『 記憶の恋人 』 121 「ならば・・・キャロル、今を限りに奴の事は忘れるのだ!! 良いか!私も全てを忘れる!!・・・そなたも忘れろ・・・決して思い出すな!!」 「メンフィス・・・」 しかしそれでもキャロルの胸の中によぎるイズミルの姿を消す事はできない。 メンフィスへの愛を変えられないと同様に、王子への愛も変える事はできないのだ。 それを鋭く察したメンフィスは、他の男の姿など胸に浮かばせまいと、キャロルを更に強く抱き寄せる。 「キャロル・・! 忘れさせてやる・・・そなたは私を愛してさえいればよい! ・・・私に任せろ!全て忘れさせてやる! おお、二度とこの胸に他の男の姿など思わせはせぬ!!」 大きな手がキャロルの両頬を捉え、唇を奪う。そして、また強く体を抱きしめる。 メンフィスの苦渋に満ちた心の叫びが、彼の熱い肌を通して伝わってくるような気がした。 キャロルの心の中は激しい葛藤が嵐のように吹き荒れる。 キャロルはメンフィスの広く逞しい胸に身を寄せて、考える。 メンフィスへの愛情とイズミルへの愛情は、決して共存を許されぬ存在。 しかし―――どちらをも愛している――― キャロルの為とあらば、命の危険もかえりみず炎の中へも身を投じる男達。 彼らはキャロルを深く愛し、キャロルも心から彼らを愛した。偽りのない心で。 メンフィスへの愛も、真実。そしてまたイズミルへの愛も、真実なのだ。 どちらかを選ぶ事なんてできない。 どちらかを選び、どちらかを捨てる事など、どうしてできようか。 キャロルは目を閉じて、メンフィスの心音に耳を傾けた。 規則正しく力強いその鼓動は、何とも言えぬ安らぎを与えてくれる。 愛しい人の鼓動と自分の鼓動がゆっくりと同調し重なり合う時。 それはささやかで、しかし何よりも幸せな一瞬。 いつだったか、王子の胸にこうして抱かれた時もやはり同じ事を感じたものだ。 122 この身を二つに割ることができたなら。 二人のどちらをも愛する事が許されたなら。 ――しかし、それは叶うはずもない、虚しく愚かな願いであった。 それならば・・・・・・一人で生きよう。 どちらをも愛するが故に、どちらからとも離れて一人で生きよう。 二人の王者の輝かしい生涯を影ながら見守る歴史の傍観者として、一人古代に残る。 そして、この身が滅び、いつしか土に還るその日まで、二人の王者を愛し続けよう―― キャロルは心を定めると、深く呼吸を吸い込んだ。 まず、何をおいても、王子を助けなければならない。 彼が今、生きているのかどうかもキャロルには分からない。 矢傷に倒れ、その後どうなったのか。もはやメンフィスの手によって殺害されたのかも知れない。 それでもキャロルはかつてイズミルがそうしてくれたように、体を張ってイズミルを助けなければと思った。 例えメンフィスの怒りを買う事になっても、この命と引き換えにしても、彼の命だけは助けたいと思った。 そして、もうひとつのキャロルの願い。 それは――メンフィスと真に結ばれる事。 メンフィスとの思い出の最後に、彼との至福の時が欲しかった。 メンフィスのこの胸に抱かれる日をどれほど夢見てきた事か。 あの神殿の炎の中で死を覚悟した時、メンフィスと結ばれずに死ぬ事がどれほど悔やまれた事か。 メンフィスの熱い胸の中、キャロルは閉じていた瞼をゆっくりと開き、その青い透き通った瞳で縋るように男を見上げ懇願する。 瞳の中には強く光る揺らぎのない何かがあった。 「メンフィス・・・私をあなたのものに・・・して。 前にも言ったわ・・・。宮殿の奥庭で・・・あの時は叶わなかったけど・・・ 今、あなたのものにしてください・・・!」 わずかに震える唇から、途切れ途切れに漏れる小さな声。 「キャロル・・・?」 「メンフィス・・・お願い・・・今・・・今・・・」 123 メンフィスは戸惑った。 昨夜、怒りと嫉妬に狂い逆上のあまり、酷い抱き方をした。 何より愛しい娘を、よりによって我が手で傷つけてしまった事は、彼にとっても相当な痛手であった。 