『 記憶の恋人 』


91
キャロルは暑さと不規則な揺れで目を覚ました。
広く逞しい胸と腕に包まれるようにして、彼女は炎天下の砂漠を行く駱駝の上で揺られていた。
がっしりとした男の腕がキャロルの背中を支えている。
逞しく太い腕、広く厚みのある肩、温かく心地よい胸・・・
キャロルは思わず、瞳を喜びに輝かせ顔をあげた。
「メ・・・メンフィス・・・?」

しかし――彼女を見守るように見つめるのは、黒曜石ではなく深い慈しみの色を湛えた琥珀色の瞳であった。
「王子・・・」
キャロルの表情がみるみる内に、暗く曇っていくのが手に取るようにわかる。
王子は心の中で嘆きにも似た深いため息をつく。
「気分はどうか・・・?慣れぬ駱駝の上で疲れたであろう?」
「あの・・・ここは、どこ?」
キャロルは辺りを見回した。振り返れば砂漠の遥か彼方、砂塵の向こうに小さくエジプト王宮が見えた。
「わたし・・・帰ります!・・・王宮に・・・わたし・・・!」
突然に王子の腕を振りほどこうと、キャロルはもがき始めた。
「姫!大人しくいたせ・・・そなたは、もはやエジプト王宮には戻れぬ!」
「いやよ・・・わたしは帰るわ・・・!」
「馬鹿な!!メンフィス王亡き後、アイシス女王の政権下でそなたが生きてゆけると思うのか?
メンフィス王の後ろ盾なくして、そなたの居る場所など何処にもあろうはずもない!
私と一緒に参れ。命の保障はしてやる!」
『メンフィス王亡き後・・・』その言葉はキャロルの心に爪跡を立てて、痛烈な痛みをえぐり出す。
キャロルは泣きじゃくりながら王子に食って掛かり、体が横倒しになる程力任せに身を捩った。
例えメンフィスがいなくても、彼の面影や思いでがそこかしこに残るエジプト王宮から離れたくはなかった。
「いやよ!わたしは何処へも行かない・・・死ぬまでメンフィスの側に・・・エジプトに残るわ!放して!」

どんどん地平線の奥に遠ざかってゆくエジプト王宮の影。
その消えゆく影は青い瞳に溢れる涙に滲んで、陽炎のように儚く揺らめいた。
「いやあ―――!!」


92
渾身の力でもがいた瞬間、キャロルの華奢な体は王子の腕の間をすり抜けて砂漠の砂地へ落下した。
「姫!!」
王子は駱駝から飛び降り、キャロルの体を抱き起こす。
「おお・・・何と言う無茶をする!怪我はないか?!」
できうる限りの優しい仕草と声色で、王子はキャロルを案じ、髪や衣についた砂を払ってやる。
しかし、キャロルは強張った表情で頑なに叫ぶだけであった。
「放して!・・・どうしてわたしを放っておいてくれないの・・・!
あの時も・・・そうよ、あの時もそうだったわ!」
キャロルは王子の顔を見上げて、睨みつけた。
「メンフィスはすぐ側まで来ていたのに・・・炎の中でわたしを呼んでいたのに!!
どうして・・・あの時・・・私を放してくれなかったの・・・!」
そう言われて、王子は初めて、炎舞い立つ神殿の中でキャロルが必死に何を伝えようとしていたかを確信した。何故、救いを差し伸べる彼の腕の中で狂ったように暴れていたのかも、納得できた。
(そうか――やはり、メンフィス王もあの時すぐそこまで来ていたのだな・・・!)
またキャロルは激しく号泣を始めた。
――命を賭けて炎の中から救い出した愛しい娘は、何故に自分をを救ったのかと王子を責め立てる。
嫉妬でも、怒りでもない・・・言葉に表せぬ苦渋に満ちた感情が王子の胸をキリキリと締め上げる。
王子はやるせなさに耐え切れず目を瞑った。
何もかもをかなぐりすてて泣きわめき、四方八方を殴り蹴りまくるキャロルを、無理やり抱き上げで駱駝に跨った。
一体この華奢な体のどこにそんな力があるのかと、目を疑いたくなる程であった。
キャロルの体に回した腕に力を込めて、彼女の骨が軋む程きつく抱きしめる。
「大人しくいたせ!言う事を聞かぬなら、無理やりに黙らせる事もできるのだぞ!」
王子は凄みを効かせた厳しい瞳でキャロルを睨み、一喝した。
「苦しい・・・放して・・・」
息もできぬ程の拘束にあい、さすがにキャロルは大人しくなった。

