『 いつか晴れた日に 』 11 「デリアか。久しいな」 王子も馴れ馴れしい調子で答えた。だがその気安さも当然のこと。デリアはヒッタイト王の寵姫でもあったけれど、その昔、若い世継ぎの王子に男女のことを指南した女性でもあったのだから。 諸国に名高い自慢の息子に、父国王は気前よく自分の寵姫を貸してやったというわけだった。 王子は最初、このような心遣いを嫌悪したがデリアのさばさばした男性的な気性や、後宮のどろどろとは距離を置く頭の良さに惹かれてつかず離れずの関係で愉しんできていた。 「どうなさいましたの?早くお気に入りの姫君の所にお戻り遊ばせな。皆が噂をしておりますわよ。あの小さな姫君をお連れになってからの王子はまるで甲斐甲斐しく恋女房に仕える旦那様のようだって。 あんなに遊んでおいでだったのが嘘のよう。私がお教えしたことは試してご覧になりまして?」 「ふふっ、そなたの雑言は相変わらず辛辣だ。皆の噂だと?そなたが言っているだけではないのか?」 王子はデリアを引き寄せ、廊下の柱の影に連れ込んだ。昨夜のキャロルを想いだして悶々としていた欲求はデリアを見てにわかに燃え上がったようだ。 「まぁ・・・!王子!このような場所で。せめてどこかの小部屋にお連れ下さいな。無粋な方ね」 デリアは素早く王子の欲望を悟って悩ましげに促した。 12 「それで・・・。王子はまだあの金髪の方を“姫君”のままにしておいでですのね」 行為のあとの気怠い身体を王子に預けながらデリアは無遠慮に尋ねた。その声にはどこか面白がっているような、それでいて妙に白けているような調子が含まれていた。 「どういうことだ?」 王子はわざと、とぼけてみせた。キャロルに手を着けていないのは本当なのだから。 「分かりますわよ、それくらい。私の相手をして下さりながら心はここにあらず。思うに任せぬ乙女への恋に狂う愚かな若者が、身代わりの女に見せる貌(かお)をしておいででしたわ。 全くね!昔は違いました。お相手はあまたあれど、それぞれに王子の思い人は私だけと夢見せてくれるだけのお心遣いはありましたのに」 「・・・すまぬ」 王子は素直に謝った。デリアは勿論、キャロルとは全く違う存在だが、しかし女としては珍しくある種の信頼に値する希有な存在と考えていたからだ。 他の女がこんなことを言うのは許さなかっただろうが、デリアが言えばそれは今までの自分らしからぬ油断を見透かされたのだと王子は考えることができた。 「そなたを侮っているわけではないのだ。ただ・・・。許せ」 デリアは弟のようにも思っている戯れの恋の相手―深い信頼関係をも伴う奇妙な愛人関係の年下の相手―の狼狽えぶりに苦笑した。 13 「謝ったりなさらないで。本当にあなたらしくもない。今までのあなたなら何かきつい一言があったのに。・・・私の申し上げたこと、図星ですのね。 本当にあのナイルの姫君に首っ丈ですのね。おめでとうを申し上げますわ!」 「・・・」 「皮肉でもなんでもありませんの。あなたが人間らしく、誰かに恋して狼狽えるなんて素晴らしく人間的な心暖まる光景ですわ。私、あなたに色事は教えられたけれど、恋は教えられなかった・・・。 さぁ、早く姫君の所においで遊ばせ。そしてモノにしておしまい遊ばせよ! ・・・ふふふっ、私も行きますわ。国王様の酒席に侍るんですの。国王様は私に夢中。息子のあなたも私には弱い。後宮暮らしは楽しいこと!」 デリアは素早く衣装を整えると、自分の唇につけた指先を王子の頬につけた。 そして振りかえらずに回廊を去っていく。 蠱惑的で、頭のいい女性である。王子は苦笑して年上の女性を見送った。 (とはいえ・・・姫に素直に跪くのは業腹だ。姫にはもっと思い知ってもらわねばな) 欲望の熱気も醒め、冷静になった王子はそう思いながらキャロルの待つ居間へ戻っていった。 