『 記憶の恋人 』 111 「くっ・・・ぬけぬけと・・・! 何と申し開きしようと、許さぬ!許さぬぞ――!」 更にメンフィスはイズミルを打った。 王子の胸は鮮血で染まり、苦しげな荒い呼吸で波打つように上下する。 拘束され痛めつけられても尚、その琥珀の瞳だけは落ち着いた涼しげな光を宿している。 その乱れのなさが、またメンフィスの逆鱗に触れる。 「つくづく・・・強情な男よ! 普通の男ならばとっくに気を失っておるであろうに・・・呆れた奴だ!」 メンフィス自身も息を荒げながらイズミルの前に歩み寄り、身動きできぬ彼の顎を鷲掴みにして上を向かせた。 「貴様の様な男を痛めつけるに、このような鞭など何の役にも立たぬわ! フン・・・良い事を聞かせてやろう。 イズミル!よく聞け・・・私は」 顎をグッと引き上げ、琥珀の瞳を間近に捉えて睨みつける。 「――キャロルを抱いた」 瞬間、イズミルの顔から血の気が失せた。 瞳が驚愕と怒りに震え始めるのが手に取るようにわかる。 畳み掛けるようにメンフィスは続けた。 「何度も・・・何度も、だ!キャロルは私のもの!もはや貴様の跡など何も残ってはおらぬ!」 憎い男の顔が苦悩に歪むのを見てもまだ満足せぬ様子で、メンフィスは更に鞭の音を唸らせる。 彼の意識が遠のく寸前まで痛めつけた。 112 メンフィスが去った後、イズミルは戦慄くような震えを押さえる事ができなかった。 体の底から込み上げる耐え難い怒りと絶望に、歯を食いしばったままの唇から獣のような声にならぬ低い唸りが漏れる。 メンフィスの男らしい体に組み敷かれる白い体を想像するのは、生きながらはらわたを引裂かれるような苦しみであった。 それに比べれば、鞭打たれた痛みなど単なる熱さでしかない。 「おお・・・姫・・・! そなたは・・・メンフィス王に抱かれたのか・・・! 今どうしているのか。 メンフィス王に抱かれるは・・・本来・・・そなたの宿願であったはず! ・・・メンフィス王への恋慕を思い出し・・・私を怨むか・・・! それとも・・・やはりそなたも絶望の渕にあるのか!!」 王子はキャロルと過ごした日々を胸に浮かべた。 それは孤独に生きる事をむしろ好んで生きてきた彼にとって、愛しい娘とのめくるめく幸せに満ちた甘い蜜月、生涯に於いても至福の時であった―― 113 キルケーの秘薬を飲ませた後、昏々と眠り続けるキャロルを王子は片時も離さず腕の中で見守った。 そして三日三晩にわたる長い眠りの末に、キャロルはイズミルの胸の中で目を覚ましたのだ。 キャロルの澄んだ瞳が、心配そうに顰められた琥珀の瞳をまっすぐに見つめた。 その青い瞳に、もはや死を匂わせるような暗い哀しみの翳りはなかった。 「王子・・・?」 透き通るように青い宝玉の瞳の少女を、王子は胸の中に抱き込んで、彼女が痛がる程にきつく抱きしめた。 「おお・・・無事に目覚めたか・・・私の姫よ・・・!」 その後の彼女は秘薬の口上通り、メンフィスに関する一切を忘れており、その薔薇の花のような唇が恋敵の名を呼ぶ事は無かった。 しかしながら、キャロルの心はまだ不安定であった。 彼女の心の中の大部分を占めていた何にも代えがたいメンフィスとの思い出や恋慕の全てを薬で奪われたキャロルの心には空虚の穴がぽっかりと空いていた。 思い出を消し去っても、愛しい男が心に住んだ場所までもを消す事はできなかったのだ。 「誰かがわたしを呼んでいる気がする・・・」時折、不安げに呟くキャロル。 しかし、心の底に眠る何かを思い出そうとすればする程、それは遠ざかり、キャロルに虚無感を残すだけであった。 イズミルは何にも増してそんなキャロルを愛しんだ。そしてキャロルの心は日ごとに彼に傾いていく。 最初は寂しさを癒してくれる存在というだけの理由だったのかも知れない。 