『 陽炎のごとく 』 11 「アラブの男は子沢山を誇る、君の子なら私にとっても我が子同然だ。 探し出して出来るだけのことはしよう、君が子供を産める健康体だということの証明だ。 過去の事が気にならないと言えば嘘になるが、何より大事なのはこれから先の未来だ。 私と共に生きてくれ、キャロル・・・。」 アフマドの言葉に嘘はないだろうとキャロルも思う。 けれど眠ると毎晩のように思い出される愛し合う、自分でも覚えていない体の記憶が自分を苦しめる。 必死になってかきくどく、普段のアフマドとからは考えつかないその様子に、キャロルの気持ちも流されそうになる。 「私・・・私を愛した人の顔も髪や目の色もわからないけど、それでもその人を愛しているってわかってるわ。 毎晩のように身体の記憶が蘇えってくるのよ、それでもいいの?いやでしょう?」 それは取りも直さず、キャロルがその男を愛していると言う事の告白だった。 「だがもう二年も経っているのに、その男は君を捜している気配すらない。 私ならそうはしない、君を放したりはしない!二年もだ! 愛しているよ、私の側にいてくれ、君しか欲しくない」 アフマドの情熱はついにはキャロルに消極的だが承諾の小さな声の返事を勝ち取った。 「婚約だけでもして公表しよう、結婚式は盛大なものになるだろうから、時間が必要だ。」 喜びに溢れたアフマドの言葉を聞きながら、キャロルは不安を打ち消すことはできなかった。 本当によかったんだろうか、間違ったことをしてるんじゃないのかしら? 誰かが何かを囁いて自分を呼んでいるような錯覚を感じながら、今は頼るべきところがここしかないアフマドの腕の中で キャロルは瞳を閉じた。 12 アフマドとの婚約は公表され、キャロルとアフマドは華やかな祝福を受けた。 その存在を主張しているかのような左手の薬指に煌く、キャロルの瞳に合わせた大粒のサファイアをつけた婚約指輪がキャロルの目にとまるたび、胸がざわつくような不安に襲われる。 本当にいいの?愛があるならどんなことでも乗り越えられるのに、どんな苦しい戦も自分は戦えるの? 戦う・・・と自分の脳裏に浮かんだ言葉に、はっとしてキャロルは大きく青い瞳を見開いた。 「私・・・なにと戦うの?・・なんでこんな言葉が出てくるの?」 そういえば白い肌には年月の経った古い傷跡がうっすらと残っている。 何をしていたのかわからないが、切り傷のようなものすらある。何をしていたのだろう? 「キャロル、どうかしたのか?」 アフマドは何かの箱をキャロルに手渡した。 「これを渡すのを忘れていたよ、君には辛いかもしれないが、何かの参考にはなるかもしれないからね。」 「まあ・・・きれい。古代の・・ヒッタイトの衣装ね、なんて見事なのかしら!」 箱を開けるとそこには古代作りのヒッタイトの衣装が入っていた。身分の高い女性もののようで豪華かなつくりになっている。 「プレゼントなの?ありがとう」とアフマドに顔を向けると、意外にもアフマドの表情は曇ったものだった。 「それは君を地中海で見つけたときに、君が身につけていたものだ。 本物の古代作りのものだそうだよ、覚えていないのか?辛くはない?」 アフマドはキャロルのことを調べ、子供のことも調べてくれているようだ。 そしてキャロルがショックを受けないかと心配しているのである。 「・・優しいのね、ありがとう、アフマド。私は大丈夫よ。 不思議ね・・・一体何故こんなものを身につけていたのかしら?」 衣装を手に取りながら思い出そうとしても、何も分からない。 「・・・でも君に似合う色を選んであるようだな、ほら、よく映えてる。 そうだ、そろそろ結婚式の衣装も注文しなければ。」 アフマドがその衣装をキャロルの肩にかけ、話しているのを聞きながら何か、小さなトゲでもひっかかったような感覚をキャロルは味わった。 ・・そう・・誰かが私に・・・と注意を払い、吟味をして・・選んだのだ・・・。 誰だったかしら? 13 幸福な時期であろうキャロルなのに、だんだんとやつれていくようにも見えるのはどういうわけなのであろう? 研究が忙しいとはいえ、目の下に隈などを作り、元々小さな顔立ちが更に一回りも小さく見える。 アフマドがキャロルの元を訪れても、笑顔で迎えてくれるのはよいのだが だるそうにソファやカウチに身体を預けてしまう有様である。 