「王子、お帰りなさい!今日は遅かったのね。忙しかったの?大丈夫?」 キャロルは子猫のようにまつわりついてきた。彼女もだいぶ落ち着いたらしい。王子はキャロルの首筋から頬にかけての敏感な場所を撫で上げながら耳朶に息を吹きかけるように囁いた。 「良い子にしていたか?もう熱はひいたか?」 キャロルは再び真っ赤になり、恥ずかしげに王子から離れた。 (デリア。とはいえ、恋の相手に素直に跪くのはどうも気が進まぬぞ。姫の方から折れて私に・・・請うようにしなくてはな) 14 王子は昨夜とは明らかに違う馴れ馴れしさでキャロルに触れた。それを見る侍女達は「やっぱりね・・・」と目引き袖引きして忍び笑いを漏らす。 「もう大丈夫」 目を伏せたキャロルの耳の赤さが王子を喜ばせた。 ムーラが王子に夜食を勧めた。キャロルは強いて明るく無邪気にお喋りをしたりするが、何とも調子外れだった。 王子は地中海産のワインを口に含みながらキャロルに言った。 「姫、やはりそなた風邪でも引いたのではないか?顔が赤いし震えているではないか? ムーラ、姫にも杯を。姫、少し葡萄酒を試してみよ。酒は百薬の長と申す」 王子は有無を言わさずキャロルに葡萄酒を飲ませた。甘いのに喉を滑るときは焼け付くようでキャロルはむせてしまった。そんなキャロルを抱きかかえ背中をさすってやる王子の様子に、居合わせた人々は微笑ましく見守っていた。新婚の二人、と思いこんでいるのだから。 「さぁさぁ姫君。落ち着かれましたら先にお湯をお召し遊ばせ。早くお休みにならなくては」 如才なくムーラが声をかけた。有能で育て子を愛することこの上なしの忠義者の乳母は、目顔で王子にお任せ下さいませ、と合図した。 かくて。 湯浴みを終えたキャロルはひどく艶めかしい夜衣を着せられて寝室に送り込まれた。 薄い衣装は前で合わせる打ち合わせの深い形。胸元のリボンが慎ましく前裾を閉じているだけ。肌にはいつものジャスミンの香油ではなく、濃厚な乳香と薔薇の香油が擦り込まれた。 ムーラに手を引かれてキャロルは自分の寝室に入った。そこには王子が待っていた。 15 戸口に立ちすくむキャロルを王子は優しく手招きした。 「早くこちらへ参れ」 「あ・・・。王子は今日もここで・・・?」 「嫌か?」 王子に引っ張られ、崩れるように寝台に連れ込まれたキャロルは黙って首を振った。自分の艶めかしい夜着、誘うように香る香油、キャロルは我知らずときめいた。 (では・・・では・・・今夜が・・・!) 潤んだような瞳で見上げるキャロルの表情に王子は満足を覚えた。戦きと甘い恐れがない交ぜになった赤い顔。 (ふふ・・・。いい表情だ。もう無闇に私を怖れる子供ではなくなったのだな。この・・・子供っぽい娘が女に目覚める日をどれほど待ったか) 王子は胸元にキャロルを抱き寄せるとそのまま横になった。キャロルは身を固くして王子に縋っている。 「どうした?何やら固くなっているような。もっと楽にいたせ。体重をかけてくれて良いのだぞ。それでは疲れるだろう」 「ええ・・・。いいえ。何だか恥ずかしい。今夜は嵐じゃないのに・・・でもいっしょなの?」 「嫌か?」 「・・・」 「うん?嫌なら向こうに行っても良いが」 長い沈黙の後、キャロルは小さな小さな声で言った。 「・・・嫌じゃない・・・」 「可愛いことを言ってくれる」 王子はキャロルの敏感な耳朶を甘く噛みながら囁いた。 16 その晩も。 キャロルは眠れなかった。王子が眠らせなかったのだ。恥ずかしさにのぼせ上がり、全身を真っ赤にしているキャロルを優しく気遣うふりをしながら、焦らすようにキャロルの身体を苛む王子。 彼の指は決してキャロルの夜着の中に入ってこない。ただ薄物の衣装の上から優しく甘やかに、そして執拗に触れるだけだ。 