『 記憶の恋人 』 51 酒の酔いが入ったメンフィスは、次第に大胆にキャロルに迫り触れてくる。 宴の席であるというのに、この上なく上機嫌なメンフィスは、人目も憚らずキャロルの喉元にまで唇を滑らせる。 キャロルの首すじに残る接吻の証に再び唇を当てて、吸いたてた。 (目ざといイズミルがこの印に気づかぬ訳はない。キャロルは私のものだと思い知るがよい!) 「メ・・・メンフィス、酔ってるんでしょ?!やめて・・・みんなが見てるわ・・・!ねぇ・・・!」 「うるさいぞ!ふん・・・誰も見ておらぬし、何も思いはせぬ! そなたが私の妃となる娘である事はみな知っておる!」 メンフィスの言うとおり周りの者も気を回し視線を外していた。 そして婚儀を間近に控えた二人の仲睦まじいこと・・・と、微笑ましく見守るだけであった。 「メンフィスったら・・・!!もう・・・もうっ・・・離して!」 恥ずかしさに耐えられなくなって、キャロルはメンフィスの体を押し離した。 これ以上続けられたら、おかしくなってしまいそうだった。 キャロルはのぼせてクラクラする頭を冷やそうと、席を立った。 外の外気を吸って、気持ちを少し落ち着けたかった。 王子は煮詰まった想いに胸を悩ませながら、人気のない庭園で夜風に当たっていた。 複雑な想いを胸に王子は夜空の三日月を見上げた。 (次に月満ちる頃には、ヒッタイトからの援軍が参る―― 姫・・・そなたを奪い決して離しはせぬ!!) 背後に足音を感じて、王子は振り返った。 そして足音の主は、彼をみて驚きと少し恐怖の入り混じった顔で息を呑んだ。 「お・・・王子・・・!!」 52 「姫・・・。そなたも宴の熱気にあてられたか?」 酒盃を片手に持ったまま、彼は気だるそうに彫像の台座に背をもたせかけて立っていた。 酒のせいか、琥珀の瞳はいつもよりも色濃く見え、誘惑を仕掛けるような危険なきらめきが宿っていた。 キャロルはそれに答えず、逃げるように踵を返した。 しかし、王子の手はすかさずキャロルの腕を捉える。 「待て・・・何故に逃げる?」 「やめて!は・・・離して・・・離して下さい!!」 腕を握った手に力を込めて、王子は彼女の体を自分の胸に引き寄せた。 愛しくてやまぬその華奢な体を、王子は息も止まらんばかりに強く抱きしめた。 「いやだ・・・と申せば何とする? 私がその気になれば、そなたに抗うことはできぬぞ」 「ど・・・どうしてこんな事を?とにかく離して下さい! やめて・・・こんなのメンフィスに見られたら・・・!!」 「ふ・・・メンフィス王が何だというのだ・・・!」 王子の瞳は真剣で、キャロルを抱く腕は熱かった。 キャロルは心底王子が恐ろしくなり、彼の胸に腕を突っ張って逃れようと抗ったが、強固な胸はびくともしない。 「おお・・・そなたが・・・そなたが欲しい・・・姫よ!」 「やめて・・・やめて!わたしはメンフィスの妃となる身です!メンフィスの・・・」 愛しい娘の唇が恋敵の名を何度も繰り返し呼ぶのが、堪らなく癪にさわった。 嫉妬の炎は怒りにも似て、キャロルを憎らしいとさえ思わせる。 王子は自分の唇で彼女を強引に覆った。 彼女の唇がこれ以上、メンフィスの名を呼ばさぬように。 53 柔らかな唇に触れた瞬間に、体中の血は沸点を越えた。 激しく心の内で求め続けたこの感触。今更に、どうして止める事ができようか。 胸に燻った想いのたけを注ぎ込むように荒々しく唇を押し当てる。 「ん・・・・・・っ!!」 せめてもの抵抗とばかりに唇を開こうとはしないキャロルの胸元の肌に王子はそっと触れた。 キャロルはビクッと体を痙攣させる。 