『 記憶の恋人 』


81
キャロルが目を開けると、そこには見慣れた自分の部屋の天井があった。
心配そうに覗き込むナフテラやキャロル付きの女官達の顔が並んでいた。
「メ・・・メンフィス・・・」
キャロルはヒリヒリと焼け付くように痛む喉で、彼の名を呼んだ。
しかし、そこには彼の華やかな顔は無かった。

ナフテラの温厚な目に涙が浮かんで、それは目尻を伝って流れ、キャロルの肩へと落ちた。
「ナフテラ・・・メンフィスは・・・?」
その問いには答えず、ナフテラはただ首を横に振った。
「キャロル様・・・、今は何も考えずにご養生下さいませ。
あなた様のお命は・・・メンフィス様とイズミル様が命がけでお救いになられたのです」
「メンフィスと・・・王子・・・が・・・・・・?」
そう言いながら、キャロルは再び眠りの底に落ちていった。
薬湯がもたらす深い眠りの中にあっても、キャロルの心はいわれのない不安で満ちていた。
炎の中に遠ざかって行ったメンフィスの声が、耳を離れない。

――キャロル!何故に私を呼ばぬ・・・返事をいたせ!――
――キャロル!今、助けてやるぞ!――

(メンフィス・・・メンフィス・・・何処にいるの・・・?)


82
王子はキャロルの容態が気がかりで、度々ナフテラに面会を申し出たがその度に丁重に断られた。
(姫・・・どうしているのであろう・・・?
そなたが気がかりで堪らぬ・・・どうしているのか・・・)

夜半遅くに、ルカが人目を忍び王子の部屋を訪れた。
「おお、ルカ・・・姫の容態はどうか」
「王子!そ、それが・・・何者かが姫を連れ去った様子でございます」
「なっ・・・」
険しい視線が無言のままにルカを問いただす。
「姫はまだお体の調子が戻られず、薬湯で眠らされ動けぬ状態だったそうです。
それが突然、寝室から姿を消されて・・・。
王宮内部の者の仕業かも知れませぬ。
この騒ぎの上、姫君まで失踪とあってエジプト王宮は混乱の渦中です」
ルカの報告を聞きながら王子は片手で口許を押さえて、方々に思考を巡らせていた。

しかし突如、何かを思い立ったように立ち上がると、剣を手に取り腰に携えた。
「ルカ・・・!すぐに出かける。そなたも来い!」
「王子・・・?」
「姫を探しに行くぞ!心当たりがあるのだ」


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次にキャロルが目覚めた時、目の前は真っ暗だった。何も見えない。
ピチャン・・・ピチャン・・・という水音がやけに響いて聞こえる。
体の節々が痛んだ。固い床の上に身を投げ出すようにして眠っていたようだ。
まだ薬湯の成分が抜けきらぬのか、頭はボーっと霞むようで、手を握ろうとしても力が入らない。
「・・・ここはどこなの?」
キャロルはゆっくりと立ち上がって、闇の中で両手を前に伸ばした。
冷たい何かに指が触れた。キャロルは金属で出来た棒状のそれを両手で掴んだ。
頭上の遥か上にある明かり取りの窓に月がさしかかり、薄暗くあたりを照らした時、彼女は初めて自分の置かれている状況を把握した。

「鉄格子・・・!!ここは・・・牢なんだわ!」

キャロルは後ろを振り返り、ぐるりと周囲を見回した。
青黒いほのかな光を頼りに目を凝らして見れば、そこにはかつて罪人に使われたのであろう・・・足枷や鎖が雑然と転がっていた。
湿って澱んだ重たい空気。天井に染み入って落ちる地下水が、床を濡らしている。
明らかに水の染みではない、禍々しい色の不気味な染みが床の至る所に残っていた。
背後から忍び寄る闇の冷たさが、背筋にゾクゾクと悪寒を走らせる。
「いや・・・ここから出して!・・・誰か・・・メンフィス・・・メンフィス!」
キャロルは鉄格子を掴み揺らしてみたが、それは虚しい金属質な音を立てるだけでビクともしない。
「ああ・・・メンフィス・・・今どこにいるの・・・?あなたに会いたい!!」