「一体どうしたというんだ、キャロル。弱っていくばかりじゃないか。 君が研究熱心なことは知ってるが、これでは死んでしまうぞ。 休暇でもとろう、ナイル川からクルージングして私の国で療養してくれ。 それとも何か問題でも、不安でもあるというのか?」 アフマドの心配そうな声に、弱弱しく首を左右に振った。 「・・・何もないのよ、アフマド。ただ・・眠るのが恐いの・・・。 眠ると・・誰かが・・私を呼んでいて・・・でも何処へ行けばいいのかわからなくて・・・。 早くそこへ行かないといけないのは分かってるのに・・・・いけないのよ。 だから、つい研究に打ち込んでしまって・・。 ごめんなさい、アフマド。」 儚げに笑うキャロルの様子が、まるで今すぐ目の前から消えてなくなりそうなものだったので アフマドの背筋をぞくりと走るものを彼は感じた。 「直にも休暇を取ろう、今すぐにもでも!私が側にいて君を守ろう! さあ、そうしよう、キャロル」 アフマドは抗うキャロルをものとせず強く抱きしめた。 「大げさね、アフマド。大丈夫だから。 それに自分のことですもの、ちゃんと自分で見極めるわ。」 柔らかい口調なのに、キャロルには凛とした気品と威厳を感じてしまい、 アフマドもそれ以上強く出ることは無理なように思えた。 「では、どこか行きたいところはないのかい? ちょっとした旅行なんかどうだい?、気分転換にね。」 アフマドはキャロルから目を離すつもりなどはないようだった。 何故だか、キャロルから離れてしまうと、それはキャロルを失いかねないといった想いが どうしても胸から離れず、アフマドも食い下がる。 「・・・そうね・・昔のヒッタイト・・・トルコには・・行かなきゃならない気がするわ・・。」 そう言ってキャロルはアフマドに身体を持たせかけた。 14 「何度も来たけれど、なんだか懐かしい匂いのする場所のような気がするわ」 トルコのアンカラのラフマーン家の別邸にキャロルとアフマドはやってきた。 窓からは気持ちのよい風が流れ、キャロルの長い金髪を流す。 乱れる髪をアフマドとの婚約指輪が光る白い手で押さえるキャロルをアフマドは改めて美しいと感じ、キャロルがじき自分の妻となる事に深い満足を隠そうともせず表情に表した。 「顔色も少し良くなったようだね、ここではゆっくり過ごして欲しいものだ、私が見張るからね」 からかいを含めたアフマドの言葉にキャロルも微笑んで見せる。 「見張るだなんて大げさね、アフマド。でもここまで来たら、またたくさん見たいものがあるんですもの 一緒に行きましょう。」 「また遺跡めぐりをして泥まみれになるのかい?今回は御免被りたいよ。 私と一緒に甘いヴァカンスを過ごしてももらわないとね。」 飲み物を手渡しながら、軽いキスをキャロルの頬にするアフマドの2人の姿は何処から見てもロマンスの真っ只中にいる恋人同士そのものである。 日に日に消耗していくキャロルに休養を取らせようとしてもなかなか首を縦に振らず、結局はキャロルの希望のここに来てしまったのは間違いじゃなかっただろうか? 古代ヒッタイトの研究をしているキャロルにはお馴染の場所。 それでもあんなに喜び、心配していたように具合も悪くはなさそうで、キャロルがテラスに出て街並みを眺めている様子も頗る嬉しそうである。 自分の杞憂に過ぎない、とアフマドも安心したのか溜め息が零れ落ちた。 「風が・・・いつも優しいわね、ここは。誰かに守られているような・・・そんなかんじだわ。」 そよ風に嬲られる髪をそのままにキャロルが微笑んでいる。 「アフマドもこちらへいらっしゃいな、気持ちがいいわ。」 キャロルの呼ぶ声にアフマドは振り向いた。 こちらを向いたキャロルの背後から誰かが抱きしめているような幻影をアフマドは見た、と瞳を瞬いた。 大柄な男のような影が、まるでキャロルを守るようにとでも・・・。 それは以前カイロで感じたものよりもずっと気配の濃いもののようにアフマドには思われた。 15 アフマドは久し振りに訪れた邸内をのんびりと当てもなく歩いていた。 いつも自分の行くところに付いて回るじいとなにやら騒がしい声に気付きアフマドはそちらの方へと足を向けた。 