『 糸 』 21 Ψ(`▼´)Ψ ルカは、キャロルをそっと寝台に下ろした。 複雑な思いで、その寝顔を見つめる。手が無意識のうちに、くしゃりとキャロルの髪を掻きあげた。 「う…ん…。」 メンフィスの夢でも見ているのか、キャロルの口元に淡い微笑が浮かぶ。 しかし次の瞬間、ルカは驚きと胸元に突き上げてくる喜びのあまり、息が止まりそうになった。 「ル…カ…。」 キャロルの唇から漏れる、自分の名。 何と甘美に響くことか。 それは至上の音楽。誘惑の秘薬。 ルカの最後の抵抗はあっけなく打ち砕かれた。 ルカは、何故こんなことをするのかも分からないまま、キャロルの唇に唇を重ねた。 無意識のまま、キャロルもそれに応える。指が、キャロルの衣の下に滑り込んだ。 熱い鼓動が、手の平に伝わる。 ルカはひしと、キャロルを抱き締めた。 22 Ψ(`▼´)Ψ 「ル…ルカ?!きゃぁ…っ」 キャロルはその動きに目を覚ましもがいた。 「ああ…姫…ひめっ…!」 ルカはその腕を緩めなかった。 ルカの悲痛なまでに真剣なまなざし、キャロルは抗うことをやめた。 誰に愛されても、どんなに優しくされても、その指先はメンフィスのものではないのに、温もりを求めずにはいられない。 ルカの孤独な魂もまた、激しくキャロルの温もりを欲しているのだ。 必死に求められれば、突き放せないのはキャロルも同じ。 ルカはキャロルの足元に蹲った。キャロルの白い足を尊いもののように捧げ持ち、指の一本一本を丁寧に口に含む。やがて舌先はゆっくりと這い上がり、膝の裏をくすぐり、更にその奥へと。そこは、露を滴らせ馥郁と咲き誇る薔薇の花園だった。 ルカは傅き、押戴くように舐めあげ、露をすすった。 あたかも神聖な儀式のように、キャロルは寝台に仰向けになったままルカに身を任せた。 キャロルの体が次第に熱を帯び、現実が情欲の中に溶けていく。 行きつく先は、身分もなく、恥じらいもなく、真実さえもない世界。 しかしルカは、自らの欲望をキャロルにぶつけようとはしなかった。 ふたりに欲望の匂いはなく、慰め合う兄妹のように身を寄せ合った。 23 「姫様は、最近ますます美しくなられましたわね。」 テティが、キャロルの髪を梳りながら言った。 「そうかしら…?」 キャロルはぼんやりと答えた。 テティは、そんなキャロルの気持ちを引き立てようと、わざとうきうきと話し掛ける 「姫様、ミヌーエ将軍って、すてきな方だったんですねぇ。いままで、いつも忠義一筋って感じで控えめな方だったから、気づきませんでしたけど。」 「そうね、テティ。彼は、以前とは少し感じが変わったわね。」 「あ、姫様もやっぱりそう思われます?なんだか、ちょっと女たらし風…じゃなくて、フフフ。最近のミヌーエ将軍はなんだかお美しくて、姫様とお二人で並んで いらっしゃると、まるで絵のよう…。お似合いですわ。」 「まあ、テティ、なんということをキャロル様に申し上げるのです。 なんというご無礼を…!」 ナフテラがあわててテティをたしなめた。キャロルはテティの突飛な発言に思わず笑いながら、 「いいのよ、ナフテラ。私もミヌーエ将軍がこんなに…。」 (こんなに女性の扱いに慣れているなんて…。) キャロルは、昨日の夕方、ミヌーエに結婚を申し込まれたことを思い返した。 24 キャロルの居室で、今後の事を話し合っていて、どうしてこんな展開になったのか、自分でもよく分からないが、キャロルはミヌーエの腕の中に抱きとめられていた。 「私は、愚か者だ。貴方をこんなに悩ませ、苦しませるのならば、この剣に賭けても、ヒッタイトへなど行かせるのではなかった。たとえあの時、エジプトが滅んでいても、貴方を離すのではなかった。」 ミヌーエの顔は苦しそうで、痛みをこらえるかのような表情が浮かんでいた。 「何を言うの?わたしは、そなたの主君メンフィスの妃、そして今は、ヒッタイトの王子イズミルの妃です。そのような事を、軽々しく口にしてはいけません。」 「この剣で、貴方を守り抜く自信があったのに、私は、エジプトが滅ぶかもしれないということに怯えて…。いや、エジプトなど滅んでもいい。 貴方以上に大切なものなどないのに。私は、何を、恐れて…?。 なんと弱い男なのだろうか…。」 「やめて、やめて」 キャロルはミヌーエの腕の中で、か細く呟いた。ミヌーエのむき出しの胸は、そのままキャロルの頬に触れ、彼の鼓動を伝えた。 キャロルの蒼い瞳は涙に濡れ、身体はわなないた。心臓の鼓動が、痛いほど耳に響く。 しかし、それは甘い痛みだった。 25 (エジプト人の夫を、もう一度持つ…。) イズミルは来ない。キャロルは、もう一人寝には堪えられそうもなかった。 太陽は、はや西の空に傾いていた。逆光の中にたたずむミヌーエの姿、戦いに鍛えられた逞しい体の線が、メンフィスを思わせた。かつて愛した人と同じ肌の色、日に焼けた髪の匂い。 キャロルは、ミヌーエを見つめた。 「キャロル様、もう一度だけ、わたしに賭けてください。あなたを、私の手でお幸せにしたいのです。」 「ミヌーエ、わたしはこの事には返事ができません。この話は二人だけの秘密。 私は聞かなかった事にします。」 心臓は激しく鼓動を打ち眩暈がしたが、キャロルはかろうじて威厳を留めた。 