『 いつか晴れた日に 』 1 「おやすみなさい、王子」 キャロルは寝間着用のゆったりとした服のの胸元を掻き合わせるような格好で言った。その子供っぽい仕草が可愛らしく思われて王子は微笑した。 ここは王子の私室。いつも執務の終わった王子はキャロルのお妃教育を買って出ている。王子と金髪の生徒の授業は結構遅くまで続いた。ヒッタイトの歴史、気候風土、産業に政治の仕組み、王家に連なる王族貴族達についての説明、貿易に外交、王宮の典礼・・・。 講義は多岐に渡る。普通、女性にはここまでは求められないのだけれど王子は容赦なく、この熱心で怜悧な生徒を鍛えた。 とはいえ、そこは相思相愛の男女のこと。ただ勉強だけでなく、他愛のない話しもするし、ゲームの類にも興じるし、キャロルが王子に20世紀(21世紀?)の知識を伝授することもあった。 今夜は講義の後、ゲームをして時間はいつもより遅くなったようだ。 「おやすみ、姫。今宵は風が強いようだ。冷えぬようにするのだぞ」 王子は童顔の恋人の頬を優しく撫でながら、からかうような調子で言った。 「ま!王子ったら!私は子供じゃないわ。そういう言い方、やめてくださいな」 「ははは・・・。だが実際そなたは子供ではないか。違うか?私の知らぬ間に大人の女になっているのならそちらのほうが問題だ」 王子の露骨な言葉に真っ赤になってキャロルは自分の部屋に駆けていった。 王子はくっくとさも面白そうに笑いながら続き部屋に消えていった少女の面影を反芻していた。 2 (ひどいわよ、王子ったら!わ、私は子供じゃないわ。あんな言い方ばっかりして私をからかって。あんな品のない言い方って・・・) キャロルはぷりぷりしながら寝台に倒れ込んだ。そして溜め息。 (私はそんなに子供っぽいかしら?・・・手を出そうという気にもなれないくらい?キスもしてもらえないくらい?) キャロルは起き上がって自分の身体を見おろした。薄い胸。張り出しに乏しい腰つき。細長い手足。ほっそりとしているといえば聞こえは良いけれど、ヒッタイトの王宮に集う美姫・寵姫に比べれば貧相な体つきだ。 (私は魅力がないの?考えまいとは思うけれど王子が私に惹かれた一番の理由って・・・この変わった髪や目の色のせい?私の中身じゃないの?) キャロルは深い溜め息をついた。彼女は王子が大好きだった。子供じみたままごとのような恋しか知らなかったキャロルは王子に初めて本当の恋を教えられ、年の離れた若者に―しかも彼は文字通り王子様だ―に心から恋い焦がれるようになった。 王子は巧みに彼女に様々なことを教えた。優しく抱き合うこと、相手にそっと触れること、接吻を交わすこと。 でもそれだけだった。最初こそ、王子の教えや仕草に恐れや嫌悪にも似た感情を抱いたキャロルだったが今は違う。 3 王子に触れられば嬉しい。王子を見つめればときめく。 王子と言葉を交わせれば幸せ。どきどきする。 笑いかけてもらえれば息が止まるほど嬉しい。 でもそれだけでは不満。 もっともっともっと・・・。この頃、キャロルはいつも心の中で叫んでいる。 王子の接吻がつい喉元にまで達すれば、身体の芯が震えるような喜びを感じるようになった。 (昔はあれほど嫌っていたのに。触られるのはおろか視線を当てられることすら嫌だったのに) キャロルは自分を抱きしめるような格好で寝台に倒れ込んだ。 (今は・・・?今は違う。ずっと王子を見ていたい。王子を感じていたい。離れたくない。離れたくない。ずっとずっとずっと・・・・。 何て忘れっぽいのかしら?前は王子のこと大嫌いだったのに。今はこんなにも・・・) キャロルは身体が火照ってくるのを感じた。今まで知らなかった熱感。でも本能的に分かってはいた。 (私は王子に・・・) はしたない、と思う。恥ずかしい、と思う。恐ろしく厭わしい、とも思う。 もし自分がこんなことを考えてのぼせたようになっているなどと王子が知ったなら・・・? (きっと嫌われてしまう。何て淫らなと呆れられてしまう。嫌だ、嫌だ・・・) 潔癖なキャロルは王子に心ゆくまで抱きしめて甘やかして欲しいなどと思う自分が許せない。 抱きしめて甘やかして接吻で覆って・・・。多分それ以上のことも望んでいる自分。 4 イズミル王子は先ほどまで腕の中に抱いていた娘の体温の名残を感じていた。 初めてハットウシャの王宮に連れてきた頃に比べればずいぶん、あの気むずかしい 処女(おとめ)は柔らかく解れてきたと思う。 (最初は続き部屋で寝むことすら厭うていたのに今は夜着を着たまま私と話をする までになったのだからな。ふふっ・・・ここまで懐かせるのにずいぶんとかかった) 王子は思いだし笑いを漏らした。 怯えて闇雲に牙を剥く小動物を慣らすように少しずつ少しずつ。