『 祈り 』 11 ファラオの命が下された後、私の意識は夢か現か定かではない。 この身は確かに神殿の祭壇の前で祈りを捧げていたけれども、私の脳裏には戦に携わるファラオや多くの兵の様子、海上を船で進む様子が浮んでは消え、耳には怒号や喧騒が木霊して、私自身が風になり、様々なところを掠めていくのと変わらなかった。 覚えているのは戦の最中、キャロルがファラオに無事救出され、その腕に抱かれて感じた大きな喜びと安堵が、私がキャロルに摩り替わったかと思えるくらい、胸に広がったこと。 そしてイズミル王子の放った短剣がキャロルの右肩に突き刺さった時のキャロル自身の衝撃と、ファラオの激しい怒りとキャロルを心配する悲痛な叫びが私を揺さぶったこと。 なんてことなんだろう、ファラオが奪い返しに行ったのに、キャロルが瀕死の重傷だなんて。 誰もそんなことを望んでなどいないのに。 どうか神々よ、空よ大地よ、キャロルをエジプトに無事に戻して! 私に出来ることならなんでも致します、だから、どうかお願いです・・・・・・。 そう祈っていたはずなのに、私はいつしか闇の中にいた。 戦はどうなったの?キャロルはどうしたの?風の囁きが聴こえない・・・・・・。 遠くから誰かの声がする、誰? 「・・・・・プト、ハプト!しっかり致せ!ハプト!目を覚まさぬか、巫女よ!」 12 聞きなれない男の人の声。 ここに足を踏み入れる人は皆無だ。 戦の前にファラオやミヌーエ将軍方が見えたのは晴天の霹靂とも言える状況だった。 キャロルの身を案じたばかりのファラオとて、そうでなければここにはお見えにならない。 それにここは神殿、位の高いお方でなければ容易には入れないはずだ。 手足が酷く重い、手足だけじゃない、体中が床に打ち付けられたように動かない。 その重い体に誰かの腕が回され、抱き起こそうとする、確かな力強い温かさ。 瞼までこんなに重いなんて、今までなかった。誰か、誰かが私を覗き込んでる。 「おお、気づいたか、ハプト、そなたの声、確かに届いたぞ、キャロル様の捕らわれていたところと、帰国の船上でメンフィス様にもっと船足を急がせるよう命じられた折に。そなたの、心配するな、追い風になるとの一言で、我らがどれほど安堵したことか。」 目の前にあったのは、ミヌーエ将軍のお顔だった、幾分お窶れになったようだ。 「・・・・・ご無事で・・・・ようございました・・・。」 目を開けるのも一苦労だった、すぐに重い瞼が閉じようとする。 「そなたも無理をしたのであろう、今母は手が離せぬが、女官をこちらに寄越す、そなたも医師に診て貰え。」 その時やっとのことで、頬を撫でる風の囁きを聴き取れた。 「・・・・・・ナフテラ様が、キャロルに付かれたままなのですね・・・・。未だに、キャロルが目覚めていない・・・・・。」 無言で頷かれるミヌーエ将軍の耳に、まだ私がつけた血の印が見て取れた。 「私、キャロルを目覚めさせることができます、どうか、私を、キャロルのもとへ、お連れ下さいませ・・・・。」 多分、それが私に課せられし役目なのだろう、どうするのか定かではないけれど、はっきりしているのは私はキャロルのもとへ行かなければならないということ。 「・・・・ファラオがお待ちです、早くしないと・・・・キャロルが・・・・。」 私が閉じようとする瞼と戦いながら呟いた言葉に、体に廻された腕に力が入り、体が持ち上げられる。 薄暗い神殿の中から明るい内庭へとミヌーエ将軍の足は進んでいく。 「・・・巫女よ、今はそなただけが頼り、頼んだぞ。」 耳に届いた低い声にはなんだか辛そうな響きが漂っていた。 13 小娘を抱きかかえて宮殿内を闊歩するミヌーエ将軍のお姿は注目を集めた。 女官や兵の表情があっけに取られたと言わんばかりの驚愕の表情なのが、ミヌーエ将軍の腕の中ですら見てとれた。 私は小さな声で「ファラオがご政務で戻らぬうちに、キャロルのところへ急ぎお連れ下さい。」とお願いした。 ミヌーエ将軍の怪訝な顔に、私は話をするのは酷く辛かったが、ファラオの放つ力が強すぎて今の私には耐えられないのだと説明した。 「まあ、ミヌーエ!一体何事です!それにハプト!酷く衰弱しているようなのに・・・・。」 キャロルの寝室は女官で溢れかえり、その中で唯一とも言える男の方であるミヌーエ将軍は浮きあがっていたに違いない。 