「あっ・・・イヤ!」 小さく叫んだ隙に、王子の舌がキャロルの中に滑りこみ、キャロルの小さな舌先を捉えた。 王子は深い口づけを続けながら、敏感な首筋や頬のあたりをそっと指先で撫で上げるように愛撫する。 キャロルの呼吸は心とは裏腹に妖しく乱れはじめた。 強く抵抗していたはずの腕から力が抜けてゆく。 「姫・・・!! 神に誓おう・・・誰よりも・・・メンフィス王よりも・・・そなたを愛すると!」 (いやっ・・・メンフィス!助けて・・・!!) キャロルは胸の中で叫んだ。 メンフィス以外の男にこのような事をされるのは恐ろしかった。嫌だった。 なのに、心の中でどれほど大声をあげて助けを呼んでも、身動きできず声すらも出なかった。 王子の口づけはますます激しさを増して行く。 メンフィスとは違うやり方で、男の手はキャロルの髪を優しくまさぐり、うなじを撫でる。 次第にキャロルは逃れられぬ彼の胸の中で、体が蕩けるような甘い恍惚感を感じ始めていた。 背筋を強い痺れが走り、もはや思考さえもおぼつかない・・・ (メンフィス・・・メンフィス・・・) 54 見た目の穏やかさや冷静さからは予想もつかぬ程、王子の接吻は激しかった。 しかし力任せや勢いで迫るというものでもなく、彼はキャロルの抵抗を巧みに懐柔してしまう。 そして一旦、抵抗が解ければ、躊躇うことなく強引に奪おうとする。 メンフィスの激情とはまた異なる激しさがあるという事をキャロルは初めて知った。 ――どのくらいの時間、王子にそうされていたのかキャロルには、もうわからなくなっていた。 唇を塞がれた息苦しさと、官能を煽り立てるような接吻。 (いや・・・こんなの・・・メンフィス・・・メンフィス・・・助けて・・・!!) キャロルは渾身の悲鳴をあげ続けたが、それは彼女の心の中にだけ虚しく響いていた。 王子がやっと接吻を解き体を放した時、キャロルはもはや自力では立っていられない程ふらふらになっていた。素早く王子の腕が抱きとめる。 「おっと・・・足が立たぬか?・・・仕方が無い」 そして、あたかもキャロルが自分の恋人であるかのように我が胸に抱き寄せた。 息を乱して喘ぐキャロルの様子は清らかな色気が漂い、王子は堪らず頬に唇を押し付けた。 「やめてっ!・・・もう・・・お願い・・・お願いです・・・!!」 それだけを言うのが精一杯だった。 驚愕と混乱、そして王子に対する怒りと恐れが絡み合い、喉元に込み上げてくる。 言葉のかわりに青い瞳から涙が滔々と溢れ出して、頬を濡らした。 55 「姫・・・恐がらせたか?突然にこのような事をして」 キャロルは悔しさと怒りのあまりに震えた。 「ひどい・・・ひどいわ!・・・なんて人なの・・・!!」 涙がぽろぽろと零れ落ちる。 (涙する姿も・・・怒った顔さえも・・・おお、何と愛しいことぞ) キャロルの怒りをよそに、王子はキャロルへの愛しさを募らせる。 「ああ、姫・・・泣かせてしまったな・・・悪かった」 王子は優しくキャロルを抱き寄せて宥めようとしたが、今度ばかりはキャロルは激しく抵抗した。 キャロルの涙と抵抗は王子の中に眠る庇護欲と嗜虐性を同時に刺激した。 哀れに思う気持ちと狂おしい程の愛しさは、その涙を止めてやる為になら幾らでも優しくしてやろうと思わせる。 しかし嫉妬と苛立ちが、もっとキャロルを攻めて追い詰めろと彼を唆すのだ。 愛しい故に憎らしい娘を宥めながら、王子は耳元に囁く。 「姫・・・決して戯れに仕掛けた訳ではない。 私はそなたが真剣に欲しいのだ! ・・・もちろん、そなたがメンフィス王の何たるかは心得ておる!」 