26 「姫さま、姫さまったら!」 テティの声にキャロルははっと我に返った。 心配そうなティティの視線に気付いて、安心させるために微笑む。 テティは、何度かためらい、意を決したように言った。 「ミヌーエ将軍は、本当は姫様のことがお好きなんですわ。」 「テティ!」 キャロルはテティの意外な鋭さに内心舌を巻いた。 この調子なら、存外早く二人の秘密は公然のものとなりそうである。 (それも良いのかもしれない…。) キャロルはミヌーエのことを想うと、心が甘く疼くのを否定できない。ミヌーエを夫として、エジプトを治めるのなら、民も納得するだろう。何といってもミヌーエは、国民の人気も高い勇猛な武人である。 では、イズミルのことはどうする?ミヌーエを夫とするのなら、イズミルとは再び敵同士になる。それは、裏切りではないか。 (口清いことだけ言っていては、国は守れない…。 メンフィスの本当の望みは、何だったのかしら…?) 心底疲労し、少し休息を欲するキャロル。しかし、事態はそれを許さない方向に動いて行くのだった。 27 もう、このままにはして置けない。 ルカは強く思った。 ミヌーエの意図などお見とおしだ。 エジプトをヒッタイトの属国にせず、エジプト人の手に留めるために、ミヌーエは彼女の夫に、そして王になろうとしている。 聡明な姫のこと、理を説けば必ず理解してくれるだろう。しかし、今の彼女は、頭で覚悟を決めても、冷たい政略の世界に身を浸すことには耐えられまい。まして、政略だけの伴侶では、やがて綻びがでてくる。 だからミヌーエは、真の狙いを隠し、洒脱な仕草でキャロルの心を取り込もうとしている。 理性ではなく感情で、理解ではなく欲望で、彼女を取り込んで、愛し愛されているという甘い幻想に浸らせ、エジプトに繋ぎ留めようとしているのだ。 何も考えるな。 私にすべてを預けろ、愛しているのだから…。 ミヌーエはそう言っている。 しかし、それはキャロルをあまりにも甘く見過ぎていると、ルカは思う。 今はキャロルの目がそこまで曇っているにしても、いずれは気付かれてしまうだろう。 その時、彼女はどうなる? 28 その分、イズミルのキャロルへの愛は純粋だと思う。 だが、イズミルには施政者としての顔がある。ヒッタイトの王子としての責任がある。 だから、いつも彼女の傍にいて、彼女の寂しさを紛らわせてやる事はできない。 王子の伴侶は、もっと強い女性、自分を律し、同じ夢を追える女性でなくては務まらない。 キャロルがいずれそのような女性になるとしても、今のこの危うい状態を誰かが支えてやらなければ。 そして、今彼女に必要なのは、もっとささやかな安らぎ。華やかな衣装や、贅沢な暮らしではなくて。 どこか小さな村ででも、落ちついた日々をおくらせて差し上げられないものか。 連れ戻されても、その時までに彼女がほんの少しでも休息できれば。 いつかは、自分の元を去って行く日が来るとしても。 (姫を連れて、逃げるか…?) ルカの中で、キャロルはイズミルよりも大切な者に変わりつつあった。 29 キャロルに結婚を申し込んだあとのミヌーエの動きはすばやかった。後ろ暗い陰謀や策略は、以前の彼ならばもっとも厭うべきものであっただろうが、今は違う。 ミヌーエは密かに、自分の腹心の部下数名にある事を命じた。 長かったアランヤ征伐を終えたあと、イズミルはわずか数名の部下を引き連れて、首都ハットウシャへ凱旋することなく、密かにエジプトへと向かっていた。 道中、一行がシナイ半島にさしかかったときである。 突如、崖の上からぱらぱらと数本の矢が降って来たと思うと、次々に人影が降ってくる。 イズミル達は乱れることもなく、岩陰に身を寄せて矢をやり過ごした後、王子を守るように態勢を整えた。 現われたのは、黒装束に身を包み顔を隠した男達。 「何者だ!」 イズミルが厳しく誰何する。対して、刺客は声もなく一斉に剣を抜いた。 「ふ…顔を隠しているようでは、名など名乗れようはずもないな。盗賊ども!」 イズミルの皮肉に、一番若いと思われる男が反駁した。 「我等は盗賊などではない!我等は…!」 続けて名にか言おうとする彼を、隊長とおぼしき男が手で押し留めた。 「ほう…我等は何だとな?いずれにしろ碌な輩ではあるまい。死にたくなくば、とっとと去れ!」 イズミルの厳しい声に、また何か言い返そうとするのをまたもや押し留められ、もはや一言も返すことなく、燃えるような目でにらみ返すばかりである。 30 「一人残らず切り捨てい!」 イズミルの命令に、たちまちたちまちあたりは血煙に染まっていった。 イズミルは元から彼らが盗賊だとは思っていなかった。 彼らの身のこなし、盗賊という言葉に対する反応からして、彼らは誇りたかい武人か。 こちらの挑発に乗って何か一言でも発すれば、それがやつらの身元を知る手掛りとなる。 そして、いま、必死に命のやり取りをしながら、イズミルは愕然としていた。 彼らの発した言葉には、明らかにエジプトなまりがあったから…。 いくらイズミルの軍がよく戦ったとしても、長い遠征帰りのこと、疲労が溜まっている。 対する敵はよく訓練されているらしい。 まもなく、イズミルは追い詰められ、捕らえられた。そして、その身柄は密かにテーベへ送られたのである。 |