廊下の一角で2人のメイドが半泣きになりながらじいになにやら訴え、じいがそれを諌め、この家を取り仕切る家政婦も困った表情でメイドを諌めようとするがまとまらないようだ。 「何事だ?騒々しい。折角キャロルが休養に来ているというのにこれでは落ち着かん。」 アフマドの声に一同ははっと気付きその場は静かになった。 「申し訳ありません、アフマド様・・・。ですがこの者達がお嬢様にお仕え出来ないと申しまして・・・。」 いつもはアフマドのためにどんな段取りもてきぱきと仕切ってみせるじいが珍しく困った表情をしている。 メイドがこの機会を逃すものかと今度はアフマドに訴えてくる。 「旦那様!あのお嬢様に・・・何か・・取り憑いてるんです!お休みになってらっしゃる横に影が見えるんです! 私・・・恐ろしくて・・・!」 「本当なんです!先ほどもお茶をお持ちしようとしたら・・・まるでお嬢様に被さるようにいて・・・。 私も恐くて・・・。」 必死に訴えるメイドに「いい加減になさい!お嬢様に、、もうじき奥様になられる方になんて失礼な事を言うのです!」と 家政婦が叱り飛ばすが聞く耳を持たない様子にじいも手を焼いている。 「キャロルに取り憑くだと?この21世紀の世に何を言う? もうよい、この2人は奥向きの仕事にでも配置換えしてやれ、だが今の話は他言無用だ、わかっているな?」 アフマドの静かな声音の中に何事か感じたのかメイドと家政婦は静かに承諾し姿を消した。 「馬鹿馬鹿しいにも程がある、そうだろう?じい」 口調には呆れたようなものが表れてはいるが、内心では穏やかではない。 以前ガーシーの言った「あの娘にはエジプト王家ののろいが憑いているんだ」という言葉と以前自分が見た眼の錯覚と思った大柄な男のような影への不審は晴れてはいない。 「あのような神秘的なお嬢様なのです、考古学にも明るくていらっしゃる、 きっと魔神(ジン)のご加護でもあるのでしょう。まことにアフマド様に相応しいお嬢様ですな。」 じいの冗談にアフマドも「それもそうだな、私に相応しいか。」と声を上げて笑った。 16 キャロルは眠るのが恐いような気がしてならない。 眠れば自分を胸が切なくなるほどの愛を込めた声で呼び抱きしめるその存在があまりにも生々しすぎ、その声に応えられない自分がもどかしくて辛いのである。 トルコへ・・アンカラに来てからずっと自分を呼ぶ声がしていつような気配が強くなったようにも感じる。 アフマドの手前元気そうに振舞ってはいたが、眠りにつくのが嫌だなんて子供のようで恥ずかしい。 整えられたベッドに横になるのが恐いだなんてどうかしている・・とキャロルは自嘲した。 「キャロル、まだ眠れないのか?」 アフマドがお休みを言いに来てくれたのだろう、寛いだ格好をしているのを見てキャロルも微笑んだ。 「ちょっと神経が高ぶっているのかしらね、ふふっ、おかしいわね。」 「君が眠るまで側にいよう、さあお姫様、お休みの時間ですよ。絵本でも読んで欲しいかい?」 アフマドが冗談めかして言う言葉にキャロルも笑みが零れ落ちた。 「朝まで一緒に過ごそう、何もしやしない、紳士らしく過ごす事をアラーに誓おうじゃないか。」 アフマドが優しくキャロルを抱きしめて耳元で囁いてくる。 華奢な身体はすっぽりとアフマドの胸のうちに包み込まれてしまう。 こんなにも私を大切にしてくれる人なのに・・・受け入れる事がキャロルには出来ない。 本当に愛する事ができればどんなにいいだろう。そんな私を理解して決して無理強いもしないでいてくれるアフマド。 「嫌な夢から君を守るよ、キャロル」 アフマドの優しい声音と暖かな温もりがキャロルを眠りに誘い込み、キャロルの瞳はいつしか閉じられ規則正しい寝息が漏れてくる。 枕に広がった金髪をアフマドの指が触れようとした時、暗闇の中にぼうっとそれは現れた。 「誰だ?キャロルから離れろ!キャロルは私のものだ!」 耳に飛び込むというよりも脳裏に直接響くような、怒りの言葉らしきものをアフマドは感じ取った。 言葉、というよりも感覚で「返せ!」と言っていると感じたのだ。 腕の中にキャロルを抱き、そちらの方へと顔を向けるとそれはもう居なかった。 何事もなかったかのように静かな闇が目の前に広がるばかり・・・・。 