しかしキャロル自身も気付かぬうちに、彼を一人の男として深く愛するようになっていった。 秀麗な面差しに逞しく男らしい肢体、誰よりも優しく彼女に一心に愛を注ぐイズミルを、キャロルが厭う理由など最初からどこにも無かったのだ。 そして、イズミルは最初から感づいていたのだ。 自分がそうであったように、キャロルもまた初めて会ったその日に自分に好意を抱いたという事に。 彼女の体を抱きしめ口づけした時、彼女の心と体は激しく葛藤していた。 メンフィスへの強い思いがイズミルを意識的に遠ざけたが、キャロル自身はイズミルのもたらす甘い官能に酔いしれて抗う事すらできなかったのだから。 114 心の不安を埋めるかのように、キャロルはいつもイズミルの姿を探し求め、少しでも彼が側を離れるとたちまちに異常なまでに寂しがるようになっていった。 イズミルが添い伏して寝てやらなければ、キャロルは眠れない有様だった。 イズミルの側で彼の温もりに抱かれる時だけ、彼女は温かい何かで満たされる気がして心休まるのだった。 どうしようも無いほどに手のかかるキャロルであったのに、その苦労すらイズミルには幸せで、不憫さが一層に愛しさをいや増しにするばかりあった。 イズミルの胸の中に罪悪感が無かった訳ではない。 きっとキャロルにとっては、メンフィスへの思慕を忘れ他の男を愛して暮らすなどとは最も厭わしい事だったに違いない。 メンフィスを忘れるくらいならば死を選ぶ、と彼女なら言っただろう。卑怯者と罵るかも知れない。 しかし、それでもイズミルはキャロルが欲しかった。 かつてアイシスに「愛する者の心を欺いて手に入れたいとは思わぬ」と言い放った彼ではあったが、キャロルが自ら命を絶つのであれば、自分が卑怯者に成り下がったとしても彼女を手元に置いておきたかった。 キャロルの心を騙しても、それを償い贖う程に愛して幸せにしてやれば罪は報われると思ったのだ。 (そなたの寂しい心を・・・私の想いで溢れるほどに埋めてやろうぞ・・・!) 自分を恋い慕うキャロルを前に、イズミルの男の欲望は当然の事ながらキャロルと結ばれる事を求めていたが、彼はことごとく自分自身のはやる心を制していた。 いかに秘薬がキャロルを妖かそうとも、彼女の生身の心はまだメンフィスを失った痛手に血を流しているはずだ。 ゆっくりと時間をかけてキャロルの心を完全に自分のものにすれば良いと、イズミルは大きくゆったりと構えていた。穏やかに彼女を見守って行きたい、そう思っていた。 しかし、そんなイズミルを脅かす知らせが舞い込んだ。 ―――メンフィス王は生きていた! 神殿崩落の折にナイルに飛ばされ、流された所を民に助けられメンフィス王の葬儀が執り行われる最中、生きて帰還したのだと――― イズミルの心は音を立ててざわめき出す。 彼の心は叫んでいた。キャロルを、愛する娘を失いたくない。 メンフィスは必ず後を追ってくる。 必ずキャロルを奪い返しに来るはずだ。地の果てまでも――!! 115 イズミルは昼夜を徹して、ヒッタイトへの帰路を急いだ。 夜の砂漠を駱駝で渡る。 腕の中に愛しいキャロルを抱き、その温かみを何度も抱きしめては確認した。 そして煌々と光る白銀の月のもとで、ついにイズミルはキャロルに求婚を囁いた。 「姫・・・そなたを私の妃に。愛している。未来永劫に私の妃はそなた唯一人だ」 キャロルは少し驚いた様に彼を見上げ、そして恥らいながらも嬉しそうに微笑を浮かべて頷いた。 「王子・・・わたしも・・・。わたしもあなたを愛しています」 キャロルの返答は、イズミルを一気に燃え上がらせる。 頬を撫でる砂漠の冷たい夜風さえ、今は肌に熱い。 駱駝の上で押し倒さんばかりにキャロルをきつく抱きしめ、愛しい言葉を紡いだキャロルの唇を口づけで覆った。 