今こうしてキャロルに触れる事さえ躊躇われるというのに・・・。 「しかし・・・。そなた・・・まだ体が痛むであろう?」 キャロルはメンフィスの首に縋りついて、ただ首を横に振った。 あなたが欲しいのだと、キャロルの全身は切なる叫びをあげていた―― 「キャロル・・・キャロル・・・!おお・・・!!」 キャロルたっての哀願に抗えるはずもなく、メンフィスはキャロルに深い口づけを施しながら、寝台の上に彼女の体をそっと横たえた。 白い体の隅々に舌を這わせると、キャロルは敏感に反応し始める。 甘い声、切ない吐息。その一つ一つに、彼女の体が、心が、痛いほどに切なくメンフィスを求めてくるのが伝わってくる。 メンフィスを何よりも歓喜させる、女の悦びを表すその仕草。 しかし。 以前は反応を見せなかった箇所にさえ、キャロルは切なく体を震わせて啜り泣くような声を漏らす。 それは、キャロルの体の上にイズミルの色濃い影を見るようで、メンフィスの胸を激しい怒りと嫉妬で埋め尽くす。 (イズミル・・・許さぬ・・・決して許さぬ!!) 124 Ψ(`▼´)Ψ 焼け付くような嫉妬と怒りを呑みこむように抑えながら、メンフィスはキャロルにそっと触れる。 昨夜のあまりに酷い抱き方を償うかのように肌に優しく唇を滑らせて、目には見えぬ傷を癒そうとする。 メンフィスの指と唇がキャロルの全身を這う。 それに呼応するようにキャロルの白い手も、メンフィスの肌をなぞる。 愛しい男の顔、肩、胸・・・そのすべてを心に刻み付け、決して忘れる事のないように。 二人は、長い間この時を待っていたのだと、心の中で何度もそう叫びながら、お互いを強く求め合った。 メンフィスがキャロルの花芯に甘やかな口づけを授ければ、白い体はしなやかに撓ってそり返る。 感きわまった悦びの啜り泣きが、薔薇の唇から途絶えることなく漏れる。 蜜で濡れそぼる二枚の花びらを押し分けて、メンフィスの昂ぶりがそこを貫いた時、キャロルは気が遠くなるような強い悦びを感じて、思わず彼の背中に爪が食い込むほど強くしがみついた。 男の熱い体で、熱く潤むそこを慰められても、鎮まるどころか更に熱を増すばかりであった。 狂おしい快楽の中に果てるまで、メンフィスはキャロルを愛した。 キャロルも彼を求めた。 二人の体は一つになる。これ以上は溶け合えないという所まで――― 125 翌朝。 激しい雨音と体に響く雷鳴にキャロルは気だるい眠りから目覚め、うっすらと瞼を開けた。 睫毛の先に、自分を見つめる黒い瞳を見つけた彼女は、柔らかな微笑を返す。 「ひどい雷雨ぞ・・・稲光で目を覚ましたか?」 目の前にある美しい男の顔も、ゆっくりと彼女に微笑みかける。 愛しげに頬を撫でる大きく優しい手。 「そなたを・・・やっと私のものにした。 どれ程に・・・そなたを求めてきた事か」 メンフィスは自分の胸にかかる黄金のホスルの胸飾りを外すと、それをキャロルの首にかけてやった。 ずっしりと重い、ファラオの印。 王家の紋章が中央に刻印されたそれを、キャロルは手に取ってまじまじと見詰めた。 「それをそなたに与える。 そなたは・・・もはや私の妃となったのだ。今後は私の妃の証として、それを身につけよ」 メンフィスはキャロルの唇を啄ばみながら、黄金の柔らかい巻き毛に指を差し入れ、指先に絡めて弄ぶ。 口づけだけでも息を甘く弾ませるキャロルに、メンフィスの体は早くも反応を示し始めた。 メンフィスは軽く舌打ちし、キャロルから唇を離した。 「・・・まだ・・・まだ足りぬ・・・! しかし・・・そなたの体を慈しんでやらねばならぬ。あまり私を惑わせるな・・・」 メンフィスはキャロルから体を離し寝台から抜け出すと、昂ぶる自身を何とか宥めながら、衣装を身につけた。 キャロルは寝台に横たわったまま、均整の取れたメンフィスの後姿を眺めた。 流れるような艶やかな黒髪に覆われた、筋肉質の背中。引き締まった腰。 そして短い衣装の裾から真っ直ぐに伸びるしなやかな長い脚。 