『 記憶の恋人 』 41 翌日、キャロルは目覚めても頭の芯に熱が残ったような気分だった。 怒りと嫉妬で熱くなった昨夜のメンフィスの抱擁のおかげで、すっかり寝不足になってしまった。 いつか本当にメンフィスに抱かれて彼の妃になるのだと思うと、幸せすぎて恐ろしくなる。 そして――湯船の中から自分を抱き上げたイズミル王子の感触もまだ妙に生々しく残っていた。 ・・・鍛え上げられた逞しい彼の胸の中には、罪の意識にも似た不思議なときめきがあった。 キャロルはそれを振り払うように、頭を振った。 (いけない!・・・王子の事なんて・・・) 気分をすっきりさせたくて、キャロルは外の空気を吸いに庭へ足を運んだ。 散歩がてらにのんびり歩いていると、突然フワフワとした何かを爪先に感じて、足許を見た。 キャロルの白い子猫が彼女のくるぶしに首をすりつけてゴロゴロと声をあげている。 「まぁ!こんなところにいたのね。 ちょっとはわたしに慣れたかしら?・・・こっちへいらっしゃい」 両手を伸ばして抱き上げようとした瞬間、突然に猫は暴れだしてキャロルの腕に爪を立てて引っ掻いた。 「きゃぁ!痛いっ・・・」 くすくすと押し殺した笑い声が後方から聞こえてくる。 キャロルが振り向くと、池の淵にイズミル王子がいた。 縁石に腰掛けて長い足を組み、こちらを見て笑っている。 「王子・・・」 彼は慣れた様子で猫に手を差し伸べると、難なく従わせ腕の中に収めてしまった―― 王子に対する気まずさも忘れて、キャロルの愛くるしい顔に思わず優しい笑みが広がる。 「この子ったら・・・本当にあなたによく懐いているわ! メンフィスがわたしにくれた猫なんですけど、誰にも懐かなくて。みんな引掻き傷が増えるばかりで・・・」 今度はキャロルがくすくすと笑った。 「メンフィスなんて、すぐ乱暴にするから噛み付かれてしまったのよ」 何がそんなに可笑しいのか、少女は鈴のような声をあげてころころと笑う。 王子も思わずつられて、頬を緩ませる。 つまらぬ事も、ささいな事も、この少女の周りでは全てが鮮やかに色づいて浮き立つように思えた。 42 「イズミル王子・・・。 古代の男の人って皆、狩をして勇猛さを競ってばかりなのに・・・あなたはむしろ小さな命を大切に扱っているように見えるわ」 「私は狩など好まぬ。命あるものを意味も無く殺生するのは好まぬ性質でな」 キャロルは驚きつつも深く感心した面持ちで王子を見つめた。そして微笑んだ。 一見冷たく見える王子の意外な一面を垣間見たような気がして嬉しくなったのだ。 キャロルは王子の腕の中で大人しくなった子猫の頭に手を伸ばし、恐る恐る撫でてみた。 「ふふ・・・そなたが恐れれば、これも落ち着かぬぞ。 大丈夫だ。噛み付いたりはせぬ」 王子は言いながら、キャロルの腕の中に猫をそっと渡した。 キャロルの腕の中で猫はおとなしく眠るように抱かれていた。 キャロルは猫の喉や背中を優しく撫でてさすってみた。 「そう・・・毛並みにそって撫でてやれば嫌がらぬ」 「いつもこんなにいい子だったらいいのに・・・」 猫を愛でるキャロルの様子を、目を細めて見つめていた王子は突然に切り出した。 「姫・・・昨日は、そなたに大変無礼な振る舞いをしたな」 「い、いいえ・・・そんな。お礼を申し上げなければならないのは私のほうです」 キャロルは驚いて顔をあげた。 あまり触れたくない話題を突然に切り出されて、心臓が音を立てて鼓動し始める。 しかし王子は落ち着いた様子で話を続けた。 「・・・メンフィス王は随分とお怒りだ。 今ここで、私とそなたがこのように話している事もお許しにならないのだろうな?」 「えっ・・・?」 そう言われて初めて気がついたが、いつの間にかキャロルは王子のすぐ隣に腰を降ろし、親密に話をしていた。 頬を紅潮させて困った表情を見せるキャロルを琥珀の瞳が見つめる。 その視線がキャロルの胸元に落ちた時、王子の頬は引き攣った。 首筋にひとつ赤い接吻の跡―― まるで彼を牽制するかのように、それはわざとらしく目につく場所にあった。 誰にどのようにしてその跡がつけられたのか想像をめぐらすと、無数の棘で刺されるような嫉妬が体を駆け巡った。 