私はキャロルの眠る寝台の横へ降ろしてもらい、キャロルの姿に目を止めた。 白い顔は更に血の気が引いて真っ白となり、口許からは苦しそうな息使いが漏れる。 いつも茶目っ毛のある輝きを漂わせていた青い瞳は閉じられて、今は長い睫毛がその影を見せている。 「・・・・・もう3日もこの状態なのです、医師ゼネクがこのまま昏睡が続くようなら危険だと・・・・。」 ナフテラ様の言葉に女官達も表情が曇る。 投げ出された白い手はひんやりとして、触れても何の反応も示さなかったが、私は両の手でしっかりと握った。 その途端に流れ込むキャロルの美しいまでに交じり気のない澄んだファラオへの想いを感じた。 苦しい息の下で、自分が引き金となって戦を起こさせてしまった激しい後悔や、その半面に自分でも自覚してしまったファラオへの恋心が、 弱々しく脈動する体の内にあって、その想いは私の胸の中にも溢れんばかりだった。 そして、生きたいと願う本能にも、私ができることなら何でもしたいと思ったのだ。 神よ、空も大地も風も、どうか私に力を貸して、と祈りながら握った手に力をこめた。 私ならどうなっても構いません、あの澄んだ結晶のようなキャロルの心を無くしたくはないのです。 私はこんなに美しい心を初めて知りました、だからお願いです・・・・・。 14 「ハプト!しっかり致せ!」 「ハプト!そなたも医師に診て貰わねば!」 私の体は床に崩れ落ちる寸前に誰かがしっかりと抱きとめた。 「・・・・・・ここ・・は?メンフィ・・・・・。」 耳に届いたのはかすかなかすかな声音。部屋中の皆が寝台を凝視した。 「おお、キャロル様!目覚められたのですね!」 ナフテラ様が目に涙を浮かべて寝台に駆け寄られた、よかった、キャロルは助かったのだ。 でもその喜びの反面、私の体は先ほどまでよりも比べ物にならぬくらい重く感じられ、指一本動かすこともままならなかった。 「ハプト、よくやったぞ。」 頭の上から響くのはミヌーエ将軍の声だった。 「そなたも医師に診て貰わねば。メンフィス様もさぞお喜びだろう。」 風が呼んでる、早く早く神殿に戻れと、私はこんなに人の多いところではもっと衰弱するだろうと・・・。 そう、こんなに人の多いところでは、私は人の言動に翻弄されて疲れきってしまう。 だからこそひっそりと神殿の中で過ごしていたのに、いくらキャロルを助けたい一心だとしても、やはりそれは自分の命を絶つような行為と言えるだろう。 「・・・・神殿に。神殿に戻らないと・・・・・。お願い・・・。」 ああ、もう唇すら動かせない。風が・・・・聴こえない。 闇に捕らわれる前に聞いたのは、ナフテラ様の驚愕の声だった。 「・・・エ!何処へ・・・・。ハプ・・・。」 15 私はずっと薄暗い穴倉のなかで眠っていたように思える。 そこは心地よく酷く消耗した私の体を癒してくれていたのだと思う。 でも遠くの方から誰かが呼ぶ声がしたようで、ふっと目を開けるとそこは見慣れた神殿の中の私の寝室の天井で、横にはミヌーエ将軍が今にも立ち去ろうとしていた様子なのに、私が気付いた様子を見て口許を緩めた。 「・・・やっと目覚めたな、巫女よ、10日も昏昏と眠っていたぞ。」 体は軽かった、あの指一本さえ動かせなかったのが信じられないほどに、さっさと寝台を降りる事もできた。 「母上と交代でそなたの様子を見に参っていた、ファラオがそなたが回復次第何でも望みのものを申せとの仰せだ。」 ミヌーエ将軍の声とともに、風がたくさんの知らせを私に告げる。 キャロルはあれから回復してきていて、寝台から離れるのもじきであろうことや、私が眠っている間、ナフテラ様やミヌーエ様が、お忙しい合間に私の様子を何度も確かめに来てくださったこと、戦は無事に勝ち、キャロルは正式にファラオを婚儀を挙げる事に決まったこと・・・・。 「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、私はもうご心配には及びませぬ。・・・では、ファラオにお伝えくださいませ、どうか私が死ぬまでこの神殿で神々に仕える事をお許しください、と。」 何も欲しいとは思えなかった、食べるものも水とわずかの果物があれば十分だったし、衣も宝石も何もかも、 神に仕える私には必要がなかった。 「・・・よかろう、そう申し上げよう、欲のない事だ。だが大げさではないか?死ぬまでなどとは。まだ10をいくつか過ぎたようにしか見えぬがな。」 