好きな食べ物を与 え、好みにあった身の回りの品々を与え―それも相手のプライドを充分考慮して―、 学問を好むようだと分かれば惜しみなく好奇心を満たしてやり、家族を恋しがって いると分かれば父のように兄のように優しく気遣ってやった。 自尊心の強い、でもひどく寂しがり屋で意地っ張りの娘の望むものは何でも与えて やった。 それでも故郷から引き離され、さらうように王子が連れてきた娘は情緒不安定で王 子に手ひどい言葉を投げつけ、一度などは自殺さえしようとした。 (全く・・・この私を拒んで自殺まで目論むのだからな。あの時はまことこちらの 心臓が止まるかと思った。おとなしく優しげな外見に似ず、大胆な娘であったとい うことだ。 ・・・普段の私ならあのような娘、辱めてうち捨ててしまうのに。やはり惚れてい たということか) 5 最初は珍しい外見をした娘に興味を持っただけだった。いかにも男の好む可憐な容姿でありながら子供っぽく異性を拒む娘は、かえって王子の征服欲を煽った。 だが。 じきに王子はその娘―ナイルの姫と呼ばれる金髪の少女キャロル―の内面をこの上なく貴重な美しいものと悟るに至った。 他者に対して分け隔てなく与えられる優しさ、思いやり。彼女の持つ英知。優しげな外見の内に潜む強い意志と誇り。 ファラオ メンフィスの想い者、寵姫とも噂されていた女と一時の火遊びに興じ、エジプトに一泡吹かせてやろうとしたイズミル王子の思惑はあっさりとはずれた。 (気がつけば恋の虜になっていたのだからな、この私ともあろうものが) 王子は苦笑した。初めての恋の苦しみは彼を打ちのめし、混乱させた。周囲の人間はおおよそ普段の彼らしからぬ振る舞いを見てどう噂した事やら? それでも。 苦労は報われた。今やキャロルは心から彼を愛するようになっている。親切な「兄さんのように優しい良い人」としてではなくて一人の男性として。 今まで数知れぬ女性から心捧げられてきた王子である。真実の恋に目覚め、愛しい人の心を渇望する女性を見抜くのはたやすいこと。 王子の心は喜びに震え、今すぐにでも自分を翻弄した愛しく憎い姫を我がものとしたいくらいだった。でも今度は王子の自尊心がそれを止める。 (今まで散々に私を苦しめ翻弄した憎き姫よ。そなたもまた恋の苦しみを知るがよい) 6 冷たい風は夜半過ぎから嵐になった。内陸のハットウシャの嵐は激しい。強い風は石造りの王宮をもきしませ、女の悲鳴のような音を立てて大地を吹き抜けた。 キャロルはもちろん眠れるはずもなく頭から布団をかぶって震えていた。20世紀では風の音や雷の音にここまで怯えることはなかった。でも古代の石造りの建物は20世紀生まれの人間が忘れていた自然の荒々しさ、恐ろしさを直截に伝えてくる。 (どうしよう、どうしよう・・・怖い・・・怖い・・・) 稲光と雷鳴の間隔が徐々に短くなっていき、空が裂けるような恐ろしい音がひっきりなしに響く。 雷鳴に眠りあぐねているのは王子も同じだった。 (お・・・。今の音、市内に落ちたか・・・。雨が強い故、火災には至らぬであろうが。 ・・・にしても姫は大丈夫なのか?さぞ怯えておろう。あの意地っ張りは決して私には弱音は吐かぬし、今も必死に平気なふりをしているのではないのか) 王子は起き上がると続き部屋の扉を開けた。 「姫、大丈夫か?」 王子の声に答えたのは雷の音も霞むほどの、怯えきったキャロルの悲鳴だった。 「姫、私だ。様子を見に来たのだ。そのように怯えるな。大丈夫だ、もう」 冷たい汗をかいたキャロルを抱いて落ち着かせながら王子は言った。 「ご、ごめ・・・ごめんなさい。怖くて・・・びっくりして・・・急に扉が開いて大きな影・・・」 「そなたの様子を見に来たのだ。全くこのように怯えきって・・・。砂漠の荒野の嵐も、荒れ狂う海も物ともせず、獣の跋扈する夜道を駆け抜けようとした勇敢なそなたが・・・」 7 王子は少し皮肉に笑いながら言った。全く今のキャロルは怯えた子猫のようだ。だがキャロルはいつもの憎まれ口もなくただ王子に抱きつくだけだった。 (こういうのを手のひらを返したような態度と言うのだ・・・。まぁ、可愛らしいところもあるということだな) 「困ったな・・・。このように抱きつかれては私が横になれぬ」 王子はわざと淡々と言った。 「今宵はそなたのために宿直をつとめてやろうほどに・・・怖がらずに眠れ。私がそばにいてやるから」 キャロルは驚いたように王子を見上げた。 「あの・・・・・それって・・・」 「ここでいっしょに眠るということだ。仕方あるまい?そなたは怯えて私を離さぬではないか?嫌とは言わせぬぞ?」 「本当にいいの?本当?あの・・・嬉しい。いえ!変な意味じゃなくて。こんな晩に一人では嫌だったの。だから誰かがいっしょなら心強いし。