『 いつか晴れた日に 』 21 「まぁ。そんなこと」 キャロルは慌てて言った。世間知らず、とは怖い物知らずと同義である。警戒はしながらもキャロルはこのデリアに心許してもよいような気がしてきていた。 「私・・・確かにちょっと考え事をしていましたから。どうして分かったのかしらって・・・」 少しはにかんだように言う様子は海千山千のデリアでも感動を覚えるほど楚々として初々しかった。 「婚儀が近くて、まぁ、色々と・・・。何だか自信がなくなってきてしまって」 デリアは少し強い調子で言った。 「姫君、自信がないなど弱気なことをおっしゃってはなりませんよ。ここは宮殿です。もし私が悪い女で、あなた様のお言葉の揚げ足を取って悪い噂をまき散らすようなことをしたらどうなさいます?お気をつけにならなくては」 デリアは本気だった。彼女自身、後宮でここまでの地位に上り詰めるまで並々ならぬ苦労をしてきているし、今だって決して油断はしていない。 キャロルの無防備さに腹が立ち、同時に守ってやらなくてはという奇妙な義侠心が姉御肌の美姫の胸に萌す。 王子の身勝手さや勝手なお喋りにつき合わされて、キャロルに少し同情していたのかも知れないが、さすがのデリアもそこまでは気付いていない。 「あ・・・ごめんなさい」 反射的に謝ったキャロルをまた窘めてデリアは言った。 22 「お悩み事がおありなら、どうして王子にお話なさいませんの?一人、静かに考え事をして胸の内を整理するのも結構ですけれども、王子にお縋りなさいませ。 ・・・王子を・・・愛しておいでなのでしょう?」 デリアの語尾は少し震えていたかも知れない。 「だって・・・恥ずかしいんですもの。自分でも何を悩んでいるのかよく分からなくて。王子はこんな子供の愚痴にはつき合いたくないでしょう。」 (やれやれ・・・) デリアは頭を振った。 (結局、このお嬢ちゃんも王子に首っ丈ということね。おおかた、恋の病が高じて抱き合うだけじゃ満足できなくなったってところでしょう。王子が駆け引きを仕掛けているって気付いていないところが子供だわ。 育ちが良すぎるのも考えもの。好きなら誘うくらいできなきゃねぇ) 「姫君、何が恥ずかしいものですか。お縋りなさいませ、話すべき事などその時になれば勝手に出てくるもの。縋られれば男はそれが嬉しいのですからね。 何も難しくお考えになることありませんわ。男と女、しかも好きあっているのなら・・・。素直におなり遊ばせ」 デリアは年の離れた姉か、若い叔母のような調子でキャロルに語りかけた。 「ね、無礼な女とお腹立ちでしょうが年上の経験者を敬うことは、あなた様ならご存知でしょ。好きな相手に気持ちをぶつけるのに恥ずかしいも嫌だもありませんよ。 男に振り回されるなんてつまらないこと。男など指先で踊らせてこき使ってやればいいのですよ」 キャロルは笑った。花のような笑みを見てデリアは思わずうっとりとなった。 23 結局。デリアはキャロルに親切にしてやる以外のことはできなかった。 (この私がほだされて小娘に親切にしてやるなんて!) デリアは自分でも驚いてしまっている。でも世慣れぬ物知らずの子供に親切にしてやる自分、というのはなかなか新鮮で良かった。 「さ、姫君。そろそろ戻りましょう。先ほど申し上げたことお忘れにならないで。王子だって男ですわ。男なんて単純な生き物ですのよ。つけあがらせてはいけません。誘って焦らしてきりきり舞いさせなくては」 キャロルは無邪気に笑った。 「ありがとう、デリア。何だかすっかり気が楽になりました。 あなたって不思議な方ね。何だか・・・後宮の女の人ってかんじじゃないわ」 デリアは苦笑いして言った。 「どういう意味でしょう?私だって意地悪で性悪な女狐かもしれませんよ。無防備すぎる方ね、呆れてしまうわ。 王子をしっかり見張っておいでなさい。あの方、あれで結構遊び人よ。早くモノにしないと盗られてしまいますよ」 デリアと話せたせいかキャロルはだいぶ気が楽になった。婚儀のための様々な雑用もいつもよりずっと楽にこなせた。 とはいえ、夜が来て寝支度が整うとやはりまた心が震えた。