『 記憶の恋人 』 131 「ほほほ・・・イズミル、焦らすのも程ほどにして教えてやってはどうじゃ?あの秘薬の事を!」 その声にイズミルとキャロルは同時に振り返る。 山道の上方から近づく駱駝の一軍の先頭には、黒いベールを纏い、剣を手にしたアイシスがいた。 イズミルは憎々しげにアイシスを睨み据える。 「ほほ・・・イズミル王子、何ゆえにそのような目でわたくしを睨むのです? わたくしは、そなたの恋を叶えたはず・・・感謝こそされ憎まれる覚えはありませぬ!」 キャロルは王子の胸に抱かれたまま、アイシスを見上げた。 「あの秘薬って・・・何の事?」 「――教えてやりましょう、哀れなキャロルよ。 わたくしはイズミル王子に恋の秘薬を与えたのじゃ。 そなたに飲ませれば、メンフィスへの思いをすべて忘れさせる事ができる・・・ 王子は最初拒んだものの・・・結局は秘薬をそなたに飲ませた様じゃな! そして、キャロル!そなたは王子の謀にまんまと落ちてメンフィスを、ひいてはエジプトを裏切った! ・・・そうであろう?」 「だまれ!アイシス女王!!」 アイシスに向かって怒鳴った後、王子は再びキャロルに向き直り、哀しげな瞳で見つめた。 「姫。そなたに何と責められても構わぬ。 そなたがメンフィス王の後を追って自害するのだけは止めたかった! 私は卑怯者に成り下がろうと、そなたの心を欺こうと、そなたを失いたくはなかったのだ! そなたを失うなど・・・私には耐えられぬ・・・ ――私を怨むか?」 132 その真摯な語り口からは痛いほどにイズミルの想いの丈が伝わってくる。 その激しくも暖かな愛情は、いつの日もキャロルを守り、包み、癒してくれたものであった。 キャロルはイズミルを責める気にはさらさらなれなかった。 「王子・・・。 わたしは、あなたの側にいたら・・・いつかあなたを心から頼ってしまいそうで恐かった。 私は、それが恐くて・・・あなたに心を許す前に死のうと思ったの。 薬なんかなくても、わたしはきっと・・・あなたを愛するようになっていた・・・。 だって、わたし・・・全ての記憶を失くした後・・・すぐにあなたに恋をしたわ」 イズミルにとってそれは、何よりも嬉しく、胸を熱く鼓動させる言葉だった。 アイシスの声がそれを遮った。 「もう十分に別れは惜しんだであろう? いや、そもそも別れなど惜しむ必要などあろうものか・・・ イズミル王子、そなたはキャロルと共にここで永遠に眠るのです! ナクト将軍、イズミルとキャロルを殺せ!そして、ヒッタイト軍を全滅させよ!」 しかしその時、稲光が山間の空に走り、凄まじい雷鳴が響いた。 更に激しく叩きつけるような豪雨の中に、もう一人の男の声が轟く。 「姉上、イズミル――!! 貴様等・・・許さぬ・・・!! 私を・・・キャロルをたばかりおって!!・・・許さぬぞ!!」 山道の下方からはメンフィスのエジプト軍が上がって来ていた。 イズミル率いるヒッタイト軍を、上方をアイシスの軍が、下方をメンフィスの軍が包囲する。 メンフィスは威勢よく馬上から飛び降りると、剣を抜いてイズミルの前に立ちはだかった。 133 「私か貴様か・・・どちらかが死なぬ限りこの戦いは終わらぬ! キャロルが欲しくば、私の腕から力で奪ってみよ! さあ、イズミル、剣を持て! 今日こそ貴様にとどめを刺してくれるわ!!」 イズミルの瞳に青白い炎が灯る。片頬には笑みさえ浮かべて。 「ふっ・・・望むところだ!」 イズミルはキャロルを後ろに下がらせ、腰の剣をスラリと抜き取った。 「やめて・・・王子、この怪我なのに・・・!」 剣を持つ腕を必死で制しようとするキャロルを、イズミルはそっとたしなめるように押さえた。 ゆるく束ねた後ろ髪から鉄刀を取り出し、キャロルの手にそれを渡す。 キャロルは両手の中で鈍く光る短刀を見つめた。 その柄の中央に刻印されるヒッタイト王家の紋章――― 「姫、これは私の護身刀だ。私がいつも肌身離さず身につけているものだ。 ――今、そなたに預ける!! メンフィス王を倒し、私は再びそなたの元に必ず戻る。それまで、預かっていて欲しい」 イズミルはそれだけを言うと、剣を構えてメンフィスの方へ向き直った。 「メンフィス王、そなたを殺し、姫を我が手に入れてみせよう!」 「メンフィス!愚かな事はお止めなさい! 何故にそなたがキャロルの為に一騎打ちなど!!そなたはエジプトのファラオなのです!」 