・!」
「さて今は夜で、私は男でそなたは女だ。男女が夜にすること・・・と言えば、だ」
じりじりと後ろずさるキャロルを壁際に追いつめておいて、王子は素早くその薔薇の唇に接吻した。
ばっちーん!
凄まじい音がして、王子は焼けつくような頬を片手で押さえ呆然と目の前の娘の怒り狂って赤くなった顔を見おろした。
「ぶ、侮辱は許さないっ!私を何だと思っているのっ!私は人質かもしれないけど娼婦じゃないっ!
今度こんな真似をしたら・・・!」

「姫君?どうかなされたか?」
何も知らない警備の兵が外から声をかけた。
「な・・・な、何でもない・・・のです」
気丈にもキャロルは返事をして、なおも激しく王子を睨みすえた。
「慮外な真似をしたら兵士に突き出すから!」
囁くような涙声で王子に見当違いの威嚇の言葉をぶつける。
王子は撲たれた怒りも忘れ、この気の荒い子猫に急速に惹かれていった。
全くこんな面白い娘は初めてだ!
「悪かったな」
王子は素直に謝った。
「人質の姫君相手に冗談がすぎたようだ」


キャロルは眠れないまま、目の前の闇を見つめていた。
さっき、王子の頬を思い切り撲った右手がまだ痛む。
(いくら何でもあれはやりすぎだった・・・?)
キャロルは神経質に自分の唇を拭った。あんな強引で唐突なキスは初めてだった。屈辱感と怒りがまたこみ上げてくる。
(いいえ!王子はそれだけのことをしたのよ。あの恥知らずの馬鹿!
でも・・・。ここは私から折れるのがいいのじゃないかしら?
悔しいけれど私は人質。あんな真似をして王子を怒らせて・・・エジプトとのごたごたが起こってはいけない。王子は・・・怒るほどに表面は穏やかに見えるライアン兄さんみたいなタイプだわ。本気で怒って何をするか・・・?)
キャロルはまたこみ上げてきた涙を乱暴に拭うと、寝台に起き直った。
立ち上がり、そっと垂れ幕の向こう、王子の部屋の気配を窺う。
「何用か」
王子の声がした。キャロルは頭を昂然と上げて声に応えた。
「私・・・です。まだ起きているのなら・・・少しお話がしたいのです」


「どうした?」
王子はしどけなく寝台に横たわり、書類を見ていたらしい。あちこちに粘土板や巻いた皮が置いてある。
「忙しいのならまた明日・・・」
「よい。そろそろ終わりにしようかとおもっていた。で・・・何の用だ?」
キャロルは王子がそれ以上、何も言わずに黙っているのにいささか気勢を削がれた。夜更けの訪問にまた何か下らない冗談を言いかけられると身構えていたのだ。
「あの・・・あの・・・。
さっきはごめんなさい。あれは・・・その・・・少しやりすぎだったかも知れません」
笑いの僅かな影が琥珀の瞳に萌したのに気づき、キャロルは素早く言葉を足した。
「あんな無礼は初めてだったので力加減を忘れました。もう少し力を抜けば良かった。
あなたが元はと言えば悪いと思うけれど、撲ったのは良くありませんでした。
ひ、人質の身で無礼なってお怒りかも知れないと心配で・・・。これからはちゃんと自制します。だから、あなたもどうか・・・」
(つまりは撲ったのは悪いとは思わないが、力加減をせず撲ったのは悪かった・・・ということか。まぁ、この娘、自分がどれほどの怪力と思っているのか!)
王子は内心、大笑いだった。夜更けに、詫び方々夜這いにでも来たのかと思えば!
王子は緊張しきった小柄な娘にそっと手を差し伸べた。


