『 記憶の恋人 』 21 どうにか崖上の山道へ無事に辿り着くと、キャロルを背中から降ろして安堵の息をついた。 緊張と体力的な疲労で王子は目を開けているのも大儀だった。 苦しそうに目を閉じて荒い呼吸を繰り返す王子の額の汗を、キャロルは自分の衣の袖でそっと拭った。 「王子・・・大丈夫?」 心配そうに覗き込む小さな白い顔。 「なん・・・だ?心配には及ばぬぞ・・・少し休めば何と言う事は・・・ない」 しかし青い瞳にはうっすらと涙さえ滲んでいる。王子は大きな手でキャロルの髪を撫でた。 「悪かった・・・な、怖い思いをさせたか・・・?」 「違うの、・・・ごめんなさい」 キャロルは王子の肩に抱きついて、彼の頬に頬を擦り付けた。 「わたし・・・あなたに迷惑を掛けてるんだわ。 あなたにこんな無茶をさせるなんて・・・! きっとわたしのせいで・・・こんな事になっているのでしょう?」 王子の胸に痛いほどの愛しさが込み上げる。 しかしキャロルの言葉が終わらぬうちに、王子の瞳は一瞬驚愕した後、激しく威嚇するように見開いた。 唇を噛み締めて、キャロルの肩のその先を睨み据える。 キャロルは何事かと振り返り、王子の視線の先を追って愕然とした。 そこに――長い黒髪に黄金の冠の――世にも美しい男が数多の兵を従え、二人を見下ろすように立っていた。 彼のしなやかな腕は剣を持ち、その切っ先は真っ直ぐにイズミルとキャロルへと向けられていた。 22 王子は口惜しそうに舌打ちすると、自分の体を楯にキャロルを後ろ手に隠すように護った。 キャロルにはメンフィスの姿を見せたく無かった。そしてメンフィスにも。 考えうる最悪の事態だった。 全くの孤立無援、多勢に無勢、しかも彼は今体力を使い果たした所だ。 唇に血が滲むほど、強く噛み締めた。 ――なんとして切り抜ける?――王子は冷静に自問した。 (この人だ!はっきりとわかる・・・この人だわ!!) 緑の縁取りを施した切れ長の黒い瞳。 恐ろしい程の力強さでキャロルを見つめるその瞳を、キャロルは瞬きもせずに見つめ返した。 華麗で艶やかな面差しは、見る者の呼吸を一瞬止める程に美しい。 憂いと翳りのあい混じったイズミルの秀麗な美しさと並ぶと、甲乙付け難い見事な好対照であった。 例えるなら、燦然と輝く灼熱の太陽と気高く輝く孤高の月―― キャロルは向かい合って睨みあう二人の男を見るうちに、強い既視感に捉われた。 (前にもこんな事が・・・あれは・・・あれは・・・) 23 「キャロル!」 体の芯に響くような力強い声で男は呼んだ。 「その男から離れよ!」 激しい怒りが男の黒い瞳の中で燃え盛っていた。 男の溢れ出すような激情が熱い波となり、キャロルの心の中に打ち寄せる。 音を立てて心が騒ぐ。 目が眩む程に心が乱れる。 「誰・・・誰なの?あなたは・・・?」 男はカッと黒い瞳を見開いた。 「何を申しておる!・・・私がわからぬのか!」 「あ・・・駄目。思い出せない・・・でも、わたしはあなたを知ってる・・・誰なの?」 突然、メンフィスの瞳から激しさが消えた。いたわりの色が溢れ出す。 「そなた・・・私がわからぬと・・・おお、何があった?! まさか記憶を失っておるのか?」 メンフィスが一歩づつキャロルに歩み寄る。 「おお・・・キャロル!私だ・・・メンフィスだ!」 「メンフィス・・・メンフィス・・・メンフィス!!」 キャロルの中で、目の前の黒髪の麗しい男とメンフィスという名が繋がった―― 24 谷合のはるか後方から武装した別の一隊が近づいていた。 軍の先頭で指揮を取っていた男は、メンフィスと王子達の姿を遠目に見つけると足を止め慎重に様子を伺った。 「む・・・あれに見えるは、メンフィス王にイズミル王子、おお、ナイルの姫も・・・!」 「なに・・・メンフィスが?!」 駱駝の上でベールを纏った要人は、それを耳にすると悔しげに吐き捨てるように言った。 「チッ・・・先を越されたか!」 ベールの奥の冷ややかで美しい瞳を振り返り、男は指示を仰ぐ。 「いかがなさいますか・・・これ以上進めばメンフィス王の軍に我々の存在を気取られますぞ!」 「気取られてはならぬ・・・今は動けぬ。ここで待機して様子を見るのじゃ」 「御意に」 ナクト将軍は低頭して、恭しく答えた。 「くっ・・・忌々しいキャロルに、こざかしいイズミルめ! あの時、仕損じた事が今更に悔やまれるわ・・・! キャロルをメンフィスに逢わせとうはなかったと言うに、口惜しや!」 女の黒い瞳には嫉妬と焦りが渦巻いていた。 「アイシス様、メンフィス様はイズミル王子をどうするおつもりでしょうか?」 アイシスの背後に控えていたアリが、先方を伺いながら呟いた。 