キャロルの規則正しい寝息が、任せきった体の温もりと重みが、先ほどの事は現実にあったのだとアフマドに告げているような気がしてならなかった。 17 何度も訪れたせいかしら? 風もにおいも自分に馴染んでるような気がいつもするわ。 カイロにいた時間の方が長いのに、どうしてこんなにここに惹きつけられるの? 見上げると澄み切った空の下、見事な城壁が見える、岩山に聳え立つ頑丈な城。 それを見上げるたびに「帰ってきた!」という喜びが胸に湧き上がり、私を見下ろす琥珀色の瞳と合う。 花盛りの庭で私を呼ぶ幼い声、衣装を掴む小さな手、胸に飛び込んでくる幼い子。 腕の中にある柔らかで暖かないとおしい温もり。 そして私達を見守る人達の笑顔を談笑・・・・。 「キャロル?気分でも悪いのか?」 自分を呼ぶアフマドの声にキャロルははっと目を見開き、辺りを呆然と見渡した。 「・・なんでもないのよ、アフマド。」 車の中からアンカラの街並みが見える。夢・・にしてはあまりにもリアルな感触に「白昼夢なの?」とキャロルは胸の内に呟いてみる。 あの風景は一体何?聳え立つ城壁を私の目からみた情景に決まっている。 私を胸に抱き寄せたあの腕の逞しさがそれを物語る。 「戻ろう。屋敷に戻れ」とアフマドは命令し、キャロルが少しでも楽になれるような体制にしてやった。 「ごめんなさい・・・。こんなつもりじゃなかった・・・。」 「いいんだ。気にしないでいい。」 心配そうに自分を見下ろすアフマドに、誰かの影が被って見える。 長い髪が垂れその顔は・・・端整で理知的で・・でも私を見る時に微笑むと、目尻にうっすらとよる小さな皺があってそんな表情を見せるのは・・・私と2人だけの時で・・・・。 武術に優れた硬い手だけれど・・・私の頬を滑るときはこの上なく優しくて・・・。 『・・・戻って参れ・・・我が・・・きよ・・・。』 胸に染み入るようなかすかな声を聞いたような気がすると思いながらもキャロルは重く塞がって来る瞼を開けることが出来ずに体中からも力が抜ける。 「キャロル!どうしたんだ!キャロル!」 アフマドの必死に呼びかける声は酷く遠くから聞こえてくるようだ。 ああ・・あの風景は・・・どこかで・・・そう・・そうだ。 「・・ハットウシャ・・・城・・・行かなきゃ・・・。」 アフマドが掠れたキャロルの声を聞いた時にはキャロルは既に意識を手放した後だった。 18 アフマドの機嫌は悪かった。 外出しようとした自家用車の中で意識を失ったキャロルを屋敷に連れ帰り医師に診察させても、病名と言ったものははっきりしないのだ。 「ただお疲れになられてるようですから、休養を」と話し、せいぜいブドウ糖の点滴をするにとどまっている。 「休養だと?そのつもりでここに連れてきたんだ! 無理をさせないように注意もしている!睡眠だって腕の中で眠っているのを確認すらしている! それなのにこれ以上どうしろと言うのだ!」 何時にないアフマドのやり場のない怒りに、爺ですらなんと言っていいものか戸惑っている。 「旦那様・・・お嬢様がお目覚めになられました・・・。」 メイドが恐る恐るといった様子で告げるのを聞くと、アフマドは足早にキャロルの寝室へと向かい、後に残ったものはほっと息をついた。 「キャロル、気分はどう?」 ベッドに横になっているキャロルの側に腰を下ろしながら先ほどとはがらりと様子を変え、アフマドの顔は恋人を心配する男の表情に取って代わった。 「お願い・・・私が悪かったのよ、だから怒らないで・・・。」 婚約指輪の光る白い小さな手がアフマドの頬に優しく触れ、アフマドはその手を労わり深く包むように自分の浅黒い手を重ねた。 「・・・すまない・・ちょっと声を荒げただけだ、もうしないよ。ゆっくりお休み。 私に気を使うことはないんだ、無理はしないでくれ、キャロル。」 「・・もう平気よ、それよりも行かなきゃならないところがあるの、お願いだから行かせて」 キャロルの言葉にアフマドは首を振った。 「だめだ、しばらくいい子にしておいで。もう落ち着いてからでも構わないだろう?」 「いいえ、早く行かなければだめなの、あなたとのためにも。 行けばはっきりするのはわかっているの、はっきりさせて、あなたのことも愛せるように ちゃんとけじめをつけたいのよ、今のままではいけない。だから行くわ。」 