『 糸 』 41 キャロルは苦しく言葉を捜したが、先に沈黙を破ったのはミヌーエだった。 ふう、とあきらめたように肩で息をつくと、手をのばして、そっとキャロルを引き寄せた。 「キャロル様、わたしがいるのに、どうして、何をそんなに怖れるのです?」 「ミヌーエ?」 突然のミヌーエの態度の変化に、キャロルは戸惑った。 ミヌーエは、なんとしてもこの芝居をやり遂げるつもりなのだ。 キャロルには、それが分かっていた。しかし、問い詰めることはしない。 「キャロルさま、貴方はどんな誹りも受けることはありません。すべての罪は、このミヌーエが被ります。裏切りという罪もすべて。貴方は罪を知らず、清らかなまま…。だから、安心して、恐れたり心配することは何もないのです。」 「ミヌーエ。あなた、怒っているのではないの?」 キャロルは不安そうな、甘えたような目線でミヌーエを上目遣いに見た。 「いいえ、キャロル様。ご無礼を申し上げ、わたしが悪うございました。 あなたが、私と婚約しているのに、イズミルの元へなど行ったから、つい嫉妬で取り乱してしまったのです。 ですが、キャロル様、この後はどんな時も、このミヌーエにお縋りください。 私は一命を賭して、あなたをお守りいたしますから。」 ミヌーエの指がキャロルの顎を捕らえ、優しく唇を重ね合わせる。 キャロルはミヌーエの胸の熱さを感じた。ミヌーエはなんと巧みに、自分をそらせていくのか。熱い血が、頬へと上ってくる。 たわいなくはぐらかされる自分を半分は装いつつ、それでもこれだけはと言を紡いだ。 「ミヌーエ、イズミル王子を殺すことはできないわ。これだけは、あなたが何と言おうと、譲れない」 「分かりました、キャロル様。私が出すぎた真似をいたしました。婚儀のあとであれば、イズミル王子を釈放しても問題ないでしょう。」 「本当に?ミヌーエ、本当ね?」 キャロルは予想に反したミヌーエの物分りのいい言葉に、かえって疑わしそうに何度も確認した。 「信じられないのであれば、誰の命も受けない者に申し付ければよいでしょう。」 「そうね、そうするわ。ハサンにたのむわ。」 キャロルはやっと安心して、微笑んだ。 42 ミヌーエは、キャロルの寝顔を見つめた。 ひそめられた眉、細い鼻梁。薔薇の唇はきつく引き結ばれ、苦悩を秘めている。 (愛しては、いるのだけれど…。) かつて、自分の主君が愛した女。その類まれな美貌も、いささか線の細い優しさも、それでいて時折見せる芯の強さも、どれも愛するに値する。 (しかし…) ミヌーエはどうしても、アイシスと引き比べずにはいられない。 メンフィスの死の知らせに、周囲が止める間もなく、毒を呷って息堪えたバビロニアの王妃。 公式には急病による死とされたけれど。 その身を焼き尽くした、炎のような愛情。激しい生き方。 アイシスのあの強さ、あの激しさが、慕わしかった。 しかし一方で、ミヌーエは、キャロルが追死を許されなかったことを知っている。 国を守ることの重さも、嫌というほど。 何かを守るためには、それ以外のものは切り捨てる残酷さが必要なのに、いまのキャロルにはそれがない。 それはメンフィスへの愛が、キャロルに大切なものを守る強さと、それ以外のものを切り捨てる残酷さを与えていたから。 自分では、メンフィスの代わりにはなれないのだろう。 (悲しみに沈む時間さえ、与えられず…。だけれど、生きることを選ばれたのなら、もう少し、強くあって欲しい。どこか投げやりなこの生き方は…) (他の誰でもなく、わたしに、わたしだけに縋ってくれれば…。) それは裏を返せば、メンフィスに捧げたと同じ愛をキャロルに乞うているのだが、ミヌーエはそれには気付かない。 ただ、もどかしく、気懸りながらも見ていられない。 (いまは、エジプトのためと割りきったほうが…。) ミヌーエはそっとキャロルの額に口付けた。 (婚儀がすめば、きっと…) 43 ルカは、婚儀を目前に控えたキャロルの落ちつきに、不吉な影を読み取っていた。 キャロルがエジプトに帰還してからの数ヶ月、ルカはさまざまに悩んだ。 一時は本気でキャロルとの逃避行を考えたこともあった。 しかし、イズミルに拾われ、その命に生きるのが自分の運命であるならば、やはりキャロルは主君の妃。自分はその分を超えることなどできない。 この心は秘めて、一生傍で守って差し上げよう。 そう決心した時から、ルカは却ってキャロルの心がありありとわかるようになっていた。 (姫君は、ナイルにお帰りになるおつもりに違いない。その覚悟ができたから、穏やかになられた…。) ルカは、そうイズミルに進言した。 イズミルは驚きながらも、さもありなんという風に肯いた。 「あれの心の中には、未だメンフィスがいる。 しかし、私は、あれがいなくては生きていけぬ。悔しいことだが、私は、メンフィスごとキャロルを攫って行こう。」 44 Ψ(`▼´)Ψ 3日後、婚儀は滞りなく終わり、二人は王と王妃として初めての夜を迎えた。 寝所で向かいあうなり、ミヌーエはキャロルをその胸に引き寄せた。 キャロルは黙ってミヌーエの胸に倒れこむ。 キャロルはこれが最後だと思うだけで、触れられてもいなのに濡れている。 (これは、ミヌーエに王位を継承させるための儀式。これで最後なんて、感傷に浸っている暇はないわ。) そんなキャロルの心を知ってか知らずか、煌々と明るい部屋の中でミヌーエの舌は、熱く、硬く、キャロルの全てを探った。全ての襞を探り尽くして、やっと、ミヌーエは左手でキャロルの乳房を揉みしだきながら、右手で秘密の場所を押し広げた。 充分に潤んだ体は、ともすれば性急に相手を求めるが、ミヌーエはわざとゆっくりと押し入ってくる。 「ああ……んんっ」 ミヌーエはゆっくりと、確実にキャロルを高みへと誘って行く。その腰の動きがなまめかしい。 キャロルはいつしか声をあげていた。熱い吐息に何もわからなくなる。 ミヌーエはいつもより長くキャロルを愛し、夜半過ぎにようやく情熱のたぎりを解き放った。 そして、キャロルの頬に口付けると身体を離し、背を向けた。 (ミヌーエ…。) 身体の熱が次第に退いていくに連れて、キャロルの心も冷えていった。 別れの時が、もうそこまで迫っていた。 45 しん、と冴えた頭で、キャロルは寝台を抜け出すと、一人で身支度を整えた。 ナイルのほとりへと歩いて行く。 キャロルは、一度だけ振り向いてエジプトを眺めた。夜が明る前に、人々に気付かれないうちに、事を済まさなければならない。 (楽しかったことも、悲しかったことも、全てここにおいて行くわ。 ナフテラ、テティ、ルカ…ミヌーエ…これまでありがとう…エジプトを頼みます。 そして、イズミル…貴方のこと、本当は、少し…。) キャロルは万感の思いで、灯火に照らされた王宮を眺めたが、涙は出なかった。 「さよなら、エジプト。」 キャロルは、ナイルのなかにゆっくりと身を浸していった。 46 イズミルはナイルに飛び込み、狂ったようにキャロルを追った。かつてのメンフィス のように。息苦しさも覚える暇がないほど心が急き、必死にキャロルがこの腕に帰らんことをイシュタルに祈る。 そしてついにイズミルは、メンフィスでも成し得なかった事を成した。 キャロルの腕をつかみ、自らの胸へと引き戻したのだ。 「ん…ここは?」 キャロルは、ナイル河畔に立てられた粗末な小屋の中で気がついた。薄暗い小屋の中で、人影が動いた。 「気分はどうか?我が妃よ。」 その声を聞いて、キャロルは瞬時に、相手がイズミルであることと、自分が21世紀に戻れなかったことを悟った。イズミルが、キャロルの傍に寄り添ってくる。 