43 穏やかだった王子の表情が突然に険しくなった。 「メンフィス王はそなたが愛しくて仕方が無いらしいな。 ふ・・・その気持ちは私にも痛いほどによくわかる!」 王子の言葉の真意を量りかねて、キャロルは戸惑った。 火照るように熱さを増したキャロルの頬に、王子の手が触れる。彼の瞳がキャロルを捉える。 王子を制止しなければ・・・と思ったが、魅惑的な琥珀の瞳と心地よい彼の指は、キャロルが逃げるのを許さない。 決して力で押さえつけられている訳ではない。 逃げようと思えば何とでもなるはずなのに、なぜかキャロルの体は身動きのひとつさえできなかった。 体温や吐息を肌で感じるほどに、彼の唇が接近する。 キャロルは身構えた。 ――が、王子の唇は寸前の所で止まった。 彼は自分の唇に当てた人差し指を、キャロルの柔らかな唇に移してそっと押し当てた。 そしてその指を名残惜しげに離すと、切なく微笑み・・・キャロルの前から立ち去ってしまった―― ひとり残されたキャロルは、子猫を抱いたまましばらくその場に座り込んでいた。 彼の指が触れた唇が熱い。 何をされたという訳でもないのに、彼女の心は激しく興奮していた。そして激しくうろたえていた。 (どうして・・・わたし動けなかった・・・恐い・・・!!) 44 王子は熱くなった体を持て余しながら、庭園を抜け、あてもなく裏の通路を歩いた。 初めて心から愛しいと思った娘は、よりによってメンフィス王の許婚であった。 それを分かっていながらも、止める事さえできぬ我が身の愚かさ。 やり切れなさにため息が漏れる。 先ほど、彼女の首筋に残された接吻の跡を見つけた瞬間、嫉妬で我を忘れそうになった。 もう少しで、抑え切れず彼女に口づけしてしまう所だった。 王子には分かっていた。 彼女に触れれば最後、自分を抑える事などもはやできなくなる、と。 彼女を腕ずくでメンフィス王から奪う事・・・それは今両国間で必死に取り繕おうとしている国交を崩壊させる事を意味している。 「愚かなことよ・・・」 王子は口に出して呟いた。 しかし、腕には少女の体の温かみが、指先には彼女の唇の柔らかさが、今なおはっきりと残っている。 あの唇に直接触れる事ができれば・・・!――もどかしさで胸が焼けた。 物思いに耽るうちに、王子は狭い通路をどんどん奥に進んでいた。 人目を憚るかのように複雑に曲がりくねって設計されたその通路は、最終的には裏庭へ続いていた。 人気もなく、手入れもろくに施されていないさびれた様子の裏庭。 裏庭の隅には薄汚れた煉瓦作りの小さな塔が見える。 何やら怪しげなその一角へ王子は足を運ぶ。 古い鎧戸を試しに押してみるも、青銅製の閂で閉ざされていた。 王子は束ねた髪の中から鉄製の短刀を取り出し、閂をこじ開けた。 軋んだ重い音を立ててゆっくりと鎧戸が開いた。 45 塔の中を見回したが、上には明かり取りの窓があるだけで、暗い地下道が下に続いていた。 暗がりに目が慣れるのを待って、王子は慎重に石造りの階段を下りる。 音の無い空間に、王子の足音だけが響いた。 底の見えない深い穴に飲み込まれるような錯覚をおこさせる。 狭く長い階段を下り、ぐるりと辺りを見回した王子は思わず眉をひそめた。 「これは・・・?」 湿っぽい重たい空気が立ちこめていた。 天井の小さな明かり取りの窓からわずかに光が差し込むだけの暗く狭い閉ざされた空間。 青銅の格子で仕切られた部屋。格子には大きな錠が掛けられるようになっていた。 「地下牢がこんな所にあったのか・・・」 今は誰もそこへ幽閉されてはいなかったが、薄汚れた皿や足枷がそのまま放置されており、かつて使われていた事を物語っていた。 鬱蒼としたその場を離れようと踵を返したその時、王子は何か小さな物を踏みつけた。 それを手に取り、王子は思わず目を見張った。 「こ・・・これはっ!!」 黒く焦げてひどく汚れているが、それは石を繋いで作られた装飾品のようだ。 汚れに見える染みに目を凝らしてみれば、あきらかにそれは血痕であった。 そして、それは王子には良く見覚えのある品だった。 ――彼自身が妹のミタムンに贈った額飾り―― ミタムンはそれをいたく気に入って、いつも肌身離さず身に着けていたものだった。 