どれほどにキャロルを愛しく感じた事か! この時イズミルは、愛しさの余りこのまま口づけでキャロルの息の根を止めてしまいたいと思うほど、凶暴なまでの独占欲と征服欲に駆られた。キャロルを自分のものにしてしまいたい―― 股間で眠っていた自身はもはや抑えの効かず荒くれた獣のようにいきり立ち、キャロルの体をあからさまに押し上げる。 キャロルも只ならぬイズミルの興奮と欲情を肌で感じ取り、腕の中で妖しく浅い吐息を繰り返す・・・ 116 その夜、イズミルの一隊は砂漠に陣をとり幕舎を張った。 初夜を過ごすにはあまりにも殺風景な天幕の中の寝台ではあったが、そんな事は気にも留まらぬほどに、お互いを求めイズミルもキャロルも昂ぶっていた。 震えるキャロルを宥めながら、イズミルは優しくその白い体を愛撫する。 キャロルは甘い吐息を漏らしながら、柔らかな体を熱く燃え立たせ甘美な吐息でイズミルを求める。 イズミルが花びらと真珠を指で弄ればたちまちに達してしまう程、彼女は敏感になっていた。 艶めかしいキャロルの姿に深い悦びを覚えながら、イズミルは執拗に唇や舌までもを使ってキャロルを責め立てる。何度も昇りつめるキャロル。 堪らずイズミルが彼女の中に自身を埋めた時、彼女は苦痛に悲鳴を上げて泣き叫んだ。 慌ててイズミルは彼女と繋がっている部分に目をやって、思わず目を見張った。 赤い鮮血が寝台を濡らしていた。 「そなた・・・初めてだったのか!」 イズミルは痛みに咽び泣くキャロルの体を愛しげに抱きしめ、いまだ感じた事のないような歓喜の波に胸が鼓動するのを感じていた。 メンフィス王の熱愛ぶりを重々に目の当たりにしていたイズミルは、とっくにキャロルはメンフィスの愛を受けているものだとばかりに思っていた。 ――しかし、彼女はこの時まで乙女であった! それは、いかにメンフィスが彼女を大切に扱っていたかが、ありありと伝わってくるようにも思えた。 117 しかし・・・ 行為を終えた後、イズミルの胸の中でまどろむキャロルの頬には一筋の涙が零れていた。 それは、イズミルと結ばれた喜びの涙と取るには、あまりに切なく哀しさを湛えた涙であった。 「どうして涙が溢れるのかわからない」キャロルはそう言った。 しかしイズミルだけがその涙の意味を知っていた。 妖かされた心の底で、キャロルは涙を流しているのだと。 メンフィスではなく・・・イズミルに抱かれ女になった自分を責めて嘆いているのだと。 イズミルは涙を流すキャロルに、そして神に誓った。 「そなたを・・・この私の生涯をかけて幸せに致す! おお・・・決して離しはせぬ。何があろうと・・・命かけてそなたを愛しぬくぞ」 それからの数日間は、まさにイズミルにとって最も幸せな時であった。 完全に我が物になったキャロルを誰に遠慮もなく、心ゆくまで愛しむ事ができたからだ。 またキャロルも、イズミルの激しいほどの求愛に恥らいながらも悦んで応えてくる。 愛しい男の昂りに息も出来ぬ程に煽られ、それで体を慰め鎮められる悦び・・・キャロルは生まれて初めて知った恋人同士の甘い快楽に夢中になっていった。 夜毎キャロルを抱いても更に欲望は増すばかりで、イズミルは己の貪欲さに我ながら呆れ果て苦笑を漏らした。 日を追うごとに狂おしいまでに愛しさが募ってくる。 もう何があっても手放す事などできない・・・ 118 そんな時、ヒッタイトの野営地が突然に奇襲された。 エジプト軍であった。 イズミルは剣を取り、先頭を切って指揮にあたった。 しかしそれはイズミルの予想を裏切り、メンフィスの軍ではなく、アイシスと側近ナクト将軍の率いる大軍であった。 アイシスは明らかにキャロルに狙いを定め、それを攻防するうちにイズミルとキャロルは次第にヒッタイト兵から孤立していった。 そして、数で勝るエジプト兵はイズミルとキャロルを執拗に追い立てる。 