優しげな表情は、母上であられるナフテラ様によく似ておいでだと思う。 「祈りを捧げてるうちにじき年もとりましょう。」 「年に似合わず悟った事を申すものだ。」私の言葉に目を細めて笑っていらしゃるよう。 「キャロル様もそなたの身を案じていた、そのうちお見えになるやもしれぬな。寝台ですっかり退屈しているらしい。」 私が目覚めた事で陽は終わったで、ミヌーエ将軍は立ち去られた。 残ったのはいつもの静寂だった。 16 祈りを捧げることを繰返す落ち着いた日常に私は戻った。 ただ、私が倒れたことを心配なさったナフテラ様が取り計らい、特別にテティ様とおっしゃる女官をご自分の代わりにこちらへ寄越されるようになった。 テティ様は私には過分だと思える食料を携え、朗らかに私に話し掛けられる。 キャロルと違った生き生きとした明るさを神殿にもたらしていかれる。 「ハプト、ナフテラ様もご心配になられていらっしゃるわ、ちゃんと食事していますかってお尋ねになれれたもの。 ほら、パンやお肉も持ってきたのよ。」 内庭でテティ様がいらっしゃるのを待っていた私に、籠一杯にお持ちになった食べ物を示される。 でも私は、人の手が携わった食べ物、焼いた肉やパンもビールも食べられない。 無理に食せば血を吐き倒れてしまうことを、私は経験から知っていた。 「そのようにたくさんは食べられませんわ、よければテティ様、お召し上がりくださいな。」 「あら、いいの?」テティさまも私の横に腰を降ろされる。 「ええ、どうぞ」 「丁度少しおなかすいてたのよ!ありがとう」 楽しそうにさも美味しそうに召し上がる様子は、若い娘らしく生命力に溢れた姿だと思う。 テティ様も私を気味悪がられるのかと思っていたが、私の予想に反して、テティ様が気さくに私に接してくださるのは意外にも思えた。 私も果実の皮を少し剥いてご相伴に預かりながら、テティ様のお話に耳を傾ける。 「あのね、最近、この神殿の周りに近づこうとする人が多いのよ、大丈夫なの?ハプト」 17 おっしゃることは知っていた。 私がキャロルを目覚めさせたこと、戦の折にキャロルの居場所をこの神殿に居ながら、ミヌーエ将軍にお教えした事が尾ひれをつけて広まってしまったらしい。 それまではいるのかいないのかさえはっきりしなかった巫女の存在が、「遠見の巫女」という名のもとに、それにすがりたい人が私に様々な事を尋ねようとしていることも、風が教えてくれていた。 ただ神殿という場所なので、おろそかに近づけない事で私は守られていたに過ぎなかった。 「ナイルの娘であるキャロル様を目覚めさせた巫女は、どんな遠くの事でも見通せるって噂が駆け巡ってるの。 それにねえ、姫様もあなたに会いたいって何度も仰ったりするから、変にあなたの格が上がるっていうのかしら?神の娘がそんなに頼りにする巫女ならばって信用度が高まってるみたい。」 キャロルはまだ傷が癒えていない事を理由に、あまり宮殿の部屋から出してもらっていないようで、私も自分が倒れた時以来、まだ顔を合わしていなかった。 ファラオがキャロルを気遣い、自分の目に届くところにキャロルを留めたがっているのを、私は風から聴いていたので、驚くには当たらない。 最近神殿の周りに人が多く徘徊するのも知ってはいたが、私に何ができるだろうかと思っていたので、左程深刻に考えもしなかったのだ。 食事を終えるとテティ様が「迂闊に神殿の入り口に姿を見せちゃだめよ。」と注意をしてご自分はまた宮殿の方へと足を向けられた。 その時風が囁いたのを私は聞き逃さなかった。慌てて小走りになって叫んだ。 「待って!お待ちになって!テティ様!」 18 既に神殿の入り口の周りには人だかりになっていた。 テティ様が一目で侍女と分かる衣を身につけておられるから、私と間違われることはないであろうが、私に取り次ぐよう押し問答になっているのは離れたところからでも充分に聴き取れた。 「・・・からだめだって言ってるでしょう!巫女はお忙しいのよ!お帰りなさいよ!」 「リビアへ行った息子の消息を聞きたいって言ってるだけじゃないか!」 「浚われた娘の消息を知りたいのよ!なんでも知ってるらしいじゃないの!」 「巫女はなんでも知ってるわけないじゃないの!邪魔じゃない!早く帰りなさいよ!」 「巫女だ!巫女が居たぞ!」 「お願いだ!息子の消息を!」 