「メンフィスの事・・・相当に殺気立っておろうからな。 イズミルを生かしておくとは思えぬが。 ここでイズミルだけ殺されては、何にもならぬではないか・・・!何か策を立てるのじゃ」 25 王子の体の影に身を寄せて、キャロルは混乱した様子でメンフィスを見つめていた。 メンフィスは記憶を失ってしまったキャロルを憐憫に満ちた瞳で見つめ、彼女の方へ歩み寄る。 王子は腰から剣を抜きとり、メンフィスの動きを制した。 剣の先をメンフィスの喉元に突きつけて、不敵に微笑する。 「久しぶりだな・・・メンフィス王よ」 メンフィスも剣で王子の剣を払うように押しのけた。 「イズミル!貴様だけは許さぬぞ!」 鈍い金属音だけが谷合に遠く響いた。 後ろに控えるエジプト兵が一斉に弓矢の切先を王子に照準を合わせて構える。 二人は剣を交差させたまま、時が止まったかのように激しく睨み合う。 「説明しろ、イズミル!これはどういう事だ!キャロルに何をした!」 「ふっ・・・姫はもはや私のもの。そなたにうるさく言われる覚えはない」 「おのれ・・・キャロルの記憶が無いのは何故だ!答えろ」 「・・・事故によるものだ。頭を打って記憶を一時的に失っている」 「事故だと?ふん、貴様の言うことなど信用できるものか! ともかく、キャロルを返してもらおう。この状況で抵抗してみたところで無駄な事ぞ!」 「はっ・・・そう言われて私が姫を渡すとでも?――命に代えても手放さぬ!」 王子はメンフィスを焦らすように落ち着いて話しながら、兵士の数や配置をざっと把握した。 恐らく軍を幾つもの小隊に分けて、王子とキャロルを探していたのだろう。 今のメンフィスは50名程度の小隊を率いているだけのようだ。 (何とか切り抜けるぞ・・・!!何としても!) 26 王子は後ろ手に庇っていたキャロルの腕を引っ張ると、胸の前に抱きとめた。 そして銀色に光る鉄剣の先を手前へ向ける。 キャロルにだけ聞こえるように、王子は耳元で囁いた。 (姫・・・許せ。そなたに刃を向けるなど・・・私を信じよ。何をも恐れるな!) 王子は向かい合うメンフィスに見せ付けるように、キャロルの胸の上で刃先を止めた。 「姫を奪われむざむざ殺されるならば・・・姫と諸共、己の剣で命を絶つ!」 メンフィスの息を呑む音が、兵士達を制止させた。 王子はメンフィスと居並ぶエジプト兵を睨み付け、谷間に響き渡る大きな声で叫んだ。 「良く聞けい!メンフィス王ならびにエジプト兵に告ぐ。 ただちに全ての武器を崖下に投げ捨てよ!!」 メンフィスは歯を軋ませながら、燃える瞳で睨み返す。 「おのれ・・・イズミル!!キャロルを楯に取ろうというのか!」 王子の腕に抱かれたキャロルは自分に向けられた剣の先を、恐怖に仰け反りながら見つめた。 緊迫した沈黙の後、観念したメンフィスは、真っ先に黄金づくしの剣を崖の下へ惜しげもなく投げ捨てた。 王子の険しい顔に、勝利を見越した微笑が浮かぶ。 エジプト兵を振り返り、メンフィスは怒りに任せて怒声を上げた。 「武器を捨てよ!!」 「・・・王、しかし!!」 「ええい、私が捨てよと申しておるのだ!!早く捨てぬかっ!!」 メンフィスの只ならぬ怒気に押され、すぐさま兵士達は次々に弓や剣を谷間に投じた。 27 「ふふ・・・では、道を空けてもらおう。恩に着るぞ、メンフィス王」 キャロルの胸に剣をかざしたまま、王子はゆっくりと立ち上がり傲慢に言い放った。 エジプト兵の合間を抜けて王子は悠然と歩く。 去り行くキャロルの背に向かって、メンフィスは叫んだ。 「キャロル・・・行くな!そなたが帰るのは私の胸ぞ!・・・何故に私を苦しませる!」 魂を揺さぶる声はキャロルの心をわし掴みにする。 「キャロル―――!!」 堪らずキャロルはメンフィスを振り返った。 王子の腕が彼女を強く拘束していなければ、腕をすり抜けて走り出して行きそうな勢いだった。 その様子に王子は総毛立つような苛立ちを覚えて、指が喰い込む程キャロルの腕を握り締めた。 「待って・・・待って王子、あの人と・・・あの人と話をさせて! あの人は・・・メンフィスは・・・わたしの何なの?」 青い瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。 「ならぬ!」 王子は恐ろしい形相で、懇願するキャロルを一喝した。 まだ胸に突きつけられている剣と、王子の力強い腕がキャロルに逆らうのを許さなかった。 「お願い・・・王子!!」 一歩一歩重い足取りのキャロルを、引きずるように王子は歩いた。 28 しかし――突然に王子の腕はキャロルの体を滑り落ち、彼女を解放した。 