「だまれ!姉上!」 メンフィスはエジプト軍を振り返り、大きな声で命じた。 「一切手を出すな! 手出しする者あらば、その場で弓で射よ! 例え姉上であれ、邪魔立てする者は何者も容赦なく撃ち捨てい!よいな!!」 134 メンフィスと王子は向かい合い、豪雨に打たれながら激しく睨みあう。 二本の剣は凄まじい力で交差したまま、動かない。 「やめて――っ!!メンフィス!・・・王子! もう・・・もうやめて・・・お願い・・・」 「おおお・・・メンフィス・・・・おお、アリ、誰か・・・何とか致せ・・・誰か、止めるのじゃ・・・!」 しかしキャロルとアイシスの叫びも、もはや二人の男には届かない。 もはや誰も止める事はできない。 メンフィスが斬りこんだのを皮切りに、壮絶な打ちあいが始まった。 金属と金属のぶつかる重く鈍い音が、雨音の中に響く。 じわりじわりと、メンフィスが王子を追い詰める。 矢傷を受けたイズミルの左肩が痛み出した。動く度に激痛が走り、息が上がる。 (くっ・・・こんな傷さえなくば・・・負けはせぬに!!) アイシスは降りしきる雨の中、身じろぎもせずメンフィスの一挙一動を見守っていた。 (おお・・・何という事! イズミルが勝っても、メンフィスが勝っても・・・ ――いずれにしてもわたくしはメンフィスを失う!! メンフィスが勝てば・・・キャロルは晴れてメンフィスのもの・・・!もはや誰にも止められぬ!) 135 アイシスは剣を手にしたまま、目の前のキャロルの後姿を食い入る様に見詰めた。 胸の前に両手を合わせ、祈るような仕草で二人の男の戦いを見守るキャロル。 (そうじゃ・・・お前が・・・お前が死ねば良いのじゃ、キャロル! お前に奪われるくらいなら、むしろメンフィスに憎まれた方が良い!! 嫉妬の炎で悶え死ぬならば・・・いっそメンフィスの怒りで焼かれたい・・・!!) アイシスは剣の柄を握りしめ、鞘から刀身を抜き取った。 エジプト、ヒッタイト両軍の見守るなか、メンフィスとイズミルの戦いはますます熾烈さを増していく。 勢いづいて豪胆な剣の使い手であるメンフィスとは対照的に、イズミルは冷静かつ技も巧みに剣を振るう。 両者ともに、並びなき武芸の達人と呼ばれた男達。 一瞬の気の緩みが命取りになる。 瞬きひとつ許されぬ、命を賭けた勝負であった。 しかし、メンフィスの力強い一刀を払う度に、イズミルの肩は疼きだす。 メンフィスはイズミルをじりじりと壁際に追い込み、ついに鉄製の剣を薙ぎ飛ばした。 剣はイズミルの手を離れ、固い音を立ててどしゃ降りの地面に落ちた。 メンフィスの黒い瞳に勝利を確信した残酷な笑みが浮かぶ。 「イズミル!覚悟――!!」 しかしその時。 イズミルの喉許に剣を突き下ろそうとしたメンフィスの目の端に、アイシスの姿が映る。 「姉上――!よせ―――っ!!」 アイシスが狙いを定めてゆっくりと振り下ろした剣の切っ先を止めたのは、他ならぬメンフィスの体であった。 渾身の一刀は、キャロルの背ではなく、メンフィスの心臓を貫いていた――― キャロル、アイシス、エジプト兵士の叫びが喧騒となり、幾重にも重なり合う。 136 「メンフィス・・・メンフィス・・・メンフィス・・・・・・・」 キャロルの腕の中で、メンフィスは彼女の顔を見上げた。 何度も自分の名を呼びかける、愛しい娘の顔を。 黒曜石の瞳は、最期の瞬間までキャロルを見つめて愛しげに輝いていた。 唇は何かを呟こうとしていたが、それはついぞキャロルには届かなかった。 しかし、その口許は最期に儚い笑みを浮かべた。 それは、愛する者を護った男の誇りに満ちた笑みだったのか。 それとも愛する者を残して逝かねばならぬ、無念と諦めの笑みだったのか。 震える手でキャロルの白い頬をそっと撫でたあと、メンフィスのその手は力なく地面に落ちた――― 「メンフィス―――!!」 キャロルの絹を裂くような叫びと同時に、一際大きな雷鳴が響き渡り、大地を揺らした。 上方を見上げていたルカが王子に向かって叫ぶ。 「いけません!王子!山が崩れ始めました・・・土砂崩れが起きます!」 王子は機敏に身を起こし、メンフィスの体を抱いたまま放心するキャロルを引き離すと、その腕の中に抱きしめた。 しかし、すでに土石流は山上から大きな波のように、アイシスの軍を飲み込み始めていた。 「アイシス様・・・アイシス様―――!!」 