キャロルがびくっと身体を震わせれば、王子の手は余計優しくなり、同時に与えられる接吻は切なさを増すのだった。 「どうしたのだ・・・?どうしたのだ、姫・・・。こんなに身体が熱い。心配ではないか。どこか痛むのか?苦しいのか?姫・・・姫・・・姫」 王子は時々、偶然のように興奮しきった自身をキャロルに押し当てた。一瞬の戯れのように。だがその意味をキャロルは知っている。そして知っている自分が恥ずかしくて涙ぐみさえして切ながる。 (ふふふ・・・。何とまぁ艶めかしく男心をそそる姫か。あの怒りっぽい人見知りの子猫のような小娘が・・・こんなに) 王子は眉間にしわを寄せ、唇をかみしめて甘い苦痛に耐えるキャロルを見おろして感動すら覚えた。キャロルの肌は薔薇色に染まり、薄い布地をそれとわかるほどに尖った胸の突起が押し上げている。 とうとう堪えきれずにキャロルは言った。 「もう・・・大丈夫です。もう・・・眠れます。撫でてくれなくて・・・いいの」 (意地っ張りめが!) 王子は苦笑すると、腕の力をゆるめキャロルを解放してやった。キャロルの小さな背中は泣いているかのように痙攣している。 (そなたが・・・素直に請うようになるまで苛むことはやめぬぞ) 17 王子はあの日以来、当然のようにキャロルの寝室でいっしょに休むようになっている。といってもムーラや、それとなく事情を知らされた国王夫妻が期待するようなことは全くなかった。 王子はキャロルに添い寝するだけ。キャロルにきわどく触れ、今まで散々、自分を翻弄してきた憎らしい姫をいじめて愉しんでいるだけだった。 キャロルだって王子の暖かさを身近に感じながら眠るのは大歓迎だった。ずっと王子の側にいて甘やかして欲しい、と望んできたのだから。 でも最近は、王子の側で眠るのはどちらかと言えば苦しいことになってきていた。 キャロルだって思い合う男女が何をするかを知らないわけではなかった。王子はそんな欲望に目覚めた自分をからかうように焦らしている・・・と思うことも再三だった。 でもきわどく好色な仕草をしながら、あくまで王子は優しく気遣いに溢れた兄の雰囲気をも忘れなかった。 だからキャロルも、自分の望み―王子だけのものになれたなら―を悟られないように必死に心を抑えて妹のように王子に添い臥すだけだった。 とはいえ、王子はとっくにキャロルの葛藤などお見通しだった。 (くっくっく・・・。早く降参せぬものか?私とて辛いのだぞ。こんな薄布一枚に隔てられて、そなたと肌を合わせることも叶わぬとは。 こんなに息を荒くして、こんなに肌を熱く染めて、こんなにも甘く匂い立って私を誘いながら・・・意地を張る!私の欲望にも気付いておろうのに。 呆れた姫よ。潔癖な子供の扱いは難しい。このままでは私が我慢し切れぬ) 18 王子はデリアを相手にすることがまた多くなった。デリアは口も堅く、信頼できる相手だと特別に思っていたから。後宮の女性としては珍しい。だからこそ、王妃にも一目置かれているのだけれど。 「まだ姫君は“姫君”のままですのねぇ」 デリアは手慣れた様子で自分の肌を薄布で覆いながら王子に流し目をくれた。 「ふ・・・ん」 「あなたが私の所に来て下さるのは嬉しいけれど、あのちっちゃな姫君の身代わりだと思い知らされるばかりなのは嫌ですわ。 王子様、私、あなたにお教えしましたわね?たとえ火遊び相手でも、遊びの間は相手に対して本当の誠意をもっていなくてはいけませんよって。 でなければ、いらぬ怨みを買いますわ。男女のことで身を誤るなんて愚の骨頂ですわよ」 デリアは辛辣に言い放った。 「あの姫君、お見かけしましたけれどお身のほうも大人であられるのでしょ?あなた様を見る時の仕草や表情、一人前の証拠ですわよ。拙いながら誘うようなこともなさるんでしょ?何を遠慮しておいでなのだか?」 「ふふん・・・。だがあの姫は女の欲望を必死にうち消そうとしているようだぞ。