「私の話も聞いておくれ!」 テティ様をお引止めしようと入り口近くに駆け寄ってしまった私の姿に、人々が口々に叫ぶ。 腕をつかまれ引き寄せようとする。体が強張る、恐ろしさで足が竦む。 「ハプト!ハプト!放しなさいってば!ハプト!」 テティ様の声は聞こえるのに、人が押し寄せてそのお姿が見えない。 恐ろしいものが私の前に立ちふさがっているような気がして、私にはどうしていいやらわからなかった。 「何事ぞ、この騒ぎは!」 そのお声はたったの一言でこの場を支配した。 いとも簡単に私を抱き上げ、神殿の方に向かわれながら、「巫女は体が弱いのだ、なんでも知っているわけはないぞ。」と 振り返ることなくミヌーエ将軍は人々に告げられ、喧騒は治まっていった。 「すまなかったな、警備を配するようファラオに申し上げよう」 何故この方は私が困っていると救いの手を差し伸べてくださるのか? ただ今は有り難く、礼を述べるのがやっとだった。 19 「ハプト!ハプト!」 黄金の髪を靡かせてキャロルが内庭へと走ってくる。 傷も癒えて元気そうな姿、こぼれる笑顔、無邪気で素直な性質そのままに。 「ずっとあなたにお礼を言いたかったのよ!ありがとう、ハプト! 私、肩の傷が痛んで闇の中に居た時、あなたが手招きしてくれたの、そちらへいったら、 目が覚めて助かったのよ!あのまま目覚めなかったら死んでたって、ナフテラやお医者様が教えてくれたの! ありがとう!本当にありがとう!」 私の手を握るキャロルの白い手は温かく感じられた。 私も嬉しかった、キャロルの元気そうな姿をまた見ることが出来て。 でももうキャロルは王妃になる。以前のように会えなくなるだろう。 私もキャロル様とお呼びしなければならない。 「そんなの、気にしないで!あなたは友達だわ!今までどおり、キャロルと呼んで頂戴ね。」 私の懸念は吹き飛ばされ、キャロルは輝く笑顔で話す。 私が友達?そんなの初めてで、私の方が戸惑ってしまう。 風が教えてくれたように、ファラオとキャロルの婚儀は正式に7日後に行われることに話を傾けると、白い頬は紅潮し、幸福そうに青い瞳は煌いて見えた。 お祝いを述べると、キャロルは私にも宮殿に来て一緒に祝って欲しいと話してくれたけれど、この場を離れるのはできないので、この神殿であなたの幸福を祈ると答えると、寂しそうな笑顔をした。 「ウナス様がお待ちだわ、キャロル」 私の言葉にキャロルは手を振り、また来ると言い残して入り口へと走っていった。 何処をとっても幸福そうで美しいキャロル。 でも私は誰かがキャロルを苦々しく思っていることを知っている。 折角の婚儀にそんなことを話してもいいのかしら? 何事も起きなければ良いのに、と心の底から思う。 20 「キャロル様がこちらに参られたそうだな」 祈っている私の背後からよく通る低い声がした。 ミヌーエ将軍がこちらに向かっているのは知っていたが、私はずっと祈ったままでいた。 私の忠告など必要とされるのであろうか? それ以前に、そのような言いがかりをつけるなと殺されてしまうのが先だろうか? 迂闊に口に出していいものでもないのはよく知っている。 どうすればいいのだろうか? 「婚儀が終われば落ち着かれましょう。」 「ならばよいがな、警護官のウナスが、キャロル様が動きたがるので困っておるわ。」 少し笑いを含んだお声。お顔の表情も、厳しいものではない。 このお方も人気のないこの場所で、肩の荷を下ろしていかれてるのかもしれない。 「今、母は婚儀の仕度で忙しくしておるが、そなたが息災にしておるか気にしておったぞ。 代わりの女官を寄越しているとは聞いておるが、そのせいか?顔色も良いようだな。」 「テティ様が山のように食べ物を持ってきてくださるのですわ。よくして頂いて、お礼の申し上げようもございません。」 「うむ、息災ならばよい、無理をするな。」 お優しいお言葉が、今は私の胸に突き刺さる。 言いたくない、でも言わないままでいいのだろうか? 不意に顎に触れた指で、私の顔が持ち上げられ、黒い瞳が私を見つめていた。 「気に病むことでもあるのか?巫女よ」 巫女、と呼ばれたことで、私は気がついた、言わなければならない、それが私の役目。 「ミヌーエ様、どうか、キャロルをお守りくださいませ、キャロルを殺そうと企む者がおります。 お願いでございます、どうか、キャロルをお守りくださいませ!」 |