『 糸 』

31
 イズミルは、テーベの地下牢で、キャロルとミヌーエの婚儀を知らされた。
 イズミルは、さしたる驚きもなくその知らせを受けた。
 ひとつには、ルカの密書によりミヌーエの動向をあらかじめ知っていたからであるし、シナイ半島でエジプト人が襲ってきたことを考えあわせれば、この事態は想像の範囲内だった。
 エジプトに不穏な動きがあるからこそ、あえて小人数で密かにエジプトへ向かったのだが…。
(裏目に出てしまったか…。)
 暗い地下牢に繋がれて、イズミルはあれこれと考えをめぐらせた。
 自分を捕らえさせたということは、ミヌーエはどうやらすぐに殺すつもりはないようだ。
おそらく、婚儀の後か、それとも身柄と引き換えにヒッタイトに身代金を要求するつもりかもしれない。
 いずれにしろ、こういう状況では自分はかなり有効な駒なのだから。
 しかし、そんなことはイズミルにはどうでもよかった。一番の関心事はキャロルのこと。
 イズミルを苦しめたのは、この事態にキャロルがどう絡んでいるかということだった。
ルカは何も言っていなかったし、自分では想像も出来ない。いや、したくもなかった。
 裏切り者など、殺してしまえばよい。
 以前の自分なら躊躇うこともなく、そうした。
 キャロルに出会う前なら、この腕に抱く前なら。
 しかし、想い人と一夜を過ごした後の切ない物狂おしさは、ただ恋し、手に入れたいと後を追いかけていた頃の比ではない。
 一度想いを遂げれば、冷めてしまう恋もあるのに。
 もっと、もっとと止まるところを知らぬ、この想い。
 イズミルは、自分でも愚かなことと自嘲しながら、暗い地下牢でのなかでキャロルをまっているのだった。

32
 キャロルが刺客に襲われたのは、イズミルの行方不明が、公然の秘密として人々の噂になり始めた頃だった。
 キャロルは、いつものようにティティを相手に自室で世間話をしていた。
 突然、数名の刺客が、パピルスの茂みから現われ押しこんできた。
「きゃあ、姫さま!く、く、く、曲者よー!だれかー!」
 ティティの口をあっという間もなく当て身を食らわせて封じる。
 相手に隙を見せては行けないと、キャロルは気丈に振舞った。ティティを庇いながら、相手をはっしと睨み付けるさまは、威厳に溢れていた。
「何者です!」
 型どおりたずねても、当然の事ながら答えはない。
「あななたち、ヒッタイト人ね!なぜ?!」
 顔を隠していても、キャロルには瞳の色で分かった。相手が黙ったままなのが、いっそ不気味である。
 キャロルは、はっと思い当たった。
「あなたたち、イズミル王子の行方不明は、わたしのせいだと思っているのね?!私は何も知らないわ…!」
「では、ナイルの姫君でなければ、誰が命じたと言うのです?王子のお心を、我らとの約定を、踏みにじる裏切り者…!」
 黙り込んだままだった相手の一人が、突如答えた。恨みがましくも厳しい女の声。
怒りに燃える瞳。

33
「ムーラ…!?」
「ムーラ…?ムーラなど知らぬ。我らは憂国の士。ヒッタイトの未来を案じる者。私怨からこのようなことをしていると思われるな!」
「所詮、貴方さまはエジプトの神の娘。我らとは相容れませぬ。貴方さまは王子に仇なすお方…!」
 口々に発せられる、激しい恨みの言葉。相手の殺気が毒蛇のように襲いかかってくる。
キャロルは思わず後ずさった。
「死ね!」
 懇親の力で、キャロルめがけて振り下ろされる刀。それを合図と、いっせいに刺客がキャロルに襲いかかった。
「やめてぇ…!」
 キャロルはからくも刃の下を潜り抜ける。
 キャロルの悲鳴に、扉が勢いよく開き、ミヌーエとルカが駆け込んできた。
 ルカが飛び出すより早く、ミヌーエの剣がひらめいた。キャロルをその背に庇うとかえす刀で敵の頭をかっ飛ばす。
「ああ、ミヌーエ!ミヌーエ!」
 キャロルが手をもみ絞りながら叫んだ。
「キャロルさま、こちらへ。」
「ルカ…ルカ…お願い、ミヌーエが…!」
 キャロルが泣きながら、ミヌーエの身を心配する。それに一抹の不満を覚えながら、ルカはキャロルを促した。
「大丈夫ですよ、キャロルさま。心配は要りません。それよりはやく、安全な奥へ。」
 ルカに促されて、キャロルは避難した。

