『 記憶の恋人 』


71
エジプト宮殿の奥庭の池にキャロルはひとりただずんで、咲き誇る蓮の花を摘んでいた。
終日、胸に浮かぶのはメンフィスの事ばかり。

初めてメンフィスの寝所で彼の胸に抱かれて眠ったあの夜以来、キャロルの寝室は一度も使われていない。
キャロルの月の障りのせいで添い寝に終わる夜が続いていたが、メンフィスの愛撫は日を追うごとに激しさと熱さを増して、キャロルの体は自分でも驚く程に昂ぶるばかりであった。
しかし、愛しい相手を前に欲望を抑えねばならない切ない連夜も、もう終わりを告げようとしていた。
今宵にはキャロルの障りも去って、メンフィスを受け入れられる状態になる。

池の水に手を伸ばせば、火照った指先に冷やりと心地よかった。
揺れる水面に映る自分の顔にキャロルは驚いた――頬は艶かしく紅潮し、瞳はうっとりと潤んでいる。
それは、愛しい男を切に求める女の顔そのもので、どれ程に彼女自身もメンフィスを求めているのかを改めて知らしめさせた。
メンフィスの熱い肌を思い返すだけで、体に甘い疼きが走りキャロルは思わず目を瞑った。

「危ないぞ!・・・何をしておる、池に落ちるところではないか!」
突然に背後から体を抱き上げられ、キャロルは一瞬うろたえた。
しかし彼女を抱く逞しい腕、広い肩。顔を見上げなくても誰の胸にいるのか、すぐにわかる。
「メンフィス・・・?どうしたの、今日は接見続きで忙しいって・・・」
メンフィスは漆黒の瞳を意気揚々と輝かせながら、キャロルを見つめた。
「キャロル、私達の婚儀を挙げる神殿がやっと完成したぞ!
たった今、神殿工事の監督官が完工の報告を知らせに参った。
いち早くそなたに見せてやりたいものぞ」


72
「まぁ、本当?メンフィス!是非見てみたいわ・・・!」
「よし!では、そなた今から見に参るか?
私はまだ接見が控えておる故、終わり次第神殿へ向かう。そなたは先に行っておれ」
「ええ!わかったわ・・・向こうで待っているわ。早く来てねメンフィス!」
嬉しさの余り彼の腕に抱きついたキャロルに、思わずメンフィスの体は反応した。
柔らかな乳房が、逞しい腕を両脇から包み込む様に押し当てられたからだ。
メンフィスは突然に、キャロルの腰を抱き寄せてその耳元で囁いた。
「キャロル・・・そなた、まだ終わらぬのか?
今宵こそ、そなたが欲しい。もうこれ以上は待てぬ」
キャロルは一瞬、その言葉に戸惑いを見せたが、やがて彼の腕の中でゆっくりと頷いた。
そして、みるみる内にキャロルの体が戦いて震えだす。
「メンフィス・・・わたしを・・・わたしをあなたのものに・・・して」
恥じらいのあまり、か細く消え入りそうな声。
「おお・・・!キャロル・・・キャロル!・・・今宵だな!」
衣装を持ち上げんばかりに漲ってくる自身にメンフィスは片目を瞑りどうにか自制しようとするが、堪えきれずキャロルの頬から首筋にかけて唇を這わす。
今宵にやっと念願叶うかと思えば、気が遠くなる程に嬉しさと興奮が沸き起こる。
「メ・・メンフィスったら!」
「フン・・・もはや逃さぬ・・・ただではおかぬ!
神殿も完成した事ぞ、今宵そなたを抱けば・・・もう我が妃にしたようなものだ。
おお・・・接見などが控えておらねば今すぐにでも押し倒してやりたい!」
「もう・・・メンフィス!」
名残惜しそうに真っ赤に染まった頬から唇を離すと、キャロルと連れ立って奥庭を後にした。


73
長椅子の上にしなやかな肢体を横たえ寛ぐアイシス。
アリの差し出す飲み物を手に取りながら深いため息をつく。
「それにしても、イズミルめ・・・キャロルの事なれば、飛びついて来ると思うたに。
思い通りにゆかぬ男よ・・・いらいらする!」
「焦りは禁物でございますよ、アイシス様」