しかし、彼女はそれでも背後を振り返っては縋るように見つめていた。
メンフィスと出会い、メンフィスに愛され、その腕の中で無上の時を過ごした楽園をいつまでも――


93
薄暗くなり始めた荒涼とした山地に、ヒッタイト軍は夜営のための天幕を張った。
王子は将軍や指揮官を召集し対エジプトへの戦略を詮議立てするものの、ヒッタイト本国からの伝令は未だに音沙汰無く、進退きわまって身動き取れぬ現況に王子は苛立ちを隠しきれずにいた。

疲れきった顔で天幕に戻って来た王子は、キャロルを見てまたもや眉間を寄せた。
「姫・・・何も食べておらぬではないか!」
キャロルの前に並べられた数々の皿に顔をそむけるように、彼女は座っていた。
どの皿も給仕されたままの状態であった。
王子は深く長いため息を漏らすと、キャロルの黄金の髪をくしゃっと優しく撫でた。
「・・・これから暫くは過酷な旅になるやも知れぬ。
しっかり食せねば、ただでさえか弱い、女のその身が持たぬぞ!」
「・・・・・・・・・」
「姫!」
どのような王子の気遣いに対しても無言の抵抗を見せるキャロルに業を煮やした王子は、キャロルの横にドカリと腰を降ろし、料理を手に取りキャロルの口許に運ぶ。
少々乱暴ではあったが無理やり固く閉ざされた唇に、肉料理を押し込んだ。
それでも尚、飲み込もうとしないキャロルの頑固さに王子は呆れ、水を自分の口に含ませると彼女の体を強引に引き寄せ、口移しで水を注ぎ込む。
「うっ・・・!!」
いつかの夜、エジプト王宮の庭園で交わした官能的な接吻とはまったく異なったが、それでも彼女の唇に直に触れて王子は嫌でも胸が熱くなるのを感じていた。
ゲホゲホとむせ返りながらもキャロルは料理を飲み下し、そして無言のままに王子を睨みつけた。


94
「強情だな。
しかし、力では決して私にかなわぬぞ。
さあ、どうする?自分で食事を取れぬなら、私が食べさせるまでだ」
口端に余裕の笑みを湛えながら、王子は料理の載った皿をキャロルの前にかざした。
キャロルは指先を細かに震えさせながらも、皿を受け取った。
ゆっくりと料理を口に運ぶ。
しかし、一口一口噛み締める度に彼女の伏せた瞳から涙が零れ落ちた。
肩を震わせながら、王子の腕から逃れる為だけに、砂を噛むように食するキャロルを王子は言葉なく見つめていた。
ただ、哀れだと・・・そう思った。

王子は複雑な想いでキャロルに思いを馳せる。
この手でメンフィス王を殺して、奪い去ろうと思っていた娘。
恋敵であるメンフィス王は彼が手を下すまでもなく非業の死を遂げたというのに、何故か王子は手放しで喜ぶ気になれなかった。
王子が欲しいと思ったのは、メンフィス王の腕の中で恥じらいながらも幸せそうな笑みを満面に浮かべて愛しい男を見上げるその姿だったのだ。
皮肉にも恋敵が去った瞬間に、キャロルからあの愛らしい笑顔は消え去ってしまった。
(・・・時が過ぎるのを待つのだ。
どれだけ深く愛しようと、いつまでも死人を思い続ける訳にもゆかぬぞ。
そなたには、泣いて縋れる胸が・・・存分に甘えて頼れる胸が必要なのだ!!」


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夜も更けた頃、王子は自分の天幕の寝台にキャロルを運び、寝かしつけようとした。
しかし、キャロルは寝台の隅に寄って震え上がり、恐ろしいものを見るような目で王子を見つめた。
「いやっ・・・何を・・・何をするの!来ないでっ!!」
王子はくすりと笑い、大きな手でキャロルの頬を撫で付けた。
「そなたを襲うとでも思っておるのか?・・・安心いたせ。
そなたをまだ一人で放っておく訳にゆかぬ故、添い伏して眠るだけだ。
決して、指一本たりともそなたに触れたりはせぬ・・・安心して眠るが良い」
キャロルは首を振った。
「いやよ・・・いや!」
しかし王子はそんなキャロルにお構いなしでさっさと寝台に体を滑り込ませ、キャロルに背を向けるようにして横たわった。
十分に広い寝台の中、王子はわざとキャロルから距離を取り、大きな体を端に寄せていた。
こういう時、幾らキャロルが嫌だと駄々をこねたところで、王子は決して聞いてはくれない。
彼がこうだと決めた事にはいくら逆らっても無駄なのだ。
キャロルは睡魔に勝てず根負けし、ついには寝台の片隅に体を小さく丸めて眠り始めた。