「やめて・・・聞きたくないわ!」 「それでもなお、そなたを愛している・・・愛しているのだ・・・!」 (やめて・・・もう、やめて!!) 王子の口から漏れる苦しげで偽りの無い告白が、キャロルの頭を衝撃で打ち付ける。 目の前で起きている現実は、もはや現実の色を失っていた。 キャロルは夢の中の出来事を客観しているような気分だった。 56 「キャロル――!どこにいる?!」 メンフィスの太い声が庭園に響き渡った。キャロルはハッと我に返る。 戻りの遅いキャロルに、苛立ち業を煮やしたメンフィスが自ら探しに来たのだ。 「キャロル!何をしておる・・・いつまで夜風に当たれば気が済むのか!」 王子は苦々しく舌打ちし声の方向を睨みつけた。 仕方なくキャロルを解放しようとした王子であったが、必死にもがき彼の腕からメンフィスの許へ逃れようとする彼女を見るうち、王子の心に火がついた。 キャロルを解放するどころか、更に引き寄せ抱きしめた。 (王子・・・?!) 逞しい太い腕が、キャロルの体を締め上げる。抵抗しようにも、体を捩る事さえできない。 メンフィスの声がどんどん近づいてくる。 「キャロル!そこにいるのか?」 強い突風が庭園を駆け抜けて、樹木の葉を煽り立てザワザワと鳴らした。 「キャロ・・・」 メンフィスは呼吸を呑んで、一瞬動きを止めた。 向き合う王子は胸に抱いたキャロルを愛しげに抱擁し、挑戦的な微笑を頬に浮かべメンフィスを見据える。 二人の男の猛々しい視線は一人の女を挟んで、激しくぶつかり合った。 時が止まったかのように男達は身動きひとつしない―― 風は止まり、庭園のはるか上空には黄金色の三日月が神々しく輝いていた。 王宮から時折漏れて流れる、煌びやかな音楽と人々の嬌声。それ以外に音は無い。 「貴様・・・」 メンフィスの怒りはすでに忍耐の限界を超えていた。 怒りに震える手で腰の剣の柄を握り――ゆっくりと刀身を抜いた。 57 「これはこれは、メンフィス王―― 今宵は姉君、アイシス女王の生誕の祝宴。 そのようなめでたい夜に剣を抜かれるとは・・・随分と物騒な事をなされる」 王子は皮肉な程に落ち着いた丁寧な物腰で言った。 しかしメンフィスはそれを物ともせずに、脅しをかけるように勢いづいて言い放った。 「その娘は私の妃にあがる娘、と最初に紹介申し上げたはず!! その手を放して戴こう!今すぐに!!」 抜かれた剣の先は、真っ直ぐに王子の心臓を指していた。 「ふふふ・・・ははは・・・!」 王子の高笑いが夜空に響いた。 それはメンフィスの逆立った神経をわざとらしく逆撫でする。 「・・・・・失礼。 お噂どおりに勇猛なファラオであられることぞ」 王子は頬に挑発的な笑みを浮かべたまま言葉を続けた。 「・・・どうか、その剣をお納め頂きたい。 私は、姫君が気分の優れぬ様子であった故、介抱して差し上げたのだ。 先ほどはお一人では歩けぬほどであったのですぞ」 悪びれぬ態度に、メンフィスの黒い瞳がカッと見開いた。 「何い・・・」 穏やかな微笑を湛えて、王子はキャロルの顔を覗き込んだ。優しげに愛しげに・・・ 「さぁ、姫。気分はどうか・・・随分と顔色は良くなられたようだが? ・・・もう、ご自分で歩けるかな?」 「・・・は、はい・・・」 体を拘束していた腕をほどかれた瞬間、キャロルは思わずそう答えていた。 心ならずも王子の詭弁に同調するような形になってしまった。 どのような形であれ王子と接吻を交わしてしまった後ろめたさがそう言わせたのかも知れないが、キャロルは心の中で自分を激しく非難し責めた。 58 「・・・礼には及びませぬぞ。