34
 キャロルは奥の部屋に逃げ込んでも、暫くは体の震えが止まらなかった。
 侵入して来た曲者たちは、ほどなく捕らえられるか殺させるかして、
今は後始末をしているようである。
 キャロルは次第に冷静さを取り戻した。
(ヒッタイト側に計画が漏れているのね。そして、イズミルの行方不明はどうやら、エジプトによるもの…。だけど、わたしが命じたんじゃないわ。)
(では、誰が…?)
 そこにはわかりきった答えがあった。
(ミヌーエ…)
 ミヌーエに請われ、流されるように婚約したけれど、本当はどうなのだろう?
 自分の心は?ミヌーエの愛は?
 愛ゆえでなく、情欲の中に溶かし込んで、忘れてしまいたかった辛い別離。
 本当は誰も愛していないから、イズミルに請われればイズミルに縋り、ミヌーエに請われればミヌーエに縋ってしまう。
 幾重にも重ねられた、偽りの愛の言葉。
 それはもつれた糸。ほどくにほどけない…。
 ならば、ひと思いに断ち切るしかないのか。
(ごめんなさい、メンフィス。わたしはミヌーエにエジプトを委ねます。
彼なら良いファラオになれるわ。これが私にできる、エジプトにとって一番良い選択なの。
どうか、わたしのことはもう、解放して…。)
(私は、ライアン兄さんやママたち家族のもとに、帰ります…。
 やっとのことで心を決めれば、何とも言えない空しさが喉元を突き上げる。
 それを、無理に飲み込んで、
「さあ、そうと決まれば、しておくことがあるわ。もうこれ以上、古代人の血を流してはいけないもの。」
 キャロルは声に出して、自らを励ますと、取り急ぎすべきことを順序だてた。

35
 その夜、キャロルは密かに宮殿を抜け出した。被り布で顔を隠し、イズミルの捕らえられている地下牢へと向かう。
 かつて、アッシリアにメンフィスが捕らえられた時も、こんな風に忍んで行ったことを思い出し、キャロルは複雑な思いを噛み締めた。
 あれは敵国でのこと、なのに今はエジプトの宮殿である。
 どうして、こんなにこそこそしなければならない?
 メンフィスに会いたい一心だったあの時と同じように、胸は早鐘、手足は震えて思うにまかせない。
 キャロルは、衛兵の交代を見計らって、地下牢に続く階段に身を滑り込ませた。
 そして、その視線の先、薄暗い牢の中でうずくまっているのは、まごうことなく、イズミルその人であった。
「イ、イズミル王子…!」
 震える声で、格子のあいだから必死で手をさし伸ばす。
「キャロル、キャロルではないか…!」
 イズミルもキャロルの手を握り締め、二人は格子越しにしっかりと抱き合った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、あなたが捕らえられているとは知らなくて。
でも信じて、こんなこと、私が命じたわけではないのよ。」
「そのようなことはよい。そんなことよりも、そなた、ミヌーエと婚約したと…?」
「…イズミル王子…知って、いるの…」
 キャロルははっと身を引きながらたずねた。
 心の中には、はやくも「後悔」という名の暗雲が広がって行く。