王子はキャロルの寝息に気づくと、そっと起き上がり、キャロルの顔を覗き込む。
また哀しい夢を見て泣いているのではないか、とずっと気がかりだったのだ。
しかし、思いのほか彼女は穏やかに眠り込んでいた。
王子は安らかな寝息を立てるキャロルの頬に、そっと唇を寄せた。
(ふふ・・・許せ。指一本たりと触れぬと申したに・・・愛しい姫よ。
これからは私がそなたを支えてやろう。
いつまでも悲しみの中に生きてはならぬ。そなたは男に愛され輝く娘なのだ・・・!)
寝具の中で柔らかく温かい体を手繰りよせ、腕の中に囲い込んで抱きしめた。
二人の体温は混じりあう。甘くほのかに漂うキャロルの髪や肌の匂い。
「おお・・・愛しい・・・」
王子は甘く切ない疼きを覚えながらも、愛しい娘を抱いて眠る喜びにただ胸を熱くするのだった・・・


96
キャロルを腕の中に抱き込むように眠っていた王子は、差し込む朝の光の眩しさにふと目を覚ました。
彼の逞しい腕に頭を載せ胸に頬を寄せるようにして眠る娘から、安らかな寝息が聞こえてくる。
王子はキャロルの顔に掛かる黄金の髪をそっと脇に退けて、そのあどけない寝顔に見入った。
少し開いた唇が、まるで接吻を待っているかのように錯覚させる。
キャロルを起さぬように、そっと顎に手をかけ上向かせると、王子は優しく唇を啄ばむように吸った。
(ああ・・・何と甘いのだ。)
つい自戒を破り、唇の奥へと舌を差し入れ、唇よりも更に柔らかく甘い舌に触れる。
キャロルに舌を絡ませているうちに、胸の中に萌え出でる男の欲望。
「んん・・・」
キャロルの小さなうめき声にハッと我に返り、王子は名残惜しそうに唇を離した。
体を起こし、身なりを整えると寝台から抜け出した。

それから間もなくして、キャロルも目覚めて寝台から身を起した。
キャロルは辺りを見回したが、寝台にも天幕の中にも王子の姿はない。
しかし、寝具に残る男の体の温もり。メンフィスとはまた異なる男の肌の匂い。
キャロルは深くうな垂れて目を瞑った。
何もなかったはずだが、男と床を共に一夜を過ごした事には変わりはない。
メンフィスに対する深い罪悪感がキャロルの胸をちくちくと苛んだ。
この先どうなるのだろう?
もし王子がキャロルを求めて来たら、どれ程抵抗しても彼に敵うはずなどない。
いや、腕力など使わなくても・・・初なキャロルを意のままに攻め落とす事など、彼がその気になりさえすれば他愛ない事なのかも知れない。
キャロルは以前に王子に抱きしめられ口づけされた時、絡め取られたように動けなくなってしまったのを思い出して思わず両の拳を握り締めた。
(メンフィス・・・わたしは・・これからどうすればいいの・・・?
これからどうなるのか・・・どこに連れて行かれるのかもわからない・・・!)


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キャロルの視線がふと、寝台の脇に置かれた王子の守り刀が目の端に止まった。
恐る恐る、鈍く光る銀色の短剣に手を伸ばす。
その切っ先を、キャロルは思いつめた瞳で見つめる。
(メンフィス、あなたに会いたい・・・あなたの声が聞きたい・・・あなたの許へ行きたい・・・!!)

しかし、キャロルが自分の胸に刃を当てようとしたその時、男の大きな手が彼女の手首を掴みあげた。
驚いてキャロルが振り向くと、王子が暗い瞳で睨みすえていた。
「いや・・・!放して!」
手首を更に強く握り締められて、短刀はキャロルの手から寝台の上に落ちた。
「愚かな事を!
そなたの命を救う為に・・・どれだけの命が失われたかを考えぬのか!?」
今のキャロルには辛辣すぎる言葉だと王子は思ったが、言わずにはいられなかった。
キャロルの瞳が揺れて、みるみるうちに涙が溢れる。
「数多の兵士がそなたを救う為に烈火に身を投じたのだぞ。
メンフィス王もだ。
そして、それはこの私も同じ。
そなたの為に命を投じた男達の死を無駄にしたいのか?」
キャロルは力なく首を横に振った。
王子は感情を抑えて、務めて穏やかな声で続けた。
「それでもなお死にたいと思うなら・・・その時はこの私に申せ。
苦しまぬよう、私の手で安らかに葬ってやろう・・・」