「あ、イ、イズミル王子」 驚いて、慌てて身を起こそうとするキャロルをイズミルが押し留めた。 「…王子…わたしは、生きているのね…?」 キャロルは、今度はゆっくりと上半身を起こしながら言った。 夜明け前の薄暗い闇の中で、互いの目だけが光り、正面からぶつかる。 「…イズミル王子、私を、殺して。」 47 イズミルは、薄く笑って、言った。 「何を言う。そなたは、私の妃。」 「いいえ、私は貴方を裏切り、エジプトも裏切った。なんの価値もない、ただの女です。 裏切り者の…。」 そればかりか、これ以上自分が古代にとどまれば、エジプトとヒッタイトは、ますます泥沼の戦いにはまって行くだろう。自分はもう、ここにいてはいけない。そう決心して、ナイルに身を投じたのに。 キャロルの目から、新たな涙が溢れた。 「私の心は、まだ、そなたを裏切ってはおらぬ。」 イズミルの、優しくも力強い言葉。気高く、それでいて傲慢で、怯えた子犬の目を持つ青年。 「何度でも言う。私は、エジプトが欲しいのではない。そなたが欲しいのだ。」 ヒッタイトへ向かう旅路を思い出す。あの時、哀しみと怖れに凝り固まった私の心を最初にほぐしたのは、この声だった。 キャロルの心に、懐かしさが広がっていく。 「そなたは、ナイルに落ちて死んだのだ。一度無くした命なら、昔のことは忘れて、新しく、もう一度、私に預けよ。」 しかし、キャロルは、なおも頑なに首を振った。イズミルは、キャロルの腕に触れ、髪をなでた。 「急ぐ事はない、時間はたっぷりあるのだから。」 イズミルは、キャロルの目を覗き込み、そっと身体に腕をまわしながら、この青年にしては珍しく、いたずらっぽい全開の笑みでいつか聞いた言葉を放った。 「私を、愛させるぞ。」 「イズミル王子…。」 キャロルの言葉の後半は、イズミルの唇に強引に吸い込まれた。 48 外では一睡もせずにエジプトの民が、ミヌーエの戴冠の喜びに沸いている。 その喜びの声が、ここまで届いてくる。メンフィスの妃として、成すべき勤めは果たした。 エジプトへの責任は、もう感じなくとも良い。 自由の身になったのなら、イズミルの傍で生きることも許されるのではないかとキャロルは思った。キャロルの愛を乞い、拒絶される怯えにその身を振るわせながら、それでも、キャロルの全てを受けとめて愛し抜く覚悟のイズミル。 (自分がいなくなれば、この人はどうなってしまうのだろう…?) 愛しているとは言えない。愛する自信もない。 でも、愛しかけているとは言える。それが何故ミヌーエでないのか、ルカでないのか、はたまたそれ以外の男でないのか、キャロルには分からない。 強いて言えば、イズミルが他の男とは違う何かを自分にもたらしたからだろう。それは、幾多の男達と夜を重ねた結果、分かったこと。 (それが何なのか、見極めてみるのも面白いわ…。) 何の苦もなく、愛に真実を求めることができた乙女には戻れない。体を重ねる簡単でも、愛することは努力が必要なのだと、自分は知ってしまった。だけど、それもまた悪くはない。嘘の向こうに真実がある時もある。 キャロルはイズミルの目を正面から見つめた。イズミルもまた、まっすぐにキャロルを見返してくる。 キャロルは意を決してイズミルに言った。 「イズミル王子、新しい名を、わたしにください。古い自分を捨て去って、あなたと新しく生きる為に…。」 「おお、姫よ、わが妃よ、ではそなたは今日から…」 イズミルはキャロルの耳元に唇を寄せ、何事かささやいた。キャロルは肯き、すこし微笑む。 その微笑で、あの夜からイズミルの胸の中で止まることのなかった哀しい歌が止んだ。 粗末な小屋の中は、朝日の輝きは黄金で、エジプトの宮殿かと見まごうばかり。 その光はキャロルの心にも差し込み、キャロルの心に立ちこめていた暗雲もとぎれた。 ようやく、ナイルに太陽が昇った。 |