王子のからかいはますます際どくなってきていて、キャロルは涙ぐむこともあった。王子はまた実に巧みにキャロルに触れてみせるのだ。 でも今夜は。キャロルの脳裏にデリアの言葉が蘇る。 (男なんて単純な生き物ですのよ。つけあがらせてはいけません) 24 「疲れたな・・・」 王子はそう言うと寝台の脇に置かれた卓から杯を取り上げて葡萄酒を飲み干した。 湯を浴びた王子は腰に無造作に布を巻き付けているばかり。 喉をならして葡萄酒を干す王子は驚くほど艶めかしく、キャロルは目を離すことができない。 鍛えあげられた体は無駄な肉など全くなく、彫刻のような筋肉で覆われている。とはいえ、決して武骨一辺倒れではなく肉食獣のような精悍なしなやかさが一種の優雅さを添えている。 王子は顔を赤らめながら自分から目を離せないでいるキャロルをちらりと見やった。 「どうした?そのような所にいないで早くこちらへ参れ。眠いのではないのか?婚儀の準備に忙殺されているのであろう?」 王子の胸に抱きすくめられて声も出ないキャロル。 「さて、と。今日はどのようにして過ごしたのだ?」 「あの、ええっと。屋上で・・・デリアという方と会ったわ」 「何?!」 王子は思わず大きな声を出してしまった。驚いたように王子を見上げてキャロルはかいつまんでデリアとのことを話した。勿論、話の終わり頃の教訓部分―男はつけあがらせるべからず―は話さないでおいた。 「とても感じの良い方。私、あんな方、初めてだわ。何て言うのかしら?お友達になれたらって思えるような方よ。でもこんなこと、あの方が知ったら無防備すぎるって呆れて叱ると思うわ」 王子は安堵した。 (あのデリアがつまらない浅はかな真似や告げ口などするはずもないか。しかし・・・気になるな。愛人と妻を仲良くさせる趣味は私にはないし) 25 「ふぅん・・・。デリアは私も知っている。ま、後宮の女性にしては良くできた傑物だな。母上も一目置いて奥向きの仕事の執務の補佐役にしておられるようだ。 だが、確かにそなたは無防備すぎる。怖がらせるつもりはないが父上の後宮とはなかなか難しき場所ぞ」 「はい・・・」 「ふふ。とはいえ、私は女を集めて後宮を作る趣味はない。今のところはな。そなたが居ればよい・・・」 王子は甘く囁いてキャロルに接吻した。長い接吻のあと、名残惜しく唇を離す。 そして。 「!!!」 さすがの王子も狼狽えた。キャロルが王子の唇に接吻を返してきたのである。不器用な一瞬の接吻ではあったけれど、それは少女が恋人に贈るそれであった。キャロルは恥ずかしげに王子を見返した。 「そ、そんなに驚かないで。私も・・・王子にキスしたいことってあるわ」 王子は無言でキャロルの細い手首を掴んで寝台に押し倒した。 思いもかけない媚態に体中の血が沸き立つような気がした。腰に巻いた薄手の布は雄々しく持ち上げられている。 「誘っておるのか、そなた・・・」 予想外に激しい王子の反応にキャロルはすっかり怖じ気づいてしまった。待ちに待った瞬間であるのに口から出たのは拒絶を表す子供っぽい甲高い声だった。王子もキャロルの涙目にすぐ正気に返った。 「驚かせたか?すまぬ、少し酔っているのかも。そのように怖がるな、私がそなたに無体などするはずもないものを」 王子はそう言って優しくキャロルを抱きしめ、落ち着くまで背中を撫でてやった。とはいえ、思いがけず虐める相手に翻弄されたという屈辱感は消しがたく。その夜の王子は何時にも増して際どく執拗にキャロルを責めたのである。 (全く・・・油断のならぬ姫よ。私の方が負けそうだ。思い知らせてやらねば。意地を張るのを止めて早く私に許しを請えばいいのに。そうすれば・・・そなたの考えたこともないやり方で慰めて可愛がってやるものを) 26 次の日。 朝湯をつかってさっぱりとしたキャロルはムーラに伴われて王妃の居間に向かった。婚儀に先立ってのお妃教育である。 気丈な王妃は、王子の選んだ娘を気に入っていたのでキャロルもそう窮屈に思うことはない。 「姫、王子とは仲良くやっていますか?今日は昼餉を一緒に摂ることにしましょう。王子にも顔を出すように言ってありますよ」 王妃は上機嫌だ。