『 記憶の恋人 』


141
ライアンは目を伏せて穏かに微笑んだ。
「そう。僕はキャロルはとても辛い目にあったんだろうと・・・ずっと、そう思っていたんです。長いことね。
キャロルはあのホルスと短剣を見る度に、訳もなく涙を流していたから。
キャロルと愛し合った男が誰なのか、どこにいるのか。
生きているのか、死んでいるのか。
それすら分からない。
けれど・・・幸せだったのかも知れない。
今のキャロルを見ているとそう思います。
失くした記憶の中の男を、子供達の父親を、今でも深く愛しているんだろうと思うんですよ。
きっと、幸せだったに違いないと・・・思ってやりたいんです」

「―――幸せだったんじゃないかね・・・?
子供達を見るキャロル君の目は、とても穏かで優しい。
子供達と彼らの父親への愛に溢れているように見えるよ」
「ええ、そうですね・・・」
ライアンは目を伏せたままゆっくりと頷き、そこで二人の会話は途切れた。

午後の陽射しがふりそそぐ応接室の大きな窓からは、庭の芝生の上を駆け回る二人の少年と、それを見守るキャロルの姿が見える。
博士とライアンは言葉を忘れたかのように黙ったまま、彼らの姿を目で追っていた。


帰り支度を整えた博士は、見送るライアンと共にリード邸の正面玄関のポーチに降り立った。
庭から二人の子供達と手を振り見送るキャロルの姿に、なぜか『ナイルの娘』のイメージを重ねてしまう自分に、博士は思わず苦笑した。


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その夜。
暖炉の前で博士から手渡された分厚いレポートを読みふけるキャロル。
オスディミール博士とブラウン教授の研究と分析による偉大な功労の賜物。
そこには、単なる歴史の解説ではなく、激動の時代に生きた男と女の物語が垣間見える。

     ナイルの娘は突如エジプトに姿を現し、メンフィス王の寵を得る
     メンフィス王とナイルの娘の婚儀にあたり建立された神殿、大火により消失す
     当時ヒッタイトの王子であったイズミル王、ナイルの娘を奪取
     ナイルの娘を奪回すべくメンフィス王、挙兵
     その戦の渦中にメンフィス王、死去

     戦の混乱の中、ナイルの娘、その姿を消す

     戦の後、イズミル王、正式にヒッタイト王国の国王として即位
     ナイルの娘を捜索する軍を度々に渡りエジプトに派遣す
     数年の後、ミラ妃を正妃として冊立
     アナトリアの名君として名を残すも、アッシリアやエジプトとの度々に渡る戦乱の中、戦死

     アイシス女王、バビロニアのラガシュ王と政略による婚姻をなす
     しかし、政権をめぐる陰謀で何者かの手により毒殺される

     ナイルの娘が再びエジプトに姿を現す事は無く――――


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頭の中にどこかで聞いた喧騒とざわめきが遠く響いて、キャロルは思わず頭を両手で押さえた。
レポートの文章の行間に、何かの光景が見えるような気がして目を瞑る。しかし何も見えてはこない。
部屋の中で遊んでいたメイスと本を読んでいたイミルは、そんなキャロルの様子を心配し、すぐに膝元に駆け寄ってきた。
小さな息子達は、いつも母親の様子を気遣い守ろうとする。
まるで、姿の知れぬ父親にかわって、キャロルを全ての物から守ろうとするかのように。
キャロルは心配そうに顔を覗き込む子供達を胸に抱き寄せて、それぞれの頬に口づけを与えた。
黒く強い光を瞳に湛えるメイス。激しい炎のようなメイス。その激情は止まることを知らない。
琥珀色の涼しげな瞳のイミル。穏かで優しく怜悧でありながら、メイスにも負けぬ激しさを併せ持つイミル。
二人の息子達。
(愛しているわ・・・かけがえのないメイス・・・イミル・・・あなた達を)
今宵は一段と、我が子が愛しく思えてならない。
キャロルはレポートがバサバサと足許に落ちて散らばってゆくのも構わずに、二人の子供達を強く両腕に抱きしめていた。小さな彼らの体温と鼓動をいつまでも感じていた・・・