36
「キャロルよ、何故?何故、そのようなことを…?」
 半ばわかっている答えを敢えて尋ねる。
「イズミル王子、わたしは…。」
 残酷な答えを待つ、さらに残酷な時間。
 聞きたくない…とイズミルは思った。
 言いたくない…とキャロルは震えた。それでも、言わないわけにはいかない。
「わたくしは、亡きメンフィスの妃。エジプトの王妃です。エジプトをヒッタイトの属国にするわけにはいかないわ。だから、わたしはミヌーエと結婚することに決めたの。だから、だから、表立って貴方を助けるわけにいかないのよ…。」
 それは、別れの言葉。イズミルは、知らず、縋るような目をした。
「でも、でも、イズミル王子、あなたを死なせたくないの。ここから逃がすわ。」
 キャロルは毅然とした王妃の顔から、頼りない少女に一変した。
(キャロル…?ミヌーエを真実愛したのなら、何故私を守ろうとする?)
 男には分からない、女心の闇。男はいつも明快な答えを求める。
(キャロルを立てて、エジプトの独立を守る…それは、大儀。
 誇り高いエジプト人であれば、命を賭けるに値する。しかし、見ようによっては、エジプトを自らの手に入れんとしているともいえるではないか。)
(そうか…!私にはわかったぞ、ミヌーエの意図が。はっきりと見えた!
キャロルは、ミヌーエに操られているのだ。
おお…妃よ、何者にもそなたに触れさせはせぬ!そなたは、私が守る!)
 イズミルは一瞬で冷静さを取り戻した。

37
「もうよい。そなたを一人で、エジプトへやった私の間違いだ。私のことは心配せずともよい。」
「イズミル王子!」
「キャロルよ、よく聞け。そなたは知恵に富み、聡明だが、政治というものを知らぬ。私を捕らえさせたのがミヌーエの独断であれば、それはそなたに対する謀反というもの。」
「イズミル…ミヌーエはそんな人ではないわ。彼は、エジプトのために。」
 ためらいがちにキャロルが口を挟む。
「今は、亡きメンフィスへの忠誠からでたことでも、一度権力を手に入れた男は、何をするか分からぬ。権力を握った後、ミヌーエはそなたをどうするか?そなたの身が心配だ。」
「イズミル…私はあなた裏切ったのよ。ミヌーエは…」
「そうではない、キャロルよ。そなたは世間知らず。婚儀も挙げぬうちに女の肌に触れる男を、信用してはならぬ。」
「え…?」
「そなたの肌から、男の移り香がする…。」
 イズミルの言葉に、キャロルはそっと自分を抱き締めた。
 イズミルは、表情を変えることなく
「とにかく、ここに来た事をミヌーエに知られては、そなたが危ない。私の事など心配せずに、早く行け。」
 イズミルの言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
 キャロルは、それ以上何も言えず、王宮へと戻って行った。

「くっ…。」
 キャロルが王宮に戻ると、イズミルは牢の中で一人、痛みに堪えた。
 かまを賭けただけなのだ。
 さっと頬を赤らめたキャロルの態度からすると、ミヌーエはすでにキャロルの肌を知っているらしい。
(言わなければ良かった…。)
 イズミルは後悔した。
 しかし、キャロルが自分を裏切ったのでないことははっきりした。
 結果的には、裏切ったと言えるかもしれないが、それは彼女の本意ではない。
 それだけで充分だった。

38
 あれほどイズミルに、もう来てはならないと言われたのにもかかわらず、キャロルはほとんど毎日のようにイズミルのもとを訪れた。
 イズミルもまた、キャロルの身を案じつつも、その訪れを心待ちにしていた。
 キャロルは来るたびに、イズミルに脱出を薦めた。
「私は、ミヌーエと結婚するわ。けっして、騙されているわけではないの。だから、あなたも…」
「そなたは、我が妃だ…!」
「いいえ、いいえ、私はもう決めたの。私はエジプトのために…」
 相変わらず聞く耳を持たぬイズミル。幾度となく繰り返される、同じ押し問答。
 いけないと思っていても、切なくて涙が溢れてくる。どうしてもこの三文芝居をやり遂げなければならないのに、ここでイズミルが肯けば、本当の別れがくる。
 エジプトとも、イズミルとも…。
(そんなの堪えられないわ…!)
 一度は決めた事なのに、それが悲しくて、涙が止まらない。
 あの暖かかった腕、優しい微笑みも、怒った時の恐ろしさも、全てが夢になる。
 頬をつたう涙は塩辛く、口の中にまで流れ込んでくる。
「私の心からは、もう愛がなくなってしまったのかもしれないわ。」
 思わず弱音がほとばしり出る。イズミルは、それさえも抱きとめる。
「何を言う、我が妃よ。そなたは、我らが初めて出会った頃と変わらぬ。全然変わってはおらぬ。清らかで、汚れを知らぬ。」
 イズミルは必死にキャロルをかき口説いた。
 触れる指先が、キャロルを濡らす。
 見て見ぬ振りの衛兵を尻目に、二人の夜は続いた。