開放された室内に、外部の歓声が届いた。
「アイシス様・・・随分と外が賑わしゅうございますね?」
アリはアイシスの部屋から、外を眺めて大げさに驚いてみせる。
「おお・・・アイシス様!今しがた神殿が完工した模様にございます!!
神殿工事の監督官がメンフィス様に直々に報告に参ったようです・・・。外は浮かれたような騒ぎでございますよ」
「ふん・・・忌々しい。何がめでたいものか!」
アイシスはゆるやかにはためかせていた扇を一瞬止めて、アリを一瞥する。
「して・・・例の手筈は整っておるのか?アリ」
「はい。抜かりはございませぬ。」
「ふん・・・キャロルの為に建てられた神殿など、完成と同時に燃やしてくれる!
メンフィスはさぞ落胆するであろうが・・・。
キャロルとの婚儀に先立ち、神殿炎上などと不吉なこと極まりなし・・・!」

外の様子を伺っていたアリがまたアイシスを呼んだ。
「ア、アイシス様・・・!
これから、キャロルが神殿に向かうようでございますよ!」
「何・・・まことか?」
「はい、監督官達と連れ立って・・・メンフィス様は同行されぬご様子です」
「メンフィスは接見が控えておったはずじゃ!おお・・・という事は」
アリの瞳が狡猾そうに細められた。
「キャロルを葬る絶好の機会でございます・・・アイシス様!」
アイシスは椅子から立ち上がり、アリを頭上から見据える。
「・・・アリ、急げ!急ぎ神殿へ出向き・・・手筈通りに火を放つのじゃ!!
・・・面白い!婚儀を挙げるはずの場がキャロルの墓場になろうとは・・・さすがのメンフィスも思いも寄らぬじゃろうて!
ほほほ・・・キャロル共々焼き尽くせ!」


74
キャロルは監督官や数名の供と駱駝にゆられて、王宮から程なく離れたナイル河畔にそびえる神殿へと到着した。
強い陽射しのもと、見上げるばかりの雄大な白亜の神殿はナイルと空の青に映えて息を呑む程に素晴らしかった。
メンフィスがキャロルとの婚儀のために作らせた神々しいばかりの神殿に、キャロルは足を踏み入れる――

「まぁ・・・何て・・・何て素晴らしいの!」
キャロルの声が神殿に響いた。
「どうぞ、キャロル様。こちらのレリーフを是非ご覧頂きとうございます。
ああ、お足元にお気をつけて下さいませ・・・」
キャロルは誇らしげに神殿内部を案内する監督官に連れられて、神殿の奥深くへ進む。
「ああ・・・綺麗なレリーフ・・・建立当時はこんなに色鮮やかだったのね。
素晴らしいわ・・・ここで、メンフィスと婚儀を挙げるなんて・・・」
キャロルは今宵メンフィスと迎える初夜、そしてこの雄大な神殿で挙げられる婚儀を思い馳せ、胸が痛いほどの幸福感に包まれていた。

突然、監督官達は辺りを見回した。
「むっ・・・この異様な匂いは何ぞ・・・?」
キャロルも空気の流れに混じる異臭に気づいた。
「何かしら・・・油の匂いに混じって・・・何かが焦げる匂いだわ!」

見る見る間に、灰色の煙が神殿の奥に立ち込める。
「馬鹿な!何処から火の手が上がると言うのだ・・・?」
「だめだ・・・もう煙と火で囲まれている・・・!!」
「火の回りが早すぎる・・・おかしいぞ!」
口々に騒ぎ立てながら出口へ急ごうとするものの、まるで火に囲まれたように逃げ道を塞がれている。
「キャロル様――!」
供の者がキャロルを呼ぶ声が聞こえるが、煙が充満して手を伸ばした先さえも見えない。
「私はここよ・・・!みんな・・・どこにいるの?」
大声を上げようとするが、煙が喉を刺激してキャロルは激しく咳き込んだ。