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驚いた表情で自分を見上げるキャロルを、王子は真摯な瞳で見つめ言い含めるように言葉を繋ぐ。
「しかし・・・そなた一人では逝かせぬ。
その時は、私も共に逝ってやろう。
一度はそなたにくれてやったこの命だ、今更惜しくは無い」
「・・・・・・・・・」
言葉を失って瞬きもせずに見詰める少女の痛々しい顔を、王子は抱き寄せて自分の胸に埋めた。
そっと包み込むように優しく抱く。
「・・・良いか、心に置いておくのだ。
私は己の命よりも、そなたが愛しい。
私の命をそなたに預ける!
もはやそなたの命はそなた一人のものではない。
そなたのその身の、その命の重さを忘れてはならぬ」

王子は優しくも厳しい口調で命じながら、キャロルの背を宥める様に撫で下ろす。
キャロルは王子の胸の中で堰を切ったように泣き出すと、もう止まらなくなっていた。
色々な事が一度にありすぎて、もうキャロルの心は限界に達していた。
どんなに辛くても、どんなに寂しくても、この胸にだけは縋ってはいけない、と心のどこかで自分の声がする。
なのに、自分に向けられる優しさは温かに肌を伝って流れ込み、凍てついた心を溶かし奥深くまで染み入るようであった・・・


99
王子の監視下に置かれたキャロルは、常に狭い天幕の中で彼と寝食を共にした。
キャロルの予想に反して、王子はキャロルに無体を仕掛けるような事は決してしなかった。
それどころか、キャロルが「女」で王子が「男」である事を必要以上に感じさせぬよう、常にキャロルを気遣っているのを彼女は感じていた。
メンフィスを失い消沈するキャロルを王子がどこまでも深く暖かい愛情で見守ってくれているのかを、キャロルは嫌と言う程わかっていたのだ。
王子に対する恐れは日ごとに減って行ったが、惜しみなく注がれる彼の愛情や優しさはキャロルをますます苦悩させる。
口にこそ出さなくとも、愛しさに満ちた琥珀の瞳は言葉以上にキャロルへの想いを伝えていた。
メンフィスでない男の、メンフィスにとっては恋敵であった男の、命すら惜しまぬ激しい愛。
しかしそれは、王子がキャロルを思いやれば思いやる程に彼女を追い詰めて行くのだ。

(いけない・・・王子に心を許しては・・・頼ってはいけない・・・どんなに優しくされても!
メンフィス・・・あなたが恋しい・・・死ぬ程寂しいわ。
わたしの為に死んでいった人達に祈りを捧げて、あなたへの思いを振り返るだけ・・・
何の為に生きているのかわからない・・・。死ぬことも叶わない・・・。
お願い・・・あなたに会いたい・・・会いたい・・・一目だけでも・・・メンフィス!!)
声を嗄らして泣き叫ぶ日々は過ぎ去っても、心は亡き人の影ばかりを慕い、更に深い悲しみの淵に沈んで行く。


100
夜もふけた頃、王子は将軍に呼ばれて天幕から出て行くと、キャロルは一人残された天幕の暗がりの中で声を殺してすすり泣いた。夜の暗さと静けさが一層に孤独感を増長させるのだ。
そんなキャロルの耳に、天幕の外を護衛する側近の兵士達の会話が布一枚を隔てて届いた。
「・・・・・しかし、王子はあの姫君を今後どうなされるおつもりだ?」
「何でも・・・王子は姫を御自分の妃にと望んでおられるらしい。
エジプトを攻落した暁には、晴れてご婚儀を挙げたいと思っていらっしゃるのだ」
「しかし・・・メンフィス王の妃に上がるはずであった姫であろう?そのような手つきの娘を・・・
それほどに王子はご執心なのか・・・あの姫に?」
「ふん、何と言っても未来を読むエジプト神の娘だぞ・・・!
それに、お前も見ただろう?あの黄金の髪と白い肌・・・男なら誰でも欲しくなろうが。
ファラオと王子が奪い合いをしたって噂も頷ける・・・王子は本気らしいぜ」

キャロルの手は細かに震えていた。
『王子は姫を自分の妃に・・・』
逃れられぬ運命の鎖がキャロルを絡め取る。
メンフィスと愛し合い、現代を捨てて古代の歴史の中に生きる事を決意したキャロル。
歴史の傍観者でなければならないと常に自分を戒めていた彼女の存在こそが、メンフィスを夭逝させ、イズミルまでもを巻き込み歴史の流れを変動させる。
キャロルは改めて自分の為に命を落とした兵士や愛しいメンフィスの重みを感じていた。
息も出来ぬほどに、それは重たくキャロルにのしかかり胸を締めつける・・・

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