激しい豪雨の降りしきる中、追い詰められたイズミルは自分が囮となり追手をかわそうと試みたが、それは結果としてキャロルを見失う事となってしまった。 苦戦の末エジプト兵を撒いて何とか逃げ切ったイズミルは必死でキャロルを探した。 そして、崖下で横たわる彼女を見つけたのだった――― 今のイズミルにとって唯一の心の救い、それは崖下に転落し一切の記憶を失ったキャロルが彼を愛するようになったという事実――それだけだった。 秘薬の力でなく、何を仕組んだ訳でもなく、彼女はただ純粋にイズミルを愛するようになったのだ。 119 イズミルは甘やかな日々の想い出を大切に胸に仕舞いながら、鋭い顔つきで前方を見据えた。 「こうしてはおれぬ! メンフィスの許からそなたを奪い返すぞ・・・この命に代えても!!」 イズミルは縛り上げられた両手首を何とか外そうと必死でもがいた。 矢傷と胸一面に広がる鞭の傷からの流血に構いもせず、イズミルは髪の中に仕込んだ鉄刀を手に取ろうと身を捩った。 何としてもキャロルを再びメンフィスの手から奪い、ヒッタイトへ連れて行くのだ。 ヒッタイトへ帰国すればすぐに戴冠の儀をすませ、国王としてキャロルを正妃に迎え婚儀を上げるのだ。 イズミルの監禁されている天幕の外には数多のエジプト兵が守りについている。 単身抜け出す事など不可能であるが、イズミルはかねてよりエジプト軍に送り込んでいた間諜がこの場所に気付きさえすれば、何とかできると算段を踏んでいた。 今キャロルがメンフィスの胸にいるのだと思うと、居ても立ってもいられない。 (おお・・・何としても・・・そなたのもとへ行くぞ・・・! 例えこの身が滅びようとも、そなたを再びこの腕に取り戻す!) 120 メンフィスはキャロルの天幕へと戻って来た。 丸一日昏々と眠り続けるキャロルの口許に、水を含ませてやる。 メンフィスは寝台の脇に腰を下ろしたまま、形状のつけがたい複雑な表情でキャロルを見つめていた。 キャロルの瞳がうっすらと開き、ゆっくりとメンフィスの顔を見る。 メンフィスはそっと手を伸ばし、キャロルの頬を撫でた。キャロルの体に一瞬の緊張が走る。 「私を恐れるか・・・?」 キャロルは首を横に振った。 昨夜のメンフィスは恐ろしかった。 あれは、メンフィスではない誰か他の男だとしか思えなかった。 でも、それでも。彼を愛しいと思う気持ちが変わるはずがない。変えられるはずがない。 メンフィスは何も言わず、ただキャロルを胸に抱きしめた。 胸の中にひしめく苦渋の想いが、端整な男の顔を痛ましい程に歪めていた。 こんな風に何かに酷く苦しむメンフィスを、キャロルは今だかつて一度も見たことが無い。 メンフィスの心の傷のほうが深いに違いないと、どうすればメンフィスに償う事ができるのだろうと、キャロルはそればかりを考えていた。 メンフィスはキャロルを腕に抱きしめたまま、キャロルはメンフィスの胸に抱かれたまま、お互いの体温だけを感じる静かな時が流れてゆく。 永遠に続くかのように思われた沈黙を破ったのは、苦しげに切り出されたメンフィスの問いであった。 「キャロル・・・正直に答えよ。 誰を・・・愛している?私か・・・イズミルか」 キャロルは辛い問いに思わず目を閉じる。 今のキャロルには、その答えを見つける事ができなかった。 「何故なにも答えぬ・・・? では、質問を変える。私を愛しているかどうか・・・!」 苦悶を押し殺すように問うメンフィス。 キャロルは涙を湛えた瞳を大きく見開いて、迷う事なく即答した。 「愛してるわ!」 それだけは今なお、自信を持って断言できる。 今も昔も変わらず、何があろうとメンフィスを愛している! 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