キャロルの口調は静かなものだったが、その静けさの中に秘められた確固たる決意と誰にも侵すことの出来ない、キャロルを包む神々しいまでに目映い気高さをまざまざと感じて、アフマドも逆らうことは出来なかった。 ただ黙ってアフマドはキャロルの額に口付けた、それが同意のしるしだった。 19 「・・・・で何処に向かえばいいんだ?キャロル」 自家用車の中でのぎこちない雰囲気の中、アフマドは口を開いた。 遠慮がちにキャロルのか細い声が返ってくる。 「・・アラジャホユック遺跡へ・・・。」 キャロルはアフマドの身体に触れないように、微妙に2人の間に距離を取ろうとする。 その様子を見てアフマドは余裕を持った男ならではの微笑をキャロルに向けた。 昨夜アフマドはキャロルの身体を抱き、ゆっくりと眠っている官能の炎に火をつけた。 もがくキャロルの手や足から、手馴れたように愛撫を加えていくアフマドに既に愛されることを知っている身体は徐々にとけていった。 それでも表情には受け入れていいものかどうかの迷いや不安と、身体が受け入れようとしていることのギャップに苦しむ様子がわかり、キャロルだけを官能の海に漂わせるのみにとどめ、眠りに誘ったのであった。 生娘のような恥じらいを見せるキャロルを満足そうに見るアフマドは、今日を境に一気に結婚への段階が進むことであろうと予測を踏んでいたのだ。 幾分顔色も悪いようには見えるが目の下にうっすらと隈ができているのは、昨夜自分が抱いた疲れだろうと、 アフマドはグラスを唇によせた。 一方キャロルは今まで欲望を押さえていてくれると信じていたアフマドに、自分に突然に愛の行為を仕掛けてきたことの混乱、夢で見るようなものとは違う現実の官能の高みへ一人で追いやられたことや、疲れて寝入った後に見た、自分を呼ぶ誰かの強い嫉妬や怒りや哀しみを感じてしまい、とても休んだとは思えない状況に酷く苛まれていたのだ。 アフマドが自分を愛していることも分かっている、愛されることも知っている体なのに身体の奥底から「違う」とずっと叫ばれているような感覚・・・。 あの人・・・何故かは分からないけど、神殿の跡に行けばはっきりする、とキャロルの中の何かが告げている。 あの岩山へ・・・・とキャロルは視線を車の外へ移した。 20 広い土地にところどころ遺跡の跡。 動きやすい服装をした観光客が少し見えるところでは、キャロルの古代ヒッタイト風の衣装を身に着けた姿は一種異様な雰囲気を醸し出した。 ただ場違いといったものでなく、むしろ神殿跡というのを更に強調し、俗界の者がむやみに触れてはならない、清らかでありながら威厳のある巫女のようなものである。 いや、巫女と言うのも当たっているのか、長い間祖国を離れていた姫が戻ってきた、と言わんばかりの風情ではないのか、とアフマドはキャロルが自分のことなど目に入ってはいない様子を見ながら感じていたのだ。 古びた遺跡の跡を懐かしむかのように、そっと触れ、キャロルは一体何を思っているのだろう? だがこれでキャロルの気持ちも落ち着き、キャロルの全ては自分のものとなると思うと、アフマドの唇は満足そうな男の表情を形作っていく。 衣装が汚れるのも気にもとめず、キャロルは土の上に座り、顔は空中に向けられた。 キャロルの目には昔ここに建っていたであろう頑丈な神殿が見えていたのだ。 愛する人と婚儀を挙げ、祭祀の折には自らも行ったことを。 生まれた我が子に祝福を与えし神に感謝と祈りを捧げたことを。 そして自分の傍らに立ち手を差し伸べていた人を、その大きな身体に守られて、様々なことを潜り抜けてきた日々を。 風が纏わりつきキャロルの陽光に輝く金色の髪を、身体の線を隠すかのようなたっぷりとした衣装の裾を跳ね上げる。 『・・やっと我が下へ・・戻って参ったか・・・。待っていたのだ・・・我が・・妃よ・・。』 風の中に懐かしく響く声音を聞いたのは幻聴か、とキャロルは周りを見渡した。 『・・・長い・・時代・・待っていた・・・そなたを・・・。』 「・・あなた!・・・イズミル!」 キャロルの口から吐いて出た名前に、キャロル自身が驚愕した。 「・・思い出したわ・・・全てを・・・。」 一人にしてほしいと言われたアフマドには、少し距離をおいたキャロルが風に向かって囁いているようにしか見えなかった。 |