その時、キャロルの頭上でギギギ・・・という、扉が軋むような重い音が聞こえた。
それに続いて複数の人間の足音がこだまする。
足音が近づくにつれ、橙色の明かりが揺らめきながら室内に差し込む。

キャロルは格子の隙間から、松明を手にした人影を見つめた。


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「アイシス・・・」
アイシスは松明の明かりを片手にアリを従え、格子の外から悠然とキャロルを見下ろした。
整った美しい貌が、残酷な笑みに歪んだ。
「地下牢の寝心地はどうであった・・・?キャロルよ!」
「アイシス!・・・どういうつもりなの?
それより、メンフィスは?メンフィスはどこにいるの?何故、皆何も教えてくれないの?」

メンフィスの名を口にした瞬間、アイシスの黒い瞳は狂おしい程の憎悪に歪んだ。
音も立てずに歩み寄ると、格子の間から腕を差し伸ばし、アイシスの指がキャロルの細く白い首をゆっくりと締め上げた。

「お前の口がメンフィスの名を呼ぶのは・・・我慢がならぬ!」
「アイシス・・・」
「お前のせいで・・・お前のせいで・・・メンフィスは死んだ!」
アイシスの瞳に滔々と涙が溢れ、キャロルの目の前でそれは止まる事無く零れて流れた。
キャロルの瞳が大きく見開いた。
「お前は一人のうのうとイズミルに救われ命を拾った。
メンフィスの愛を受けながら、心の底でイズミルにも心奪われておったようなお前ごときの小娘の為に・・・エジプト王メンフィスは死んだのじゃ!炎に焼かれ・・・苦しんで!!
お前さえ現れなければメンフィスは雄々しい王として名を轟かせたであろうに・・・」

渾身の力を込めるアイシスの指は震え、キャロルの喉に喰い込んだ。
「お前は罪深い・・・メンフィスを惑わせ狂わせた・・・!
お前のような罪人は生かしてはおけぬ。死んで罪を贖え!」
アイシスの言葉が何度も頭を叩き付けた。
『お前さえ現れなければメンフィスは・・・』
頭の中でそれは次第に大きな唸りとなり、無数に広がっていくようであった。
キャロルの意識は遠のいていく・・・。
体から魂が抜けて、奈落の底に落ちていくような不思議な感覚がキャロルを襲う。
今のキャロルにとって、命が流れる浮遊感は恐怖ではなく、むしろ苦しみから解放する唯一の救いのようにさえ思われた。


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「アイシス女王!そこまでだ」
強く低く響くその声に、キャロルはハッと意識を取り戻した。
いつも何か危機あらば、その声の主に救われているような気がする。

アイシスはキャロルから手を放し、忌々しそうに唇を噛んだ。
「イズミル・・・どうしてここへ?」
地下牢の階段に王子とルカが剣を差し向けて立っていた。
王子は機敏な動作でアイシスに近寄り、その滑らかで美しい喉許を羽交い絞めにし剣をかざした。
「動くな・・・!その美しい顔が飛ぶぞ」
「くっ・・・」

「アイシス様!」
アリが近寄ろうとするのをルカが制した。

「アイシス女王よ、悪行の極みもここまでだな。
苦しませず殺してやる代わりに、最期に教えよ。
我が妹・・・・ミタムンを殺害したのは・・・そなただな?」
「ちっ・・・知らぬ。ミタムンなど・・・私に関りない」
「ふん、どこまで白を切れるかな。これをこの地下牢で見つけたのだ・・・」
王子は懐から、ミタムンの遺品の首飾りを取り出した。
「もはや、言い逃れなどさせぬぞ!さあ、ミタムンに何があったのか話してもらおうか!」
「知らぬっ・・・!!」
「ほう・・・そうか」
王子は片頬に残酷な笑みを湛える。
そして、ゆっくりと剣を真横に引いた。
「ひっ・・・」
アイシスの胸元に鮮血がポタポタと滴った。
「あ・・・ああ・・・あれは・・・あの女が悪いのじゃ!
小娘のくせに・・・メンフィスに相手にもされておらぬくせに・・・厚かましくも・・・私を出し抜こうと」
「おお・・・!やはり・・・アイシス、そなたが・・・!」
怒りを滾らせた王子がアイシスの喉を引裂こうとしたその時――
アリがルカを振り払い、松明を手に鉄格子に飛びついた。