メンフィス王」 片手でキャロルの手をとり、もう一方の手は彼女の腰に添えて、メンフィスに丁重に差し出す卒のない仕草がまたメンフィスの癇に障った。 あからさまに相手を挑発しておきながら、一分の隙も与えないやり方であった。 「ふん・・・なかなか弁が達者な事ぞ! しかし、英名な王子との誉れ高いそなたに愚劣な行いは似合いますまい。 今一度申し上げる・・・二度とこの娘に指一本たりとも触れて下さるな!」 「ふふ。随分ときついご執心だ。 夜も更けた・・・私はこれにて失礼させて頂く」 王子は素っ気無くそう言うと、二人に背を向けた。 メンフィスはただ王子の背中を激しく睨み吸えていた。 ・・・私の挑発を挑発で返したつもりか! 愚かな!キャロルはこの私の・・・エジプト王メンフィスの正妃に望まれた娘ぞ! 何を・・・一体何を考えておるのだ、あの男は・・・ それとも自分の立場も忘れる程にキャロルに執心だと言いたいのか!―― 先日の湯殿でキャロルを抱き上げたイズミルと、今しがたのキャロルを抱きしめるイズミルの姿が頭に重なって浮かんだ。怒りのあまり眩暈がした。 キャロルの体を自分の恋人にするように愛しげにまさぐる男の手。 柔らかな黄金の髪に、馴れ馴れしく顔を埋めて頬を寄せていたではないか!! 手にした剣を力任せに、メンフィスは地面に突き立てた。 「くっそう・・・!ただではおかぬ・・・! 国賓でなくば、その場で切り捨ててくれようものを!」 59 「メンフィス・・・怒らないで・・・お願い」 メンフィスは胸に縋りつくキャロルの腕を取り、彼の激昂を宥めようとする。 「そなた・・・大丈夫か?何もされなかったであろうな・・・?! あの男・・・そなたの気分の優れぬのを良い事に・・・!!」 キャロルは必死で頭を横に振った。 「もう大丈夫よ・・・。王子はただ、助けてくれただけよ・・・!」 メンフィスに嘘をつくのは胸を針で突かれるような切ない痛みを伴った。 それでも、エジプトのファラオであるメンフィスとヒッタイトの王子であるイズミルを対立させる訳にはいかない。 メンフィスは猛々しい瞳でキャロルを見据えた。 「キャロル、よく聞け。今後一切イズミルには近寄るでないぞ! これは命令ぞ!!良いな!」 言うなり、メンフィスはキャロルを押し倒さんばかりの勢いで唇を重ねてきた。 「・・・んっ・・・」 いつもキャロルを夢中にさせるメンフィスの熱い唇。 愛しいメンフィスの胸へ戻れた安心感でキャロルは涙が溢れそうになるのを必死で抑えた。 腕をメンフィスの体に回し、隆々とした筋肉に覆われたその背中を抱きしめる。 60 (メンフィス・・・メンフィス・・・ずっとあなたを呼んでいたのよ。 声もでなかった・・・それでも、心の中であなたの名前を叫んだわ! 体が動かなくって、どんなに恐かったか・・・ でも・・・・あなたは来てくれた!!) キャロルはメンフィスの澄んだ黒い瞳をじっと見つめた―― 恥じらいがちなキャロルにしては珍しい熱のこもった接吻の返しに、メンフィスはすっかり煽り立てられた。 「おお・・・愛いやつよ・・・どうしてくれよう」 激昂した後のまだ冷めやらぬ興奮と、キャロルへの欲望が入り混じり、メンフィスの体は今だかつて無い程に熱く滾った。 「きゃっ・・・!メ・・・メンフィス?!」 突然、メンフィスはキャロルの体を軽々と抱き上げると、肩に担いで大股で宮殿に向かって歩き始めた。 「メンフィス、ど・・・どこに行くの?」 メンフィスは肩越しに振り返った。 燃え上がる炎の宿る黒曜石の瞳が彼女を射抜いた。 「・・・私の寝室だ」 |