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「いやあ、お疲れさんじゃった。何とかこれで落ち着けるな」
「いやいや、大変なのは明日からですよ。ブラウン教授。」
「その通りですね。明日は世界各国からの報道陣と見物客の応対に追われるでしょうからね。
ツタンカーメン以来のセンセーションですよ、どちらの王の墳墓も一切の盗掘を免れて完璧な状態で残っていたのですからね!」
煙草に火を灯し、ライアンは細く長い煙を吐きだした。
「しかし、キャロル君の貢献度は高かったよ。
君の洞察と推測は素晴らしい・・・我々の研究にはもはや無くてはならない貴重な人材だよ。
僕はね・・・笑わないで聞いてくれ給え・・・何故かいつも君の姿に『ナイルの娘』を重ねてしまうんだよ。」
オスディミール博士は少し照れたようにキャロルに微笑みかける。
「まったくじゃ!わしと博士があと20年も若けりゃ、メンフィス王とイズミル王のように奪い合ったかもしれんのう」
ブラウン教授のいつもの調子に皆が笑った。
「いくら何でもこんな老いぼれ二人じゃ、キャロル君に悪いよ。
この小さな『二人の王』に怒られてしまうよ!」
博士はそう言いながら、厚みのある大きな手でメイスとイミルの頭を撫でた。

皆は一瞬の間、笑いを止めて彼らの凛々しい双眸に見入った。
小さな二人の王―――
そう、小さな彼らにはそう呼ばれるに相応しい、何人にも犯し難い不思議な気高さがあるのだ。
「本当に・・・小さな王者じゃな!わしの負けじゃ」
おどけるブラウン教授に、博士もキャロルもまた笑った。ライアンも煙草を口端に咥えたまま、クスクスと笑う。二人の子供達も無邪気な笑顔を見せていた。

すべての準備を整え終わった、オスディミール博士、ブラウン教授、ライアン、そしてキャロルと子供達は、改めてゆっくりと会場内の展示品を見て回った。
『エジプト・ヒッタイト展―ナイルの娘と二人の王―』という題目で、いよいよ明日から世界へ向けての公開となる。


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エジプト・ヒッタイト両王朝の繁栄をありありと物語る贅をつくした宝物、生活様式を偲ばせる調度品が磨きこまれたガラスケースの中にひっそりと佇んでいる。
三千年の歴史を越えて、明日、再び日の目を浴びるのだ。
会場内はどこか厳粛な空気と静寂に満ちていた。

中央にはメンフィス王の黄金のマスクとイズミル王の胸像と甲冑が、互いに向き合うような形で並べられている。
古代に名を馳せ、若くして散った勇猛な二人の王。
一人の娘を愛し、戦った二人の男。
睨みあうように向かい合った二人の像の間に立ち、遥かな歴史に思いを馳せれば、今なお男達の熱い眼差しと息吹が感じられるようだった。

会場の一角にはナイルの娘に関する埋蔵品が一同に並べて展示されている。
いずれの王の妃になり得なかった彼女に関する遺品が、王の屍と共に手厚く埋葬され、この様に後世に残ったのは奇跡的であると言える。
家臣達からの信望の厚さ、そしてそれぞれの王の寵の深さの賜物であろうか。

メンフィス王がナイルの娘に贈ったとされる、黄金の装飾品や宝玉の数々。
婚儀に向けて描かれたという未完の壁画には、仲睦まじく寄り添うファラオと娘の姿。
そして、ナイルの娘の姿が消えた後も忘れる事ができず、生涯にわたり捜索を続けたイズミル王が、彼女をしのんで作らせたと言われる陶板やレリーフ。
そこには、在りし日のキャロルの姿が生き生きと描かれていた――――


それらを前にして、キャロルは何故か静かに溢れる涙を止める事ができない。
不思議な感傷であった。哀しいような、切ないような・・・それでいて幸せであるような。

宮廷の華やかな喧騒。
燃え立つ炎の轟音。
激しく叩きつける雷雨。
男達の熱い肌。
突風のように駆け抜けては、一瞬にして深い記憶の底へと沈みゆくそれら。


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遠い歴史の果てから、記憶の中の恋人達が呼ぶ声がする。
目の前に、白い砂漠と青い空の融合する遥かな地平線が広がるような気がする。
地平線の彼方から風に流れて聞こえた砂漠の民の唄は、こんなだっただろうか。


  ―――だれにこそ告げん・・・・・
      
      わがケメトに ソティス星 現われし時
      黄金に輝ける乙女 イテルの岸に立つ

      そは イテルの女神 ハピの産みし娘なり―――


ライアンがキャロルの頭を抱いて、そっと胸に寄せた。
母親に寄り添い、その様子をじっと見守るように見上げるメイスとイミル。
キャロルは愛しい子供達の小さな手を握りしめ、ライアンの胸の中で、声も立てずに泣いた。
失った空白の日々のなか、誰かを愛した。
たしかに、たしかに誰かを心から愛したのだ。


二人の王の像がキャロルの後姿をそっと見守っていた。
会場の照明を受けて、少年達の手の中で黄金のホルスと白銀の短刀が鮮やかな光を放っていた。
それは、遥かな時を超えて今なお変わることなく――――

―終―

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