75
エジプト王宮、接見の間。
「メンフィス様―――!!
大変です・・・一大事でございます・・・!!!」
近隣国の使者との接見中であるにも関わらず、大扉が突然に開かれた。
メンフィスは肩眉を上げて、息を切らせて飛び込んで来た兵士を苛立ちを含んだ目で睨んだ。
「接見中であるぞ・・・何事か?!」
「し、神殿が・・・神殿が炎上いたしまして・・・キャロル様が中に・・・!!」
メンフィスの顔色がサッと変わった。
「なに・・・?!」
一瞬、水を打ったように静まり返る室内。
しかし、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったメンフィスの怒声が静寂を破り響き渡る。
「馬ひけい―――っ!
神殿へ向かうぞ!ええい、急がぬか――っ!!」




王子は窓辺に腰掛けて静かに文に目を通していたが、メンフィスが半狂乱で馬を駆り立て、王宮を後にするのを目にして眉根を寄せた。
「何だ・・・随分と騒がしい」
不審に思い廊下に出た王子は、慌てふためいた様子で往来する女官の一人を呼びとめる。
「様子がおかしいぞ・・・何事かあったのか?」
「はっ・・・はい、それが・・・ナイルの姫の参拝された神殿が今、炎にまかれて・・・」
「な・・・何と・・・!」
王子は驚愕の余り、声を失った。


76
神殿から濛々と立ち上る黒煙がエジプトの青い空に舞い上がった。
数多の兵士がナイルから水を汲み上げ消火にあたるが、猛烈な勢いで燃え盛る炎にはまさに焼け石に水であった。
神殿のそびえるナイル河岸は、飛び交う怒声、水を運ぶ兵士達でごった返し、混乱の極みを呈していた。
待ちに待った祝福すべき神殿完工の日は、混沌とした悪夢の幕開けとなったのだ。


「おお、メンフィス様が来られたぞ!」
土煙を巻き起こし、白馬に跨ったメンフィスが神殿に到着すると、兵士達は各々一斉に声をあげた。
荒々しく手綱を引き馬を止め、メンフィスは馬上から怒鳴りつけた。
「キャロルは神殿の中かっ?!」
「はっ・・・指揮官と数名の供を連れられ・・・」
聞きおわらぬうちに、メンフィスは馬上から飛び降りるやいなや、側にあった貯水を頭から勢いよく被った。

「ま、まさか・・・メンフィス様!」
「おお・・・おとどまり下さいませ!!どうか・・・メンフィス様」
必死に制止しようとする家臣達を力任せに振り払い、メンフィスは剣を突きつけギラリと睨みつける。
「その腕を切り落とされたくなくば放せ!
この私に殺されたいか!!ええい、放せと言うに――!!」
周囲の者を力でなぎ倒すと、メンフィスは水に濡れたマントを翻し、突風のように火柱の上がる神殿の中に消えて行った。
「皆の者!何としてもメンフィス様とキャロル様をお助けしろ!」
兵士達も次々とメンフィスに続いた。


77
メンフィスに少し遅れて、王子の率いるヒッタイト軍精鋭の兵士達も神殿に到着した。
黒い煙を吐き出す神殿を目の前に、王子は唸り声を上げた。
この炎の中にキャロルがいるのかと思うと、体を引裂くような喪失感が駆け抜ける。
「おおお・・・姫、何としてもそなたを助けてやるぞ!」
王子は水を被り、衣装にたっぷりと水を含ませると、濡れた布を頭に巻いた。
「お、王子、ご乱心なされたか!
まさかこの火の中に飛び込まれるおつもりか・・・!」
将軍が王子の体に縋りついて止めるのを、勇ましい咆哮で振り切った。
「放せ!邪魔立ていたすと許さぬぞ!!」
年老いた将軍を地面に叩きつけるように押し倒しすと、炎をものともせず王子は神殿の中へとなだれ込んだ。
冷静沈着な王子の甚だ無軌道な行動にただ驚愕するばかりのヒッタイト兵士に、将軍は直ちに命じた。
「ヒッタイト兵よ、全力を挙げて王子をお助けせよ!
王子・・・おお・・・何と言うご無体を・・・!」

エジプト兵とヒッタイト兵がそれぞれの主君の為に、捨て身で救出に当たった。


78
キャロルは立ちこめる煙の中で動けずにいた。
(もう誰の声もしなくなったわ・・・みんなどこにいるのかも分からない・・・!
ああ・・・メンフィス・・・どうしたらいいの・・・どこにも逃げられない)

燃えさかる炎の音が、キャロルの恐怖心を煽り立てる。
もう煙が目と喉に染みて、目を開ける事も声を出す事も出来なくなっていた。
息苦しさと熱さで頭が朦朧とし始める。
それでも、彼女は一心に彼の名前を呼び続けていた。
(わたし・・・メンフィスと結ばれないまま死ぬの・・・?
いやよ、わたし・・・あなたと共に生きたい・・・!
あなたに・・・あなたに抱かれたい・・・!あなたの妻になりたい・・・!!)