メンフィスの遺体の前に呆然と立ち尽くすアイシスを、アリは渾身の力で揺すった。 何もかもが黄土色の土砂に飲み込まれ、雷鳴と豪雨の中に消えて行く。 混沌とした濁流は谷間を流れる支流を下り、長い流れを経て、滔々たるナイルの本流へと流れ込む。 渦巻く水流の中でイズミルは、キャロルを抱く腕を決して放すまいと必死で戦った。 しかし、激しくうねる土色の濁流は自然の驚異であり、その前においては人間の抵抗など取るに足りない虚しいものであった。 荒れ狂う激流はイズミルの手からキャロルを掠めるように奪い、増水したナイルの流れに呑まれて彼女の体は小さく消えていった。 イズミルの手の中に残ったものは・・・彼女の髪を留めていた小さな黄金の髪飾り。 ただ、それだけであった――― 137 ――――7年後―――― 「キャロル、応接室へおいで。 アンカラからオスディミール博士が来られたんだよ」 ライアンに連れ立って、キャロルはリード邸の応接室へと足を運ぶ。 応接室のソファには、初老の老人が。トルコ考古学界の権威と言われるその老人は立ち上がり、優しくキャロルに向って微笑みを見せた。 「やあ、キャロル嬢。あなたのお話はブラウン教授からよく聞かされたものだ。一番弟子だってね。 いや、何。私が昨年発掘したヒッタイト遺跡の埋蔵品の展示会をリード・コンツェルンの主催でこのカイロで催そうかという話の運びになっいてね。 最近になって分かった事なんだが、以前にブラウン教授と君達が王家の谷で発掘した墓の主はメンフィス王というんだ。 ブラウン教授のその後の熱心な研究で、彼にまつわる色々な事が解明したよ。 なんとね、奇遇な事に、メンフィス王と私が発掘したイズミル王はまさしく同じ時代を生きた王達なんだよ」 (メンフィス・・・イズミル・・・) キャロルはそれらの名前を胸の中で反芻した。 「とても面白いんだ。両者の埋蔵品や宝物を合わせて見てみると『ナイルの娘』という乙女の存在が浮かび上がってくるんだよ。 彼女にまつわるものがメンフィス王の方にも、イズミル王の方にも数多く残されている。 メンフィス王もイズミル王もその『ナイルの娘』に恋し、奪い合ったという史実が見えてくる。 ――しかしどちらの王も、結局は『ナイルの娘』を手に入れられなかった。 『ナイルの娘』をかけての戦いの最中でメンフィス王は亡くなった。 ではその後、イズミル王が彼女を手に入れたか・・・と言うとそうではないんだ。 彼女は消えてしまった。 彼女は突然エジプトに現れ、そして突然消えた。誰も彼女の生まれも死も知らない。 そして、その乙女は、黄金の髪、白い肌、ナイルのような青い瞳・・・だったそうだ。 不思議だね。あの時代のエジプトにそのような乙女がいたなんて。 ・・・まるで、君みたいじゃないか。キャロル君?」 温厚に笑う闊達な学者の語る史実に、キャロルは何故か不思議な懐かしさで胸が騒ぐのを感じた。 (メンフィス・・・イズミル・・・ナイルの娘・・・) 138 そこで、ライアンが口をはさんだ。 「まあ、そんな訳でだ。一人の乙女を奪い合った二人の王というのをテーマに、エジプト展とヒッタイト展を一同に開催しようと思っているのさ。 キャロル、お前も考古学には造詣が深かったのだから、オスディミール博士とブラウン教授を手伝ってくれないか? この催しは必ず成功し、わが社の強大なPRになるはずだ。世界的な反響を巻き起こしてやるぞ!」 「キャロル君、我々はこの研究を深くつき進めてゆく。 君が考古学を止めてしまってブラウン博士はとても残念がっていたんだよ。 もう一度、考古学をやってみないかい? 是非、今回の展示会だけと言わず、今後も助手として我々のプロジェクトに参加してくれたまえ」 キャロルは深い物思いから顔をあげて、明るく微笑んだ。 もう、長い間、キャロルは考古学には携わっていなかった。何故か、かつてあれ程入れ込んでいた古代の歴史に触れる気になれずにいた。 だが、今回のプロジェクトはキャロルの激しい興味を引き立てる。 「・・・はい、わかりました。喜んで!」 キャロルの明るい返事に、博士もライアンも満足そうに頷いた。 「では、キャロル君。早速だけど、この書類に目を通しておいてくれないか? 発掘された埋蔵品、それと二人の王と『ナイルの娘』に関するレポートだよ。 まだ学会にも発表していない極秘情報も含まれてるが、君は我らの助手だから特別さ」 片目だけを瞑り、皺の多い顔を悪戯っぽく崩して老人は笑ってみせた。 