ありがとう、王子」 「いつもそのように素直に可愛くあればよいのにな。ふ、本当のことではないか? さぁ・・・眠るとするか・・・」 王子は当然のようにキャロルの頭を自分の肩に置き、目を瞑った。 8 とはいえ二人とも眠れるはずもなかった。 キャロルは王子の体温と匂いにのぼせたようになり、先ほどの大胆な望み―王子にもっともっと触れたい、触れられたい―を思いだし、自然に呼吸が速くなっていった。 王子は添い寝する―文字通り添い寝だけにするつもりだった、少なくとも今夜は―キャロルの頼りない柔らかさに体が火照るのだった。そしていつもの何倍も感覚が鋭敏になった王子が添い寝するキャロルの呼気の速さ、甘く切迫した調子に気付いたのはじきだった。 (姫は・・・まさか姫は・・・?) 王子は嬉しい驚きを感じながらそっとキャロルの様子を窺った。常夜灯に照らされて、キャロルの艶めかしくも初々しく紅潮した顔色が見えた。 今まで王子が相手にした女達も王子に抱かれるにあたってこのようになっていた。甘く悩ましい吐息をついて・・・。 (そうか・・・。まぁ、子供のような外見をしていても、もう身は娘盛り、か) 王子は好色な微笑を漏らして、キャロルの耳朶に囁きかけた。 「姫・・・眠れぬか?」 手は馴れ馴れしく敏感なキャロルの背筋を探る。 「あ・・・あの・・・ええ・・・眠れない、私・・・」 「少し熱っぽいのか?ほら、こんなに動悸が激しい」 王子の唇はいつしか首筋に移り、手は胸の膨らみを包み込むように触る。 (何とまぁ、教えられもせぬのに敏感なことよ。これではいじめたくもなるではないか・・・) 9 キャロルの動悸や羞恥など知らぬげに王子の手は妖しく動く。キャロルはただ身を固くして王子に自分の欲望を知られぬようにすることしかできなかった。 「姫・・・汗をかいているのか?こんなに・・・身体が熱い。熱があるのではないのか?確かめてやろう」 王子はキャロルを自分に押しつけるように抱きしめ、柔らかな薔薇の唇に自分の舌を差し入れ、相手の舌を探った。ひゅっと息を吸い込むキャロル。 (ふふふ・・・男の体の変化は分かるらしいな。のぼせあがって。だがまぁ逃げもせずに。いや、驚いて固まっているのか? ・・・今宵はこれくらいにしておこう。少しずつ焦らしてやるほうが面白い) 王子はキャロルを抱く手を緩め、いつもの優しい青年の顔に戻った。 「本当にどうしたのだ?水でも飲むか?可哀想に、きっと疲れているのだ。私がいるからゆっくり安心して休むがよいぞ・・・」 王子は口移しでキャロルに水を飲ませ、今度は本当に体をくつろがせ間もなく眠りに落ちていった。 キャロルは王子が戯れにつけた身体の火照りを消しかねて長いこと眠れないまま、王子の逞しい腕に縋っていた。 翌朝。 キャロルの寝室から王子が出てきたのを見てムーラ達は驚いたようだった。だがすぐに嬉しげに主の世話を焼き、心配そうにキャロルの伏せる寝台を見やった。 「姫は疲れているようだ。起こすことはない。それから起きてより後も常の通り扱ってやるように」 「は、はい・・・!それはもう!心得てございますとも」 浮かれる女達が好き勝手に想像を逞しくするのを止めもせず、王子は悠々と政務のために表の宮殿に出ていった。 10 明け方、ようやく眠りについたキャロルが起きたのは昼頃のことだった。寝過ごした恥ずかしさに赤面するキャロルを侍女達は世話をする。キャロルは昨夜のことですっかり混乱してしまって、あのムーラすら何だか浮き浮きとしているようなのにも気付かない。 (昨日の王子は・・・何だかいつもと違って怖かった。怖かったけれど嫌ではなかった。あんなふうに触られたのは初めて・・・。もっと・・・) キャロルは、はっとして慌てて首を振った。 (もっと・・・だなんていやらしいっ!何を考えているの、私は。こんなこと王子に知られたら私、生きていられないっ!) 「姫君?いかがなさいました?」 「ムーラ、何でもないのよ。あ・・・少しお水をくださいな。何だかのぼせたみたい・・・」 「お疲れなのではございませんか、姫君。涼しいところで少しお休みなさいませ。そこは西日がきつうございます」 (姫は・・・どうしているかな) 一日の政務も終え、自分の宮殿に戻りながら王子は考えた。昨夜の艶めかしく惑乱した表情が忘れられない。今日も少しでも気を抜けば、あの初々しく紅潮した貌(かお)が脳裏にちらついた。 (焦らして思い知らせてやろうと思ったのにこれでは・・・。私の方が持たぬわ。全く恋とは度し難い) 「おや・・・?お珍しいこと、イズミル王子様」 艶めかしい女の声が王子の夢想を破った。豊満な身体つきをした妖艶な美女―ヒッタイト王の後宮の寵姫デリア―が王子に微笑みかけていた。 |