メンフィスの何もかもが愛しい。 何もかもが心を捉えて離さない。 キャロルは自分がどれ程メンフィスを愛していたのかを改めて自覚する。 126 部屋を出て行こうとするメンフィスを見て、キャロルは思わず起き上がろうとしたが、体が重く力が入らない。 メンフィスの手が優しくキャロルを制した。 「おお・・・無理を致すな。そなたは、今日は一日寝ておれ。 私は今から出かけるが、夕刻までには戻る。 それまで大人しくしておれ・・・良いな」 メンフィスはキャロルの頭を抱き寄せて、再び唇を重ねた。 これが最後の口づけかも知れない。 キャロルは胸の中で彼の名を呼んだ。 瞼の裏を熱く濡らす涙を見せぬように、メンフィスの背中を強く抱いて、その愛しい名前を心で呼び続けた。 なかなか唇を離そうとしないキャロルに、メンフィスは嬉しくも困惑し、優しく諌めた。 「キャロル・・・離せ。もう、行かねばならぬ」 縋りつくような青い瞳の真意を知らぬメンフィスは、そんなキャロルをただ愛しいと思う。 だから、情熱の冷めやらぬ熱い瞳で彼女を見つめずにはいられない。 まだ熱さの残る体を抑えて、優しくキャロルの肩を抱く。 「十分に体を休めよ・・・。 今宵もまた・・・そなたが欲しい・・・!」 キャロルは目を閉じて、静かに頷くしかなかった。 愛しい娘の姿を瞳の淵に映しながら、メンフィスは翳りのない笑顔を残して天幕を出て行った。 その逞しく雄々しい男の背姿は、今のキャロルにはただ眩しかった。 涙で目の前が滲むほどに・・・眩しかった。 ―――さようなら・・・メンフィス――― 127 メンフィスは降りしきる雨の中、王子を監禁している天幕へと足を向ける。 (キャロルは私の胸へ戻った!!私の妃となった!! ――もはやイズミルに用はない。 後はあの忌々しい男の息の根を止めるだけぞ。 ええい!何度思い返してもはらわたの煮えくり返る・・・どうして殺してくれようか!) キャロルは涙を拭いて、重たい体を起こし衣装を纏った。 鉛のような不安が胸に渦巻いてのしかかる。 (王子・・・どうか、生きていて! あなたの命だけは何としても助けるわ・・・!) しかし、どれほどに王子を助けたいと願っても、彼の居場所も、生死すらも彼女には知る術がない。 それでも、行かねばなるまい。 これだけは、やり遂げなければならない使命なのだと、キャロルは自分に言い聞かす。 イズミルを探して救い出し、無事を見届けさえすれば・・・その後は姿を消すだけ―――― 128 キャロルがベールで顔を覆った時、外に轟くような馬蹄の音と兵士達の雄叫びがこだました。 叩きつけるような雷雨の音に入り混じり、外の様相は混乱を極めていた。 「なっ・・・何が起こっているの?!」 キャロルが天幕の外へ飛び出そうとした時、数人の兵士が雨と共になだれ込んで来た。 「きゃぁぁぁっ!!」 「姫君・・・お助けに参りました!」 エジプト兵の甲冑を身に纏ったルカは、そう言いながらキャロルに微笑んだ。 「あ・・・あなたは・・・」 「さあ、早く! 王子のご指示で、奇襲をかけました。 もともとエジプト陣営には我らの兵士を潜ませておったのです。 ぐずぐすしてはいられません! エジプト軍の大軍には、今の我が軍の兵数では敵いません。 王子はご無事です。後はあなたを救出すれば、我々はすぐに撤退して引上げます!」 「あ・・・あの・・・待って!待って!!」 キャロルの狼狽を物ともせず、ルカは強引に彼女の手を引き、エジプト兵に変装した数名のヒッタイト兵で護るようにしながら天幕の外、降りしきる雨の中へと連れ出した。 「ヒッタイトの奇襲ぞ―――!! 何をしておるかっ!エジプト兵に扮装しておるが、数は少ない! 紛らわしい奴らめ、早く取り押さえろ! 衛兵、持ち場を固めて死守せよ――っ!! 奴らの狙いはイズミルとキャロルぞ、守備を固めよ!」 メンフィスは響き渡る怒声で兵士達に指揮を送りながら、息を切らしてでキャロルの天幕へと全力で走る。 