見るも無残に形をかえた額飾りを見れば、ミタムンの最期がどのようであったのかが瞼にありありと浮かぶようだった。もはや妹は生きてはおるまい。 王子は妹の遺品を手に、込み上げる憤怒に震えた。 「おお・・・ミタムン・・・ミタムンよ!!」 46 その日の午後。 キャロルはメンフィスが政務から戻るなり、一番に彼に駆け寄った。 「メンフィス・・・メンフィス!」 そして彼がキャロルを抱きしめるよりも早く、彼女の方がその腕にしがみついて離れようとしない。 キャロルの心は妖しく乱れていた。メンフィスと相反する魅力を持つ男の言葉と振舞いが彼女を不安定にさせた。王子の存在が恐かった―― 「キャロル・・・?何だ、いきなり」 驚いてキャロルをたしなめるも、メンフィスは嬉しさを隠しきれない。 愛しさに任せてその体を抱きしめて口づけのひとつも与えてやりたいところだが、出迎える数多の家臣や女官達が注目する中では、さすがのメンフィスも冷静を装うしかなかった。 「どうしたのだ?・・・私はどこへも行かぬぞ。 そのようにしがみつかれては何もできぬではないか!」 「メンフィス・・・」 「キャロル・・・何かあったのか?」 キャロルは首を横に振った。しかし青い瞳は心なしか涙目に見える。 ナフテラが優しくキャロルを宥めるように、そっとメンフィスから離した。 「まぁまぁ、キャロル様。メンフィス様にお召し替えのお時間を下さいませ。 ほほほ・・・ご心配なさらなくても、いつもメンフィス様の方がお放し下さらないではないですか!」 家臣達の中にドッという笑いが起こり、メンフィスとキャロルの頬が同時に赤くなった。 メンフィスは照れを隠すようにナフテラを振り返り怒鳴った。 「ナフテラ!余計な事を申すな! それよりも早く着替えをさせよ、今宵は姉上の生誕の宴ぞ! キャロル、そなたもだ!・・・急ぎ支度をいたせ」 キャロルは子どもっぽい振る舞いをしてしまったと後悔したが、それでも彼女を包み込む大きな存在―-メンフィスの側にいなければ今は心細くて仕方が無いのだった。 彼女の不安を鎮められるのは、彼の広くて温かな胸だけであった。 47 エジプト王宮、庭園の物陰。 王子に呼び出されたルカは、王子の前で片膝を付いて跪き頭を下げた。 「堅苦しい挨拶は要らぬ・・・これを見よ!!」 ルカはいつもと様子の違う王子を見上げた。 常に冷静沈着で感情を表に出すことを好まぬ主君の端整な顔に、激しい怒りが満ちている。 「王子・・・?」 王子の手から黒く焦げたミタムン王女の遺品が手渡される。 ルカは見覚えあるそれの変わり果てた姿を見て、思わず眉根を寄せた。 「こ・・・これは・・・ミタムン王女の額飾り・・・!」 王子は無言で頷いた。 「この庭園の裏手の通路を抜ければ裏庭に出る。 そこに地下牢がある・・・そこで拾ったのだ」 「まさか・・・ミタムン様は・・・」 ルカの声が細かに震える。 「・・・もはや生きてはおらぬ。 地下牢に幽閉され、最後はこの額飾りと共に焼かれ・・・葬られたのであろう」 「おお・・・何故・・・何故です・・・?!」 「理由はまだ分からぬ・・・しかし生前のミタムンが父上に宛てた書状には”麗しいメンフィス王”を称え慕う言葉が溢れていたそうだ。ミタムンはメンフィス王の妃になりたいと切望しておったのではないかと思う」 「おお・・・おいたわしきミタムン様・・・」 ルカの脳裏にミタムンの面影がよみがえった。 年の離れた兄の後をいつも追いかけていた活発な少女。王子によく似た面差しの美しい女王。 「何ぞ・・・ファラオの妃の座をめぐる陰謀があったとして何の不思議も無い。 先日もナイルの姫がコブラに襲われる件があったであろう」 「一体何者の仕業です・・・?」 「ふん・・・おおかたアイシス女王あたりであろう・・・断言はできぬがな。 メンフィス王が他の娘を迎えるを、あのアイシス女王が大人しく指を咥えて見ておるとは思えぬ!」 48 王子は厳しい表情でルカを見据えた。 「いずれにせよ、ミタムンはエジプトの者の手によって殺害されたのだ。 この事実は変わらぬ!」 「はっ・・・!」 「ルカ・・・ヒッタイトの父上へ伝令を出せ。 