彼女は頭のいい良くできた人で、浮気者の国王も頭が上がらない。庶子が増えれば母子の行く末を決めてやり、寵姫が増えれば増長して王国を揺るがすことのないよう釘を差す。 強面の女丈夫になることなく、一人の女として夫君の心を掴み、優雅に毅然と君臨し、万人から仰がれるのはやはり人徳か。 王妃は心密かに息子イズミルを征服した金髪の小柄な少女の手腕に感服してもいる。息子の屈折した想いなど知らないのだ。 やがて王妃の宮殿の入り口付近が騒がしくなった。 「王子が参ったようですね。出迎えてやりましょう」 王妃は軽やかに立ち上がり、廊下の先へと向かった。何やら華やいだ声がする。 そこで王妃とキャロルが見たのは、王子に戯れかかる後宮の宮女達であった。 かつて王子の寵愛を受けたことのある女達は久しぶりに訪れた男に精一杯の媚態を示していた。 「王子様、ご婚儀がお決まりになってからは冷たくて寂しい」 「お久しぶりでございますわ。少し音楽などお聞かせしたいのですけれど」 意味ありげな目、目、目。それに応えてやる王子の妙に物慣れた様子。 皆の手前、敢えて平静を装うキャロルの脳裏にデリアの言葉が渦巻く。 (王子をしっかり見張っておいでなさい。あの方、あれで結構遊び人よ。早くモノにしないと盗られてしまいますよ) キャロルはすぅっと深呼吸した。 27 「王子・・・」 キャロルはにこやかに微笑み、王子に手を差し伸べた。王子に群がっていた女達が意地の悪い視線を投げつけるが知らん顔。涼やかに無邪気な微笑みを浮かべ、最愛の人の視線を捕らえる。 イズミル王子もその手を取り、軽く微笑んだ。 「待たせたか?」 端で見ている方が気恥ずかしくなるような甘い仕草だ。王子はそのままキャロルの手を握り、母王妃に会釈すると宮殿の置くに入った。 後に残された女達は悔しさに歯がみしたが、キャロルの小気味よい振る舞いに心の内で快哉を叫び、残された女達を笑い者にして愉しむ女達もいるのが、後宮という場所である。 ヒッタイト王妃の昼餐会は和やかな雰囲気の内に終わった。 王妃は、先ほどの後宮の女達のこれ見よがしの媚態にも動じることなく、優雅に振る舞ったキャロルに痛く感心していた。そしてキャロルという得難い姫を手に入れながら未だに後宮での戯れを止めておらぬらしい息子に嘆息した。 母王妃から見れば先ほどの王子の振る舞いは、いかにも子供っぽくこれ見よがしで、自慢の息子に似つかわしくないものに思えた。 (国王様の御子とも思えぬ、物堅い息子だと思っておりましたのに。そりゃ、若い男なのですからそれなりに遊んでいるのは知っておりますが・・・。あんなに大っぴらに宮女と戯れるとは。あのような露骨な振る舞いをする女は嫌ってはねつけると思ったのに) キャロルも内心穏やかではなかった。表面上はにこやかに振る舞うが先ほどの王子を見て平気なわけはなかった。 そんなキャロルの心は王妃にはお見通しであった。 (姫も可哀想に。イズミルの妃になれば私のような苦労はしなくてすむと思うておりましたのに。 しかし妙だこと。王子は・・・姫を恋い焦がれて患ったようになっておりましたに、いざ手に入れたとなるとあのように意地の悪いことを。王子は心根の優しい子なのに) 28 「それで姫・・・。私に何か申したいことがあるのではないか?」 その夜。王子は長椅子にくつろぎながらキャロルに尋ねた。 「何か・・・って?」 キャロルは王子の目をまともに見ないまま答えた。 「何もないわ。王子は私に何を言わせたいのかしら?」 王子は生意気に答えるキャロルに少し腹を立てた。王子はキャロルに嫉妬させたくてあんな戯れを見せつけたのだから。キャロルが嫉妬して泣いて怒れば、抱きしめて慰めて・・・その薔薇の唇から自分を求める言葉を言わせて・・・自分のものにしてしまおうと思っていたのだ。 「昼間のことだ」 王子はぶっきらぼうに言った。 「昼間のことに決まっている。女達が私に戯れかかって、そなたを挑発したことだ。怒らぬのか?」 キャロルはすうっと息を吸った。 「王子は・・・まぁ、整った凛々しい容姿の持ち主よ。女性なら大抵誰だって惹かれるわ。