びくっと身を震わせるキャロル。
「ふん・・・。まぁ詫びに来る謙虚さは良いことだ。心配いたすな。これしきでエジプトに戦を仕掛けられるわけがない。安心しろ」
キャロルはほっとしたように表情を和らげた。
「ありがとう。夜中にごめんなさい。私はこれで」
「まぁ、待て。せっかく来たのだ。夜長を共に愉しもうではないか」
途端にキャロルの目に怒りの炎が宿る。
だが、すんでのところでキャロルは自制した。王子の寝台の上に今回の「人質問題」の契約の粘土板があるのが目に入ったからだ。
キャロルは素早く、その粘土板を取り上げ、ざっと目を通した。
「姫、返さぬか。それは玩具ではない」
王子はさすがに少し狼狽えて言った。癇癪に任せて少女が粘土板を叩き割るのかと思ったのだ。
ところが。
キャロルは静かな声でこう言ったのだ。
「ええ。これは玩具じゃありません。・・・私があなたの玩具じゃないように,この大切な粘土板も玩具じゃありません」
「何ぃ」
生意気な娘は粘土板を差し出して、歌うように言った。
「これを見て。私は“ヒッタイト・エジプト両国の和平と友好の証”であり“約定が違えられぬ証としてヒッタイトに渡り、敬意を以て遇せられるべし”とあるわ。
分かる?敬意を以て、よ。娼婦のように扱ってもいいとは書いていないわ」
「・・・」
「いやらしい冗談でからかうのが敬意ある扱いとは思えないもの。名誉あるヒッタイトの王子様、約定はお守り下さいませ。どうか。」
王子はすっかり面白くなってしまった。
(この娘、どうしてなかなか頭の良い子供らしい。怒りをあっという間に自制して、素早く粘土板の長文の中から今の状況に最適な文言を見つけだし、反論するか。・・・面白い!)
王子は頭の回転の速さや、才気煥発といったことを評価した。だからこの娘の生意気な態度にもまず興味と・・・自分では気づかぬ好意を覚えた。
「ふふん。なるほど。舌も解れてきたな。だが姫、約定は絶対的な拘束力を持つものではない。」
「う・・・。条約は破るためにあるってこと?マキャベリストね」


素知らぬふうに王子は言葉を続ける。
「それに・・・しかるべき敬意を要求するならその敬意に相応しい女人となってほしいものだ。そなた、この夜更けに人に喧嘩をしにきたのか?」
キャロルは今度は赤くなった。
「あ・・・あなたが私を挑発するようなことばかりするから。私だってちゃんと振る舞えるわ。でもあなたが私の扱いを変えて下さらないなら、私も変われないわ」
王子はとうとう破顔一笑した。全くエジプト王は興味深い娘を手放したのだな!この娘がいなければ、さぞ退屈だろうに。
「ではどうしたらよいのだ、雲雀のように囀る娘よ。ここに書いて見よ」
王子は皮の切れ端と葦のペンを差し出した。こうすれば娘も引き下がると思ったのだ。
ところが案に反してキャロルはペンで流麗なヒエログリフを綴った。
(この娘、字も書けるのか!)
「・・・どうぞ。書けたわ」
王子はキャロルの手から皮を受け取り、簡潔に箇条書きにされた内容にまた驚いた。

曰く。
・人質はエジプトとヒッタイトの友好の要として相応の敬意を受けることを期待する。
・上記を要求すると同時に、人質はエジプトがヒッタイトに表する敬意を以て、ヒッタイト人に接することを約束する。両国の友好のために努力を惜しまぬ事を約束する。
・人質はヒッタイトについて様々な知識を得る機会を与えられることを期待する。
・人質は、捕虜ではない。故に理不尽・無体な振る舞いには断固抗議する。


「ふむ・・・。最後のこれは・・・つまり指一本触れるなということか」
王子は少し残念に思った。自分に与えられた「人質」で「エジプト王女」の格式を持つこの娘は当然、自分の物だと思っていたし、そうすることにまさか誰も否とはいうまいと思っていたのだから。
それが当の「人質」キャロルから否、の言葉が叩きつけられた。
「そ・・・そうです。人質は捕虜じゃないし、慰み者でもないのだから」
(では、どうすればいいのだ。高貴な娘が人質になる、つまりは私のものとなるということではないか?)
王子は内心、毒づいた。この娘を抱いてみたかったのだ。王子にとって、というかこういう状況にある当時の男性にとってのじゃじゃ馬馴らしとは、つまりそういうことなのだから。
「私は王子の側にいます。条約の保証者としてね。でもそれだけよ。そしてそこに書いたことを守るわ。
・・・だって、あなたは戦を止めてくださった恩人ですものね」
「ここに書いてあることは随分、そなたに有利だ。不公平ではないかな?」
「そうかしら?」
キャロルは心底、驚いたように言い、王子を仰天させたのだった。
「よいか、姫」
王子は寝台の上に起き直った。
「そなたは捕虜ではない。厳密に言えば人質でもない。そなたは両国の平和の証だ。平和の条約に対する最も大きな保証とは何か知っているか?」
「それは・・・」
いいかけてキャロルの顔が一瞬で蒼白となった。政略結婚・・・の文字が脳裏を駆けめぐる。
「王子、それはつまり・・・」
「婚姻による同盟の固めだ。そなたは私の妃となるのだ」
「嘘・・・っ!」
キャロルはへたへたと崩れ落ちた。抱き留める王子の腕の中でキャロルは一切の思考と意識を放棄し、心地よい混乱の闇へと堕ちていった・・・。