面白いな、汚らわしいと思っているのだろう。男女のことなど」 デリアは残酷に微笑む王子を呆れたように見て吐息をついた。 「あなたという方は!姫君を得られて、少しは人間らしくおなりかと思えば相変わらず冷たい傲慢な方ね!焦らして面白がっているのですか」 「そなたとて男を焦らす」 「焦らされることを駆け引きだと知っておいでの方にはね。何も知らないねんねさんを弄ぶようなことはしませんわ」 19 (王子は私を嫌いなのかしら?毎晩、一緒に眠れる。それは嬉しいのだけれど・・・大好きな王子と一緒に過ごせて・・・これ以上、望んだら罰が当たるもの。でも・・・でも・・・もっと・・・) 昼下がりの屋上でキャロルはほっと溜め息をついた。金色の髪を高地の風が弄び、青い瞳は光の加減かより深い色合いを帯びて見える。ほっそりとした優雅な容姿の姫が物思わしげにしている図はなかなか美しかった。 (毎晩、王子は私を抱いて寝かしつけてくれる。まるで小さな子供にするように。私・・・もう子供じゃない。 でも、私がこんないやらしいこと考えてるって王子が知ったら、きっと私は嫌われてしまう。それは嫌だわ) キャロルはまた溜め息をついた。 「ナイルの姫君?」 声をかけたのは美しく臈長けた美姫。きらびやかに着飾り、物腰には堂々たる気品が窺われる。 ヒッタイト王の寵姫デリアである。王子の想い人と一度、差し向かいで会ってみたかったのである。 キャロルは突然、現れた美しい女性に驚きながらも落ち着いて品のある挨拶を送った。 「ご機嫌よう・・・。時々お見かけする方ですね。ごめんなさい、お名前は存じ上げないのですよ。うかがってもよろしい?」 後宮の女だろうということはすぐ分かった。自分が王子の許に嫁ぐに当たり多くの女性から恨まれていることは痛感していたのでキャロルの対応も用心深いものになる。 (何て綺麗な人かしら?きっと後宮でも高い地位にある人だわ。この堂々とした物腰はどう?それに上品で穏やかで・・・露骨な敵意みたいなものがまるでない) デリアは美しく大人びた装いをし、貴婦人風の物腰で口を開いたキャロルの、未だ少女のままの細い声に少し驚いた。 (まぁ、本当に子供なのね) 20 デリアはにこやかに微笑み、優雅に膝を折った。 「まぁ、名乗りもしなかった失礼をお許しあそばしてね。私はデリアと申します。国王様にお仕えしておりますよ」 デリアはキャロルに警戒されないように細心の注意を払って言葉を続けた。 「気持ちの良い風。私も時々、ここに風に吹かれに参りますの。良い気分転換ですわ。姫君もご婚儀間近でいろいろお忙しいことでしょうね」 キャロルは少し困ったようにデリアを見た。ヒッタイト王の寵姫―しかもなかなか力のある女性らしい―であることは豪華な身なりや余裕と気品に溢れた物腰からも知れた。 「どうなさいましたの?何だか気鬱のご様子。あぁ・・・花嫁になられる前ですもの、気が塞がれることもございましょうね。 女性とはそうしたものですわ。後宮に上がる時の私も、恐れながらそうでございました。まして、あなた様はご正妃の尊い位に昇られるのですもの」 後宮の女性についてキャロルが抱いていたイメージと目の前のデリアの様子はまるで違った。気取らない裏表のなさそうな口振り、好奇心も気遣いの後ろに巧みに隠されている。 知らない大人に話しかけられて戸惑う子供のようにも見えるキャロルを見て、デリアは考えた。 (まだ子供だわ、これは!王子も人が悪いこと。そりゃ、子供でも女なら恋愛沙汰に憧れますよ。でも子供には難しい駆け引きはできないのに。 後宮の女達は、王子のお妃がこんな子供だなんて知らないのね!) 「ああ・・・ついご無礼を申し上げましたわ。何だか、放っておけないような気がいたしましたの。お節介の年増女よと笑ってお許し下さいね」 |