ぐらりと王子の体は重心を失い、キャロルの足元に崩れ落ちた。 何が起こったのか、一瞬で理解できず立ち尽くす。 「王子?!」 キャロルの細い腕が大柄な体躯を揺すり起こす。 王子は何も応えない。 弓が深々と彼の背中を射抜いていた。 二人のはるか後方を振り返ると、弓を手にしたメンフィスが立っていた。 王子の目を盗み捨てずに置いておいた矢を、メンフィスが放ったのだ。 「キャロル!!」 メンフィスは弓を投げ捨てると駆け寄り、キャロルに向かってその両腕を広げた。 「キャロル・・・おお・・・もはやそなたを誰にも渡さぬ!キャロル!!」 キャロルははその場にへなへなと膝から座り込んだ。 王子の背中から飛び散るように流れる血潮が、キャロルの意識を遠く彼方へ運び去る。 深く沈み行く意識の底で、キャロルは一心に思い描いていた。 メンフィスと愛し合った日々を、初めてイズミル王子その人と出会ったあの日のエジプトを―― 29 ――晴れ渡ったどこまでも青い空。雲のひとつもなく、灼熱の太陽がエジプトの乾いた大地を照り付ける。 そして、エジプト王宮の豪奢な大広間に、イズミル王子は立っていた。 古代エジプト的な美麗な装飾が施されたその空間の中で、腰よりも長い亜麻色の髪と琥珀の瞳を持つ青年は、明らかに異国の風貌と情緒を漂わせていた。 王座に座したメンフィスとアイシスは彼に丁重な歓迎の辞を述べていた。 しかし、イズミル王子の表情は硬く厳しい。 先立ってエジプトを訪問していたヒッタイトのミタムン王女が、来訪中に謎の失踪を遂げており、ミタムン王女の追跡の為、実兄であるイズミル王子が自らエジプトを訪問したという次第であった。 「ミタムン王女の件については、未だ行方も真相もわからぬまま。 我が宮殿の警備体制の不備には心よりお詫び申し上げる。 我々も引き続き調査をすすめて参る所存にあるが、どうかイズミル王子には心置きなく滞在されるよう」 王子は鋭く涼しい瞳でメンフィスとアイシスの顔を射抜くように見つめた。 噂通りに、いやそれ以上に威圧的な美しさと威厳を誇る姉弟。 生まれながらにエジプトの世継ぎであるメンフィスは、この若さにして堂々とした王者の振る舞いを見せていた。 女王アイシスは美しさが過ぎるゆえに冷たく見える貌にあでやかな微笑を浮かべている。 しかし心の内を他人に読ませないその美貌は、完璧な仮面のようだった。 メンフィス王の思いのほか真摯で誠実な態度には感心の色を呈し好感さえ抱いた王子であったが、アイシス女王に対しては謎めいた暗い影を感じていた。 両者の間には表向きは美辞を並べた挨拶句で取り繕われていたが、無数の細い糸のような緊張感が張り詰めていた。 ミタムンの生存と事の成り行きいかんによっては、国交が大きく揺るがされ、戦の引き金となり得る事態である。僅かに均衡が崩れれば、もはや一触即発であった。 30 その張り巡らされた緊張の糸を、少女の声が軽やかに掻き乱す。 「きゃーっ、そっちは駄目よ!あっ、こらっ!!」 足音と共に一匹の白い子猫が広間に飛び込んで、事もあろうか王子の胸に飛びついた。 そして猫の後を追うように少女が王子の前に現れた。 イズミル王子はその娘に目を見張った。 柔らかに波打つ黄金の髪、抜けるほどに白い肌。そして生き生きと輝く青い瞳。 大国ヒッタイトの王子である自分の前であるというのに、臆する様子もなく軽やかに走り回る。 無礼だとは思わなかった。ただ・・・なんと可憐な少女なのかと、王子は彼女の姿を目で追わずにはいられなかった。 「キャロル!!」 メンフィスは高座の上から、彼女を頭ごなしに怒鳴りつけた。 「きゃ、ごめんなさい。この子ったら逃げ回って手が付けられないの・・・あら!」 キャロルは異国風の美しい長身の青年を見上げて驚きの声を上げた。 あれほど誰にも懐かなかった暴れ猫が、彼の腕の中では体をすり寄せるように大人しく抱かれているではないか。 彼の長く逞しい指が白い毛並みを優しく撫でると、猫は喉を鳴らして男に甘え始めた。 「まあ・・・すごいわ、誰にも触られたがらなかったのに。あなたにはこんなに懐くなんて!」 「これは・・・そなたの猫か?」 吸い込まれそうな深い琥珀の瞳にキャロルは一瞬とまどった。彼の視線はあまりにも真っ直ぐだったから。 「え・・・あ、はい」 「キャロル!何だ、国賓の面前にて無礼であるぞ!」 メンフィスは椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、つかつかと少女の前に立ちはだかる。 残忍で勇猛との噂高いこの王の事。目の前の娘を張り飛ばすのではないかと王子は一瞬身構えた。 しかし・・・ |