「キャロル―――!」
遠くから聞き慣れた力強い声が、待ち望んでいた声が、キャロルを呼んだ。
愛しいメンフィスの声に、思わず涙が溢れそうになる。
(メンフィス!!)
「キャロル――!私だ・・・助けてやるぞ!何処にいる、返事をいたせ――!!」
(メンフィス・・・メンフィス!わたしはここよ・・・!)
キャロルは叫ぼうとしたが、煙を吸って咽返るだけに終わった。

そして、必死にメンフィスの姿を煙の中に探すキャロルの耳に、もう一人の男の声が。
「姫――!姫――!何処だ・・・そなたは何処ぞ!!」
キャロルは耳を疑った。
紛れもないイズミル王子の声。
(ど、どうして・・・王子がここに?)


79
――噴煙で男達の姿は全く見えない。
しかし、燃え盛る炎の轟音と混じりあう様に、煙の向こうから彼女を呼ぶ二人の男の声が確かに聞こえる。
「キャロル―――!何故に私を呼ばぬ・・・返事をいたせ!」
「姫――!おお・・・先が見えぬ・・・何処にいるのか声で知らせよ!」
(ああっ!わたしは・・・わたしはここよ!!)
「キャロル――!今、助けてやるぞ!」
「姫――!姫――!そなたは何処ぞ!」
キャロルは声のでないもどかしさに、拳で床を叩いた。何度も床を打ちつけた。
(お願い・・・気づいて!気づいて!!わたしは・・・わたしはここにいる!!)

そして――
立ち込める噴煙を掻き分けるようにして、キャロルの前に現れた一人の男の影。
男は煙の中にキャロルの姿を見付けると、大股で駆け寄った。
その大きな手、広く逞しい胸がキャロルの全身を愛しげに抱きしめる。

「おお・・・無事であったか!良かった・・・どれ程に心配した事か・・・!!」


80
(お・・・王子!!)

王子は、彼女の存在を今一度確かめるように、キャロルの体をしっかりと胸に抱いた。
濡れた衣装でキャロルを頭からすっぽり包みこむと、軽々と腕に抱き上げた。
「さあ、しっかりとそれで顔を覆って、私に掴まれ。
早く脱出せねば、そなたも私も生きて戻れぬぞ」

だが、王子の意に反してキャロルは腕の中で激しく暴れ、何かを叫ぼうとする。
(メンフィスが、メンフィスがそこまで来ているの!!)
キャロルは必死でそれを王子に伝えようとした。
しかし無情にも、腫れ上がった喉から漏れるかすかな声は、まわりの轟音にかき消されて届かない。
「何・・・?聞こえぬ。煙で喉をやられたな・・・無理に喋らぬ方がよいぞ。
姫、話は後だ。今は一刻の猶予も無い・・・行くぞ!」

キャロルは渾身の力を込めて、王子の胸や腕を叩いて狂ったかのように暴れ回る。
メンフィスの声はもはや遠くへ消え、聞こえなくなっていた。
(ああ!駄目よ、王子!・・・メンフィスがこの中にいるの・・・メンフィスが炎の中に!!
お願い・・・放して!私を放して!!)
王子には何故キャロルがここまで泣いて暴れるのか理解出来なかった。
何を言わんとしているのか、ゆっくりと聞いてやれる余裕も残されていない。
「姫、許せ・・・」
王子は拳を握ると、キャロルのみぞおちに当て身を食らわした。
力なく崩れ落ちる彼女の体を逞しい腕が抱きとめる。
薄れ行く意識の中でキャロルは、火炎の中に向かってメンフィスの名をそれでも叫び続けた。
(メンフィス・・・メンフィス・・・メンフィス!!)

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