私と王子が知り合うよりもっと前から王子を知っていて、好きだった女性(ひと)もたくさんいるでしょう。 ・・・仕方ないわ。」 キャロルはつんとそっぽを向いた。泣いて怒りたいところだが彼女にだってプライドはあった。 今度は王子が驚いて狼狽えて息を呑む番だった。キャロルが嫉妬をしてくれない!嫉妬させたくてあんな優男の真似をして見せたのに? 「これは・・・そなた本気で怒っているのか?」 つい機嫌を取るような調子でキャロルの顔を覗き込む王子。心配になったのだ。 「・・・嫉妬して欲しい?」 キャロルはすくい上げるような視線で王子を見つめた。嫉妬と怒りの涙目の中にどこかあだな色香が漂う。 「え?」 キャロルはいきなり王子に抱きついた。そこにはもういつもの甘えっ子の妹のような少女しかいなかった。 「あんなことしないで。私が平気だったと思う?私にだって自尊心はあるわ。だから無闇に怒れない。でもだからって、ああいうことされて平気なわけじゃないわ。私、お人形じゃないわ。試されるのは嫌い」 29 「・・・ということがあってな」 イズミル王子は苦笑しながらデリアに昨夜のキャロルのことを話してやった。ここはデリアの私室。国王の一番の寵姫であり、その国王も公認の王子の愛人でもあるデリアの部屋には暖かな西日が射し込んでいる。 「子供だと思っていた姫があのように申すとはな。一本取られた。私にだって自尊心はある、か」 デリアは積み重ねたクッションの上でくつろぐ若者に香り高いお茶を勧めながら苦笑した。 「のろけにいらしたの?呆れた方ね。こんなところでお喋りをしていないで早くお姫様のところにおいでなさいな。それともやりこめられた気まずさに帰りにくいのでしょうか?」 「そなたは辛辣だ」 王子はお茶を飲みながら言った。 「私にだって自尊心はあります」 デリアはキャロルの言葉を繰り返しながら言い返した。 「馬鹿な男のお遊びの自慢話は懲り懲り。女を馬鹿にするのもいい加減に遊ばせ。本当に好きな相手がありながらその心を弄ぶなんて許せませんわ。 あの姫君は頭の良い方みたい。本気で怒れば躊躇無くあなたを捨てますよ、私みたいにね。 さぁ、坊や。今日はお帰りなさい。おいたが直ればまた遊んであげますよ」 イズミル王子はさすがに赤くなってデリアの私室を後にしたのである。 デリアは苦く笑いながら愛して止まない若者を見送った。彼女はキャロルが羨ましかった。正妃として相思相愛の男の許に嫁ぎうる姫が。 だが嫉妬したり、哀しんだりするには彼女は誇り高すぎた。その矜持故に彼女はキャロルを祝福することしかできないのだ。 30 「デリア・・・?またお会いしましたわね」 黄昏の屋上。キャロルは思いがけない先客に少し驚いた。昨日の王子とのやりとりに少し疲れて気分転換に来たのだ。王妃やムーラが様々に気遣ってくれるのも少し有り難迷惑だった。 「まぁ、姫君」 デリアは微笑んだ。彼女もまた先ほどの王子とのやりとりで、くさくさしていたのだ。 全く男というのはどうしてああ馬鹿なのだろう?あんなことをして一番大事なものを失ったらどうするつもりなのだろう?あんな鼻持ちならない年下の若者をそれでも愛している自分は何なのだろう? 「デリア、私がいては邪魔ですか?」 「まぁ、いいえ。・・・姫君、昨日はお昼間、ちょっとした騒ぎがございましたのですってね」 「ああ・・・。ご存知ですのね」 キャロルは曖昧に言った。 「すぐ噂になるのね。ほうっておいてくれればいいのに」 「仕方ありませんわ、後宮とはそういうところですから」 デリアはわざとさばさばと言ってのけた。 「姫君は口惜しく思われまして?」 面白そうなデリアの顔にキャロルは少しむっとした。 「何も感じないわけないでしょ。でも、嫌だけれど嫉妬しているって皆に分かってしまうのは嫌。 それに・・・王子が私を嫉妬させようとしているみたいなのはもっと嫌。 そうはいっても王子が他の女の人に構うのはもっともっともっと嫌」 デリアは一気に言い切ったキャロルに少し驚いた。おとなしい上品なだけのお姫様かと思ったのに結構気の強い跳ねっ返りの一面もあるらしい。 「あけすけすぎるって呆れられてしまうかしら、デリア」 |