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「待ちや!イズミル王子!これをよく見なされ!
この地下牢の床にはたっぷりと油が染みておる。
私のこの手が松明を放てばどうなるか・・・おわかりか!?
・・・アイシス様を放さねば、キャロルめがけて松明を投げつけますぞ!」

王子は怒りでわなわなと体が震えるのを抑える事ができなかった。
「おのれ・・・ミタムンも・・・ミタムンもそうして焼き殺したのか?!」
アリの顔に浮かぶ狡猾な笑みを、松明の明かりが下から照らしあげる。
「ふふふ・・・兄妹揃って焼死したくなければ、その手を放すのじゃ!
さあ、アイシス様をお放しせぬか!」
今にも松明を落とそうとするアリにを睨みつけながら、王子は仕方なくアイシスを壁に叩きつける様に解放した。
「ぐっ・・・!!」
アイシスは咳き込みながら鮮血の流れる喉許を押さえ、壁に寄りかかりイズミルを睨みつける。
「ほほ・・・形勢逆転じゃな、イズミル王子。
さあ、そなたも今宵からこの牢獄で過ごすのじゃ。
さぞかし嬉しいであろう?・・・あれほど恋焦がれたキャロルと仲睦まじく寄り添って眠れるのだからな!」

アイシスは王子とルカをキャロルと共に格子の中に閉じ込め、大きな錠を下ろした。
「アイシス様!今すぐ殺さねば!・・・生かしておいてはなりませぬ」
縋りついて進言するアリに、アイシスは首を振った。
「待つのじゃ、アリ。メンフィス亡き今も、キャロルはエジプト国民に絶大な支持を誇っておる。
キャロルにはイズミル王子と密通し、メンフィスを・・・エジプトを裏切った女として死んでもらう!
さあ・・・どの様な死に様を与えてやろうかの・・・?
ほほほ・・・・しばし、それを考えて愉しむのも悪くない」


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アイシスとアリが去った後、王子は力なくうな垂れるキャロルを揺すり起すように抱きしめた。
「おお・・・姫。危ない所であったな・・・どれほど心配した事か!」
しかし、彼女からは何の反応も返ってこなかった。
抵抗もしなければ、物も言わず、床に両手を付いたままの姿勢で青い目はぼんやりと遥か遠くを見つめていた。
「姫・・・どうしたのだ。何か申せ」
王子がキャロルの肩を揺さぶれば、ポツリポツリと唇から言葉が零れ落ちる。
「メンフィス・・・わたしが・・・わたしが死なせてしまった・・・」
「何を申す!」
「メンフィスはもう帰ってこないの・・・わたしのせいで・・・死んでしまったんだわ!!」
キャロルはしばらく空虚を見つめ無言でいたが、突然狂ったように激しく号泣し始めた。
地下牢の冷たく固い床に突っ伏して、体を震わせて嗚咽を漏らす。

王子は泣き伏せるキャロルを、ただ見守る事しかできなかった。
掛けてやる言葉さえ見つからず、激しくうち震えるその背に手を触れる事すらできずに・・・


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キャロルの号泣はかなりの長時間続いたが、やがて泣く事に疲れ果て、いつしかそれは穏やかな寝息に変わって行った。
王子は床に転がるように眠るキャロルを抱き上げると、自分の膝の中で横抱きにした。
痛々しい程に憔悴した顔に、まだ乾き切らぬ涙の跡が行く筋も残っていた。
王子はそれを優しく、キャロルを起さぬようにそっと指で拭った。
「お可哀そうに・・・」
ルカがキャロルの顔を覗き込んでしみじみと言った。
「うむ・・・時が心を癒すのを待たねばなるまいな。
今は誰が何を申したところで・・・姫の心には届くまい」
王子は明かり取りの窓を見上げた。
「あと数日で月が満ちる・・・ヒッタイトからの援軍はまだ来ぬか!?」
「はっ・・・伝令を出して確認を急がせておりますが返答がございません。理由はわかりませぬが・・・」
「どうなっておるのだ?!もうとっくに上陸してよい頃合いぞ!
・・・いずれにせよ、いつまでもこのような場所で愚図愚図としておれぬ。
アイシス女王の悪趣味にこれ以上付き合う暇はない。ルカ、これで錠前を開けよ」
王子は後ろに束ねた髪の間から、鉄製の短刀を取り出してルカに渡した。
ルカは慣れた手つきで難なく、錠前をこじ開ける。
王子は深く眠り込むキャロルを肩に担ぎ、格子戸をあけて慎重に周囲を見回しながら地下牢を抜け出した。