39
 しかし、キャロルの地下牢通いは、間もなくミヌーエの知るところとなった。
 事を知ったミヌーエは荒々しく、キャロルの居室の扉を開けた。
「ミヌーエ将軍!ご無礼でしょう!」
 ミヌーエはテティの激しい抗議に一瞥くらわせ、キャロルの方に向き直って言った。
「キャロル様、お人払いを。」
 ミヌーエの激しさに、キャロルが命じるまでもなく女官達が次々に退席していく。
ただ一人ナフテラだけがためらっていた。
 キャロルは、そっと肯いてナフテラを促すと、ミヌーエに向き直った。
 ミヌーエは、キャロルが地下牢のイズミルの元へ忍んで行ったことを知って、内心、烈火のごとく怒っていた。
 ナフテラの姿が見えなくなると、さっそく、ミヌーエは口を開いた。
「キャロル様、昨夜は、どこにいらっしゃいました?」
「どこに行こうと、私の勝手でしょう。ここはわたくしの王宮です。」
 キャロルは努めて冷静を装った。
「失礼いたしました。では、このような回りくどいことはやめて、単刀直入に申し上げます。あなたは、昨夜、地下牢のイズミル王子の元へ行かれましたね。王子を逃がす算段でも付けたのですか?」
「では、ミヌーエ将軍、わたくしもはっきり言います。わたくしに内緒で、何故イズミル王子を捕らえたりしたのです。あなたのしたことは…。」
 謀反も同然です…というキャロルの言にかぶさるように、ミヌーエが言った。
「あなたは、今の状況がわかっていらっしゃいますか?今、エジプトは密かに軍備をすすめ、ヒッタイトと一戦交えようとしているのです。そんな時、ヒッタイトの世継ぎの身を押さえていることがどれほど重要なことか、本当にわかっていらっしゃいますか?」
 言葉遣いは丁寧ながら、語気は激しい。キャロルは努めて冷静を装った。
「もちろん分かっています。エジプトの真の独立を守ろうという狙いも、あなたの策略も…!」

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「策略…?やはりあなたは戦というものが分かっていない!剣を取って戦うばかりが戦ではないのですよ。」
「分かってるわ、ミヌーエ。あなたが本当にエジプトを愛しているから、戦おうとしていることくらい。でも、イズミル王子は、先のアッシリアとの戦でエジプトのために援軍を送ってくれました。その王子を捕らえて、殺すなんて。エジプト人は恩知らずと近隣諸国からも言われましょう!」
「それが国事です。民を導いて行くには、時に謀略も必要なのです。綺麗ごとだけでは、生きては行けない!」
 ふたりの視線は激しくぶつかった。
 冷たい炎のような苛立ちが、この身を焼く。ふと、ミヌーエは暗い目をした。
「あなたは、ヒッタイトにいた間、一体、何をしていたのです?」
 明らかに矛先を変えた質問に、キャロルはぞっとして、視線をそらせた。
「本当にメンフィス様に対する愛があったのなら、ヒッタイトの内情を探り、揺さぶりをかけるくらいしていてもよかったのではないですか。国の為に敵国の王子に抱かれるのは、女ならば誰でも出来ること。」
「ミヌーエ、あなたは…!」
 キャロルは震えながらも必死に堪えた。
「キャロル様には、もっと強さを見せていただきたい。あなたは、まだ、メンフィス様を失った悲しみに沈んでいるのですか。それとも、エジプトのために我が身を犠牲にしたと、御自分の不幸を嘆いているばかりですか?」
 ミヌーエのキャロルに対する苛立ちはそのまま強い非難の言葉となって、キャロルを打った。
「わたしは…!」
 キャロルは、何と言っていいか分からなかった。無言のまま、数分間ふたりは見詰め合った。今にも、破綻が訪れそうな、息詰まる緊張がつづく。
(これ以上はだめ…。なにか言わないと…。ここでミヌーエと争えば、彼を謀反人として処断しないわけにはいかなくなる。)

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