キャロルがその書類を手にとった時、二人の少年達が取っ組み合いをしながら応接室に転がり込んできた。 同じ年頃の二人の少年をキャロルは叱り付ける。 「やめなさい、二人とも!お客様の前でしょ!」 キャロルは立ち上がり、喧嘩をする二人の子供の間に割って入った。 「おお、これはこれは。威勢のよい坊ちゃん達だね。キャロル君の息子さん達かい?」 「ええ、そうです」 キャロルは少年達をそれぞれ腕で抱き寄せながら誇らしげに答える。 母親としての幸せに満ちた輝かしい笑顔であった。 「こら、やんちゃ坊主達。また怒られたな! こちらはオスデミィール博士だよ。トルコの考古学博士だ。偉い博士なんだよ。ちゃんとご挨拶しなさい」 伯父らしい態度でライアンは二人の少年を促した。 139 ―――なんと美しい子供達だろう! 博士の目は一瞬、驚きで見開いたままになっていた。 「この子がメイス・・・そしてこちらがイミルと言います。」 キャロルの紹介が終わるやいなや、見るからに威勢のよさそうな黒髪の少年が凛々しい黒曜石の瞳を煌かせて博士の前に飛び出す。 続いて、少しウェーブのかかった亜麻色の前髪を靡かせて、涼しげな琥珀の瞳の少年が礼儀正しく挨拶をする。 博士は少年達に大きな手を差し出し、握手を求めて穏かに微笑む。 「こんにちは。おや、どっちがお兄さんなんだい?」 彼らは声を揃えて答える。 「僕らは双子なんだ」 「・・・この子達は双子なんです。二卵性の。だから、全然似ていないでしょう・・・?」 そう答えるキャロルの腰にまとわりついて甘える少年達。 確かに双子とは思えない。肌の色も、顔立ちすら共通するものは何も無い。 どの民族の血を引いているのだろう・・・? メイスは褐色の肌。イミルはもっと明るいオリーブ色の肌をしている。 しかし、博士は少年達がそれぞれ手にしているものを見て、思わず大きな声をあげてしまった。 「こ、これは・・・?!」 黒髪のメイスの手には黄金のホルスの胸飾りが、琥珀の瞳のイミルの腰には鉄製の短刀が。 「ちょっと見せてくれないか!・・・これは、本物ではないか。この造りは最近のものでは無いな。 調べてみなければ何とも言えないが・・・いや、この紋章は・・・古代王家の・・・! キャロル君、これをしばらく預からしてもらえないか?」 「だめだよ!これは僕達の宝物だ!!」 声を揃えて言う二人の少年達。 それぞれの宝物を手の中に握り締め、決して渡すまいとする。 「すみません、博士。この子達、これらを絶対手放そうとしないんです。 この子達の父親の形見なのかも知れないんです・・・」 キャロルは丁寧に博士に断りを申し出た後、一緒に外で遊んでくれとせがむ子供達の手を引いて庭へ連れだした。 140 部屋に残ったライアンは煙草の紫煙を薄く吐き出しながら、博士に向かって静かに語りだした。 「―――妹は、不思議な運命に生きる娘なんです。 私達がメンフィス王の墓を発掘して以来、キャロルは度々姿をくらました。 世間では王家の呪いと噂され・・・ 長く行方不明だったキャロルが7年前にナイルの下流で見つかった時にはすでに、あの子達を宿していたのです。 姿をくらましていた時の記憶は何も覚えておらず、子供達の父親もわからない。 手がかりといえば、その時キャロルが身につけていた衣装・・・それと・・・さっき子供達が手にしていたあの黄金のホルスと短刀だけでした。 まるで―――古代の姫君のようないでたちでしたよ」 ライアンは一旦言葉を切った。 煙草を灰皿に押し付けて火を消しながら、また話を続ける。 「僕達の反対を押し切って、キャロルは父親の知れない子供を生みました。 ・・・あの二人の子供達はキャロルにはあまり似ていない。 おそらく父方の血を色濃く受け継いだのでしょう。 しかし、不思議なことにメイスとイミルは顔立ちも・・・髪や肌の色も・・・性質や気性さえも全く異なるのですよ」 博士はゆっくりと頷きながら、話を聞いていた。 「どちらの息子さんも利発で、素晴らしく美しい子供達だね。いや、・・・何と言うんだろう。 まだ小さい子供だというのに、生まれながらの威厳のようなものを感じさせるよ。 キャロル君が誇らしく思うのも無理も無い・・・どんな青年になるんだろうね、将来が楽しみだ。 ・・・今のキャロル君はとても幸せそうだ。 とても、そんな数奇な辛い過去があったなんて思えない」 |