「キャロル・・・キャロル――!!くっそうっ!!」 しかし、メンフィスが駆けつけた時、キャロルの天幕を守る衛兵は倒れ伏し、もぬけの殻であった。 「くっ・・・ヒッタイトの奴らめ・・・只では・・・只ではおかぬ――!!」 メンフィスは体を怒りに燃え立たせ、ウナスを振り返り叫んだ。 「ミヌーエ!ウナス!キャロルを探せ!! 決してヒッタイトに渡してはならぬ!!何があってもだっ!」 129 キャロルはずぶ濡れになりながら、ルカとヒッタイト兵に引き連れられて山道を進む。 山道の中腹に留まる駱駝と兵士の一軍の先陣に、大柄で逞しい男の姿があった。 キャロルが身を案じ続けた、愛しいイズミルの姿が。 雨に濡れた亜麻色の髪が振り返る。 「姫・・・!!おお・・・姫・・・姫・・・!!」 男はキャロルの姿を見つけるなり、ぬかるんだ道を駆け出した。 両腕を広げ、キャロルの小さな体をがっしりとした胸の中に抱きしめる。 「姫・・・!どれほど・・・どれほどにそなたの身を案じたか・・・! 何も言うまい・・・愛しいそなたが私の許へ戻ってきたのだ」 「王子・・・無事だったのね!」 しかし、キャロルを抱き寄せるイズミルの衣装の胸の辺りには真っ赤な鮮血が滲み出していた。 「王子・・・ひどい怪我を!」 「構うな。この程度の傷ではこたえぬ。 そなたを・・・二度とメンフィス王の胸には返さぬ・・・! そなたは私の・・・この私のものぞ!」 姫・・・そなたを今からヒッタイトへ連れて行く・・・もう二度と離さぬ!!」 容赦なく降り注ぐ雨は冷たく肌を濡らしても、彼の胸の中は暖かく心地良かった。 この胸とこの腕は、いつもキャロルをこうして暖めてくれた。 いつまでも、この胸に身を寄せていられたら・・・ しかし、キャロルは哀しく首を横に振った。 「―――いいえ、王子」 みるみる内に青い瞳に溢れる涙を、雨が洗い流してゆく。 130 「王子・・・ごめんなさい・・・。私はヒッタイトへは行けません・・・。 わたしは・・・今もあなたを愛しく思ってる。今も変わらず愛しています! でも・・・それでも・・・やっぱりメンフィスも・・・同じくらい愛しているの! 誰かを選ぶなんてできない。 誰を選んでも、私は悔やむわ。きっと・・・きっと、悔やむわ! だから・・・! 私は・・・私は・・・誰をも選ばず、一人で生きます!!」 キャロルの瞳も、唇も、声も震えていた。 しかし震えてはいても、強い意志を秘めて凛と響く声。 イズミルは断腸の思いで、キャロルを力任せに抱きしめた。 「おおお・・・・!!聞かぬ・・・そのような言葉は聞き入れぬ!聞きたくない! 私を愛しておるなら、私と共に参れば良い! 逆らっても無駄な事など、分かっておろうが!力ずくでもそなたを連れてゆくぞ!! そなたを必ず幸せにしてやる・・・メンフィス王の事など忘れさせてやる!」 しかし、キャロルはイズミルの抱擁を腕で押さえて、彼の瞳をまっすぐに見つめて問う。 「王子、わたしエジプトでの事を全て思い出したの。 メンフィスを愛していた事・・・メンフィスを失くしたと思って・・・自殺しようとした事も・・・! なのに、その後が思い出せない・・・!思い出せないの! ねぇ、教えて・・・王子。 わたしは・・・どうやってメンフィスへの思いを断ち切って・・・どういう風にあなたを愛し始めたの? あなたを愛した過程を・・・どうしてもわたしは思い出せないの」 イズミルは真摯に問うキャロルの瞳から、思わず目線を逸らした。 それは、何よりも触れられたくない傷であった。 「王子・・・わたし、あなたを愛していたのよね?崖から落ちて記憶を失う前も・・・ あなたの妃になると約束して・・・あなたのものに・・・なったわ。 メンフィスを愛してた事をまるで忘れてしまったみたいに・・・あなたを愛して・・・」 イズミルは雨に打たれながら、堅く目を閉じて眉根を寄せたまま何をも答えない。 それらの問いの前に、呼吸すら止めたかのように動かぬイズミル。 「王子・・・?」 |