(最悪・・・!)
朝日の射し込む船室でキャロルは、王子の面白そうに笑う顔を見つめていた。
昨夜遅く、王子に政略結婚をほのめかされ、連日の疲れと緊張からかあっさり気絶、気がつけば王子の寝台に寝かされていた。
そして王子は当然のように隣に寝ていたらしい。「らしい」というのはキャロルが起きたときにはもう相手が起きていたからだ。
「目覚めたか。そのように怖い顔をするな。一夜の宿を借りたのに随分と礼儀知らずだな。全く急に倒れるから驚いたぞ」
「あ・・・あのっ・・・!」
「心配するな。子供相手に何かをするような倒錯した趣味はない。そのように勘ぐるのは無礼だぞ、姫」
王子はそういうとキャロルを軽々と寝台から抱き下ろし、その背を優しく押した。
「さぁ、向こうで着替えて参れ。それが済んだら朝食だ。あれだけ怒ったり気絶したりすればさぞ空腹であろう」

「ふーん・・・。もっと食べぬか」
二人きりの船室で王子はキャロルの皿に新しくパンや肉を盛りつけてやりながら言った。
「拗ねているのか?気恥ずかしいのか?全く!そなたとて高貴の生まれ育ち。私の妃になることは先刻、承知であったと思ったが」
キャロルは水で喉を潤すと一気に言った。
「あなたはそれでいいの?せ、政略結婚なんてあっさり言って。ろくに知りもしない好きでもない相手と一生、顔をつきあわせるのよ?私はそんなの嫌だわ!」
口調はいつの間にか普段通りのそれに戻り、キャロルは少し涙ぐんでいる。
王子は殊更、のんびりとした口調でからかうように言い返した。
「そなた位の年なら恋物語をまだ信じているのかな?政略結婚だぞ?個人的な感情などもとより入らぬ。それに好きでなければ、広い王宮内だ。顔を合わせず過ごすなど容易いな。
それに・・・。そなたは怒ったり泣いたりで忙しいようだが、私はそなたの人となりを観察する時間がずいぶんあったぞ。癇癪持ちの小さな娘よ」
「馬鹿にしてっ!」
キャロルは形ばかり黙礼するとさっさと出ていってしまった。

10
キャロルはぼんやりと夕暮れの海を見つめていた。
王子と言い争ってから幾日過ぎたのか。いくら話をしても軽くあしらわれるばかりなので、ここしばらくは彼女も大人しいものだった。
もう今日明日にはヒッタイトについてしまう。
弱まった日差しの元で海の色は深みを増し、泡立ちわき上がる白い波と美しい対比を見せていた。
(結婚・・・。そんなことになったら私は永遠に20世紀に還れないわ。一生をこの古代で・・・しかもひとりぼっちで過ごすなんて・・・!
そんなの嫌よ!私はこれからどうなるの?怖い・・・怖い・・・。戦を止められるならと王子に従ってしまったけれど、でも・・・あ、あんな傲慢で冷酷な人とけ、結婚なんて絶対に嫌っ!)
千差万別に変化する水面。繰り返される波の動き。引き込まれそうな美しさ。今だってまるでキャロルを誘うように波が盛り上がり、青い水が舞っているではないか?
キャロルは海の深い色合いに誘われるように船縁から手を伸ばした。
(逃げるわ!上陸したら逃げ出すわ。そして何としてもエジプトへ行って・・・アイシスに会って還る手だてを・・・)

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