兵を固めてエジプトへお送り下さるようにお伝えせよ・・・! 軍が整い次第、このエジプト王宮を内と外から一気に攻め落とすぞ!! ふふ・・・今の私はエジプト王宮を細に渡って把握しておる!」 「かしこまりました!」 ルカが一礼し、足早に去った後、王子は空を見上げた。 ヒッタイトへ続く空のはるか彼方を見つめる。 その琥珀の瞳には燃える闘志が滾っていた。 (――戦を起す!エジプトを倒し、我が妹の敵を取る! そして愛しい姫をこの手で奪い・・・必ずやヒッタイトへ連れて参ろうぞ!!) 49 アイシス女王生誕の日を祝う宴が和やかに始まった。 美しく装いを凝らしたアイシスはまさに女王然としており、方々から招かれた客人達も居並ぶ家臣達も彼女の登場と共に感嘆の息を漏らした。 しかし美しき女王に惜しみなく捧げられる美辞麗句も、アイシスの心を虚しく通り過ぎていくだけ。 この日を祝うために献上された美酒も、彼女を心地よく酔わすに至らない。 いつもはメンフィスの隣で控えめに侍するキャロルが、どうした訳か今宵はメンフィスに縋りつくように離れないからだ。 またメンフィスはそれに応えて、いつにも増してキャロルを愛しみ慈しんだ。 キャロルに求められれば、メンフィスは溢れ出す烈火のような愛情を惜しみなく与えずにはおけないのだ。 アイシスの胸には、巻き起こる嫉妬の炎が音を立てて燃え盛っていた。 この場でキャロルを殺してやりたいと、酒盃を持つしなやかな指先が細かに震えた―― 陽に焼けたメンフィスの逞しい胸がキャロルを抱き寄せる。 「キャロル・・・何か・・不安な事でもあるのか? 今宵のそなたは怯えているようにも見える。 どうした・・・?」 キャロルはメンフィスを見つめて、激しく否定するように頭を振った。 とてもメンフィスに王子のせいで不安定になっているとは言えない。 「違うの・・・たぶん・・・そ、その・・・婚儀が近づいて、気持ちが高ぶってるだけよ」 メンフィスはキャロルの腰に回した腕を引き寄せると、高らかに笑い声を上げた。 杞憂を吹き飛ばすような、力強い彼の笑い声が今のキャロルには何よりも頼もしかった。 「はっ・・・何を案じておるのかと思えば、そういう事か! 気が高ぶると申すならば、私とて同じことぞ。 そなたを思えば胸が燃えて夜も眠れぬ!」 メンフィスは酒を飲み下しながら、悩ましい漆黒の瞳でキャロルを見つめた。 「しかしそれもこれも、あとわずか。 そなたとの婚儀の為に建設中の神殿もまもなく完工する。 今に・・・不安も何も考えられぬ程にそなたを幸せにしてやろうぞ!」 「メンフィス・・・」 50 キャロルの背中を抱きながら、メンフィスはさり気無くイズミル王子の方を一瞥した。 彼は酒盃を手に、吟遊詩人の紡ぐ唄に耳を傾けていた。 寡黙でありながら、そこにいるだけで周りの者の気を惹き付ける不思議な男。 (ふん・・・取り澄ました顔をしおって。 何度もキャロルを見つめていたのを、私が気づかぬとでも思っておるのか・・・!) 二度とこの男の前にキャロルの姿を晒したくなかったが、今宵だけは仕方が無かった。 (見たければ飽きるまで見るが良い・・・私の腕に抱かれるキャロルを!) 王子はいつもどおりの落ち着いた素振りで座していたが、その胸の中では妹ミタムン王女への哀惜、エジプトに対して仕掛ける戦の事、キャロルへの恋慕が往々に交差して廻っていた。 そして身を焼くような苛立ちを感じていた。 メンフィス王は明らかに王子の目を意識して、キャロルが自分の所有物であるという事を誇張するように彼女に際どく何度も何度も触れてくる。 キャロルも王子を避けるように背を向けて、メンフィスに寄り添っていた。 キャロルを初めて見た時から胸に燻っていた炎が、いよいよ煽られ、全身を焼き尽くすように燃える。 (姫よ・・そなたが欲しい・・・! そなたの為に私はメンフィス王をこの手で倒す!! おお・・・私はいつの間に・・・これ程までにそなたを愛するようになっていた?!) 杯にあるのは特上の銘酒であるはずなのに、今宵は胸をむかつく程に燃え立たせるだけであった。 これ以上に恋敵がキャロルに馴れ馴れしく触れるのを見るに忍びず、王子は宴の席を離れて宮殿の外へ出た。 |