「ルカ・・・ひとまず我々はエジプト王宮を引き上げるぞ。
夜が空け切らぬうちに、王宮内に残っておるヒッタイト兵をすべて撤収させよ!
口惜しい・・・援軍あらば今すぐにでもアイシス女王共々攻め落としてやろうものを・・・!」
王宮にかかる黄金の月を仰ぐように振り返り、奥歯を噛み締めながら吐き捨てるように王子は言った。


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アイシスは王宮奥の神殿に篭り、ひとり無心に祈りを捧げていた。
美しく気高すぎる故に誰にも心を許せない孤独な彼女が、唯一全身全霊をあげて愛した弟――メンフィスを鎮魂する為に・・・。

天窓から差し込む神々しい一条の光に、両腕を高くかざして祈る彼女の瞳からとめどなく涙が溢れて流れ落ちた。
「おお・・・何故にキャロルをあれほどに愛したのです・・・・・!
メンフィス・・・そなたは、命さえもあの娘の前に差し出した・・・!
わたくしの放った炎が・・・何故にキャロルでなく・・・そなたを死なしめる事になってしまったのか!
わたくしが悪いのか・・・いいや、違う!キャロルさえいなければ、何もかもがうまく収まったはずじゃ。
おお・・・憎い!キャロルが憎い・・・!わたくしからメンフィスを・・・全てを奪ったキャロルが憎い・・・!!」

アイシスは足許から崩れるように、神殿の冷たく硬い床石の上に座り込んだ。
「おおお・・・メンフィス・・・メンフィス・・・そなたはわたくしを怨むのでしょうね・・・愚かなわたくしを・・・。
あの夜流れた星は・・・凶を示しておったのじゃ・・・そなたの命の翳りを・・・!
おお・・・気づきもせずに・・・そなたを愛するが故に・・・わたくしは・・・」

アイシスは美しくも勇猛果敢な誇り高き弟の非業の最期を思い返して、激しく泣き崩れた。

―――アイシスが駆けつけた時、すでに見る影もなく焼け落ちた神殿の跡には、多数の兵士達の焼死体だけが残されていた。
どの遺体も損傷が激しく、個人を特定できるものは何もない有様であった。
そして、メンフィスの・・・ファラオの象徴である黄金の王冠が焼け落ちた廃材の下、折り重なる遺体と共に転がっていた。
アイシスは廃墟の中に佇み、メンフィスの王冠を胸に抱きしめて言葉を失ったまま立ち尽くした。

アイシスが放った業火は、最愛の弟を死なしめた。
そして、生きて帰還したのは皮肉な事に、数名の兵士と、イズミル王子とキャロルだけであったのだ――


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あまりの無念さと絶望に声を殺し嗚咽を漏らすアイシスの許に、アリが息を切らし慌ただしく駆け寄った。
「アイシス様・・・アイシス様!」
涙に曇る黒曜石の瞳がアリを振り返る。
「イズミルがキャロルを連れて牢を破り逃亡しました・・・王宮内のヒッタイト兵も姿が見当たりませぬ!」
思いがけぬ報告に、アイシスは目尻に神経質な苛立ちを浮かべてアリを睨み付けた。
「何っ・・・!衛兵は何をしておったのじゃ!」
「ですから!生かしておいてはなりませぬと申し上げ・・・」
アリが言い終わらぬうちに、アイシスは怒りに任せてアリの頬を張り倒した。
「わたくしに口答えするか、アリ!
早う・・・一刻も早くあの二人を追え!
逃してはならぬ・・・!ナクト将軍に伝えて兵を挙げて追うのじゃ!」

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